「おや、今お戻りですか、土方さん」
 その背後に足音もたてずに寄り付いて声をかけると、廊下で足止めて立ち尽くしていた男が、ギクリとしたように私の方を振り返った。
 土方歳三。
 鋭敏な頭脳と水際立った容姿を持ち、浪士集団新選組の指揮系統を一手に握る“鬼”副長。
 私は、日頃は他人の気配に敏感なこの男の不意を衝けたことに昏い快感を覚えながら、言葉を続けた。
「もう、山南《やまなみ》さんのことは聞かれましたか」
 問いかけられた男の表情が、答に迷う様子を見せて、揺らいだ。

 新選組をそっくりそのまま手に入れることは出来ないものだろうか。
 そんなことを考えるようになったのは、元治元年も暮れようとする頃ではなかったろうか。
 何故そんな考えが心の中に生まれたのかは、今ひとつ不分明であった。確かに、その頃になると、新選組という集団の拠って立つ所が勤王ではあるがそれ以前に佐幕なのだ、という辺りも見えてきて、「はて、それだけではこの先どうか?」との懸念が頭をもたげ始めていたことは、事実である。しかし、そればかりが原因かと問われると、そうであるとは言い切れぬような気も、するのである。
 新選組を手に入れるには、どうすればいいのか――?
 言うまでもないが、最も直截《ちょくせつ》な手段は、私の好むところではない。適うことなら、衆望が私の上に集まって、それでごく自然に、という感じで――言うなれば“禅譲”のような形で手に入れたいと思う。
 今の私の立場は、名目、副長より下位の副長助勤である。が、他の助勤達とは些か異なり、必ずしも副長より格下というわけではない扱いを受けていた。ひとりで使える居室を貰っていたし、隊士を率いて巡察に出掛けるという実務も免除されていた。私の仕事は、そういった“武”の方面よりも、局長の近藤勇と政治向きの話し合いをしたり、隊士達の話の輪の中に入っていってそれとなく学問を教授したり、といった“文”の方面のものが主体であった。
『いきなり副長、というわけにも行きませんから……』
 いずれ折を見て、先生に相応《ふさわ》しい役を何か御用意致しましょう、と近藤は言っていたが、どうやら彼は、副長の土方に少しく気を遣っていたらしい。期待していたようには私の加盟を喜んではくれぬどころか、むしろ気に入らない様子を隠さぬ土方に、この上更に「伊東君を副長に」などと言えば、ますますその機嫌を損ねかねない――というわけだ。
 そう――土方は、私を嫌っている。私が新選組にいることそれ自体を、不愉快なことだと考えている。土方自身が私に面と向かってそう告げたわけでもないし、陰でも言っているわけではないようだが、あれだけあからさまにつんけん[#「つんけん」に傍点]した態度で接されては、悟るなと言う方が無理な相談だろう。
 しかし私は笑顔で接し続けた。
 新選組を手に入れるには――土方が絶対に必要なのだ。土方を味方に就けなければ、私の望むような“禅譲”は到底実現不可能なのだ。
 加盟してからずっと新選組という集団を観察してきた私の、それが、結論であった。
 だが、土方は私を避けている。徹底的に無愛想な顔でそっぽを向き、それでも話しかけると、皮肉っぽく刺《とげ》のある物の言い方で応じてくる。
 私の何が気に入らないのだ。
 近藤が私を「先生」と呼んで頻りに話をしたがるのを苦々しい目で見ている辺り、焼餅かとも思う。しかし、それだけで、こうまで冷たくあしらわれるものだろうか。もっと他に理由があるのではなかろうか。あたかも私がこの世に存在することそのものが気に入らないのだと言わんばかりの目で眺められる度に心まれながら、私はそう思い始めていた。
 新選組を手中にする為には、土方を手中にせねばならぬ。
 年の改まる頃には既に、この図式は私の裡にしっかりと根を下ろしていた。
 しかし、どうすれば土方を手中に出来るのか。
 近藤をはじめとした土方の“身内”から何気ない感じで土方について聞き出し、そして私自身土方という男を見つめることで、彼が一体どんな男であるのか、それはかなりの程度わかってきていた。だが、彼を知るのに決定的な“何か”が不足しているという気がして仕方がなかった。
 そんな時、あの事件[#「あの事件」に傍点]が起こった。
 事件、と言っても、ほんのささやかな出来事である。年が明けて暫く経った日の夕方、ひとりで外出しようとする土方の姿を見かけ、声かけて、半ば強引に同行した、その時のことである。島原へと足を向ける彼の隣を歩きつつ、私は、恐らく彼にとっては関心も薄いであろう政治向きの話をしていた。ろくすっぽ相槌も打たず、喋りたいだけ勝手にひとりで吹いていろとでも言いたげな横顔でひたすら歩を運ぶ彼を、どうにか振り向かせてやろう――半分意地になって、私は、延々と喋り続けていた。だが、彼の端整な横顔はあくまで頑なに私を拒み続け、愛想のかけらも浮かべようとしない。
 ため息が出そうなほど情けない思いで、私は一旦言葉を切った。
 寒々しい空を仰ぐと、ふっと、いつぞや詠んだあの歌[#「あの歌」に傍点]が口を衝いてこぼれそうになった。
 心なき人を心に思い初《そ》め――
 まさに、である。隣を歩くこの男の“心なさ”と来たらどうだ。他人の気持ちをよく察する男なら、こんなに冷たくそっけない振舞で私の心を傷付けて平然と出来るものか。俳句や和歌にも親しむと聞いたが、とてもそんな男だとは信じられない。皮肉っぽい思いに駆られた私は、ところで――と口を開き直して言った。
『近藤先生や沖田君から伺ったのですが、豊玉宗匠は、和歌も詠まれるそうですね』
 変化が生じたのは、その台詞が終わるか終わらないかの瞬間であった。
 それまで知らん顔で私の話を聞き流していた土方が、突如つんのめるように歩調を狂わせたのである。隠し切れぬほど引きつった白面に、さあっと血が上る。私は、予想外の反応に内心驚きつつ、同時に、抑え難い悦びを覚えた。物に動じないこの男から、こんなに顕著な動揺を引き出すことが出来たとは……
 それは明らかに、余り良からぬ類《たぐい》の悦びであった。
 己のひとことがどれだけ相手を揺さぶり得たかを目の当たりにする悦び。
 からくも表情を取り繕った土方が、私の方を見る。
『はあ……いや、手遊《てすさ》び程度で、最近はとんと[#「とんと」に傍点]出来ませんね』
 暗に「趣味の話はしたくないから、やめろ」と言われているのはわかった。だが、私は敢えてそれを黙殺した。折角この冷たくつれない男をこちらに振り向かせる糸口をつかんだのだ。そう簡単に手放してなるものか。
『そうですか。句作の方は如何《いかが》です?』
 聞くや、土方の目許が小さく引きつった。何でそんなことを訊くのかと毒づきたいに違いない。
『まるで駄目ですな。どうも、最近はいけません』
『成程』
 私は頷きながら前を向いた。
 わかった――と思った。昔の土方を知る人間が必ずと言っていいほど指摘した“変化”――愛想がなくなったとか笑わなくなったとか、そういった全ての変化は、この男にとって決して自然な変化ではないのだ。もっとわかり易く言えば、無理をして作った変化なのだ。
 俳句も和歌も最近はまるで駄目だというのは、だからこそなのだ。
『気持ちに余裕がなくなったという証左でしょうね、それは』
 ごくさりげなく、しかし狙いすまして投じた言葉は、思惑通り相手の心に食い込んだらしかった。びくっとしたように足を止めた土方は、私の横顔を睨みつけ、何か言おうと口を開きかけた。
 が、そこで邪魔が入った。土方の馴染みの太夫《たゆう》付きの禿《かむろ》が、土方を見付けて寄ってきたのだ。内心舌打ちしたい思いを抱《いだ》いた私は、しかし、すぐにその思いを忘れた。駆け寄ってきた童女の口から出てきたのは、当の馴染みの太夫が落籍《ひか》されることになったという知らせだったのである。それを聞かされた時の土方の茫然とした表情、そして、応じる声のかすれ――それまで見たこともなければ聞いたこともない動揺の体《てい》を見つめながら、私は、総身に鳥肌の立つほどの昏い悦びに襲われていた。
 普段は、冷静沈毅で通《とお》っている男。それが、滅多に人には見せない、いや、見せたくはないであろう生身の弱さを、私のこんなすぐ傍らで曝している。恐らく、私が隣にいることを忘れてしまっているが故に。
 早う来ておくれやす、と童女が土方の袂を引く。
 そのまま行かせてしまえば良かったのかもしれぬ。そっとその場を離れてやるのが粋《いき》というものだと、いつもの私なら、そうしていた筈である。だが、その時の私は、相当に、どうかしていた。気付いた時にはもう、言葉が口からするりと滑り出していた。
『どうやら取り込みごとになってしまったようですね。私は退散しますよ』
 予期せぬ声にぎょっとなって振り向く土方のこわばった顔を、私は笑みと共に見つめた。
『話は、いずれ、またの機会に。――それでは』
 一礼して踵《きびす》を返し、来た道を戻りながら、私は、昏い悦びに陶然としていた。自分の中にこれほどに意地の悪い心が眠っていたとは信じ難かったが、現実に心は躍り、得体の知れぬ高揚に震えて已まなかった。
 事件と言うにはほんの小さな出来事だったが、後になって考えると、この時の体験こそが、それからの私の進む道を決してしまったような気がする。
 新選組の要である副長土方を、どうやって手に入れるのか――
 皆から鬼副長と恐れられてはいるが、その心根は決して鬼でも冷血漢でもない。新選組は、言ってしまえば雑多な浪人の寄合所帯である。元々無頼漢に近い彼らを鉄の隊規の下《もと》がっちりと厳格に統制してゆきたいが為に、土方は“鬼”副長として、無理矢理自分の中の情を殺し、憎まれ者を演じているだけなのだ。
 だが、そうやって無理をしているからには、必ず、いつか、破綻が来る。
 その「いつか」こそが、私の狙い目だ。
 私の為すべきは、その「いつか」を早めてやることだ。ただでさえ日々鬼面の下で軋んでいるその生身を、責め苛み、揺さぶり、この手の中に転がり落ちてくるように仕向けることだ。
 しかし、まともに向かい合ってくれぬ相手に正攻法で仕掛けても、こちらが傷付くばかり。
 ならばいっそ、後ろから。
 昏い決意を胸に、私は、動いた。土方がその内心で帰隊を心待ちにしていた転地療養中の総長山南敬助《やまなみ けいすけ》を、土方自身の手で処断させてやろうと、目論んだのである。
 ところが、土方は動じたようには見えなかった。
 それどころか、
「私は、新選組の副長です。掟を踏みにじるような隊士は、たとえ局長だろうと、許さない」
 と、それこそ眉ひとつ動かさずに、山南の処断を私に示唆してのけたのである。
 もしかすると、土方が山南を待っていたというのは私の思い込みに過ぎず、本当は土方も、山南が邪魔だったのか。そう疑いさえしてしまったほど、土方の態度は厳然として見えた。
 冗談ではない。もしそうなら、私のしたことは、土方を追い込むどころか助けてやったようなものではないか。
 私は、自分が何の為に人ひとり陥れるような真似までしたのかと思いつつ、土方と別れたその足で屯所を出た。今日し方に山南の書簡で初めてその存在を知った芹沢とかいう昔の筆頭局長の墓に詣でようと考えていたのもあるが、ひとりになって今の心を整理しておきたいという気持ちもあったのだ。
 副長助勤の沖田総司《おきた そうじ》から教えてもらった壬生の共同墓地に足を踏み入れると、右手の方で白髪《はくはつ》の老女がひとり蹲り、誰かの墓に向かって両手を合わせている姿が、ふと目に留《と》まった。
(……はて)
 私は小首をかしげた。確か、芹沢とかいう男の墓も、墓地を入って右手すぐの辺りだと聞いたが……訝しく思いながら老女の方へ歩み寄ると、足音に気付いたか、老女は顔上げて私の方を顧みた。穏やかで品の良い顔立ちをしている。身なりはこの辺りの者と変わらぬ感じだが、何処となく凛としても見えた。髪の結いから察するに、武家の端に連なるのだろう。
 私が頭を下げると、老女も頭を下げた。
「……御縁の方へのお参りですか?」
 声かけながら、私は墓石の銘に目をやった。芹澤鴨《せりざわ かも》之墓、平山五郎之墓――と刻されている。
「いいえのう、そういうわけじゃあ、ありませんけどが」
 老女は照れ臭そうに笑った。
「ただ、昔、こちらの芹沢さんにえらぁ世話ぁなったことがありましてのう……ほいで、三日に一度はお参りさせてもろうとります」
「そうですか」
 私は微笑した。酒を飲んでは粗暴な振舞と非行を繰り返し、近藤らとは相容れなかったと聞かされた墓の主《ぬし》だが、単にそれだけの男ではなかったようだ。同国人という思いがあるせいか、嬉しさに近い感情が生まれた。義理が九で挨拶に来たわけだが、来てみて良かった、と思った。
「私も、最近京へ参った者ですが、芹沢殿というお方が同じ常陸国《ひたちのくに》の方だと聞き及びましたもので……」
「まあ……ほいじゃあ、新選組の新しい隊士さんなんですね。そらぁよう来てくださいましたのう……他の隊士さんは、命日でさえ殆ど来ちゃあくれませんけんねえ……」
 さもあろう――私は内心に呟いた――殺伐とした日々を送っている隊士達に、そんな心のゆとりなどありはすまい。第一、今現在の首脳部と相容れなかったというかつての筆頭局長の墓に、誰が好き好んで参るというのか。
「隊士さんが来てくださいましたけえ、芹沢さんも今日は地下で大層喜んどられる思いますわ。時々ひとりでお参りに来なさる隊士さんも、ついさっきまで来とられましたけえのう」
「……え?」
 私は耳を疑った。
 芹沢の墓に、命日でもないのに参りに来る隊士がいるというのか?
 一体誰が、そんな大胆なことを。罷り間違って幹部に見られでもしたら、今の首脳部に対して含むところがあるのだと見做されかねないではないか。それこそ、土方辺りに知られでもしたら……
(……待てよ)
 私はフッと眉をひそめた。
 その隊士は「ついさっきまで」此処に来ていたという。それがどれくらい前を指すかは判然としない。だが、ひとつだけ確かなことがある。「ついさっきまで」此処にいたということは、「ついさっきまで」屯所にはいなかったということだ。
 私は「ついさっき」屯所を出た。
 その直前に、「ついさっき」屯所に戻ってきたばかりの土方と言葉を交わした。
 これは、偶然だろうか?
「……そんな隊士がいたのですか。常州出身の隊士でしょうか」
「さあ、わしゃあ、隊士さんが誰が誰やらは、さっぱりわかりませんけどが……」
「どんな感じの人ですか?」
「そうですのう……割に細面で、大層男っぷりのええお人です。総髪をこう、きっちりとひと括りに束ねとられますよ。体つきは、すらっとなさっとってじゃね。まあ、そがぁに近くでまじまじ見たこたぁありませんけどが、三十かそこらのお年の人じゃなぁか思いますのう。……わかりましょうかのう?」
「……いえ、ちょっと、すぐにはわかりませんね。何しろ私も、ついこの間入隊したばかりの新参者なので」
 私は苦笑しながらかぶりを振った。
 勿論、そんな容姿の隊士と聞けば、私には土方しか思い浮かばない。だが、それを口にするのは流石に軽率だろう。証拠があるわけではない。老女は隊士だと言うが、実は新選組とは全く関係のない人間かもしれない。仮に間違いなく隊士であったにしても、「ついさっき」屯所にいなかった隊士達の中に、老女の語ったような容姿の隊士がいるかもしれない。軽々しく結論に飛びついてはなるまい。
 老女が杖突きながら立ち去ると、私は、墓石の傍らに腰を下ろした。
 もし仮に、土方が此処へ「時々ひとりでお参りに」来ているのだとすれば、それは、何の為なのだろう。芹沢や平山といった男の死を悼んでのことだろうか。しかし、酒色に溺れて乱暴狼藉、新選組の悪名を京洛に広めていたような男だというではないか。長州浪人達に泥酔した寝込みを襲われて斬殺されたという話だったが、そんな男だったのなら、新選組の秩序維持に心を砕く土方にしてみれば、殺されてくれてむしろホッとしたというのが正直な気持ちだったのではあるまいか。
「何故なのだ……?」
 墓石に向けて呟いてみる。無論、答はない。自分で考え、見付けるしかないのだ。
 存外、土方歳三という男がどういう人間であるかを知るのに決定的な“何か”が――今迄見聞きしてきたものだけでは足りない気がしてならぬ“何か”が、その「時々」の墓参の陰に隠れているのかもしれぬ。

 翌日になって、山南が沖田に連れられて戻ってきた。
 処分は無論のこと、切腹であった。
 言い渡しの場で、土方は無言だった。ただひたすらに唇を結んで、近藤の傍らに座していた。
 心なしか、顔色が冴えなかった。
(……眠っていないのか)
 遅くまで居室の灯が消えていなかったのは知っている。迷いなどないように見えたが、実際には相当悩んだのかもしれぬ。それを他人に悟らせぬようにしているだけで。
(だとしたら、私が苦心惨憺した甲斐もあるのだが)
 しかし、単に別件で夜更かししたのかもしれぬ。私は、かなり臆病な気分でそう思い直した。
 もし土方にとって山南の処断が実は内心喜ばしいものであったなら……
 やはり、人ひとり死に追いやるべく暗躍してしまったことに対して、良心の呵責を覚えないわけには行かなかった。全てはいずれ国事の為と言い聞かせてはみても、目論見が外れてしまったら、骨折り損と片付けるには余りに重い結末になる。私が、監禁されている山南の許へ赴いて逃亡を勧めたのは、そんな思いがあったからでもあった。だが、山南は静かに、そしてきっぱりと、私の申し出を謝絶した。
「掟は掟。此処で逃げては、近藤先生の御高配にも背くことになる」
「……しかし」
「伊東君」
 山南はつと苦い笑みを浮かべて私の顔を見た。
「意識していないかもしれないが、君は、ある意味では、私を此処に到らしめた人間なのだよ」
 私は覚えず目をしばたいて、山南の顔を見返した。
「私が……?」
「君が私の書簡を皆の前で近藤先生に渡してくれたことは、沖田君から聞いた」
 山南の言葉は淡々として聞こえた。
「確かに私の頼みようも悪かった。土方君にだけは見せてくれるなとしか言わなかった。……だが、あれは近藤先生の手紙だったのだ。何も殊更に、皆の前で渡す必要はなかったのではないか……」
「……軽率だったと、思っています」
 私は潮垂れた体《てい》で顔を曇らせてうつむいた。
「ですからなおのこと、私は」
「その気持ちはわかるよ。だが、考えようによっては残酷な勧めではないかね。自分で陥れておいて、いざその段が迫ってみると後ろめたくなって逃げろと囁きに来る。……そう取られても、仕方がない」
「……そう言われても、仕方がないと、思います」
 低く、私は呟いた。
「そんな風に疑われてしまうのも、私の軽率さが招いたこと……何と言われても、甘んじてお受けしましょう」
 山南は暫く黙っていたが、やがて小さく息をつくと、ひとこと「由ないことを言った」と謝った。私は無言で一揖した。謝ることはないのだ、とは言わなかった。言えなかった。
(全ては、国事の為だ)
 強く、己に言い聞かせる。国事の為には、新選組をこの手中に収めねばならぬ。新選組をこの手中に収める為には、副長土方歳三を私のものにせねばならぬ。土方を私のものにする為には、この山南のみならず、邪魔な存在は全て除かねばならぬ。
 ――と、山南が表情を動かした。驚きとも訝りともつかぬ動揺が、淡々としていた筈の顔をこわばらせた。
 私は振り返った。
 振り返って、思わず目をしばたいた。
 己《おの》が目の捉えたものを、見直す。
 土方だった。
 私と山南のいるこの一室へと続く廊下に、土方が佇んでいた。
(……報われた……!!)
 そう思った。
 土方は、此処へ来ようとしているのだ。だが、私が来ているのを見てひとまず足を止め、私が立ち去るのを待っているのだ。唇に上ってくる笑みを、私は、抑えられなかった。嫌なことを言われて不愉快な目に遭うとわかっている相手の所へ、何故敢えて土方は来ようとしているのか? 答は簡単。たとえ不快な思いをさせられてしまってさえも、最後に一度、会って話をしておきたいと考えたからだ。
 土方は、山南を失うことを、本心では決して望んでなどいないのだ。
「……伊東君、もういいだろう。座を外してくれ」
 ややかすれた声に向き直ると、山南は、土方の佇む方から顔をそむけていた。
 私は黙って一礼すると、立ち上がり、部屋を後にした。そして、不自然なほどの無表情で佇んでいる土方の方へと歩いていった。
 歩み寄る私を、感情を窺わせぬまなざしが、見るともなく見る。
「……土方さんがいらっしゃるとは思いませんでしたよ」
 その横合を会釈と共に抜けながら、私は、呟いた。
 本当に、思いもしなかった。あれだけ平然として見えた土方が、この期《ご》に及んで山南に会いに来るなど、予想もしなかった。
「そうおっしゃる伊東先生[#「先生」に傍点]は、山南君に逃亡でも勧めていましたか」
 皮肉っぽい声に、私は唇を引きつらせて振り返り、土方の背中を見た。
 この男が、他の人間のいない場所で私に向けて使う“先生”に潜む言い難い毒針は、どうせ嫌われているのだとわかっていてさえも、心に突き刺さってくる。
 心に受けた傷を隠そうと、私は殊更に含み笑った。
「流石は土方さん、お見通しというわけですか。その通りですよ」
 謝絶されてしまいましたがね、と言うと、土方は低い呟きを洩らした。
「山南君に感謝することですな。山南君が先生[#「先生」に傍点]の勧めで逃げたとなれば、先生[#「先生」に傍点]にも腹を切っていただかねばならなかったのですからな」
 警告のつもりだろう。機会さえあれば、お前の腹など喜んで切らせてやるのだぞ、と。
(そう易々と、隊規の贄《にえ》にはされませんよ)
 私は唇を笑いの形に歪めると、静かに応じた。
「肝に銘じておきましょう」
 言って、場を離れる。土方が山南と何を話したいのか、気にはなったが、まさか盗み聞きも出来まい。充分とは到底言えぬものの、己の悪行が決して無駄ではなかったようだ、と察し得ただけでも、良しとしよう。
 ……どの道、もはや引き返せはしないのだから。

 土方は山南の切腹に立ち会わなかった。
 山南の方が拒んだ――らしい。
 私は、立ち会った。
 それが責任というものだ。己《おの》が手でそこへ追いやった以上、この目でしっかり見届けねば、余りに薄情ではないか。
(……土方があなたを待っていたのが、いけなかったのだ)
 己の腹に突き立てた脇差を引き回す山南の手許を見つめながら、私は、裡にひとりごちる。
(そうでなければ、私とて)
 介錯を務める沖田の振り下ろす白刃《はくじん》が、目に焼き付く。
(……私とて、此処までしようとは、思わなかったものを)
 全ては国事の為か。
 何と――何と空々しい響きの言葉に思えることか。
 全ての終わってしまった部屋から外に出ると、日は既に空になかった。私は暫くその場でぼんやりと、空の茜を眺めて佇んだ。
(今更、悔いてどうする)
 そんな思いがよぎる。
(済んでしまったことなのだ)
 気が付けば、他の者は皆立ち去っていた。私はひとつ息をつくと、居室へ戻るべく歩き始めた。
 途中で、土方とすれ違った。
 私は会釈したが、土方は頷きもしなかった。いや……私のことなど目にも入っていない様子だった。
(……どうしたのだ)
 思わず足を止めて振り返る。玄関へ向かっているらしい背中と足許が、気のせいか、奇妙に心許なく見えた。
 外出するのだろうか。
 それにしては二刀も差さず、羽織も着ていない。
 私はそっと踵《きびす》を廻《めぐ》らすと、足音を忍ばせてその背中を追ってみた。
 土方は私に気付いた風もなく、草履を突っかけて玄関を出た。そしてそのまま、すうっと屯所の門を出ていってしまった。
 やはり、外出しようとしていたのだ。
 だが、こんな時に、刀も持たず、供も付けず、誰にも外出を告げず、一体何処へ行こうというのか……
(よもや?)
 ハッと閃いた考えに、私は急いで自分も草履に足を入れた。
 屯所の門から土方の出ていった方角を窺いやる。土方の背中は丁度、角を南へ――壬生寺の方面へ折れてゆくところだった。私は逸る心を抑えて門を滑り出ると、距離を保って、その跡を追った。
 土方は一度も振り向くことなく、やがて、壬生寺の大門の前を過ぎ、角を西へ曲がり、更に少し歩いた所にある南に面した寺門の辺りまで辿り着いた。
(――やはり!)
 私は、沸き立つような思いに身を震わせて、共同墓地へと足を踏み入れる土方の姿を見守った。やはり、昨日の老女が話していたのは、土方のことだったのだ――
(いや――待て)
 私は唇を湿した。断定するのは早過ぎる。この目で確かめなければ。
 小走りに近い足で、墓地の入口へと急ぐ。
 そして、用心深くこっそりと、昨日訪れた芹沢と平山の墓のある方を覗き込む。
 土方はそこにいた。
 そこに佇んで、じっと、墓石を見下ろしていた。
「芹沢さん……山南先生がそっちへ行ったろう?」
 聞いたこともないような弱々しい呟きが、その唇を動かす。私はその場で息を潜め、全身を耳にして、土方の言葉を聴き取ろうとした。自分が今どんな場面に立ち会おうとしているのかを、瞬時で、悟ったからだ。
「俺だって、死なせたくて死なせたわけじゃねえ……だけど、どうしようもなかった……」
 土方の声が、痛々しいほどの震えを帯びて届く。
 私は、殆ど歓喜に近い昂りに囚われた。それが本音か。私や他の者の前では決して吐こうとしなかった、それが、あなたの本音なのか。
「なあ、芹沢さん、鬼になるには此処までやらなきゃならねえって思ってみたって……おまけに……とうとう近藤さんの口から、嫌なことを言わせちまった……あんたをこの手にかけた時だって、古高の奴を尋問した時だって、俺ァ近藤さんの手だけは汚させまい、あの人にだけは綺麗なまんまでいてもらおう、そう考えてたんだ……なのに……どうしてこんなことになっちまったんだ……」
(私が、そうなるように仕向けたからですよ)
 ぞくぞくするほどの昏い悦びに心震わせながら、私は、声に出さずに呟いた。
 土方の独白は続く。
「俺ァ山南先生を嫌ってなんかいなかったし、山南先生だって、少なくとも京に来るまでは俺を嫌ってたわけじゃねえ筈なのに……何処でこうまで、こじれちまったんだ……俺が鬼になったからいけねえってのか……? 芹沢さん……あんたなら、どう言ってくれた? あんたの時のように、鬼になれって、言ってくれたかい? これで良かったんだって、言ってくれるかい……?」
 そこまで呻くように呟いたかと思うと、彼は、やおらその場に片膝を落とした。そして、まるで縋り付くように墓石に両手をかけ、左耳を押し当てながら、故人の声を聞こうとするかの如く両目を閉ざした。
 私は危うく、自分の立場も忘れて彼に駆け寄りそうになった。
 何と――何と弱々しく痛々しい姿だろう。
 この男は、こんな所でしか、死んだ人間相手にしか、生身の自分を曝すことが出来ないのだ。
 昂り震える心を抑え切れず、私は、大胆にも、跪く土方の背後へと忍び寄っていった。周囲に気を配る余裕を完全に失っている相手の背に回り込むのは容易かった。
(抱き締めてやりたい……!)
 そんな、衝動にも似た思いを胸に覚えた時、土方が身じろいだ。流石に息を呑んで足を止めた私に、しかし彼はやはり、まるで気付かなかった。
「……そうだな……もう終わっちまったことを訊かれたって、困るよな……」
 苦笑気味に呟いて墓石から耳を離し、両手を合わせる。多少なりとも落ち着きを取り戻したというわけだろう。
(しかし……謎だ)
 私もまた、少し落ち着きを取り戻していた。やや丸くなっている土方の背中を眺めながら、思いを巡らし始める。
(どうして芹沢なのだ?)
 どう考えても結びつかぬ。何故、土方は、死んでしまっているからこそではあろうが、新選組の名を辱めていたような男に、此処まで脆い自分を曝け出すことを許すのだ。些かどころかかなりの嫉妬混じりに、私は、墓石を睨み据えた。
(一体お前は土方の何なのだ)
 許せない。
 彼は、私が手に入れるのだ。
 他の誰にも、渡してたまるものか!
 卒然煮え滾《たぎ》った情念の余りの昏さ激しさに、私は自分でたじろいだ。
 おかしい……
 どうしたのだ……
 一体何なのだ、この物狂おしさは?
 惑乱する私の目の前で、項垂れ合掌していた土方が顔を上げる。
「……それじゃあな、芹沢さん、また、その内、来るよ」
 墓石に手を触れておいて立ち上がるその姿を見た瞬間、私はハッと我に返った。
(――えい、儘よ)
 咄嗟に腹を括る。どの道、今更隠れられるものではなし、同じ見付かるなら、とことん開き直って、逆に相手を揺さぶってしまえ。私は唇に薄い笑みを湛えると、相手が振り返るのを待ち受けた。
 無防備過ぎるくらい無造作に、土方は身を返した。
 途端、跳びあがったかと思われるほどビクッとして、そのまま場に凍りつく。一挙に血の気を失った端整な顔の中で、いつもはあれだけ冷然と落ち着き払っている目が、愕然と見開かれて、私を凝視した。見る見る紫色と化した唇が、引きつるように震え、いたずらに何度も開閉する。すぐには言葉の糸も紡げないほどの衝撃を被ったに違いない。
 自分が完全に優位に立っていることを、私は、確信した。
 不思議なもので、そう確信してしまうと、余裕が生まれた。何と言い、どう振る舞えば、目の前の男を揺さぶり苛むことが出来るだろうか……そんなことさえ考え始めていた。
「……やはり、土方さんでしたか」
 ゆっくりと口を開いて、語りかける。
「多分そうではないかと思っていたのですよ。……昨日初めて、山南さんの書簡で芹沢という人のことを知りましてね。聞いてみれば、水戸の人だという」
 同国人とて挨拶に訪れたところで出会った老女からあなたと思《おぼ》しき男の墓参りの話を聞き、疑問には思ったものの今し方屯所をひとりでそっと出てゆくあなたの姿を見たので跡を付けてみたのだ――と説明してやると、土方の顔面は、蒼白を通り越して土気色に染まった。
 私は笑みを深めた。己の言葉がどれだけ相手を揺さぶり得ているかを即座に見て取れるのが、たまらなく心地好かった。
「……どうしました? 随分と顔色が悪い。見聞きされては困る類《たぐい》のことだったのですか?」
 困る類のことだったに決まっている。山南を処断したくなかったという本音、芹沢という男への何やら特別な思い……そういえば土方は墓に向かって「あんたをこの手にかけた時」と言っていた。……成程、長州人に暗殺されたというのは表向きで、実際には土方が粛清の刃《やいば》を闇で振るったわけか。ありそうなことだ。……しかしそれならなおのこと、土方が墓参する理由がわからぬ。自分が闇討ちした相手の霊を鎮めようとしている……のとは違う気がする。言ってみれば、故人と話をしに来ている……という感じだ。
 何故、土方は、自分が粛清の刃にかけた筈の男に、あんな姿まで曝して語りかけに来るのか。
「なかなか興味深い話でした。改めて、ゆっくりと聞いてみたい部分もあります。……それにしても」
 私は、まだ凍結したままの相手の姿を舐めるような目で見つめやりながら、呟いた。
「その顔の引きつり様は只事ではありませんね」
 頃良しと見て、歩み寄る。土方は今迄決して、私を側に近付けなかった。常に必ず、一定以上の距離を置こうとしていた。具体的に言えば、二歩以上。一杯に手を伸ばせば届くだろうが、ちょっと手を伸べたぐらいでは届かない距離。並んで歩く時でさえ、私がさりげなく寄ると、同じだけ離れた。今も――偶然ではあるが――彼我の間には二歩以上の距離がある。その距離を、私は、一歩未満にまで埋めたかった。相手が凍てつき動けないでいる、今の内に。
 果たして、土方は一歩も後退出来なかった。
「……何故、そうまでして自分を殺すのです、土方さん」
 縮めた距離の分、私は相手の内面に踏み込んだ。冷たく閉ざされているその心の扉をこじ開け、囁きを吹き込まねばならぬ。
「あなたは本当は鬼などではない。俳句も和歌も嗜むし、故人を悼むことも知っている。それなのに、あなたは、隊士達に恐れられ憎まれることばかり自分が引きかぶり、笑顔のひとつも浮かべず、愛嬌のかけらも見せようとはしない……」
 それは全て新選組の為か?
 不意に、また、私の心を昏い情念が衝いた。
 本当にそれだけ[#「だけ」に傍点]か?
 本当に、新選組という集団を維持するだけの[#「だけの」に傍点]為に、あなたはこんなに傷だらけになっているのか?
『とうとう近藤さんの口から嫌なことを言わせちまった……』
『近藤さんの手だけは汚させまい、あの人にだけは綺麗なまんまでいてもらおう、そう考えてたんだ……』
 そうなのだ[#「そうなのだ」に傍点]
 そんなことはわかっていた[#「そんなことはわかっていた」に傍点]。そんなあなたの気持ちなど、見えない私ではない。だからこそ[#「だからこそ」に傍点]、私は、局長が[#「局長が」に傍点]その処分を言い渡すしかない[#「しかない」に傍点]総長を狙ったのだ。
 あなたが本当に大切に思っているのは、新選組ではない。
 近藤が頂点に立つ[#「近藤が頂点に立つ」に傍点]新選組なのだ。
 あなたが鬼面の下で傷を負いながらそれでもなお己を鬼たらしめんと律するのは、全て、近藤の[#「近藤の」に傍点]為なのだ。
「……そこまでして立てたいほど、近藤先生に惚れ抜いているというわけですか」
 男色の恋は知らぬ。
 だが、もしもこのふつふつと煮え滾《たぎ》る昏い情念が一時《いちじ》の狂気でないならば、私は、目の前の男にそこまでさせてしまう近藤という男に、殺意にも似た嫉妬を覚えている。
 それは取りも直さず、目の前の男への恋着が私の中にあるということではないのか。
(……馬鹿な……私にそんな嗜好がある筈が……)
 男と寝てみたことが、ないとは言わぬ。だがあれは酔いに任せての戯れに過ぎぬ。相手の情に絆されたのもあるが、それ以上に、好奇心からだった。酔いが醒め、正気に返ってみれば、何と軽率なことをしたものかと後悔したくらいだったのだ。
 なのに何故、目の前の男は、私をこんな物狂おしさに陥れるのか。
(……まさか、この男は……!?)
 ふと、突拍子もない思いが、私の心を掻き乱した。
 既に誰かと念縁を結んでいるのではあるまいか?
 縦《よ》しそうでなくとも、誰かから念縁を迫られたことがあるのではないか?
 これだけ整った容姿の男なのだ。その道[#「その道」に傍点]の趣味のない筈の私でさえこんなに物狂おしさを覚えてしまうほど、奇妙な色香を潜めているのだ。私のような物狂おしさに取り憑かれて言い寄った男のひとりやふたり、いてもおかしくない。いや、いない方がおかしい。
 そうでなければ、狂気に冒された愚か者は、私ひとりだけだということになってしまう。
 私がおかしくなったわけではない。
 この男が、私をおかしくしているのだ。
 そして恐らくは――
 私は、土方の後ろの墓石に一瞬視線を投げた。
「……伊東先生[#「先生」に傍点]の知ったことではないでしょう」
 やっと、土方が物を言った。呻きに等しい、押し潰された声で。
「大体、先生[#「先生」に傍点]は、何だってそう私のことを嗅ぎ回るような真似をするんです?」
 嗅ぎ回る……
 土方は、私が彼のことを知ろうとして色々と周囲の者に語りかけていることに、気が付いていたらしい。だが、その理由にまでは、思いが及んでいないようだ。
 当然だ。私でさえ、その真の理由に思い至ったのは、たった今し方なのだから。
 教えてやるべきか。
 それも一興かもしれぬ。
 この男は私を嫌っている。その嫌っている人間に、見られてはならぬ弱さを見られ、聞かれてはならぬ嘆きを聞かれ、知られてはならぬ秘密を知られ、それだけで此処まで動揺し抜いている。その上に更に、その男から歪んだ情念のまなざしを向けられていることを知ったなら、どんな表情を見せてくれるだろう……
「……それこそ、土方さんの知ったことではない、と言いたいのですが」
 私は、昏い期待に心躍らせながら右手を上げると、相手の頬に触れた。
 反応は予想を遙かに越えて凄まじかった。
 払いのけるというよりは振り払うといった勢いで、土方は私の手をはねのけ、はねのけざまに飛びのいたのだ。
 引きつり青ざめた顔。肩で息するその姿。
 頬に手を当てられた程度で、そこまで拒むものか?
 私は含み笑った。間違いない。この男には、この程度でも過剰に反応してしまうほどに強烈な、その道[#「その道」に傍点]の体験がある。決して好ましくも嬉しくもない、ひょっとしたらおぞましく恐ろしくさえあったかもしれぬ、体[#「体」に傍点]験が。
「……なかなか、過敏ですね。どうやら、私の勘は捨てたものではないらしい」
「勘……?」
「男色者に懸想されたことがあるでしょう」
 淡々と指摘してやると、土方はギクリと体を震わせた。
「……私にそんな趣味はない」
 それはそうだろう。
 趣味がないことぐらい、あの拒絶反応を見ればわかる。
 もっとも、その趣味がなくとも、あれだけ過敏なら、馴らせば[#「馴らせば」に傍点]逆に結構いけそうだ[#「いけそうだ」に傍点]とも思うのだが。
 指先に残る相手の頬の感触を思い返しながら、私は考えた。
 この男を手に入れようとするなら、私自身、ない趣味への抵抗を乗り越えてでも、この男を抱いてしまうべきではないか。それこそ私の手でその道[#「その道」に傍点]に引きずり込んでやれば、この冷たくつれない男とて、そうそう無下に私を突っぱねることは出来なくなるのでは……
「趣味のあるなしではない。想いを向けられた――いや、もっと言えば、念縁を迫られたことのあるなしですよ」
「馬鹿な……」
「ある筈ですよ。でなければ」
 かすれ声で否定しようとする土方に反論を許すことなく、私は畳み掛けた。
「普通ああまで激烈には反応しない。それに……もうひとつ私がそう信じる理由がある。……私には、初めて土方さんにお目にかかった時から、いや、それ以前に江戸で近藤先生や藤堂君などからあなたについての話を聞いていた時から、奇妙な予感があった」
「奇妙な……予感?」
「自分が、あなたに特別な目を向けてゆくのではないか……断わっておきますが、私にも男色の趣味はありませんよ」
 今迄のところはね――私は裡に向けて呟いた。
「それなのに、あなたの存在が気にかかって仕様がない。容姿も確かに人を惹き付けるものがあるが、それ以上に、その裡に潜む光と影とが、そうやって冷酷厳格な副長という鎧兜で装っていてさえも、奇妙なくらい私の心を捕えて放さない。まるで、自分がある種の恋に取り憑かれてしまっている気さえする」
 そうだ――私はまたも裡に向けて呟いた――私は、ずっと、恋をしていたのだ。実際に出会うより前から、この男に恋をしていたのだ。夢に見た冷たいまなざしに魅入られた時からもう、私は――
 江戸を発つ前から既にあれほどに土方歳三という名の男に興味を抱《いだ》いてしまったのは、あの夢に見た美男子こそが土方なのだと、魂の奥底で気付いていたが故のことではあるまいか。
 くどいようだが、私は男色の恋など知らぬ。
 だが、その筈の私が、現実に、恋としか言いようのない物狂おしい想いに囚われている。
 私だけとは、思えない。
「だから、きっと私以外にも、こんな奇妙な物狂いに取り憑かれてしまった者はいる筈だ、いや、いない方がおかしい、と考えていたのですよ」
 この男の普段見せる冷然と人を見下すようなまなざししか知らぬ者では、此処までの情念は持てぬかもしれぬ。近付こうとする者を射るような冷ややかな目の前に立てば、一見線の細い優男に見えるこの美男子が実は並々ならぬ強靭な精神の持ち主であるということは、嫌でも知れる。生半可な興味で寄っていったら命はないと思わせる雰囲気さえあるこの男に、敢えて想いを懸ける甲斐はない――多分、それが、男色の趣味持つ者の大方の目であろう。だがしかし、その冷厳さの奥に潜む温柔さ、毅《つよ》さの陰に隠れている脆さ危うさ、それらをふと垣間見てしまったなら、どうだろう――私のように、いや私以上に、この男に惹かれ狂ってしまうに違いない。
「どうです……私の勘が正しければ、さしずめ、そこに眠っている、あなたが手にかけたとかおっしゃっていた人辺りが、そうだったのではありませんか?」
「だ、黙れっ――」
 殆ど声になっていない唸りが、土方の唇を衝いた。
「てめェの――知ったことかっ」
 動揺に次ぐ動揺で、すっかり冷静さを失ってしまったらしい。言葉遣いが崩れ、剥き出しになった感情が全身を震わせている。私は、総身を突き上げてくる昏い歓喜に喉を鳴らした。これが見たかったのだ、と思った。私の言葉ひとつ態度ひとつに心乱され、日頃の抑制も忘れて、生身の姿を曝け出す、その有様が……
「……図星を指してしまったようだ」
 笑いながら、私は相手に歩み寄った。
「もっと聞かせてほしいですね、その方とのお話を」
「黙れ――俺に近寄るんじゃねえッ!」
「……そうやって感情を剥き出しにしているあなたが、私は好きなんですよ」
 私は足を止めて、言った。彼我の距離は一歩――手を伸ばせば容易に届く距離。
「私が見たいのは、生身の土方さんです。だから私は、あなたが自分の感情を殺せなくなるほどに動揺している姿に出会うと、ひどく嬉しいのです。それこそ、鳥肌の立つほどの悦びを覚えるのです。……どうせ笑顔を向けてもらえる筈もないなら、せめてあなたの人知れず苦しみもがく姿を見たいと思ってしまう」
 土方の表情が、氷の羽毛に撫でられたかのように凍りつく。私の一言一句がまとう昏い情念の毒に当てられ、声も出ないのだ。私はいよいよ笑みを深めた。
「今日はまさに、上洛以来最高の日ですね。こんなにも間近で、今度の山南さんの処分についてのあなたの本音を聞けたばかりか、どうやら他人にはどうあっても知られたくはないらしいあなたの心の秘密の一端をもつかむことが出来たのですから。……けれど心配はいらない。私は、今日見聞きしたことを他言するつもりはさらさらありません。そんな勿体ないことをするものですか」
 私は、もはや心身の自由すら保ち得ず、完全に痺れ果てた体《てい》で立ち尽くす土方の姿を、女を品定めする時のような目で舐めた。
 この男は私のものだ。その身も、心も、才覚も、弱みも秘めごとも、みんな、私だけのものだ。
「誰にも渡しませんよ」
 この男のこんな姿を見る愉悦を味わうことを許されるのは、この私、伊東甲子太郎ひとりのみでなければならぬ。
 渡して、なるものか。
 この至上の悦楽、断じて、余人に渡してたまるものか。
「私だけの愉しみにしたいのでね」
 低い笑いと共に、私はすうっと、両手を伸ばした。残りの一歩の距離を埋めながら。
 ひどく呆気なく、土方の体は私の両腕の檻の中に囚われた。
 囚われて初めてギョッとなったように硬直する体を、私は、しっかりと己《おの》が身に引き寄せた。一旦捕まえたからには、そう簡単には放さぬ。丁度すぐそこにある相手の左耳に向けて、私はゆっくりと、囁きの吐息を吹きかけた。
「いずれは……あなたの全てを奪って、私のものにしてみせる」
 低く、熱く、言葉を注ぎ込む。
「そうでもしなければ、もう、この物狂いは治まりそうにもない……追い込み、追い詰めてさしあげますよ。あなたが耐えられなくなって私の前に跪くまでね」
 抑え切れぬ欲情がこみ上げて、声がわずかに震えた。私は相手の首筋に唇を押し当てると、そのまま強く吸いつきたい衝動はからくもこらえて、その代わり、ゆっくりと這い上らせた。流されてはならぬ。相手と一緒に流れてゆくならまだしも、自分ばかりが先走ってしまっては、相手を流れに引き込むなど出来はしない。むしろ相手を流れに突き落とし、溺れさせて楽しむくらいの気持ちでいなければ……。
(そうでなければ、ただ色欲に衝き動かされて相手を貪る野人と変わらないではないか)
 私は、この男の肉の身を欲しているわけではない。
 私が欲しているのは、この男の存在そのものなのだ。
 肉の身は、その一部分に過ぎない。
 ……一部分ということは、含まれているということでもあるが。
 一層激しく硬直する相手の身の緊張を快く感じつつ、私は、這い上らせた唇で相手の耳たぶを挟んだ。相手はビクッと体を震わせたが、逃げようとはしなかった。
(……意外だな。振りほどかれると予想していたのだが)
 取り乱して無様に逃げ出せば、私に笑われるだけだと思ったのだろうか。矜恃の高さが、これ以上動転の醜態を曝すことを許さず、逆に踏み留まって抗うことを選ばせたのかもしれない。
(勇気ある選択だが……)
 さて、いつまで抗えるか。
 折角なのだから、存分に楽しませてもらうことにしよう。私はそう決めると、そのまま相手の左耳朶をなぶりにかかった。その一点に想いを集めて、丹念に丹念に弄んでやる。ぐっと奥歯をかみ締めて耐える土方の体が、次第に小刻みに震え始めた。ごくわずかに身を反らし、首をねじるようにして、逃れるともなく逃れようとし始める。私は許さなかった。それどころかより強く抱き締め、その身の震えを自身の全身で味わえるようにした。
(逃げようとしたお仕置きですよ)
 裡に笑って、そっと耳たぶをかむ。相手の体がぴくんと反応する。白い首筋に、夕闇の中で見てさえもわかるほどの紅《くれない》が差している。食い縛った歯の間から洩れてくる息が、いつしか随分と早くなっている。
(……時間の問題だな)
 私は内心ほくそ笑むと、いよいよ丁寧にその耳朶を可愛がってやった。心をこめて揉み、歯を立てて苛み、慰めるように舌先でくすぐり、そしてまた……繰り返してやる内に、相手の息はますます早くなり、抑え敢えぬ呻きさえ混じり始めた。がっちりと抱きすくめている腕の中で、その全身が幾度も、一見不規則に大きく震える。一見……そう、傍目には不規則に映るだろう。しかし実際にはそうではないことを、私と土方とだけは知っている。……そら、また震えた。私がちょっと念入りにそこいらを舐めずってやるだけで、この哀れな虜囚はこらえ切れずに悶え苦しむのだ。
 密着した体が、熱いほどの火照りを帯びている――多分、お互いに伝え合って。
 しかし、土方は屈しなかった。
 幾度も力抜けそうになり、両膝もがくがくに震わせ、次の瞬間には崩れ落ちそうな様子を窺わせつつ、それでもなお、耐えて踏み留まった。喘ぎの声ひとつ洩らさず、あからさまな身悶えひとつせずに。
 これ以上は、私の方が保《も》たない。
 本気でこの男をどうにかするところまで突っ走ってしまう。
 流されてはならぬ。あくまでも、相手を屈服させる為の奥の手に留めておかなければ。
 後日の楽しみというものもあろう。
 私は最後にもうひと舐めだけ、ねっとりとした舌技《ぜつぎ》をかけてやった。そして、のけぞりそうなほどびくんと震えた相手の体から響いてくる鼓動の乱れを己《おの》が身で確かめた後で、ゆっくりと、耳朶から唇を離した。
「……なかなか強情な人だ」
 含み笑いながら呪縛を解いて自由にしてやると、土方は、わずかにふらつきはしたものの、しっかりと両の足を踏まえて、私を見た。物凄い顔だ。憤怒と嫌悪と屈辱に燃えるまなざし。罵倒の奔流が今にも飛び出してくるかと思わせる唇。
 だが、結局彼はひとことも物言わず、そのままぷいと私に背を向けて墓所から去っていった。
(……へたり込みたかったろうに)
 毅い男だ。
(だが、責め落とせぬほどではあるまい)
 ほんの戯れ程度のあれ[#「あれ」に傍点]で、へたり込む寸前になってしまうのなら。
 私は、傍らの墓石を顧みた。
「……ああ来なくては張り合いもない」
 殊更に呟いてみる。
「容易く落ちるような男では、後々《あとあと》役にも立たぬからな」
 唇を軽く舐めながら、私は思った。そうだ。いずれこの手に入れる新選組の要たる男が、そんなにあっさりと折れてしまうような不甲斐ない男では、困る。
「じっくり、責めるとしよう」
 私は、低く笑った。相手が手強ければそれだけ、手に入れた時の満足感も大きいというもの。あらゆる手立てを用いて苛み苦しめ、この手の中に転がり落ちてくるまでの過程を、楽しむことにしよう……。
 ひとしきり笑い、笑いが治まったところで、私はふと、改めてもう一度、傍らの墓石を見下ろした。
(……そういえば)
 この墓の一方の主は、土方と、何処まで行った[#「何処まで行った」に傍点]のだろう……
 あらぬ妄想が、いまだ快楽《けらく》の名残から醒めやらぬ心を捕える。
 随分と体格のいい、膂力も桁外れの男だったというから、その力に物を言わせてねじ伏せたのだろうか。あの男はどう抗ったのだろう。嫌がり逃れようとして果たせず、その逞しい腕の中に悶え、終《つい》には身も世もない悲鳴を喉に絡ませながら歓喜し果てたのだろうか。さっき墓石に縋り付いたように、その厚い胸に陶然と頬寄せたのだろうか。幾夜となく手ほどきされ、身も心も馴染んでいったのだろうか……
 とんでもない妄想だと嗤《わら》う理性が、遠い。
 あれだけ敏感な肌なのに、あれだけ必死に抵抗したのは、この墓の主とのその記憶[#「その記憶」に傍点]がいまだに忘られぬが為ではあるまいか。よりにもよってその男の墓の前で他の男の腕に抱かれて狂うてはならじと、意地を張り通したのではあるまいか……
(……落ち着け)
 私はかろうじて理性を引き戻した。そうだ。落ち着いて考えてみろ。土方はこの墓の主を殺したと自分で言っていたではないか。身も心も虜にされた相手を、どうして手にかけたりするものか……
 だが、妄想はやまぬ。愛憎半ばするということもあるではないか。もしかしたら、土方は誰か他に心に決めた相手がいたものを、その想いを果たせぬ内に無理矢理この墓の主のものにされ、身は否応なしになびきながらも心の底では殺意を滾らせていたのかもしれぬではないか……
(誰か……他に……だと……)
 私は呻いた。
 私の知る限り、土方がそんな風に[#「そんな風に」に傍点]心に決めそうな相手は、たったのひとりしかいないではないか。
 近藤勇。
 余りのことに、目が眩みそうになった。妄想に過ぎぬと頭で言い聞かせても、心が納得しなかった。土方は、近藤の為に、芹沢を手にかけたのだ。あれほどに敏感になるまでに夜毎可愛がられた身に憎みつつも芽生えていた愛着を鬼面の下に圧し殺し、元々恋しい相手の手ひとつに新選組の局長という座を与えようと、粛清の刃を振るったのだ。人知れず芹沢の墓へ参るのは、殺した相手にそれでも斜めならず心惹かれるところがあったからなのだ。
「……奪ってやる……」
 私は、濃紺の闇の底で歯軋りした。
 奪ってやる――
 絶対に奪ってやる――
 絶対にこの手で、奪ってやる!!


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