それは、残暑厳しい中にも秋風が立ち始めた、七月初めの午後であった。
 いつもの癖で足音を忍ばせて土方の居室前を通りがかると、居室の主が所在なげに寝転がっていた。
 立ち止まる私の姿を見て慌てたのか急いで身を起こす相手に、私は、微笑みを向けた。
「昼間から横になられるとは珍しいですね。お暇ですか。それとも具合でも」
「──いえ、少し昼寝をしようと」
 芸のない答が返る辺りから、動揺がわかる。最近、妙に際疾い発言を──篠原さんの耳目のある場所で──仕掛けてくるようになった土方だが、ふたり切りの場面では、そうも落ち着いてはいられないらしい。
(これは、好機かもしれない)
 このまま入り込み、居座って、話をするには……
 と考えた背中へ、耳馴れた声が届いた。
「兄上、こちらでしたか」
 弟の三郎だった。私は舌打ちしたい気分を押し殺して、振り返った。
「何か?」
「たった今、三田の義姉上《あねうえ》から、早飛脚で文《ふみ》が」
「急ぎの? どんな?」
「そ、そんな。兄上宛の文を、どうして私が」
 困惑したような三郎の応答に、知らず自分が尖った口調になっていたことを悟る。私は苦笑いを浮かべると、そうだな、と呟き、土方に一礼してから、己の居室に戻った。
「早飛脚とはまた、穏やかでない……」
「だがら、あんちゃんにすぐ知らせねえとって思ったのに」
 三郎は、私とふたりだけでいる時には気の置けない喋り方になる。別に咎める気はないが、そんな風に話し掛けられると、つい私も故郷の訛りが強くなってしまうのが困りものだ。
「悪がった。虫の居所がちっと悪ぐって」
「って、あんちゃん、いつもそうだっぺ。土方と話してっ時に声かけっと、何か、変にとんがった返事すんだ」
 内心ギクリとしたのを押し隠し、私は笑った。
「あのやろと話しすっ時には、緊張いられっかんな」
「んだな、結構、ぴりぴりすっからなあ。冷てえってのか、厳しいってのか」
 その台詞にはもう答を返さず、届いたという文を開く。
 懐かしい筆の跡をさっと確かめ、頭から目を通し始めた私は、だが、すぐに凍りついた。
「……あんちゃん?」
 訝しむような三郎の声で、ようやく我に返る。
「何か、良ぐねえ知らせ?」
「……母上が……大病だと」
 答える声が、ひび割れた。
「常陸《ひたち》から知らせが……あったそうだ」
「は、母上が?」
 三郎の声もかすれ、上ずる。私は頷くと、手の中の文を差し出した。半ば引ったくるようにして受け取った三郎が大急ぎで文を読み下すのを見ながら、私の心は既に、何とかしてすぐに常陸に戻らねばという焦りに等しい思いに支配されていた。
「……東下の許可を願い出てみる」
「公用でねえと、脱退と取られっかも……」
「いや、心配は無用だ」
 局長たる近藤に直接申し出ようと、私は決めた。元々、参謀という私の役職は、副長の掣肘を受けない。出張の願い出について近藤と直接話をしても、土方には文句が言えない筈だ。普段は土方と話がしたいが為に彼を通すことが多いのだが、万が一にも断わられては困る時に、断わるかもしれない相手と話は出来ない。
 近藤は忠孝の情に篤い人物だ。土方のことがある為にどうしても穏やかならざる心地を覚えてしまうことが多いが、私は、その人柄を憎んだことはない。彼なら、真摯に、正直に切り出せば、きっと東下を許してくれる。そんな確信があった。
 私は直ちに、三郎を連れて近藤の居室へ赴いた。
 だが、そこには、さっきまで自室で所在なげにしていた筈の土方の姿までがあった。わずかに躊躇を覚えないでもなかったが、此処まで来て引き返すわけにも行かない。事は一刻を争うのだ。
「実はたった今、江戸表の妻から、常陸に暮らす私の母が大病との知らせが届いた由、文が参りました」
 土方には目もくれず近藤の前に座った私は、前置きも何もなく切り出した。
「誠に勝手なる願いなれど、我らの東下をお許しいただけませぬか。我ら兄弟にとっては唯ひとりの母、今この時を逃して会うことが適わねば、もし万が一のことあった時、悔やんでも悔やみ切れない。──伏して、お願い仕る」
「それは無論──」
「私用にて局を離れるは些か問題ありとせねばなりますまい」
 近藤が頷いたのと殆ど同時に、土方の冷厳な声が割って入る。私はキッと顔を上げ、相手を激しく睨み据えた。
「だからこうして断わっているのです」
「幾時かの外出ならいさ[#「いさ」に傍点]知らず、江戸下向、更には常陸へとなれば、最低でもひと月は留守となる。そんなにも長い間、私用で局を空けるとは如何《いかが》なものか。──局長でさえ、かつて、お養父上《ちちうえ》の病篤しとの知らせに接しても京を離れず隊務に専念された。それを思えば、親が生死の境にあろうと、隊務を全うされるが第一」
 私は、凍てついた。
 視線が、力を失って落ちた。
 そんな先例があったと知っていれば、もう少し賢く、土方のいない所で話すことを選んでいた。だが、もう遅い……。
「……歳、そんな言い方をするな」
 近藤が、苦い物をかみ締めるような顔でかぶりを振る。
「俺だって、好んで留まったわけじゃねえぞ。あん時には、どうしても都を離れられねえ事情があった。だが今は、さしあたって事情が悪いってわけじゃねえだろう。杓子定規に先例を持ち出すな」
「……局長。私は、許さないとは言っておりません」
 静かに返された言葉に、私は思わず目を上げ、土方の顔を見直した。
「大石君の家督相続の件、いまだに首尾が思わしくない様子。何でも、親戚筋の山崎殿が難色を示しているという話。局長の一筆を頂ければ、状況が動くかもしれません」
「大石君の? 今は伊東君の……」
「伊東先生の話ですよ」
 土方は軽く、目許だけで微笑んだ。
「江戸の山崎殿へ局長の一筆を、名代ということで届けてもらっては如何《いかが》。新選組参謀の肩書を持つ伊東先生が直々に出向くということで、先方に書状の重要さも伝わる。先生が江戸へ行きたいと仰せなのですから、我々には渡りに船ではありませんか。公務でわざわざ遠方に行っていただくのですから、その後、慰労として幾許かの休暇を取っていただいても差し支えない。無論、供として三木君を同道したいということであれば、それも結構」
「……まったく、おめェは」
 近藤が苦笑とため息を一緒くたに洩らす。
「わかった、そうしよう。──それで宜しいか、伊東君」
「はっ」
 と両手を突いて頭を下げることしか、私には出来なかった。不覚にも、不意に喉が詰まって、それ以上何も言えなくなってしまったのだ。
(だから私は……どうしようもない……)
 恐らく、土方にしてみれば、私が局を空けてくれる方が清々する筈。だが、まず取り敢えずは反対し、駄目だと思わせておいてから助け舟を出すことで、恩を売ったのだろう。
 ……と考えるのが妥当な線なのに、この私と来たら……
 本来なら許されない東下を許す為に格別の計らいをしてくれたのだと、愚かにも感じてしまう。
 本当に、どうしようもないほど、心を揺さぶられてしまう……
「土方君、隊務に準ずる出張ということで、勘定方に。それから、早駕籠の手配を」
「早急に」
 土方は淡々と一礼して立ち上がり、特段の感情も窺わせぬ顔で部屋を出てゆく。
 近藤は、それを見送ってひとつ息をつくと、苦い笑みを刻んだ。
「先生には、お気を悪くなされぬよう。土方君は、副長という立場上、ああいう物言いになるのが仕方ない部分がある」
「……承知しています」
「土方君も土方君なりに、御母堂への先生のお気持ちに配慮している。いつもなら突っぱねるだけなのに、ああして知恵を出したのが良い証拠」
「……わかります」
「今から直ちに書状を認《したた》める故、その間に旅の支度をされると宜しかろう。……御母堂の一日も早い本復をお祈り申し上げる」
 近藤も、孝心篤い人物なのだ。
 だからこそ、何とかしてくれようと、敢えて言葉を崩して土方をたしなめた。
 ……彼の人柄が、嫌いになれるようなものであれば、どれほど楽だったか。
「数々の御厚情、忝い」
 今一度両手を突いてから、私と三郎は近藤の居室を辞した。

 肩代わりの早駕籠を飛ばして江戸へ辿り着いたのは、五日後の昼前のことであった。
 表向き公務で来た以上、用件は先に済ませねばならぬ。早駕籠に揺さぶられて体はがたがたになっていたが、ひとまず柳町の試衛館道場で小半時ほど休息させてもらって衣服を改めた後、三郎はそのまま休ませておいて、私ひとりで、疲れ果てた体躯に鞭打ち、すぐに、近藤から預かった書状を大石家の親戚筋へと届けに行った。
 一応、この用向きの事情を手短に述べれば──
 隊士大石鍬次郎《おおいし くわじろう》の弟で、一橋《ひとつばし》家の家臣大石家の家督を兄に代わって継いでいた造酒蔵《みきぞう》が、半年近く前に京で病死──真実は違うのだが──した。造酒蔵には跡継ぎの子がいなかった為、放っておけばお家断絶である。そこで、大石家が断絶になるのを避けるべく、造酒蔵が京で病気療養中であるということにして、その間に兄鍬次郎に家督を継がせようと、近藤達が尽力しているのである。
 が、どうも、親戚筋が鍬次郎の跡目相続に反対しているらしく、造酒蔵の死去した二月以来、少しも話が進展しない。
 そこで、局長近藤が“参謀である私を使いに立ててまで”鍬次郎の家督相続に善処を願う書状をその親戚筋の所へ届けさせた──という次第なのである。
 如何《いか》に江戸下向の方便とはいえ、曲がりなりにも新選組局長の名代で訪ねた以上、みっともない姿は見せられぬ。私は、疲労などおくびにも出さず──とはいえ、駕籠にしがみついてきた両手の擦り傷は隠しようがないが、そ知らぬ顔で──近藤からの書状を先方に渡した。受け取った先方が「これは大石家で決める問題であり、跡目は造酒蔵の妹に婿養子を迎えさせ」云々と論を吹っかけてくるのに逆らうことなく、しかし「御貴殿のお考えは局長の近藤にも伝えおきましょう」と、相手に言質を与えず辞去する。上の空、と言っては言い過ぎだが、交渉を任されてもいない以上余計なことは言えないし、第一、深入りして時を費やす気などさらさらなかった。
 柳町へ戻るが早いか、私は三郎と連れ立って、妻うめ[#「うめ」に傍点]の住まう三田へと駕籠を急がせた。
 常陸へ向かう前に、まずは、母のその後の容態について知らせが来ていないか、確かめておきたかったのだ。

 三田台町の隠宅へ辿り着いた時には既に、夕闇が迫っていた。
 過酷な早駕籠の旅を経て到着してからの半日、休む間もロクに取らず飛び回っていた私の疲労は、極限に達していた。だが、此処で倒れるわけには行かなかった。
 嘉永五年の父の急死後、決して楽ではなかった暮らしの中、諸国から錚々《そうそう》たる剣客や学究の徒の集う江戸へ出てみたいと思いつつも長男として父の私塾を引き継いで家を支えるべきだろうと殆ど諦めていた私を、「家の事は気にせず、国事に尽くすことの出来る武士《もののふ》になりなさい」と快く江戸へ送り出してくれた母。私が今こうして在るのは、あの時、母が私のひそかな望みを察し、上府を勧めてくれたからだ。その大恩ある母が重い病に倒れているというのに、どうして私が旅に疲れたと休んでなどいられよう……。
「──お帰りなさいませ」
 迎えに出てきた妻の様子を見て、私は、心臓を冷え切った素手で握り潰されるような心地を覚えた。その、妙にこわばり青ざめた表情に、悪い知らせを予感した。
「うめ[#「うめ」に傍点]……母上の御容態は……如何《いかが》……」
 かろうじて絞り出したかすれ声に返ってきた答は、だが、思いもかけぬものであった。
「申し訳ございませぬ。御身の上が心配でたまりませず、偽りの手紙を差し上げました」
 一瞬──
 相手の言葉が、理解出来なかった。
「……なん……と……申した……?」
「義母上の御病気とは、偽りでございます。このまま新選組においでになりますれば、御身を害されます。それ故、もうこれ以上国事に奔走なさるのはおやめになっていただきたいと、悪いとは知りつつ、呼び戻す文を差し上げたのでございます」
 私は、言葉を失った。
 畳上に両手を突いて私を見上げる妻のまなざしは、何処までも真摯だった。
 並々ならぬ決意のほどは、容易に窺い知れた。
 だが──
 私の脳裡は、それを受け止めることが出来ぬほど、蒼白に凍りついていた。胸潰れる思いで京を離れ、昼夜分かたず早駕籠を飛ばし、母上よ無事であれかしと涙こらえて祈りながら駆けつけた、その己の行為が、一瞬にして全て否定されたのだ。
 それだけではない。
 私に、国事に奔走するをやめよと──新選組から離れよと──
(──土方から離れよと言うのか!)
 考えがそこへ行き着いてしまう愚かしさは承知していたが、否み難く抑え難く沸き立ってしまった感情は、どうしようもなかった。
「兄上……」
 黙って相手を見下ろしているだけの私に不穏なものを感じたか、三郎が恐る恐る声をかける。
「その……母上が御健勝とわかっただけでも……」
「──うめ[#「うめ」に傍点]
 弟の言葉を無視し、私は、口を開いた。
「今日只今限り、そなたを離縁する」
「兄上!」
「苟《いや》しくも、偽るとは何事か。そなたの如きは、己の在るのみを知って国事の重きを知らぬ者。もはや、妻とも思わぬ」
 冷ややかに叩きつけて、背を向ける。泣いて謝る声も、聞きたくなかった。恐ろしく冷たく頑なに狭くなってしまった心には、誰のどんな言葉も届かなかった。

 翌朝、私と三郎は、再び早駕籠を使って、京へと発った。
 もう一刻たりとも、江戸には留まりたくなかった。
 三郎は昨夜からずっと私をなだめようとしていたが、
「それ以上言うなら、兄弟の縁を切る」
 と出立前に言い渡すと、流石に口をつぐんだ。しかし、私の離縁をやり過ぎだと思う気持ちが変わっていないことは、表情から見て取れた。だが、既に下した三行半《みくだりはん》を撤回するつもりなど、私には毛頭なかった。

 一日、二日と激しく駕籠に揺られて過ごす内に、さしもの私の頭も、少しは冷えてきた。
 うめ[#「うめ」に傍点]を離縁したことはさほどに後悔もしなかったが、憤りに任せて早駕籠で帰京することを選んでしまったのは軽率だったかと、思いが到り始めたのである。
 我々は、母の大病ということで“公用”を方便に得て、東下した身である。それが余りに早く京に戻っては、東下を求めた理由が嘘だったのではと疑われてしまう。いや、結果的には嘘だったわけだが、最初から東下を目当てに嘘をついたと思われては、私の体面にも関わる。
(……江戸へ着いてみたら母上の病が本復していた……とするしかないか)
 妻に謀《たばか》られたとは、言いたくなかった。確かに悪いのは妻だが、その不始末は私の不徳の致すところでもあると周囲には見られてしまうだろう。既に縁切りを言い渡したとはいえ、彼女の偽りを隠しておけるなら、それに越したことはなかった。

 果たして、京に戻った我々を、近藤は吃驚したように迎えた。
 副長の土方も同席した報告の席で、私は努めて穏やかに、早々と帰京した経緯を語った。
「江戸へ参りましたところ、既に母は本復したとの知らせが届いておりましたので安堵致し、さすれば長居するはこちらでの務めに差し障りもあろうと、急ぎ戻りました次第」
 三郎にも口裏を合わせるよう言い含めてはいたが、私ひとりが喋った。母の“病”の話題からは早々に離れ、頼まれていた書状を渡したことと、先方からの話とを伝える。近藤は私の説明を素直に信じてくれたようで、母の本復を賀しつつ我々の労をねぎらい、ゆっくり休むようにと言ってくれた。
 しかし、私が話し、近藤が話している間、その傍らに座していた土方は、じっと黙って私の顔を見ていた。まるで私の心の底を見透かしているかのような、冷ややかなまなざしで。
 見抜かれて……いるのだろうか。
 だが土方は結局、ひとことも声を発することはなかった。ただ、私が立ち上がる時に、ごくかすかに冷たい笑みを浮かべただけであった。

 居室に戻って障子を閉ざすと、張り詰めていた気が緩み、一挙に疲労が押し寄せてきた。
 文机の前に座り込み、懐から書状を取り出す。
 あの、偽りの書状。
 往復の間、懐深く収めていた。行きは、護符のように思って持ってゆき、帰りは、帰り着くまで忘れていた。
 開いて、改めて読み下す。
 あれほどいつも懐かしく慕わしく待ち侘びていた筈のその手蹟も、今はただ、苦く、喚き出したくなるほどに腹立たしい。
 私は、その書状を引き裂きかけ、しかしそこまでするのも大人げないと思い直し、とはいえ、ささくれ立った気持ちを消すことも出来ず、乱暴に背後へ投げ捨てた。かささ、とわずかに抗議するような音が、落ちて止まった。
 文机に突っ伏すと、不意に嗚咽がこみあげてきた。
(……何故、こんなことをしてくれた)
 こんなことさえしてくれなければ、私とて、妻と縁を切ろうなど、考えもしなかった。思い起こせば、私が常陸から江戸へ出てきて、深川佐賀町の伊東道場に身を置くことに決めた理由のひとつが、師のひとり娘であった彼女うめ[#「うめ」に傍点]の存在だった。上府したばかりの時に縁あって出会い、年の幼さに似合わぬその気丈さに感心し、邪気のない優しさに心んだ。そしてそれから随分と長い間、好意を以て接してきた。師から是非娘の婿にと遺言された時には驚きうろたえたが、美しく成長した彼女と一緒になれることは、心の底から嬉しかった。彼女もそう思ってくれたのだろう、夫婦《めおと》となってからも、出過ぎず控え過ぎず、常に私を慈しみ、支えてくれた。
 それなのに。
 江戸と京の距離の遠さが、彼女を変えてしまったのか。
 離れて暮らす年月の長さが、彼女を変えてしまったのか……
 不意に感じた人の気配と背後に聞こえたかさりという音とに、私はハッと顔を上げた。急いで振り返ると、そこには、いつの間に障子を開けて入り込んできたのか、私の投げ捨てた書状を拾い上げる土方の姿があった。
「──非礼な」
 流石に抗議の呻きが洩れる。醜態を見られたという意識で、全身がカッと熱くなった。
 土方は、立ったままで手中の文を瞥見《べっけん》した後で、私に涼しい目を向けた。
「声ならかけましたよ。お返事がなく、苦しげな呻き声が聞こえるばかりでしたので、具合でも悪いのかと失礼してみたまで」
 私は唇をかみ、視線を落とした。外からの呼びかけが聞こえぬほどに涙に咽んでいた覚えはないが、現に障子の開く音にも気付けなかった以上、相手の言葉を嘘と決め付けることは出来ない。
「……土方さんの方から訪ねておいでとは珍しい。何か御用でも?」
「何故、母御の大病と嘘までついて江戸へ下向されたのか、その本当の目的を伺いたいと思っただけですよ」
 前置きもなくいきなり突きつけられた言葉に、咄嗟の答が出なかった。
「どうされました。答えられないような目的なのですか」
「何を……勘違いして……」
 ようやく返した声は、嫌になるほどかすれた。
「どうして私が、冗談でも母の病を偽るものか──唯ひとりの母、大恩ある母の命を、たとえ方便でも危うくするなど、他人が許しても己が許さぬものを!」
「では、お内儀が嘘をつかれたか」
 問ではなく、ただ確認するだけの口調で、土方は言った。
 再び、返す言葉が出なくなった。
「……それほどまでに母御を思っておいでの伊東先生[#「先生」に傍点]ならば、たとえ江戸へ着いてみたらすっかり本復されていたとの知らせが届いていたとしても、常陸へ見舞に赴く程度はなされよう。にも拘らず即座に帰京されたということは、そもそも赴く必要が最初からなかった、つまり病というのが偽りであったのだなと、そう推察したまでのこと。違いますかな」
 私の顔はきっと、蒼白になっていたに違いない。
 侮っていたわけでは決してないが、改めて土方の怜悧さを思い知らされた気がした。
「……慧眼、恐れ入る」
 私は抗弁を諦め、嘆息混じりに呟いた。此処まで言い当てられては、しらを切り通す気力も失せる。
「恥を……曝せば……妻が、このまま私が新選組にいては身が案じられるからと、偽りの書状を用いて、私を呼び戻したのです」
「それはまた」
 土方は、かすかに笑って手の中の書状を見直した。
「思い切ったことをなさる」
「無論、そのような偽り、許せるものではない。即刻離縁を言い渡し、帰京した次第」
「……お内儀も、気の毒なこと」
「気の毒?」
 私は、立ったまま座ろうともせぬ相手を、鋭く見据えた。
「国事の重きも知らず、ただ己の情愛のみに目を奪われて夫を偽り謀《たばか》る妻の、何処が気の毒と?」
「……都合のいい時だけ国事国事と振りかざす勝手な夫を持ったのが気の毒、と感じるのですよ」
 土方の頬には、薄笑みが漂っていた。
「局長に嘘偽りを告げたのが国事の為とは、まさかおっしゃいますまい。となれば、虚言を用いたのは、妻に騙されましたとは口に出来ぬ先生[#「先生」に傍点]の、己の体面を守らんが為の所為《しょい》でしょう。ただただ己の体裁を繕う為に局長に偽りを告げた先生[#「先生」に傍点]が、夫の身を案じる余りに偽りまで用いて呼び戻そうとしたお内儀を、国事の重きを知らぬと偉そうに咎めることが出来るのですかな」
 ──三たび私は、返す言葉を失った。
 投げつけられた台詞の、何と痛烈なことか。
 だが、私はそれでも反論を試みようとした。彼女の嘘と自分の嘘は違う。そう言いたかった。
「──そうおっしゃるが、彼女の嘘は、私の心を踏みにじるものだったのですよ。母を案じ胸潰れる思いをしながら駆け付けたのに、知らせが嘘偽りであったと聞かされて、平気でおれますか? それに比べて、私のついた嘘で、誰が傷付きます?」
「確かに、嘘と知られねば誰も傷付かないかもしれませんな。ですが、先生[#「先生」に傍点]の御母堂の病を案じられその本復を我が事のように喜ばれた局長の厚情を弄んだわけでしょう。私から見れば同じかそれ以上に、先生[#「先生」に傍点]も、他人の気持ちを踏みにじっておいでですがね」
「──では、私が彼女の望み通りに国事に奔走するをやめて新選組を抜ければ良かったとおっしゃるのですか!?」
 カッとなって声を荒らげると、土方は口の端を吊り上げた。
「いえ。ただ、いきなり離縁に走るほどのことかなとは思いますよ」
「しかし、苟くも夫を謀《たばか》るような妻は離縁されても仕方ないと──」
「では、苟くも局長を謀《たばか》るような参謀は処断されても仕方ない、と申し上げても構いませんかな」
 またもや私は、絶句に追い込まれた。
「……無論私は先生[#「先生」に傍点]のお内儀には面識も何もないが、この手蹟を拝見する限り、教養もあるしっかりとした女性であろうと思う。それが偽りの手紙を出してまで夫を呼び戻そうと思い詰めるには、余程、夫の身が案じられる理由があったに違いない。それを、先生[#「先生」に傍点]は、己が騙されたことに腹を立て、国事の何のと理由を付けて、怒りに任せて離縁し、顧みもしない。……勿論、こちらで休息所をお持ちの先生[#「先生」に傍点]ですから、お内儀を離縁したところで別段ひとり寝を託《かこ》つ心配もないのでしょうがね」
 そこまで……そこまで言うのか。
 聞きようによっては、こちらで妾を持って妻が邪魔になったから体《てい》よく口実を設けて離縁したのだろう、と言わんばかりではないか。
「何故……」
 かすれ切った呻きが、口を衝いた。
「あなたが、そこまで責めるのです……局長に偽りを告げたことが、それほど気に入らないのですか……」
「それもありますが」
 土方はうっすらと唇を緩めた。
「そろそろ、先生[#「先生」に傍点]にもお目を覚ましていただきたかったのですよ」
「目を覚ます……?」
「私の意地がどれほど悪いかは、これだけねちねちと責められればおわかりでしょう。勝手に美化して執着するほどの値打ちもない嫌な奴だと、早く気付いていただきたいですな」
 何処までも冷たいまなざしが、鈍い光を帯びて私を見下ろす。
 私は──
 私は、自身でも驚いたことに、不意に、笑みの衝動に囚われた。
 度し難いことに、歓喜さえ覚えた。
 何と──何と健気な男なのだろう!
 私からの恋着を終わりにしてほしい一心で、わざわざ、苦手な筈の私の所までやってきて、数々の責めを投げつけてくれたのか。
 自然ぶ口許を、抑え切れなかった。
「……今回の虚言は、不問に付しましょう」
 私の笑みを見て顔をしかめた土方が、ぽつりと呟く。余計なことを言ったかもしれない、と思っていることが、表情から窺えた。
「今後はこのようなことのないよう、心していただきたい」
「土方さん」
「これで失礼する」
「土方さん[#「土方さん」に傍点]
 声に力を込めると、出てゆきかけた相手は何かに引っ掛けられたかのように足を止めた。
「何です」
「手紙は、置いていっていただけますか」
「……失礼をした」
 土方はややバツが悪そうに、手の中の文を畳の上に戻した。一刻も早く立ち去ろうとした余りに、自分が私宛の書状を手にしていたことも忘れていたのだろう。
 その横顔に向けて、私は、静かに告げた。
「あなたは、考え違いをしている」
 いきなり何を、と言わんばかりの顔が、うっかりであろうか、こちらを向く。そこへ微笑みかけながら、私は、続けた。
「あなたが何を言おうと、何をしようと、それが私に対してのものであるならば、その度に私は、あなたにより深く惹かれてゆく。たとえ罵詈雑言であろうと、打擲《ちょうちゃく》であろうと、それが私に加えられるものであるならば、傷付きながら私は、いよいよ激しくあなたに心を傾けてしまう。己ではどうにもならぬ執着とは、そういうものです。……わざわざ足をお運びいただけて、とても、嬉しかった」
 土方は何か言いかけて、しかしぐっと口をつぐんだ。
 黙って小さく頭を下げ、ぷいと出てゆく。
 障子が閉ざされ、かすかな足音が遠ざかると、私は、残された文に手を伸ばした。
 拾い上げ、改めて、手蹟を見つめる。
(……うめ[#「うめ」に傍点]
 土方に散々責められたおかげで、私は、彼女を許す気になれていた。私もあの時彼女に嘘をついたのだ、偽りを以て離縁を突きつけたのだと、今更ながらに気付かせられたからだ。
『都合のいい時だけ国事国事と振りかざす勝手な夫』
 と彼は言ったが、私はあの時、本当に、国事のことを思う余りに彼女に離縁を告げたのだろうか。
 そうではない。
 国事云々よりも、新選組をやめて戻ってきてくれと言われたことに、カッとなったのだ。
 それは、土方から離れろと言われるに等しかったから。
 そして恐らく、彼女うめ[#「うめ」に傍点]は、何かを悟っていたのだ。
 遠い便りに聞く新選組の評判だけでなく、私の書き綴り送る文から、何かを。
 だからこそ、“危険”から引き離そうとした。
 ……土方がそこまで穿って見ていたかはわからないが、確かに、彼女には、偽りを用いてまで私を呼び戻そうと決意するだけの理由があったのに違いない。
 その彼女を、ただ己の情愛のみに目が眩んで偽りの理由で捨てた時点で、私は、彼女の偽りを責める資格を失ったのだ。
(……せめてもの償い、この後《のち》、妻は決して持たぬ。そなたの家の名も、決して捨てぬ)
 私は、何度も何度も彼女の文を読み返しながら、裡に呟いた。
(だから許せ……私は、もはや、そなたの知る私ではない)
 変わったのは、彼女ではなかったのだ。私だったのだ。私の方が、土方を想う余りの闇の森に踏み込んで、道を失ってしまっていたのだ。
 だが、引き返そうとは思わなかった。
 私は既に、土方の側《そば》に在ることを選んだのだ。
 この世にふたりと得られぬ、馴れにし妻さえ、打ち捨てて。
 ……手に入れずに、おくものか。
 私は、筆の跡に唇を寄せた後で、その偽りの書状を丁寧に畳んだ。そして、文箱の一番底に、大切に仕舞い込んだ。うめ[#「うめ」に傍点]が触れ、そして土方が触れた、その温もりをいとおしみながら。


 制作裏話「虚実皮膜《きょじつひにく》こちらをクリック
※JavaScript無効の場合は動作しませんので、その場合はこちらへ……



Copyright (c) 2001-2003 Mika Sadayuki
背景・アイコン素材:「十五夜」さま(加工品につき当ページからの持出厳禁)