真心を以て接すれば、どんな相手であっても話は通じる、と思っていた。
 今迄の旅の最中《さなか》にも、様々に疑われたことはあった。だが、どれほど疑われても、私が自ら足を運び、真情を吐露すれば、最後には誰しもが納得し、今後の交誼を約してくれた。
 けれども、この世には、如何にしても話の通じぬ人間というものも、確かにいるらしい。
 私は、ともすると恨みつらみに沈みそうになる心を静めようと、己が禁足を強いられた一室で端座し、瞑目し続けていた。
『あくまでも淵上を弁護するのであれば、貴殿への疑い、やはり消すわけにはゆかぬな』
「何が疑いだ」
 抑え切れず、呻きが洩れる。
「最初から目的あってかけた“疑い”ではないか」
 天領、豊後国、日田《ひた》──
 先月二十二日に上陸して以来、九州各地を遊説して回り、二月十六日にこの地に入った我々を待っていたのは、倒幕活動の為に訪れたのではないかとの嫌疑であった。
 間道を経て辿り着いた故に、怪しまれたようであった。宿こそ得ることは出来たが、陣屋に呼び出され、夜遅くまであれこれと尋問された。
 翌朝、私は、此処まで共に旅をしてきた新井君達を出立させた。こんな所で無駄に足留《あしど》めされてはたまらない。京へ戻るおおよその日にちは、出立時に局長副長に伝えてあるのだ。只でさえ今度の出張は副長の土方から真意を疑われているというのに──いや、見抜かれているという方が正しい気もするが──戻りが極端に遅れては、無用の疑いを招きかねない。新井君だけでも先へ行かせ、周旋を続けてもらわねばならぬ。
 だが、それがまた、役人共の疑いを増す原因となってしまった。疚しいことがあるから逃がしたのであろう、というわけだ。
 疚しいことがあって逃げるなら一緒に出立している、と抗弁したが、納得されたとはまるで思えなかった。
 どうにも始末が悪いのは、相手が幕吏であることだ。幕吏が相手では、実は斯く斯く然々と新選組からの分離策を持ち出すわけにも行かない。
 もっとも、私は、例えば土方のような勘の鋭い者には疑われても無理のない身である。完全に反幕府の姿勢を打ち出すつもりまではないけれど、それでも、がちがちの佐幕派の人間からは睨まれても仕方のない甚だ勤王色の強い思想を持っているのは事実だからだ。気を付けて喋っているつもりだが、受け答えの端々にそれが出てしまっているかもしれない。
 加えて、幕吏──殊に、昨年の第二次長州戦での敗戦後、倒幕派の人間が九州支配の要《かなめ》となるこの地に流入して騒擾を起こすのではないかと過敏になっている西国筋郡代《さいごくすじぐんだい》配下の目から見れば、間道を行き来してうろうろしている私など、相当に胡散臭いに違いない。幾ら、実は自分は親幕組織である新選組の参謀であり、倒幕派の動向を探る為に変名を用いて歩き回っているのだ、と説明したところで、
『そう見せかけて彼奴《きゃつ》らと気脈を通じようとしておるのではござらぬか』
 と頭から信じてもらえぬのは、むしろ当然なのかもしれない。
 無論、だからと言って、お疑いの通りでございますなどと応じるわけには行かぬ。さてこそやはりそうであったかと拘束され、悪くすると命を失うかもしれぬ羽目に陥るなど、あってはならぬことなのだ。
 下の者では埒が明かぬ、郡代の窪田治部右衛門《くぼた じぶうえもん》殿に直接お話ししたいと面会を申し入れたが、生憎、窪田は昨年大坂へ上っており、不在との話であった。
 ……どう話を持っていってもかみ合わず、徒労感を覚えながら宿に戻ろうとした私は、窪田が早ければ明日には戻るとの知らせがあったのでそれまで滞在されたしと、半ば強引に一室に案内された。
 見張りこそ付かなかったし、二刀を取り上げられることもなかったが、実質、拘禁である。
 早々に新井君達だけでも出立させておいて正解だった。
 しかし、私は……
 抜け出して出立してやろうかという思いも正直よぎったが、此処でそれをやってしまったら、今後の旅が困難になる。幕吏を無視して動いて、先々無事で済むとは思えない。
 だが、私には、この拘禁が予兆に過ぎないということがわかっていた。
 役人共は、頻りに、淵上郁太郎《ふちがみ いくたろう》のことを口に出した。彼がどれほど怪しいか、信用出来ぬか、私が訊いてもいないのに、くどいほどに話した。
 ……何と酷な話か。
 淵上君は、かつて私が幕吏の手から救った男のひとりである。都で幕府の長州出兵を阻もうと画策していた科《とが》で囚われていたのを、長州との無用の戦を避け倒幕派の動向を探る為には彼のような者が必要であると働きかけて、釈放させたのだ。勤王の形は決してひとつではない、何処に属していても、志は生かせる──そう説けば、彼はきっと我々の為に働いてくれる、それを巧く使ってこそ、幕府の為にもなるではないか、と。
 ……けれども、幕府大目付である永井尚之《ながい なおゆき》殿広島出張の折に随行した我々と共に動いたことで、彼は、長州人をはじめとした勤王派から“幕府の犬”ではないかと疑われ、命を狙われるようになった。
 太宰府に滞在した折、会う人会う人からどれだけ、淵上は許し難い変節漢であると吹き込まれたことか。
 なのに、幕吏からまで、勤王派の人間に接触しようとする動き故に、こうして疑われてしまうのか。
 普通の者であればきっと、虚しい思いをかみ締めているだろう。何処へ行っても疑われ、受け入れられない。これならば獄中で死していた方が良かったと、なまじ命を助けた私を恨みさえするかもしれない。
 なのに、彼は……。
 先日会った時のことが、自ずと思い出された。
 色々と苦労をかけて済まない、と何げなく口にした言葉に、彼は、かすかに笑って応じた。
『たとえ誰に信じてもらえずとも、天は、私の心と志とを御照覧くださる。……伊東先生も、信じてくださる。それ以上、何を望みますか』
 ……彼こそ、真の志士だ。
 だから、彼のことを誰から何と悪く言われようとも、耳を貸すつもりはない。
 けれども、あれだけ淵上君のことを悪し様に言い続けた役人共だ。こうして私を強引に足留めしたのは、考えるに……
 案の定、さして間を置くことなく、昨日からうんざりするほど顔を見ている役人共が、内密裡の話があると称して三人連れでやってきた。
 一方的で高圧的な“話”であった。
 疑いを解いてほしければ信用するに足るだけの行動で示せ、お前は淵上の居場所を知っている筈だから使いを遣って此処へ呼び出せ、というのである。
 呼び出して、何をしようというのか。
 私の当然の問に、答はなかった。だが、相手の薄ら笑いを見れば、嫌でも察することが出来た。
 私は、役人共を見据えた。
『……どうしても淵上を生かしておけぬと仰せですか』
『言わでものこと。……貴殿の手を煩わせはせぬ。ただ呼び出すだけで良い。楽な話ではないか』
 何を言うか。
 手を下せとまでは言われないにせよ、騙し討ちにする片棒を担げと持ちかけられたに等しいではないか。
 最悪そうなるだろうと予想はしていたが、実際に突き付けられると、腸《はらわた》が煮えくり返る思いがした。
『断固としてお断わり申し上げる。淵上が御公儀に弓引いたという確かな証でもおありか。失礼を承知で申し上げるが、皆様方は単に、淵上は怪しい、信用出来ぬとおっしゃるばかりではございませぬか。私は淵上の身の潔白を信じております。士として、信義に悖ることは出来ませぬ』
『……あくまでも淵上を弁護するのであれば、貴殿への疑い、やはり消すわけにはゆかぬな』
 役人共は、食い下がってくることなく、存外あっさりと退出していった。多分、暫く閉じ込めておいて、私が折れるのを待とうというつもりなのだろう。
 ……嗚呼、こうして思い出しているだけでも、腹立ちが甦る。
(よくも舐めてくれたものだな)
 誰が、ひと晩やふた晩で音を上げるものか。
 どうせ、じきに窪田が戻るというのだ。そうすれば、改めて、己がこの地に立ち寄った理由を説明すれば済むだけだ。

 だが、翌十八日になって帰陣した窪田は、今迄の役人共に輪をかけた疑り深さで、私に接した。
 淵上君への嫌疑は何も役人共だけのものではなく、他ならぬ窪田のものであったのだ。
 まるで実りのない、神経に鑢《やすり》をかけられるような不毛な遣り取りが延々半日も続くと、さしもの私も疲労困憊であった。
 しかし、此処で弱みを見せては、つけ込まれるだけだ。苛立ちと徒労感を押し隠しながら、私は、相手の執拗な問いかけに、昨日まで役人共に繰り返してきた同じ答を粘り強く返し続けた。
 日が暮れる頃になってやっと、茶が一杯振る舞われ、休息を得ることが出来た。
 まさか一服盛られるということはあるまいが、それでも些少は用心しながら、妙な味はせぬかと少しずつ啜って喉を湿らせていると、こちらは躊躇《ためら》いも何もなく茶を飲み干した窪田が、それまでとは打って変わった気軽な口調で話しかけてきた。
「ところで伊東殿、貴殿には、妻子はおありか」
「は……いえ、生憎」
「何と。これまでずっと独り身でおいでか」
「……いえ。故あって独り身になり申してはおりますが、ずっと、というわけでは」
「貴殿ほどの美丈夫であれば、放ってはおかれまいに……都には貴殿の帰りを心待ちにしておる美人も多かろう」
 情けないことに、そう言われて浮かんだのは花香の顔ではなく、あろうことか、土方の顔であった。
 鈍い痛みが胸を刺し、自ずと視線が落ちた。
「……待たれてなどおりませぬ。それどころか、二度と戻ってこねば良いと思われているに違いない……」
 つい、愚痴にも似た呟きが洩れてしまう。
「ほう」
 窪田がわずかに身を乗り出す気配があった。
「都を発つ前に、喧嘩でもなされたのか。──ああ、いや、これは失礼。無躾であった」
「いえ……」
「いやいや、憎からず思うておる者と仲違いしたままで永の別れとなるはつらきこと。お察し申し上げる」
 ──どきりとした。
 今、この老人は何と言ったのだ。
 思わず顔を上げると、相手の目が、じっと、哀れむような色を湛えて、私に当てられていた。
「……伊東殿。何も拙者は、淵上を討ち果たしてくれと頼んでおるわけではない。確かに拙者は彼奴をこのまま野放しにしてはおけぬと思うてはおるが、問答無用で斬り捨てようというつもりもない。然るべき吟味を経て、もし疑いが晴れれば、無罪放免とするつもりである。だが、今のままでは、淵上への疑いを消すことなど思いも寄らぬ」
「……どれほど誠意を以て話をしてもいっかな私や淵上を信じてくださらぬ窪田様を、一方的に信じよと仰せですか」
「なかなかきついことを言う。……拙者が単に疑わしいというだけで危害を加える男ではないということは、貴殿を半日も生かしておいておるということで充分に理解してもらえたものと思うておったのだが」
「……淵上を弁護するというだけで疑われて命を取られるなど、そんな馬鹿な話があるとは思ってもおりませぬ」
「洩れ聞くところによると、貴殿は間もなく新選組を離れて独自の勤王活動をするとか。疑わしいと思って、何の不思議があろう」
 ──何故、それを知っている。
 動揺が顔に出そうになるのをこらえ、私は、努めて平然と応じてみせた。
「はて……これまでに何度も申し上げた筈。私が九州を回っておりますのは、隊務として、倒幕派の動向を探る為。私が新選組の参謀であると知っている相手に信用してもらう為には、いずれ新選組を離れることになっているのですと説明するのが、一番手っ取り早い」
 しかし、勤王派の人間にしか話していない極秘の話である筈なのに、何処から伝わっているのか……。
「ほう、では、分離の話は事実ではないと?」
「……窪田様。倒幕派の目を欺く為の分離の話は、まだ新選組の幹部の間でしか交わされていない極秘の策。事実であるともないとも、今は申すことは出来ませぬ」
「成程。では貴殿は、策謀を以て人を欺き、隠し事をするような男の申すことを、誠意の言であるから信じろと申しておるわけか」
 ……この男、今迄の役人共の百倍は手ごわい。
 伊達に齢は重ねていないらしい。
 だが、もっと手ごわい──と私は思う──土方と何年も渡り合ってきた私だ。これしきの斬り込みに怯んでいては、土方に嘲笑われるだろう。
「敵を欺くにはまず味方からと申します」
「はてさて、一体どちらが貴殿の味方であるのか、腹の底はわかったものではない」
「それ故に私を信じられぬと仰せなら、仮に私が窪田様の求めに応じたとしても、我が身を守る為に淵上を見限っただけだろうと決め付けられるのは火を見るより明らか。どう転んでも疑いが晴れず、命を全う出来ぬのであれば、我が信義を貫いて命を失う方が遙かに良いのは自明の理」
 窪田は、軽くふんと息を洩らした。
「……顔に似ず、強情な」
「お褒めの言葉と取っておきましょう」
「褒めたのだ。……明朝、また吟味する」
 ひとまずは相手の斬り込みを防ぎ切ったことを、私は確信した。
 しかし、宿へ帰してもらえぬことに変わりはない。しかも、今度は、部屋の外に見張りらしき者まで置かれてしまった。
 日に日に状況が悪化している。
 確かに、いきなり謀殺されるようなことはあるまい。けれども、じりじりと追い込まれているような印象は拭えない。
 宛てがわれた質素な夕餉を済ませたところで、窪田がふらりと姿を見せた。
「ひとつ、告げ忘れておったことがあってな」
 中にも入らず、立ったままで声をかけてくる。いきなり何を、と軽く訝りながら無言で見上げると、彼は、微妙に勝ち誇ったような薄い笑みを浮かべた。
「貴殿の連れ、新井忠雄と申したかな。太宰府方面へ向かったとの報告を聞いておる故、すぐに跡を追わせておる。貴殿の足留めのことを知らせておくつもりだ」
 ……流石に、返す言葉を思い付けなかった。
 それだけを言い置いて立ち去る窪田の足音を聞きながら、私は、目の前が暗くなる心地に襲われていた。
 相手を侮っていたわけではない。
 だが、この世には、土方に劣らぬ手ごわい相手は、幾らでもいるものらしい。
 隠し事をせねばならぬ私の方が明らかに分が悪いと、わかっていたつもりだった。だが、私にも利はある、私がうんと言わなければ先方とて淵上君をどうすることも出来ない、と高を括っていた。
 だが、淵上君の潜伏先を知っているのは、私だけではない。
 ひと足先に出立した新井君も、知っているのだ。
 実際今、日田に足留めされている私よりも、太宰府へ向かう道中に在る新井君の方が、淵上君の近くにいるかもしれぬ。もしも窪田の手の者が新井君に追い付き、私への疑いと拘束を解くのと引き換えに淵上を呼び出せと迫ったら、恐らく新井君は、躊躇なく私の命の方を優先するだろう。いや、淵上を呼び出して始末しろと言われてさえも、従うだろう。
 新井君に、そんなことをさせていいのか。
 初めて、迷いが生まれた。
 己《おの》が信義を貫こうと私が窪田の求めを拒み続ければ、親しき友が、私の為に手を汚さねばならぬ状況に置かれるかもしれないのだ。
 そんなことになるくらいなら、私が全ての汚れを負うべきではないのか……
(土方さん……あなたなら何と考える)
 全く無意味であるとはわかっていたが、私は、裡なる土方の俤《おもかげ》に問いかけずにはいられなかった。
 だが、裡なる俤は、そもそも私ならばそんな間抜けな羽目には陥りませんな、と冷たく笑うばかりであった。
 ……そうだろう。
 私の知恵など、あなたの知恵に比べれば、所詮……

 眠られぬ夜になると思っていたが、浅ましいもので、夕餉の膳に添えられていたわずかばかりの酒が、眠りに誘ったらしい。
 気が付くと、夢の中に彷徨《さまよ》い出ていた。
 しかも何故か、見馴れた、新選組の屯所に。
 既に殆どの者が寝静まっているらしく、灯りが洩れている部屋は、ちょっと見回したところでは見当たらなかった。
 月影の下《もと》、私の足は、自ずと、副長土方歳三の居室へ向いた。
 土方以外に、今の私が会いたい相手はいなかった。
 彼とて既に就寝しているであろう。けれども、最悪の結末に至ったら、二度と会えなくなるのだ。
 たとえ眠る姿であっても、ひと目、見ておきたい。
 ……夢の中だからこそ、素直にそう思える。誰にも聞かれることはないし、誰にも見られることはないから。
 夢の中だから、会える相手は現実の土方ではない、とも言えるのだが……
 彼の居室の前まで来たところで、背後から鋭い声が飛んできた。
「そこで何をしてる、伊東」
 よもや聞けるとは思っていなかったその声に、私は、驚いて振り返った。
 不機嫌そうな顔で腕組みをして佇んでいたのは、紛れもなく声の主──土方であった。
「……ち。折角、暫くてめェの面も見ずに済むと思ってたのに、何でいきなり夢に出てきやがるんだか」
 半ばひとりごちるような台詞に、私は目をしばたいた。
「夢……あなたも、この夢を見ているのですか?」
「……てめェの願望が見せてる夢かもしれねえな。余程俺と話でもしたくて、せめて夢ででもと思ってるんじゃねえのか」
 うっすらと笑って、土方は言った。
 何かしら、はぐらかされたような気がした。
「……まあいい。入れ」
 笑いを消した土方は、そのまま、閉ざされている障子を通り抜けた。
 ……夢の中では、よくあることだ。面倒な手順や些細なことは、都合好く省略してしまえるのだ。
 私もまた、次の瞬間にはもう、彼の居室に入り込んでいた。
 土方は既に、端座していた。……その背後に、健やかな寝息をたてている土方がいた。よくよく見れば、端座して私を見上げている土方の方は、かすかに透けている。
「──てめェも半分透けてるぞ」
 まるで私が何を考えたかが伝わったかのようなことを口にして、土方は笑った。その笑みには冷たい皮肉の色はなく、かと言って温かい色もありはしなかったが、強いて言えば、わずかに親しみに似た色が漂っていた。
「生霊……みたいなものなのでしょうか、お互い」
「なに、単なる夢だ」
 お互い、という言葉が気に入らなかったのか、土方は笑いを消して、やや突慳貪に応じた。私は、相手をいたずらに警戒させぬよう、手を伸ばしても簡単には届かない距離で腰を下ろすと、嘆息した。
「……夢でもいい。あなたにひと目、お会いしておきたかった」
「俺は別に会いたくもなかったがね」
「……私は、彼《か》の地で命を落とすかもしれない。いや、このまま疑いが晴れなければ、必ずそうなる」
 突き放すような相槌に構わず、私は続けた。
 自分が只今現在陥っている境遇を全て語り、そして、頭《こうべ》を垂れた。
「私は……もう、自分がどうすればいいのか、わからなくなってしまった。夢でもいいからあなたにお会いしたいと願ったのは、あなたならどうするかを知りたかったせいでもあるのです」
「……どっちからも疑われて当たり前の人間が、何をぐちゃぐちゃ言ってるんだ」
 土方は、殆ど吐き捨てるに等しい口調で応じた。
「下らねえな。どう転んでも同じなら、自分が一番したいようにすればいい」
「それが自分でわかるなら──此処へは来ていない!」
「……じゃあ、俺の思ったことを、少しばかり言ってやる」
 私の目を見据えながら、土方は、低い声で呟いた。
「てめェは、誰に、信じてほしいんだ?」
「……え?」
「てめェが今、一番信じてほしいのは、誰からなんだ?」
「誰からって……それは無論……」
「俺だとは言わせねえぞ。……此処は夢ン中だ。夢から覚めたら忘れてやるから白状しな。てめェは、自分が思うように勤王活動とやらをしたいばっかりに、何のかんのと理屈を付けて新選組を脱退しようとしてる。全く以て、新選組の為なんかじゃねえ。手前《てめェ》の為だ。そう言って聞こえが悪けりゃ、自分の志とやらの為だ。だが、てめェは俺や近藤さんの前では絶対にそうとは言わねえ。お為ごかしと嘘で塗り固めた理由で、新選組の為だ、だから分離させてくれ、自分を信じてくれと言う。……どうだ、図星だろうが。反論出来るもんなら反論してみやがれ」
 ……喉許に刃《やいば》を突き付けられている心地がした。
 夢の中では、嘘はつけぬ。どうにか反論しようと思うのに、唇がどうにも動いてくれぬ。
「……それだけでは……ない……私は……」
「ああ、つい話がそれたよ。俺が訊きてえのは、そんな、もうとっくにわかり切ってることなんかじゃねえ」
 答に窮している私を見るだけで充分だったのか、土方は、恐ろしくあっさりとその話題を打ち切った。
「俺は、今のおめェが今まさに誰から一番信じてほしいかを訊いてるんだ。普段誰から信じてほしいかを訊いてるんじゃねえ。……わかるな」
「……わかります」
「てめェは今、色んな奴から疑われてる。窪田もそうだし、これまでに会って回った倒幕派の連中もそうだろうし、ひょっとしたら、当の淵上からも、自分を売られるんじゃねえかと疑われてるかもしれねえな。新井だって、わかりゃしねえぞ。窪田の使いとやらを受け取った時に、奴がどう考えるかな。てめェが手を汚したくねえばっかりに窪田と謀って自分に淵上を討たせようとしてるんじゃなかろうか、と疑うかもしれねえ。……まさかそんな、って面してんじゃねえよ。人ってのは、追い詰められると、今迄信じてたつもりの相手でもなかなか信じられなくなるもんだ」
 私は完全に、土方の言葉に呑み込まれていた。そのひとことひとことが、普段心の奥底に押し込めている負の思いを抉り出し、恐ろしいほどに掻き回した。
「よく考えてみな。伊東甲子太郎はひとりしかいねえ。本当の本心も、ひとつだけだろ。なのに、信じてほしい奴らの立場はバラバラじゃねえか。一体、誰になら、嘘をつかずにまともに向かい合えるんだ?」
「……私は……嘘など……誰にもついていない……」
「言葉遊びをするな。夢ン中でまで自分を誤魔化す気か。俺の言ってる嘘ってのには、本当のことを全ては言わねえってのも入ってるんだ。……誰からも信じてもらおうなんて虫のいい願いは捨てろ。どだい、無理な話なんだ。だったら、自分が一番信じてほしい相手から信じてもらえるだけのことをすればいい。……俺がてめェに言ってやれるのは、それだけだ」
 その言葉を最後に、土方の姿は、揺らいで消えた。
 後には、規則正しい健やかな寝息をたてている彼の現身《うつしみ》ばかりが残った。
 ……やはり、これは夢なのだ。
 土方に会いたい、声が聞きたい、話がしたい、その思いが嵩じたが故に見た夢なのだ……
 だとしても、彼の言葉は……夢なのだから、私の裡なる彼の言葉である筈なのだが、普段そこまで抉り鞭打つような言葉をかけてくれる者のいない私には余りにも厳しく、これは本当に夢なのであろうかと疑うほどに、真に迫って聞こえた。まるで、土方本人が私の夢の中へ訪ねてきてくれたかのように。
 ……いや、もしかしたら、本当に、そうなのかもしれない。
 土方は最初、「何でいきなり夢に出てきやがるんだか」と毒づいていた。同じ夢を見ているのか、という私の問いかけにははぐらかすような答しか返してくれなかったが、いつも夢に見る彼とは、明らかに異なっていた。何処が違うか、と問われても巧く言えないのだが、強いて言うなら、そう……寸分たりとも思い通りに出来ない雰囲気を纏っていたと言おうか。
 いつもの夢の中の彼は、所詮、私の都合の好い願望の産物だ。どんなに抗っても、最後には私の手に落ちることになっている。どういう訳だか、私の都合の好い夢の中でさえ、ぎりぎりのところで私のものには出来ないけれど、それでも、ある程度までは、私のものになりかけてくれるのだ。
 だが、今し方の彼は……それこそ、私の方が無用の警戒をさせまいと気を遣ってしまったほどに、現実の土方に限りなく近かった。
(……もしも、本当に、あなたと共に見た夢であったなら)
 わずかなりとも、あなたが私に、あなたの見る夢と同じ夢を見ることを許してくれたのならば……このまま……

 だが、夢の悲しさか、私は、彼の枕許に留まり続けることは出来なかった。
 ふと気付けば、全く別の場所に佇んでいた。
 ……何処だろう。
 見たことがあるような、ないような、山の中だ。
 血の臭いが鼻先をかすめたように思えて辺りを見回したが、別段、殺伐とした気配はない。
 かすかな呻きが聞こえた気がした。
 もう一度辺りを見回してみる。……冴え冴えとした月明かりのせいか、驚くほど明るく見える。
 葉擦れの音がした。少し離れた場所で。
 私は、何となく足音を殺そうとしながら──夢の中なのだから、そんな用心など無用なのかもしれないが──音のした方へと歩み寄ってみた。
 ──人が、倒れていた。
 仰向けになり、右手に抜き身の刀を握り締め、左手を腹に当てて。
 黒々として見える不吉な染みが、左手の宛てがわれている辺りのみならず、草の上までをも染めていた。
 私は、場に立ちすくんだ。
 淵上君だったのだ。
 息は辛うじてあるようだったが、命旦夕に迫っていることは、一瞥しただけで明らかであった。
(何故、こんな夢を見なければならぬのだ)
 夢ならば疾く覚めよ。覚めてくれ。
 そう願ったが、目の前の光景は消えなかった。
 と、目を閉ざしていた相手が、ふっと瞼を上げ、私の方を見た。
 驚いたような色が、殆ど光を失って見えたその瞳に浮かんだ。
「……伊東先生……」
 存外にしっかりとした声が、耳に届く。
「来て……くださったのですか……」
「──夢だ」
 私は、ひび割れた声を押し出した。
「私はまだ──夢から覚めていないのだ──そうでなければ、こんなことが」
「天は……御照覧くださる……」
 淵上君は、私の言葉など聞いていないかのように、呟き続ける。
「今一度……先生にお会い出来ないのが……心残りだった……先生はずっと……私を信じてくださった……それがどれほど……私の支えになったか……有難うございました……」
「──誰が」
 夢であることも忘れ、私は、彼の傍らに膝突いた。
「一体誰が──こんなことをッ!」
「……良いのです」
 淵上君は、かすかに笑った。
「この命ひとつで先生の……お命に換えられる……なら……それで……」
 ──魂の底まで青ざめた。
 己《おの》が命を私の命に換える、とは、どういう意味だ。
 恐ろしい疑惑が、心を鷲掴みにする。その疑惑の余りのおぞましさに震えながら、私は、それでも、問わずにはいられなかった。
「まさか……まさかこれは……新井君のしたことか!?」
 淵上君は、じっと私の目を見上げ、しばし見つめ──それから、ゆっくりとかぶりを振った。
 そして、囁くような、絶え入るような声で、呟いた。
「……私でさえ……信じてくださった……その先生が……新井殿を……お疑いに……なるのですか……」
「では一体── 一体誰が!」
 淵上君は黙って小さくかぶりを振ると、静かに目を閉じた。
「……良いのです」
「淵上君!」
「先生を……信じて……良かった……」
 殆ど声にならぬ声での、それが、彼の最期の呟きであった。
 夢の中だというのに、私は心の何処かで、自分が淵上君の臨終に立ち会ってしまったことを理解していた。この、何処《いずこ》とも知れぬ山中でひとり、誰にも看取られることなく命を落としてゆこうとしていた彼の元に、夢の中へと彷徨い出た私の魂が引き寄せられたに違いないと。
「……誰からも信じてもらうことなど……無理……」
 土方の言葉が、改めて、胸を刺した。
 淵上君のこの姿は、今の私自身の姿ではないのか。
 倒幕派からも佐幕派からも疑われ、思うように動くことの出来ぬ、今の私の……
「誰からも信じてもらおうなどと考えず……自分が一番信じてほしい相手から信じてもらえるだけのことを……すればいい……」
「そいつはまさに、それを実践したわけだ」
 独白に対して返ってきた答に、心臓が跳ね上がった。
 顔を上げると、一体いつからそこにいたのか、腕組みをした土方が佇んでいた。
「……てめェがそれほどまでに信じるに足る人間かどうか、俺には疑問だが……てめェを信奉してる連中にとっては、てめェには、命を捨ててもいいと思わせる何かがあるんだろう」
「何故……あなたが此処に……」
「知るか。……言ったろう、てめェの願望が見せてるんじゃねえのかと」
 違う、と思った。
 私は今、彼の言葉を思い出しはしたけれど、彼に会いたいとまでは思っていなかった。
 けれども私は、抗弁しなかった。折角私の夢の中に訪ねてきてくれた彼を、帰したくなかったから。
 今此処で「違う」などと口に出せば、土方は機嫌を損ねて去ってしまう。彼は、どれほど私に対して関心を持っても、私にそうと悟られることを極度に嫌がっている。今こうして此処にいるのも私の願望が呼び出したからに過ぎないのだと、私には[#「私には」に傍点]そう思わせておきたいに違いない。
「てめェが自分の迷いに答を出す前に、淵上は自分の答を出した。……今度はてめェが答を出す番だ」
「……もう、答は出ています」
「ほう。……興味はねえが、話したけりゃ話せ。そのくらいの間は付き合ってやる」
「……たとえこれが夢でありながら現《うつつ》の出来事であったとしても、私は、信義を貫く。淵上君を裏切るような真似はしない。たとえ……あなたの元へ二度と戻れなくなるとしても」
「窪田の要求はあくまでも拒む……か」
 土方は、かすかな笑みを浮かべた。
「新井のことはどうする」
「新井君?」
「淵上を殺《や》ったのが新井じゃねえかと疑ったろう。どう始末を付ける」
 ……心の奥底を容赦なく抉るような、鋭いまなざし。
 私は唇を引き結び、その視線の圧力を跳ね返した。
「私は淵上君を信じる。淵上君が新井君ではないと言った以上、新井君は潔白です」
「……いいだろう」
 土方は軽くいなすような表情を見せ、そして、腕組みをほどいた。
「一度信じた相手は何があっても最後まで信じる、それがてめェの出した答なら……少なくとも、てめェを信奉してる連中は、てめェの為に命も、時として己の信義さえも、捨ててくれるだろうよ」
「……褒めているのですか」
「そう聞こえたなら、そう思っておけ。その方が俺には都合がいい」
「あなたの言いたいことはわかっているつもりです」
 私は、立ち上がりながら呟いた。
「幾ら私が一方的に信じても、信じてもらえぬ相手はいる。信じるに足る人間でないことだってある。そんな相手まで、一度信じたら最後まで信じるというのか。それでは単なる馬鹿だ。……そう言いたいのでしょう、あなたは」
「一番上に立つ奴なら、それでもいいのさ」
 土方は唇を緩めた。
「信じていい相手かどうかと用心して見極めるのは、周りで支える奴の役目だ。……では御免、俺はそろそろ失礼する」
「土方さん」
 くるりと背中を向けた土方に、私は思わず声をかけた。呼び止められるとは思っていなかったが、意外にも、土方は足を止めてくれた。
「……何だ」
「私が──もしも私がこのまま九州の地で命を落としたと聞いたら──あなたは──厄介者が死んでくれたと喜びますか」
 言わずもがなだ、と即答が返るだろうと思いながら発した問に、けれども、土方は、すぐには答えなかった。
「……この夢のことは、目が覚めたら綺麗さっぱり忘れる」
「はい……?」
「だから、何でそんな気になるかはどうしたって思い出さねえが……線香の一本ぐらいは上げてやりたい気になるだろうよ。泣いてまではやらんがな」
 思いがけぬ答に茫然と立ち尽くす私の前で、土方の背中は、ふいと夜気に溶け去った。

 畳にうち倒れている己に気付いたのは、その直後であった。
 ……やはり、全ては、睡魔に敗れて見た夢だったのだ。
 けれども、普段見る夢に比べると、恐ろしく、現に近い夢であった気がする。
 覚えておきたい、と願った。私が見たのは、他の凡百の夢とは違う。きっと、この身を彷徨い出た魂が、京の都に、更には何処《いずこ》とも知れぬ山中に飛び、そして……

 翌朝、再びの吟味を心静かに待っていた私の元に来たのは、窪田が他用で忙しく、調べの為に呼び出せるのはいつになるかわからない、という知らせであった。
 焦《じ》らそうという策かもしれなかったが、私には、どうでも良かった。
 窪田がどう出てこようとも、もはや、私の気持ちは定まっているのだ。
 しかし結局その日は全く呼び出されることなく終わり、無為に日付が進んだ。
 二十日の朝になっても、状況は動かなかった。
 一昨日まではあれほどしつこく尋問されたのに何故、と思っていたところ、午後になってから、窪田ではなく別の代官に呼び出された。内海多次郎《うつみ たじろう》なるその幕吏は、私の話をひと通り聞くと、ごくあっさりと、不審の趣はない故、いつでも当地を出立して良い、と告げた。
 流石に面食らった私は、薮蛇になるかもしれぬと思いながらも、問わずにはおれなかった。
「……失礼ながら、窪田様からは色々と嫌疑を受けており……」
「いや、拙者も先程戻ったばかりでよくは存じぬが、貴殿の処遇については我が一存で全て決して良し、と言われており申す。……此処だけの話でござるが、拙者の見るところ、余りに厳しく疑い過ぎた故、貴殿の前に顔を出しづらいのではないかと」
 そんな……ものなのだろうか。
 今ひとつ納得し切れぬが、いつでも出立して良いと言われたのは有難い。私は早速に陣屋を辞し、宿に戻った。すぐにでも出立したいとは思ったものの、一旦解き放ち油断させておいて命を取ろうという罠ではという疑いも拭えなかったので、敢えて一泊して様子を見てから、翌早朝に日田を離れた。
 追っ手がかかるかと先を急いだが、誰が追ってくるでもなかった。
 取り越し苦労だったらしい。
 けれども、私はそれでも歩を緩めなかった。追われる心配が無用であるとしても、急ぐに越したことはない。足留めを喰らってしまったことで、旅程はかなり厳しいものとなっている。それさえなければ今一度太宰府を回りたかったのだが、今となっては無理である。新井君と落ち合う約束をしている佐賀の地へ真っ直ぐに向かうしかなかった。

 正午を大きく回った頃、山中で、三日前の夜に夢に見た場所を思わせる光景に出会った。
 木々の重なりや繁みの様子が、余りにも、あの夜の場所と似通っていた。
 思わず足が止まった。
 急に足を止めたせいか、汗が噴き出してくる。
 私は周囲を見回し、余人の姿が全くないことを確かめた後で、多分あの辺りであったかと思う繁みの方へ、半ば恐る恐る、足を向けてみた。
 だが、そこには、何もなかった。
 凶行の跡すら、見当たらなかった。
 ……全ては……本当に夢に過ぎなかったのであろうか。
 それとも……此処が単によく似た場所で、夢に見た場所ではないというだけなのか。
 暫くぼんやりと佇む内に、汗がすっかり乾いていた。
『天は……御照覧くださる……』
 不意に、淵上君の声が幻聴のように耳に響き、消えた。
 私はハッと我に返ると、笠を取って小脇に挟み、合掌瞑目した。
 たとえこの場所でなくとも──よく似た場所を通りかかって足を止めてしまったのは、天の導きに違いない。
(……私は……君が最期まで信じてくれただけの値打ちある者でいたい)
 誰からどんなに疑われてもいい。どの道、これから私は、新選組を無事に離れることが出来たとしても、誰からも疑われて当然というところから始めねばならないのだ。
 どんな相手にも、己の信ずる道を貫き、真摯な心を以て対することを忘れまい。
 そうすれば、多分……
 いや、きっと……
 いつか土方でさえ、私に……幾許かは、負ならざる思いを抱《いだ》いてくれるだろう。



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