両手の指の一本一本に、引きつり震える冷たい温もりが残っている。
 灯りも持ちたくないほどに、その名残が愛しい。
 だが、今宵は、月も星も厚い雲に隠れ、足下は暗い。道々の灯りが乏しい壬生から屯所のある西本願寺へと徒《かち》で戻るのに、灯りなしでは済まされぬ。
(土方歳三……)
 夜道を辿りながら、私は、もう何度目かわからぬ吐息を洩らした。春とは名ばかりのこの季節、寒気は殊の外厳しく、漂う呼気は白い。
(どうしても、私のものにならぬなら……)
(いっそ、この手で砕こうとさえ……思った……)
 あの一瞬──
 あの一瞬、あの男は確かに、私の手の中にあった。
 あの男の喉頸にこの十指を絡み付かせ責め苛む内に、もはや緩めることも適わぬ狂気に取り憑かれて渾身の力で絞め上げた、あの最後の一瞬。
 急速に光を失い、絶息の虚無に落ちた漆黒の瞳が、今も目に焼き付いて離れない。
 そして、その刹那に覚えた、魂の底から凍えるような恐怖。
 それが──それが狂気を、私から叩き落とした。
 その恐怖が一体何に対してのものであったのか、まだ、巧く言葉に出来ない。だが、あの時に総身を貫いたあの恐怖がなければ、扼殺寸前で踏み止《とど》まったりはしなかった。己《おの》が手で砕き、その最期の息を貪り奪っていた筈だ。
(……そして今頃は)
 狂気のままに亡骸を掻き抱《いだ》き、夜が果てるまで……
 ……けたたましい馬蹄の響きが前方からやってきて、傍らを抜けてゆく。何処《いずこ》かの藩邸へ向かう、急ぎの使者だろう。
 私はひとつ息をつくと、少し現実に引き戻された心を、再び己の裡に沈めた。
(……だが……あの恐怖が全てを……押し止《とど》めた)
 今も心の片隅に残るあの恐怖は、一体、何への恐怖だったのだろう?
 己の狂気に怯えたのだろうか、と考えてみる。私自身、自分が此処までのことを仕出かすとは信じられなかった。他人の両腕の自由を奪い、抵抗出来ぬようにしておいて首を絞めるなど、何たる烏滸の振舞か。普段の私なら唾棄しただろう、卑劣極まりない行為。なのに、土方が相手となると、自分でも抑え切れぬ昏い思いに衝き動かされ、そこまでの振舞に及んでしまう。
(これ以上あの男の側《そば》にいたら、本当に、狂ってしまう……)
 いや、今日既に私は、狂いかけていた。永遠に目覚めることの出来ぬ狂気に、身も心も支配されようとしていた。
 それを辛うじて救ったのが、あの一瞬に私を凍りつかせた、恐怖だった……
 ……だが、あの恐怖は、一体、何故、よりによって、あの刹那に訪れたのだろう。
 狂気に殆ど支配されていた私を正気に引き戻したほどの、凄まじい恐怖は。
 あの瞬間のことを、思い出そうとしてみる。
 あの時に総身を貫いた感覚を、もう少し踏み込んだ言葉にしてみようと試みる。
 そうしなければ、どうにも落ち着かない。
(私が感じたのは……)
(魂の底から冷え凍りつくような思い……)
(……己が永久に失われてしまうような……)
 自分が自分でなくなる恐怖か。いや、それなら今迄に幾度も覚えている。土方への想いが募り、狂おしいほどの恋着に囚われるようになった己自身に対して、いつも感じる怯えだ。そろそろ限界だ、このままでは自分が致命的な狂気に落ちる、崩れ果ててしまう、と怯え、だからこそ篠原さんの口にする“分離”をするしかない、外から土方を──いや新選組を揺さぶる道を採るしかないと決意したくらいなのだ。
 だが、今日味わった恐怖は、もっと──違う何か[#「何か」に傍点]を孕んでいた気がする。
 強いて言葉にするなら……永遠の喪失に対する恐怖……
 例えば……死の恐怖のような……
(……死の恐怖?)
 殺されようとしている側が死の恐怖を覚えるというならわかる。しかし私は殺そうとしていた側だ。なのに何故、私の方が死の恐怖など覚えねばならないのだ……
 つと、私は歩を緩めた。
 誰かが──背後を窺っている気配。
 害意──いや、殆ど殺気。
 殺し切れていないその気配が、物思いに沈んでいた筈の心を速やかに現実に引き戻す。
 此処は、どの辺りだろう。
 ……千本通、島原の近くか。
 周囲に楯に出来る物は……ない。灯りは……やや離れた場所に、辻灯籠がひとつ。
 私は少し考えると、何も知らぬげに歩を進めた。
 殺気に等しい気配は──明らかに、ひとりではない──後ろから、距離を保ちつつも、付いてくる。
 ……私を狙っているのか。
 出来れば、抜き合わせたくないのだが。
 無駄な血を流すつもりは、ない。私の剣は、無益な殺傷の為にあるのではない。
 避けられる争いなら、避けたいものだが……
 灯籠まで五歩の所で何気なく足を止め、提灯を足許に置いた。そして、あたかも草履の鼻緒の具合を見ようとするかのように片膝を落とした。
 一瞬後、殺気が弾《はじ》けた。
 私は前方に跳んだ。片膝を落とすと言っても、地に着けてはいない。要は、いつでも前に跳べるような姿勢を採ったに過ぎぬ。余りに明白な剣気をかわすのは容易《たやす》かった。
 後ろで、打ち込みを外された相手の呪いの叫びがあがる。
「くそ──」
 灯籠の周囲には敵が潜んでいないことを素早く確認しながら、私は、その灯籠を斜め前に置くように向き直った。
 残し置いた提灯の灯りが、打ち込んできた相手の姿を照らす。──三人か。見た感じ、何処《いずこ》かの浪士であろう。全員が抜刀しており、白い息を吐きながらこちらを睨みつけている。
 と、中のひとりの顔が、やや動揺の色を帯びた。
「違う──」
「違う?」
「人違いじゃ──土方と違う」
 小さな呟きは、だが、私の耳にも届いていた。
 ……成程。
 この辺りを壬生の方からひとり歩いてきたものだから、背恰好で土方と間違えられたのか。
 そうと悟った刹那、何ゆえか、私の内側に昏い衝動が生まれた。
 気付いた時には、左手が鯉口を切り、右手が志津兼氏の柄を握り、躊躇もなく引き抜いていた。
「……いきなり背後から斬りつけておいて、人違いでしたで済むと思いますか?」
 静かな問いかけに、先方が怯む。
「諸君が何れの者かは知りませんが、新選組の土方歳三と思い込んで斬り掛けてきたからには、新選組とは相容れない立場に在る者でしょう。ならば、狙った相手にさしたる違いはない」
「なに……っ?」
「新選組参謀、伊東甲子太郎。──相手に不足がなければ、おいでなさい」
 すう、と下段に構える。昏い昂りが、自然に笑みを呼んだ。
 浪士達は、明らかに気圧されたらしかった。どうするか、と躊躇うような表情で互いの顔を見交わす。
 ……もしかしたら、新選組にではなく、土方当人に恨みを持っているのかもしれない。
 だが、そうと考えが至ったことが、私の胸の内に、より激しい衝動をもたらした。
 敢えて言葉にするなら──
(渡さぬ)
 土方の命は、誰にも渡さぬ。──そんな、不意の熱病にも等しい思い。
(──死なせぬ)
 指先まで滾り立つ思いに、体が震える。
(断じて──死なせぬ)
 死なせはしない。断じて、何処の馬の骨とも知れぬ輩に、殺させたりなどしない。彼の命を奪おうと謀る者は、誰であろうと、この手にかけずにはおれぬ。
 私は卒然前へ走り、一番左の相手の懐に飛び込んだ。
 反射的に退がろうとする相手を逃さず、逆袈裟に斬り上げる。その勢いを殺さず手首を翻しざま、隣の相手の喉許に袈裟に叩き込む。引き斬り引いた刃《やいば》で、最後の相手の喉笛を貫き通す。
 ……呆気なく、全ては終わった。
 彼らが本来どの程度の腕の持ち主なのかは知れぬ。だが、私の奇妙な気迫に戸惑い呑まれた彼らには、逃れる暇《いとま》もなかったのだろう。
(死なせたりなど、しない……)
 刃に残る血濡れを振るいながら、私は、裡に呟いた。
(あなたが死ねば、私も死ぬのだから)
 ──余りにもすらりと、その思いは言葉になった。その余りの唐突さに驚き、しかしそれで初めて私は、何故己があの時あの刹那に恐怖に襲われたかを、明確に悟った。
 土方がこの世からいなくなってしまったら、自分も死ぬ。
 たとえ、息をし、物を喰らい、言葉を吐いていようとも、土方がいないこの世に留まるのは、屍《しかばね》として漂い歩くのと同じ。
 あの、殆ど死に至らんとしていた彼の瞳を目の当たりにした瞬間それを直観してしまったが故に、私は、彼の喉頸から手を離してしまい、逝かないでくれと裡に叫んで抱き締めてしまったのだ。
 死の、恐怖。
 それは、土方を永遠に喪ってしまう恐怖と、そして、土方を喪うことで己自身が“死んで”しまう恐怖だったのだ。
(……いつの間に、私は)
 こんなにも深く、迷ってしまったのだろう。
 土方歳三という男に。
 何処までも冷たくつれなく意地の悪い男なのに、それでも、どうしようもなく慕わしく、切ないほどに愛しい。だが、どんなに私が想いを傾けても、あの男は決して振り向いてはくれぬ。ただ私ばかりが、報われぬ想いに身を焼かれ、心を狂わされてゆくだけ。
 それなのに──それなのに、手に入らぬならいっそ、と己《おの》が手で砕くことすら出来ないのか。
 そこまで、私は、崩れ果ててしまったのか。
 血を拭った刀を鞘に収めた後で、私は、懐に手を入れた。
 指が触れたものを、静かに取り出す。──今日土方が髪を束ねていた、そして私がそっと奪い取ってきた、細い、紅梅色の組緒
 見つめ、唇を寄せようとした時、不意に耳が何かの音を捉えた。私はハッとなり、急いで組緒を懐に仕舞い込みながら、音の漂ってきた方を見やった。何故ならそれは、壬生の方角からの音であったから。
 揺れている灯りの高さと、音の重なり具合からすると、並歩《なみあし》で歩く馬に跨ってやってくる者がいるようだ。
 自分が地面に置いたままの灯りの側《そば》に立っているが故に、逆に、闇の先が見通しにくい。
 だが、この道をその方角から騎馬でこちら方面へ来る者なら、十中八九は──
 と、闇の奥で、蹄の音と灯りが止まった。
 ぶふうっ、と馬が鼻を鳴らす音。
「……如何《いかが》されましたか」
 静かに投げかけられた声に、私はぶるっと身震いした。
 それは、紛れもなく、土方歳三の声であった。
 低く抑えられた、殆ど呟きのような問いかけが、私が相手と知っての上で声をかけたことを知らしめる。
「見ての通り」
 と私は、自分の足許に転がる三体の骸を掌《たなごころ》で示した。
「無体にも後ろから三人がかりで斬りかかられたので、返り討ちに」
「……何処《いずこ》の者か、お尋ねになりましたか」
 わずかにかすれを帯びた声。──まだ、絞め上げられた後遺症で、声が元に戻っていないのだろうか。
「いえ」
「……先生が御贔屓の、長州人ですよ」
 私は、静かに笑った。
「成程、あなたが御存じの相手でしたか」
「……顔に少し覚えがあるまで」
 半ば呟くような答だった。
「以前随分な目に遭わせでもしたのですか? 私をあなたと間違えて、斬り掛けてきたのですが」
「……そうと承知で、斬ったのですか」
 ごくかすかに、訝しげな声。
「先生は、無闇に刀を抜かれぬ方だと思っておりましたが」
「私は土方ではない、と言って争いを避けなかったのか、ですか?」
「……相手が、新選組の者なら誰でも良いと思うなら、争いは避けられますまいな」
「いえ、私が名乗ると、斬りかかろうかどうしようかと躊躇していましたよ」
「……なのに、斬ったのですか」
 今度こそ、ひどく意外げな響きを帯びた呟きが返ってくる。
 私は即答した。
「だから[#「だから」に傍点]、斬ったのです」
「だから?」
「新選組の誰か、ではなくあなたを殺そうとしていると、それでわかったから」
 声は、返ってこなかった。
 構わず、私は続けた。
「それが長州の者であろうと、薩摩の者であろうと、土佐の者であろうと、あなたの命を狙っているとわかれば、この手で討ち果たす。それだけのことです」
 暫く、相手は無言だった。
 闇の奥で、腰挿し提灯の灯りだけが、小さく揺れていた。
「……私を今し方危うく縊り殺そうとなさった伊東先生のおっしゃる言葉としては、大いなる矛盾を孕んでおいでですな」
 私は、ゆっくりと微笑んだ。
「いいえ。少しも、矛盾はない」
「私の命は先生だけのものだ、とでも?」
「いいえ。……もしあのまま、あなたをこの手で砕いていたら……私は、明けの烏《からす》の声を聞きながら、自ら腹を捌いていた。あなたの命を奪った者を討ち果たす為に」
 再び、相手は沈黙した。
 やがて、押し殺した、呻きに近い声が、闇の奥から漂ってきた。
「……先生と心中など、御免ですよ」
「御心配なく」
 私は穏やかに応じながら、提灯を拾い上げた。
「私は、もう、あなたの命を脅《おびや》かすことはしません」
「なに……?」
「気付いてしまったのですよ。あの、最後の最後の刹那に」
 己の右手を闇の向こうの相手に差し付け、軽く指を曲げて首を扼すような恰好にしてみせながら、静かに呟く。
「あなたのいなくなってしまったこの世など、一瞬たりとも住みたくないのだと。だから、あなたを死なせかねない挙に私が出ることは、この先、二度とない。そして、もしあなたが私より先に息絶えるようなことがあったなら、私は、躊躇うことなく腹を切る」
 三たび、相手は押し黙った。
 闇の奥からは、衣擦れの音すら聞こえてこなかった。
 私は、ひとつだけ、白い息をついた。
「……失礼します。一応、然るべき所に届け出るくらいはしておかねばなりませんから」
 言い置いて、私は、土方に背を向けた。
 ようやく雲を破った月明かりが照らし出した、相手の青ざめこわばった白面と、そして、その首筋に無惨に残る圧搾痕とに、心震わせながら。


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