それは、春三月、新選組の屯所が壬生から西本願寺集会所へ移って間もない日の朝であった。
「──沖田君が行けなくなったとは──本当に行けなくなったのですか?」
 思わず問い直した私に、局長の近藤は嘆息したいような表情で頷いた。
 一両日中にも、副長の土方と助勤の沖田とが、新たな隊士を募る為に江戸へ下ることになっていた。隊士の徴募自体は昨年江戸に滞在している藤堂君が既に尽力してくれている筈だから、最終的な選考に携わる為の下向といったところであろう。或いは、上洛以来一度も江戸へ戻ったことのない彼らに対する「少しは休んでこい」という近藤の配慮なのかもしれない。
 だが、急に沖田が、「忙しくて都を離れられる状態ではなさそうだから」土方に同行出来なくなったという。
 客観的に見て、屯所移転のごたごたで多忙な土方ほどには忙しくない筈の沖田の「忙しい」は、明らかに口実だ。
 多分、沖田の側の土方への感情的な痼《しこり》が本当の理由ではないか。
 沖田は総長の山南と親しかった。山南もまた、自分の切腹の介錯を頼むほどに沖田を信頼していた。そのせいか沖田は、山南の処断後くは、山南の処分を実質的に押し進めた土方に対しては口も利かなかったようだ。
 一方の土方はといえば、屯所の移転交渉その他諸々事に完全に忙殺されていて──恐らく、山南の死を振り返りたくないが故に、忙しさの中へ己を無理矢理突っ込んでいるのだろうが──これまた沖田と言葉を交わそうとする努力も見せなかった。
 しかし、ふたりで江戸へ下るのにいつまでも口を利かぬではいられぬということからか、ようやく少しは話をするようにはなっているようだったが──沖田の側が、まだ何処か割り切れぬものを持っていて、土方と二六時中顔を合わせていなければならぬ旅には同行したくない、という気分なのだろう。
 しかし、沖田が同行せぬとなると……
「近藤先生、では、沖田君の代わりには誰を?」
「いや、実は、それを相談しようと思って、先生に来ていただいたのですよ」
 近藤は苦笑した。
「昨晩、土方君本人にも訊いてみたのですが、それならひとりで行くだけだと言うだけで、埒があかず……私としては、新選組としての体面上からも、隊士の徴募に副長ひとりだけを遣って当たらせるというわけにも行かないと思うのですが」
 ……よくぞ、私に相談してくれた。しかも、土方のいない場で。
 勝手なものだが、私は内心、近藤に感謝した。まず間違いなく、近藤の方には、土方に対する妙な恋着めいたものはないのだろう。私だったら、絶対、こんな好機を恋敵に与えるような真似はしない……
(……やれやれ、“恋敵”と来たか)
 私は、何となく苦笑した。
 我ながら、馬鹿なことを考えるものだと思う。土方に対する気持ちは、男色の恋と言い切れるものではない。確かに一時《いちじ》は狂気に等しい妄念に襲われて気を昂らせたこともあったが、私とて、己の目的を見失い果ててしまうほど愚かではない。私が手に入れたいと願っているのは、あくまで、新選組の副長としての土方だ。私にとって、土方を手に入れるというのは、新選組を手に入れる目的の為の手段、それ以外のものではない。
 目的と手段を、取り違えてはなるまい。
「……実際、土方君の妙な頑なさには、時々手を焼きます」
 私の苦笑をどう取ったのか、近藤は嘆息した。
「決して融通が利かないわけではないのですが、一旦自分がこうと決めたら、滅多なことでは考えを変えない。まあ、それは美点でもあるのですが」
「そうですね……しかし」
 私は、表面上淡々と頷きながら、言葉を継いだ。
「今回はそれでは通りますまい。新選組の副長たる者が単身で隊士の徴募に赴くとは、如何《いか》にも軽々しい」
「先生もやはりそう思われますか」
 近藤はちょっと嬉しそうに見えた。自分の意を酌み取ってもらえた、或いは賛同してもらえたと感じたのだろう。
 彼のこういう、人を欺くに向いていない正直な所には、私は好感を抱《いだ》いている。自分がそれをある意味で“利用”しようとしていることに、軽い罪悪感を覚えるほどだ。
 だが……今は付け込まねばならぬ。
「ええ、思います。他事ならともかく、隊士徴募の下向。軽く見られては、新選組の体面にも関わる」
「しかし土方君は一旦言い出したら聞かないし……ひとりで行くと言い切っているものを、勝手に他の助勤に頼んでも……どう説得すれば良いものか……」
「……では、私が同行しましょう」
 やや考えた風を装って、一番口にしたかった一語を紡ぐ。
「伊東先生が?」
 近藤は目を円くした。私に頼むという考えは頭になかったらしい。
「同行者が私なら、土方君を説得する必要はありませんから」
「そう……でしょうか」
 私が同行者ではむしろ嫌がるのではないか──と、流石に口には出さないが思っているのが如実に窺える表情で、近藤は首をかしげる。私は微苦笑した。
「確かに私は、土方君からは歓迎されていない人間ですが」
 さらりと口にすると、近藤はやや焦ったような色を浮かべた。
「いや、それは先生──」
「お構いなく。誰の目にも知れていることですよ。──だからこそ[#「だからこそ」に傍点]、土方君は拒めません」
「だからこそ?」
「拒めば、私情を優先させていると誰からも思われてしまう。土方君は、副長という立場上、自分が私情を優先させる人間だと隊士達に見られてしまうような言動は避けたい筈です」
 近藤は、ああと納得したような顔を見せる。
「……私も、昨年の上洛以来、一度も江戸へは下っていない。久し振りに藤堂君とも会って話がしたいし……誠にお恥ずかしいことながら、江戸に残し置いてきた妻の身も些か案じられる。もし此度局長に江府への下向をお命じいただけるなら、幸甚に存じます。無論、隊士徴募という本筋を忘れるような振舞は致しませぬ故」
 改めて“江戸下向を望む理由”を並べて軽く頭を下げると、近藤は頷いた。
「わかりました。お願いしましょう。……土方君の方は、何とか、説得してみます」
「いえ、説得ではなく、もう決めたことだという態度で出れば宜しいかと。何も前置きせず、『一緒に行ってくれ、もう向こうにも言った』と切り出して、とにかく頼むと押し切れば、多少の文句は言えても、断われない筈です。……騙されたと思って、お試しください」
 ……そして、私の献策の正しさは、その後わずか一時《いっとき》も経たぬ内に証明されたのであった。

 江戸下りの旅には結局、今ひとり、助勤の斎藤一《さいとう はじめ》が同行することになった。
 私とふたり切りになりたくない土方が、近藤に無理に頼んだらしい。
 だが、都合が悪い、とは言い切れなかった。──いや、ある面ではむしろ好都合でさえあった。
 斎藤君は局中屈指の剣客で、無骨者と見られがちだが、武辺一辺倒という人間でもないのか、私の語る思想や知識に意外に関心を持っているらしい。最近では、屯所でも、私が隊士達と話をしていると、輪に加わりたそうな様子を垣間見せて通り過ぎてゆく。この機会に少し色々と話をしてみて、味方とまでは言えずとも親しく話が出来る間柄になっておくのは悪くない。
 ……何より、土方が今回の旅の同行者に選んだほど信を置いている相手だ。もし土方から引き離すことが出来れば、土方にはかなりの痛手になる筈だ。
 果たして、旅が始まると、斎藤君は私の話を、土方の苦い顔を気にする風もなく、熱心に聞き始めた。土方は、明らかに不愉快には思っているものの下手に口を挟めば私と口を利く羽目になると警戒しているような表情で、全く干渉してこない。それをいいことに、私は、せっせと斎藤君と話を続けた。
 ……だが、自分がこの旅に同行した本当の目的は、勿論忘れてなどいない。
 土方から、彼とあの男[#「あの男」に傍点]──かつての筆頭局長芹沢鴨との関わりを聞き出すこと。
 しかし、何しろ話題が話題だけに他の隊士達の耳目のある場所では絶対に訊けぬし、第一、土方が、他人の耳目のある場所で己の秘事を喋る筈がない。
 だからこそ私は、この旅に同行したのだ。
 わずかな努力で容易《たやす》く彼とふたり切りになることが出来る、この旅に。
 生者と生者との関わり具合は、見ているだけでも、かなりの程度知ることが出来る。土方と近藤との間に“肉の身のつながり”がないことは──疑ったりもしてみたが──冷静に観察していれば知れる。しかし、生者と死者とのかつての関わり具合は、生者の側を見ているだけでは知ることは出来ない。もとより死者に問えない以上、生者の側、つまり土方から聞き出す以外に、知る術《すべ》はない。
 聞き出してどうするのかと?
 知れたこと。彼を手中にするには、その弱みも秘め事も全てこの手に握らねばならぬ。それで初めて、あの冷たくつれない強情な男を私のものにする為の揺さぶりを有効にかけることも出来るのだ。
 ……言い訳めいて聞こえるのは、気のせいだろうか。
 順調な旅の間、宿に落ち着き、床に就く頃になるといつも何故か、ぼんやりと、私は、そんな自問を繰り返していた。

 日数《ひかず》は過ぎ、江戸が近付く。
 京を出て以来、私は、全く何食わぬ顔で旅を続けてきた。土方との会話も敢えて必要最低限に止《とど》め、あの壬生の共同墓地での出来事などかけらも窺わせぬ態度で接してきた。その甲斐あってか、出立の時分には随分とぴりぴりしていた土方も、内心ひどく安堵している様子であった。
 だが無論、この旅を“無事に”終わらせてやるつもりなど、私には、さらさら[#「さらさら」に傍点]なかった。
「斎藤君、非常に申し訳ないのですが」
 明後日には江戸へ入れる計算となる小田原宿《おだわらじゅく》で旅籠に落ち着くと、私は、土方が厠へ立ったわずかな隙に、斎藤君に声をかけた。
「今晩、土方君と少々大事な話をしたいので、夕餉の後で暫く、座を外してもらえませんか。些か私的な話も絡みそうですし」
「承知しました」
 斎藤君は、特に詮索しようとする風もなく、淡々と頷いた。
「どのくらいの間、外せば宜しいでしょうか」
「そうですね……」
 朝まで邪魔をするなと言いたいところだが、そうも行くまい。怪しまれるようなことは避けたい。
「まあ、半時か、それから更に四半時、といったところで話も付くでしょう」
「わかりました。では、私はその間、腹を下して厠に籠もっていることに致しましょう」
 真面目腐った顔で言われて、私はつい吹き出した。なかなか機知に富んだ青年ではないか。
「いや……そんなに長く籠もられては、医者を呼ばねばならなくなってしまう」
 笑いながら、私はかぶりを振った。
「理由はなくても構いませんよ。ちゃんと後で、私が頼んだのだと話しておきますから」
 程なく土方が戻り、部屋に夕餉の膳と酒とが運ばれてきた。
 私は心持ち手早く目の前の膳に並ぶ品々を片付けると、「ちょっと失礼」と席を立った。酒が入ってしまう前に、目的の為にどう話を進めるかを、少しひとりで考えてみたかった。
 ……実は私は、酒に弱いところがある。いや、好きだし、かなりの量を飲めはするのだが、ある限度を超えた途端に、色々な事に抑えが利かなくなってしまうのだ。まず、飲む手が止まらなくなる。次に、言葉が止まらなくなる。また、感情の抑制が利かなくなって、頭が柔軟に回らなくなり、思考が膠着し、愚かしい考えに取り憑かれ易くなる。そして、最悪の場合、酔った勢いで不埒な振舞に及ぶことも、極度に少ないとはいえ、全くないではない……。
 無論、普段は、気を付けて抑え気味に飲んでいる。だが、今日は、箍が外れそうな予感があった。いや、外してもいいと心の片隅で囁く声があった。
(……箍が外れて絡むぐらいの方が、土方を困らせるには丁度いい)
 が、それは話し始めてからのことだ。そうなってしまう前に、話の運び方程度は考えておかねば。
 恐らく、土方は自分から話しかけてくることはないだろう。となれば、私の方から話しかけねばならぬ。どうやって、芹沢の話題へと引きずっていこうか……。
 部屋に戻ると、ふたりの食事も粗方終わっていた。私は手酌で自分の盃《さかずき》を満たすと、黙って飲み始めた。取り立てて美味とは言えぬが、不味《まず》くもない。これなら、淡々と飲み続けることが出来そうだ。
 やがて、一番最後に食事を終えた斎藤君が、実にさりげなく腰を上げた。
「少々失礼を」
 とだけ口にして軽く頭を下げ、静かに退出する。
 私の右手《はす》向かいに座っていた土方は、黙ってそれを見送っていたが、障子が閉ざされてしまうと今度は、自分の右手側に開《ひら》けている窓の方へふい[#「ふい」に傍点]と目を向け、無言で盃の縁《ふち》を舐め始めた。その表情には、特段の変化は見られない。が、決して平常心ではないことは、自然な姿勢を取っていれば必ず視界に入る筈の私の姿から無理矢理視線を外しているところから容易に知れる。
(……何を考えているのだろう)
 目を無理にそらしている分、頭の中は私のことで一杯かもしれない。閉ざされた部屋の中でふたり切りという状況に落ち着けず、早く斎藤君が戻ってきてくれないかと内心焦っているかもしれない。
(もし、そうだとしたら……待っても無駄なこと)
 私が思わず喉を鳴らして笑うと、土方はわずかに体を揺らして私の方を見た。
 ……視線を他所《よそ》へ向けていながらも、私の様子は窺っていたらしい。反応が素早過ぎる。
「いや……失礼」
 含み笑いながら、私は、相手に声をかけた。
「今、土方さんを見ながら、この男は一体今どんなことを考えているのだろう、と色々想像している内に、つい、おかしくなってしまってね。……何を考えていらっしゃったのです?」
 土方は再びそっぽを向いた。
「……御想像にお任せしておきますよ」
「相変わらずつれないお方だ。……折角斎藤君に無理を言ってあなたとふたり切りで差し向かいになる機会を拵えたというのに、そう窓の外ばかり眺められては、私としても意地悪のひとつもしたくなってしまう」
 土方は、じろりと私の顔を白眼で切り、左膝許に脇差を引き寄せた。「意地悪」の意味するところは察している、寄れば斬るぞ、という無言の意思表示。私は苦笑を洩らした。
「……わかっていますよ。私とて奥の手はそうそう使いたくない。やはり基本的には、抵抗がありますのでね」
「賢明ですな」
 呟いて、土方は盃を干す。私は少し身を乗り出すようにして自分の銚子をすっと差し伸べた。一瞬断わろうかどうしようかという表情を閃かせた土方は、しかしそれも大人気《おとなげ》ないと思ったのか、黙って盃を差し出し、私の勧酒を受けた。
 私は、うっすらと微笑んだ。
「けれどもね、土方さん。あなたなら、抱いてみても面白いかなという気もする」
 狙いすまして投げかけた台詞に、土方は危うく盃を取り落としそうになるほどビクッと震えた。
「……私は面白くありませんね」
 半ば潰れかけた呻きが返る。
「戯れも大概にしていただきたいですな。私にも我慢の限界というものがある」
「これは心外」
 私は微笑を深め、自分の盃を干した。
「私は至って本気ですよ、土方さん」
 巧く話の流れを作った手応えを感じつつ、手酌で自分の盃を満たす。
「この手の話題になると、山南さんの処断にも眉ひとつ動かさなかったほど“冷血漢”の筈のあなたの表情顔色が、実に楽しいくらい揺れ動く。余程強烈な思い出があるのでしょうね、あの墓の主との間に」
 土方の瞳が、青黒い焔《ほのお》を帯びて私を見据えた。
「……その話はやめていただこう」
 厳然とし過ぎるほどに厳然とした、冷たい呟き。
 他の誰に知られたとしても貴様にだけは断じて教えたくないのだ、という、言葉にされていない筈の言葉が、不思議なほどハッキリと伝わってくる。
 胸の奥で、昏い情動が動いた。渦を巻き、胸を焼く、嫉妬にも等しい思い。
 苦しい。
 息が。
 昏い情動に、胸を締め付けられて。
「……成程、随分と大切な人だったわけですね」
 かろうじて笑みを浮かべたままで応じた声が、わずかに震える。
 土方は、冷たい笑いを刻んで目を伏せた。
「とんでもない……妙な誤解はなさらないでいただきたいものですな。私は、先生[#「先生」に傍点]のおっしゃった通りの冷血漢ですからね」
 何を今更。
 私は心中に呟いた。あの壬生の共同墓地であれほど弱さ脆さを曝け出していた相手に、そして今私に話すことを拒むほどの相手に、何の思い入れもない筈がない。第一、あなたが幾ら自分は冷血漢だと主張したところで、あの姿を見た私に通じると思うのか。
 ……私に対しては、確かにあなたは冷たいけれども。
「あと、私を妙な目で御覧になるのもよしていただきたい。何度だって言うが、私にはその道[#「その道」に傍点]の趣味はない。趣味も嗜好もない話を仕掛けられて、嫌がらせまで受けて、迷惑しない人間がおりますかね」
 ……自分から話題にしてまで“やめろ”と言うとは、余程あれ[#「あれ」に傍点]が応えていると見える。
「つまり、私がその手の言動を取るのが迷惑だと?」
「上に“大”が付くくらいにね」
「そうですか、それは嬉しいですね」
 私は、くくくと喉を鳴らして笑った。
「それでは私は、あなたを手っ取り早く困らせる手立てをひとつ確実に持っているというわけだ。手の込んだ揺さぶりをかけるのも、それはそれで楽しいのですが、言葉ひとつ行為ひとつで動揺する姿を見ることが出来るというのも悪くない」
 空にした盃に手酌で注《つ》ぎながら、言葉を続ける。
「ねえ土方さん、私はね、どうしてだか最初からあなたには嫌われている。そのくらいはわかっていますよ。初めはね、焼餅かなと思った。近藤先生を私に取られたという感じでのね。けれどその内に、それだけではないとわかった。私の存在そのものがお気に召さないらしい……」
 段々と愚痴めいてくるのは、何故だろう。まだ胸の奥を苛み続けているような気がする昏い情動のせいだろうか。
 それとも、そろそろ、酔いが限度を超えたのか……
 ……はて。
 今自分が飲んでいるのは、何杯目だったか。
 ……思い出せない。
 飲み始めてそうは経っていない筈なのに、自分ひとりで空にした銚子が少なくとも二本はあるような気がする。斎藤君が手を付けずに行った分にまで、手が出ている。……ということは、“幾らこの場にいないとはいえ他人の酒まで飲むものではない”という当然の配慮が出来なくなっているということ、すなわち、酔いが限度を超えたということか。
 思いながら、また新たな銚子に手が伸びてゆく。
「ねえ土方さん、山南さんさえ戻ってくれば伊東になんか大きな顔はさせない、と、あなたが考えていたことなど、私にわからなかったと思いますか? よくわかっていましたとも。ええ……自分でも嫌になるくらい、見えていましたとも。ええ……」
 言葉が止まらない。注《つ》いでは呷《あお》り、呷っては注《つ》ぐ、そんな感じで飲み続けながら、言葉が止まらない。
 ……止める気もないが。
「だからね、私は……もうそれならばいっそ、そこまで邪慳に扱われるならいっそ、私の力の及ぶ限り……持てる全ての力を尽くして、あなたを……」
 抑え難い衝動のままに呟きかけて──
 私は、ふっと口をつぐんだ。
 土方が、殆ど凝視に近いまなざしを、私に向けている。
 私の方をまともに見ようともしなかった筈の相手が。
 見返されたことで我に返ったか、土方は慌て気味に目をそらす。
「……珍しいですね。土方さんが私の話に関心を示してくれるとは」
 私はその表情をじっと見つめながら、静かに口を開いた。
「いつもはそっぽを向いて、少しも耳を傾けようとはしないのに。どうやら、私の話の何処かしらに、あなたが耳を引かれてしまうような箇所があったようですね。何処ですか」
「……単に、よく動く口だなと眺めていただけですよ」
 誤魔化しにもなっていない台詞だ。……もっとも、言った土方当人もそう思っている。目をそむけたままの横顔が、その内心を物語っている。
 私は、軽く声たてて笑った。
「私は人と話をするのが好きですからね」
「人に話をするのが、でしょう」
 ……刺《とげ》のある言い方だが、正鵠を得ている。自分がどちらかというと、人の話を聞いてやるよりは人に話を仕掛ける方が性に合っているのは確かだ。
(土方歳三……やはり、侮れない男だ)
 私に対して悪意と隔意を抱《いだ》いてそっぽを向いているくせに、存外しっかりと見ている。
「流石は豊玉《ほうぎょく》宗匠、言葉を吟味なさる。──どうです、一句出来ませんか」
 揶揄するつもりではなかったのだが、土方は口許を引きつらせた。どうにも、句作や歌詠の趣味の話題を持ち出されるのが気に入らないらしい。いよいよ辛辣さを増した声が、その端整な唇から放たれた。
「いえいえ、伊東先生[#「先生」に傍点]のお歌にはとてもとても及びませんな。殊にあの──」
 言いさして、不意に口を閉ざす。
 しまった、言い過ぎた──という感じでは、奇妙に、なかった。
(……何か言いたいことがあるのか……いや)
 違う。あたかも“さあ突っ込んでこい”と言わんばかりの態度を見るに、土方には、言いたいことがあるのではない。私に言わせたい[#「言わせたい」に傍点]ことがあるのだ。
 さっき私を凝視していたことといい、今殊更に発言をやめたことといい、何か、ある。
(何を言わせたいのか)
 訊くのは簡単である。だが、まともにそんな風に尋ねるのは愚の骨頂。相手の思惑にわざわざ嵌まってやる必要は、何処にもない。
 私は、ゆっくりと口を開いた。
「……『あの』何です?」
 返事は……
 ない。
「言いかけてだんまり[#「だんまり」に傍点]ですか。意地の悪い方ですね」
「……先生[#「先生」に傍点]ほどじゃありませんよ」
 土方は、唇だけで笑う。
「先生[#「先生」に傍点]の意地の悪さは、先般身に沁みましたからね」
「先般?」
 意地の悪さが身に沁みたとは、あの時のこと[#「あの時のこと」に傍点]だろうか。あの時のこと[#「あの時のこと」に傍点]ならよく覚えている。抱きすくめたこの両の腕の中で、必死に歯を食い縛り、だが耐え切れずに身を震わせていた土方……
 私は小首をかしげてみせ、邪気なげに尋ねた。
「私が何かしましたか?」
 あの時のこと[#「あの時のこと」に傍点]を相手から持ち出してくるとは思えないが、嫌がらせする機会は逃さない。それに、私が知らぬ顔を続けていれば、その内相手は痺れを切らし、私に言わせたいことが何であるかを教えてくれるだろう。
「何かしたか、とは恐れ入りますな」
 土方が尖った声で呟き、私の方を斜めに見やる。
「まあ、私は悪者になることには慣れておりますからね。先生[#「先生」に傍点]には打ってつけの人間だったでしょうよ──御自分の手を汚すことなく競争相手を始末させるにはね」
 私は目をしばたいた。
 ……ようやく、土方の意図が見えた。
 この男は、見抜いていたのだ。総長山南敬助の処断の陰で、私がどう動いていたかを。
 だから、私に、山南を死に追いやったのが私であると、私の口から[#「私の口から」に傍点]言わせたいのだ。
 先程の「あの」の後には、まず疑いなく、私が山南の死を悼んで詠んだ歌の“見事さ”には到底わない、といった感じの台詞が隠されているに違いない。
 だが、この男、一体何処までを見抜いているのだろう。
 知りたい──という気持ちが勃然と涌いた。
 それも、この男の口から[#「この男の口から」に傍点]、聞き出したい。
「……さあ、何を言っておいでやら」
 虫も殺さぬ微笑と共に、私は、はぐらかした。はぐらかしたな、と相手が思うなら、それでも良かった。いずれにせよ、私の方から切り出すつもりはなかった。私が自分から切り出せば、それはある意味で“白状”になってしまう。
「おやおや伊東先生[#「先生」に傍点]、先生[#「先生」に傍点]は私の困る姿を御覧になることが生き甲斐なんじゃありませんでしたかね」
 土方は、お構いなしといった様子で続ける。
「あの時にそうおっしゃいませんでしたかね」
 ……畳み掛けてくる。
(く、くく……私の口から吐かせたいのでしょうが……その思惑には乗りませんよ)
 私は、心ひそかな笑いをこらえた。一向に乗ってこない私に、相手が痺れを切らしかけているのはわかっている。もう間もなく、彼は喋り始めるだろう──己の考えを確かめたいと思っている以上は。
「あの時?」
 何を言われているやらさっぱりわからぬ、といった顔で呟くと、案の定彼は、やや鼻白んだように声を落とした。
「……私はあの時以来、先生[#「先生」に傍点]を疑っておりましてね」
「今ひとつよくわかりませんね。あの時とはいつの何です?」
 微笑みながら、私は逆に畳み掛けた。無論、承知はしている。あの時とはあの時[#「あの時」に傍点]だ。あの、壬生の共同墓地での、私にとっては至福の、そして相手にとっては悪夢のひと時。
 土方がわずかに顔をしかめる。わかっていて訊いてくる嫌な奴だ、と思ったに違いない。
(……だって、あなたがそう仕向けるんですよ)
 私は内心に呟いた。
(あなたがあんまり冷たいから……つい苛めてやりたくなるんですよ。私がこんな、自分でも信じられないくらい意地の悪い気分になってしまうのは、広い世の中でたったひとり、あなた相手にだけなんですからね)
 思いながら笑みを深め、盃を干す。
「たまには、注《つ》いでいただけませんか?」
 つい[#「つい」に傍点]と空盃を差し出すと、何故か土方ははっと怯んだような色を見せた。だが、何も言わずに自分の膳の銚子を手に取り、盃を満たしてくれた。
(……少し、押すか)
 満たしてもらった盃にひと口付けつつ、私は考えた。余りにこちらがしらを切り過ぎては、土方の方も手詰まりになってしまうだろう。それで“糾明”を諦められてしまっては、元も子もない。
「……私を疑っているとおっしゃいましたが、それは、具体的には何をどう疑っていると? 是非ともお伺いしたいですね」
 切り出してやると、土方は何事かを思い惑うように目を伏せ、低い声で呟いた。
「……それ以前に、さっき、先生[#「先生」に傍点]の方こそ何を言いかけていたのか、是非ともお伺いしたいのですがね」
「ああ、あれですか……」
 私は笑みを抑え切れなかった。
(わかりますよ、土方さん。確証が欲しいんでしょう? あなたが私の言葉の何処に耳を傾けていたか、もう、私にはわかっている)
 だが、そうと教えてやる気はない。あくまでも、肝心なことは相手の口から引っ張り出したかった。
「と、いうことは、やっぱり私の話に興味を持ったわけですね、土方さん」
 にこにこしながら念を押してやると、土方は苦い顔で頷いた。今更否定出来ぬ、と思ったのだろう。
「くく……これだから私はあなたのことが好きなのですよ」
 私は喉を鳴らして笑った。
「意地を張っても仕方がないと思ったら、存外あっさりと素直になる。強情なくせに変わり身の早い、ひと筋縄では行かない方だ」
 そんな男であるからこそ、私も、必ず彼を手に入れる機はあると踏んでいるのだ。確かに滅多なことでは己の考えを曲げぬ強情な男ではあるが、意地を張る必要がないと自分で認めさえすれば昨日までの姿に存外こだわらぬ、頭の柔らかい男だと見たからこそ。
「……褒めているんですかね」
「勿論ですとも」
 私は心からの頷きと共に言葉を紡いだ。
「私はいつだって、あなたを評価していますよ。誰に対してもね。そう……例えば山南さんにも、いつも、言ってきましたよ」
 笑いながら、ごくさりげなく続ける。
「土方さんは凄い方だ、新選組という集団を維持する為とはいえ、あそこまで情を排して冷厳に徹することの出来る方を、私は今迄見たことがない……とね」
(……さあ、どうです、突っ込みたくなったでしょう?)
 此処まで私に言わせておいて、まさか引っ込んだりはすまい?
 土方の目がすっと細くなり、見据える眼光が鋭さを増す。
 私の“誘い水”に気付いたのだろう。
 視線がぶつかり合った刹那、不意に身の裡に、悪寒にも似た甘美な震えが走った。
 ああ……この男とただ視線を絡ませ合うこの時間の、何と悦ばしく感じられることか……。
 強いて言葉にするならそんな思いが、酔いの愚かしさからか、脳裡をよぎる。
 このまま、こうしていられるなら……
 だが、このままではいられないことも、私にはわかっていた。求める言葉をこの男から引き出すには、私の側がもうひと押しせねばならぬ。
「……さっき言いかけていたことはね」
 私は口を開き、殆ど囁くような声で呟いた。
「私の持てる力を尽くしてあなたを苦しめてやろうと思った……ということですよ。この間も言いましたが……覚えておいでですか」
「……忘れたいところですがね」
 鋭い視線はそのままに、土方は口許だけで笑う。
「私を苦しめて一体何が楽しいのかはともかく、その時に、私はある疑いを先生[#「先生」に傍点]に対して抱《いだ》きましてね。先生[#「先生」に傍点]が聞きたいとおっしゃったのでお話ししますが──」
 私がひそかに息を詰める目の前で、土方は盃をぐいと傾け、半ば叩き付けるように、続けた。
「──山南君が大津からよこした書簡、あれを山南君が書くように仕向けたのは、伊東先生[#「先生」に傍点]、先生[#「先生」に傍点]じゃありませんかね」
「私が?」
 涌き上がる喜びを表情に出すまいと苦労しながら、私は目をしばたいた。
「何故そう思うのです?」
「先生[#「先生」に傍点]は、預かってきた書簡を、他の助勤達の前で局長に渡したそうじゃありませんか」
 ……成程、この男、やはり馬鹿ではない。
「それがどうして、私が山南さんに手紙を書くように仕向けたという根拠に?」
 答はわかっていたが、私は敢えて尋ねた。相手の口から私の行為が語られるのを聞くことが、此処まで恐ろしいほどの歓喜を身の裡に呼び起こすとは……
 少しでも長く、この喜びの時間を引き延ばし、味わいたい。
 身震いを懸命に抑えながら、私は、そう願った。
「先生[#「先生」に傍点]は少なくとも書簡の中身は知っていた。だから、それを公開すればどうなるか、いや──私がどうするか、予測が付いていた。私がいるかいないか尋ねたそうですな。いないと聞くと、好都合だと言ったとか言わぬとか」
「それは訊きますよ。山南さんは、『これは土方君にだけは見せないでくれ』とおっしゃったのですから」
 ……あれはかなり自分でもあざといやり方だったと思う。しかし、あのくらい露骨であくどい話運びでなければ、書簡の中身を全員が察するというところには至らなかっただろう。
「土方さんがあの場にいらっしゃったら、座を外してもらうようお願いしていましたよ」
「外す筈もないことを百も承知の上でね」
 土方は鼻を鳴らし、面白くもなさそうに笑った。
(くく……よくわかっているじゃありませんか)
 私は、いとおしくてたまらぬという目で相手を見つめた。
(あなたの悪辣さも相当なものだ)
 あの、手の込んだ悪巧みを見抜けるのだから……。
「いずれにしても場の者は皆、書簡の中身を察するという寸法だ。脱走を許さぬ隊規に触れかねぬ行為を、私を非難する為に敢えてしたのだとね。さて、そこまで運べば、先生が気になるのは他ならぬ私の採る態度だ。だから、屯所へ戻ってきた私を待ってましたとばかりに捕まえて、私が山南君をどう扱うつもりかを探ろうとした……」
(そうですよ。その通り。よく出来ました)
「さぞかし楽しかったことでしょうな。自分の手を汚さずに邪魔者を消せるという確信を得ることが出来て」
「……二度目ですね、さっきから、手を汚さず云々とおっしゃるのは」
 私は、如何《いか》にも怪訝そうに呟いてみせた。
「違いますかな? 御自身でおっしゃったでしょうに。山南君さえ戻ってくれば、と私が考えていたことなど見えていた、だからそこまで邪魔者扱いされるなら、いっそ力の限り私を苦しめてやれと思ったと。それは、解釈の角度を少し変えれば、山南君が戻ってくれば自分の立場が脅かされることになる、という認識を先生[#「先生」に傍点]が持っていらっしゃった証左となる発言ではありませんかね」
「成程……」
 何故、こんなに心地好いのだろう。己の“悪事”が暴かれてゆくのに。
 笑みがこぼれた。
「あなたが耳を引かれたのは、その部分でしたか」
 無論、そうであることなど、とうにわかっていたのだが。
「山南さんが邪魔な競争相手だから、隊規に触れるように仕向けて、土方さんに処断させた、と、そう言いたいわけですか?」
 言いたいも何も、それが真相である。
 だが、まだそうと認めるわけにはゆかぬ。まだ、相手から聞き出したいことがある内は。
「無理がありませんか、そのお疑いは」
「何故です」
「どうやって、隊規に触れるよう仕向けたとお考えなのです? 私が、山南さんに、大津へ留まって、近藤先生に今の新選組を非難する手紙を書け、と言ったとでも?」
 土方が一体何処まで見抜いているのか──それが私の関心事だ。疑問を投げかけることで、私は、引き出せる限りのことを彼から引き出すつもりだった。
「言いはしなかったでしょうよ」
 土方は唇を歪める。もしかしたら、自分が私の思惑に嵌まっているとわかっているのかもしれない。
「しかし山南君がそこまで思い詰めるに到るよう誘導したんじゃありませんかね。私を“褒める”のを繰り返すことでね。……山南君の書簡、思い返してみるに、私のことを非難するのに“聞説《きくならく》”と書き出されていた。一体、誰に聞かされた話だったのでしょうな」
「……よくそこまで勘繰れますね」
 盃を空け、手酌で満たしながら、私はかぶりを振った。どうしようもなくこみ上げてくる嬉しさを、もはや隠し切れなくなりそうだった。
「それが事実だという証拠が、何処にあります?」
 最も肝心なのはその点だった。この答如何《いかん》によっては、喜んでばかりもいられなくなる。物的な証拠を残したつもりはないが、もし相手が私の気付かない証拠を握っていたとしたら……
 だが、
「ありませんよ」
 いよいよ目を細めて私を睨み据えながら、彼は、吐き捨てるように応じた。
「だから、先生[#「先生」に傍点]があくまで知らぬ存ぜぬで通すなら、いや、たとえこの場で先生[#「先生」に傍点]がそれを事実と認めてさえも、私にはどうすることも出来ない。先生[#「先生」に傍点]は山南君とは意気投合した友人だった、と隊士の誰もが見ている。あの、私の疑いの目から見れば胸の悪くなるほど白々しい先生[#「先生」に傍点]の弔歌ね、ああいう真似までなさってくださった今では、それを疑う者は局中にはまずいない。隊士達からは憎まれ者の私がどれほど口を極めて実はこうだったのだと主張しても、先生[#「先生」に傍点]さえその薄笑いで身に覚えがない、とんでもない言いがかりだと言えば、それまでだ。先生[#「先生」に傍点]の意地の悪さが身に沁みるとは、そういうことですよ」
 私は、目も眩むような歓喜が身の裡を駆け巡るのを覚えた。
 何と──何と揺さぶり甲斐のある男だろう。
 自身がこの“悪事”を告発することが出来ないことまで、理解してくれている。
 どうしようもないほどの洞察力ではないか。
 目を伏せながら、私は、目の前の男に対する激しい執着が涌き上がってくるのを意識した。手に入れたかった。何としても、手に入れたかった。
(私だけの……私だけのものにしてみせる……)
 酒の追加を尋ねにやってきた飯盛女が出てゆくまでの間、私は、昏い思いに浸り続けた。
(絶対に、誰にも渡さない……渡すものか……たとえそれが死んだ人間であってもだ……この男は私のものだ……私が手に入れてこそ、その真価を発揮させることが出来るのだ……)
 邪魔な女が出ていってしまってから、私は、上目で土方を見やり、口を開いた。
「……それから?」
「それからとは?」
「他に、言っておきたいことはないのですか、という意味ですよ」
「他に何を言っておけと? 私はただ、先生[#「先生」に傍点]が是非とも教えろとおっしゃったから、どう先生[#「先生」に傍点]を疑っているかを率直に話した。それだけですよ」
「わかりました。では、それだけなのですね」
 ああ──もう我慢出来ない──。
 私は唇を綻ばせ、喉を鳴らして笑った。
(全てを見抜いているわけではないのだ)
 笑いの意図がつかめないのだろう、土方が訝しげな目をする。それを見ると、なお一層笑いが止まらなかった。
(私が何故そんなことをしたかまでは、わかっていないのだ。……しかし、それもまた一興……)
 その理由を教えてやることで、またこの男に揺さぶりをかけることが出来る。そしてその話は、やがて、私が最初から目的としている話へとつなげることが出来る……
 再びやってきた飯盛が銚子を置いて去った後で、私はようやく笑いを治め、口を切った。
「よくぞそこまで辿り着きましたね、土方さん。あなたの洞察力を侮っていたわけでは決してないが、正直、見抜かれるとは思わなかった。嬉しいですよ──私の人知れずした苦心惨憺を、かなりのところまであなたがわかってくれたことがね。つまり、それだけあなたが、私について思いを巡らしてくれたという、何よりの証でしょう?」
 土方が、言葉もなく、表情を凍りつかせて私を見つめる。
 私は、殆ど、恍惚境に入《い》ると表現してもいいくらいの喜びを覚えた。相手が心に受けた衝撃の深刻さが容易に窺い知れるのが、心底楽しかった。
「でもね、土方さん、私がどうしてそんなことをしたか、あなたは充分にはわかっていない。それが残念です」
「……わかっていない?」
 痺れたような口調で、土方は繰り返す。
(聞きたいでしょう?)
 私は微笑を深めた。
(じっくり教えてさしあげますよ……あなたを苦しめる為にね)
 そして、私自身があの男[#「あの男」に傍点]のことを知る為に……。
 私は、ゆっくりと盃を傾け、それからおもむろに口を開いた。
「確かに山南さんは少々邪魔な存在ではあった。けれど、それだけで死に追いやるほどの存在ではなかった。それをどうしてわざわざ、手の込んだ真似までして、そうなるに到らしめたと思います?」
 来たばかりの新しい銚子に手を伸ばし、また手酌で自分の盃を満たす。
「それはね、あなたが[#「あなたが」に傍点]山南さんの戻るのを待っていたから、なんですよ、土方さん。だから[#「だから」に傍点]私はね、そのあなたに[#「あなたに」に傍点]山南さんを処断させてやろうと、考えたんですよ」
「……私を苦しめる為に?」
 土方のひび割れ気味の声を快く聞きながら、私は頷いた。
「そう……それから、あなたの鬼面を引き剥いで、その下に隠されている傷だらけの素顔を垣間見る為に」
 殆ど水のように流し込み続ける酒が、やや舌に来始めている。常陸訛りが普段よりも前面に出てきたのが、自分でわかる。
「あなたは、近藤先生を立てたいばっかりに嫌な役回りを全て引き受けて、鬼だ修羅だと皆から言われて、それでも、近藤先生の手さえ汚させずに済めばそれでいいと思っておいでだった。だから私は、そんなあなたを、他ならぬ近藤先生が嫌な役を引き受けるしかないという状況に放り込んでやろうと、目論んだのです。その上にその状況というのが、本当は死なせたくない相手を死なせねばならぬ、そんな状況だとしたら……。ひどく楽しみにしていたんですよ。その冷徹厳格な鬼面の下で、あなたの素顔がどうなってしまうことだろう……想像すればするほど、胸が躍って仕方がなかった。……ところがどっこい」
 私は、つと苦笑した。本当は土方も山南が邪魔だったのではあるまいか、己の悪行は土方を苦しめるどころか助ける所為に過ぎなかったのでは、と疑い悶々としていた、あの時の自分を思い起こして。
「流石は鬼の土方さん、眉ひとつ動かさず山南さんの処断を決めてしまったように見えた。少なくとも私の目の届く範囲では、少しもこの処断を躊躇《ためら》うような様子を見せなかった。内心ひどく残念でしたとも。……あの時[#「あの時」に傍点]まではね」
 正確に言えば、本当はあの時[#「あの時」に傍点]以前、土方が切腹前の山南に会いに来た時点で、私は土方の本心を察していた。けれども、今は、あの男[#「あの男」に傍点]の話題に相手を引きずっていきたいのだ。その話題に関わりのない瑣末な“正確さ”にこだわる必要はない。
「あの時……あの時に初めて私は、あなたの本当の姿を見ることが出来たと思った。墓石《はかいし》に耳を押し当てているあなたを見た時には、思わず駆け寄って抱き締めたくなったくらいでしたよ……ああ、この男は、こんな所でしか生身の自分を曝すことが出来ないのだなと……けれども、反面ひどく妬ましくもなった。一体、この世の者ではないからこそとはいえ、それでも土方さんがそこまで弱さを曝け出していいと思っているらしいこの墓の主は、土方さんにとってどういう男だったのか……今でもね、私は、知りたくて仕方がないんですよ」
 空にした盃を置くと、私は、相手の方へじりっと膝を進めた。
「芹沢鴨……一体、土方さんにとって、どういう存在だったんです?」
「答える必要はないでしょう」
 即答する声が、かすれている。
「その話はよしてもらうと言った筈」
「わかりました、よしましょう、と、いつ私が言いました? ……聞かせていただきたいんですよ、どうしても」
 身を乗り出すようにして、にじり寄ってゆく。土方の表情がこわばった。
「話したくない」
「意地悪ですね。さっきは私が聞きたがったことを話してくださったじゃありませんか」
「それとこれとは別です」
「教えてくださいよ」
 土方の左手が膝の上でぴくりと動く。即座にその意図を悟った私は、素早く相手の脇差を押さえた。寸瞬遅れてかかってきた相手の左手は、私の右手をつかむ恰好になった。
「……これ[#「これ」に傍点]は、今宵の私達には不要ですね。無用の長物だ。向こうへやってしまいましょう」
 ぎょっとなったように手を引っ込める土方に含み笑いを浴びせながら、私は、鍔と鞘口を押さえて封じた脇差を、ゆっくりと、相手の手の届かぬ所まで滑らせ遠ざけた。
「さあ、話してもらいますよ。何もかも。私はね、あなたからその話[#「その話」に傍点]を聞き出したいばっかりに、この旅に同行したんですよ。つれないことを言わずに、教えてくれませんか」
「嫌だと──言ったら?」
「言わせませんよ」
 じっと相手の目を見据えながら、私はなおも迫った。膝が触れた。土方が一瞬、後ずさりたいような表情を見せる。だが彼はその衝動をこらえたらしく──あの壬生の共同墓地で私の“嫌がらせ”の戯れから逃げなかった時のように──特段の身動きはしなかった。
「くく……健気ですね、逃げないんですか?」
「逃げる? 私が?」
「本当は今すぐ逃げ出してしまいたいんじゃありませんか? あの時[#「あの時」に傍点]もそうだったんでしょう? ……でもあなたは逃げないんですね。踏み留まって、抗うことを選ぶ。勇敢な方だ。……でも、だからこそこうして」
 私は、両腕を目の前の男の体に絡み付かせた。
「あっさりと捕まえることが出来る」
 相手の全身にびくっと緊張が走る。
「もう逃がしませんよ。逃げられもしないし、助けも来はしない」
 またも丁度目の前にある相手の左耳が、かっと朱を帯びる。そこへ唇を寄せ、細い息を吹きかける。相手を捕えている腕《かいな》に、痙攣にも似た震えが伝わってくる。
「さあ……話すんです」
 殆ど耳朶に触れなんとするまでに近付けた唇で、囁きを注ぎ込んでゆく。
「話すまで、放しませんからね。いつまでも強情を張る気なら、あの時[#「あの時」に傍点]よりももっと身に応える嫌がらせだって──」
 ──瞬間、土方が卒然、私の腕をはねのけた。
 体当たりをかまされ、仰向けに倒される。抵抗の暇《いとま》もなく、肩と首を押さえ付けられた。
 見栄っ張りなところも十二分に持っている土方なら決して逃げ出そうとはすまい、と思っていた。だが、逃げ出さぬというのと逆らわぬというのとは、全くの別物である。迂闊にも、その点を見落としていた……。
 抗う気も起こらず、私は、息をついて目を閉ざした。小さな痛みが、胸を衝いた。
「……とことん、嫌われたものだ」
 何処か乾いた呟きが、唇を動かす。
「このまま……縊《くび》りますか。そうすれば、あなたもこれ以上苦しまずに済むかもしれない」
 奇妙なことだが、自分の中に、本気でそう思っている自分がいた。今此処でこの男に殺されるならそれもいいかもしれない、と思う自分が。
 酔いが回り過ぎているのかもしれない……。
「俺は、てめェなんざ、大ッ嫌いだ」
 低く叩き付けるような土方の声が、耳を刺す。
「これ以上、俺の心ン中に、土足で忍び込むんじゃねえ。芹沢さんのことも、二度と口にすんじゃねえ。あの人と俺とは、てめェが勘繰ってるような間柄なんかじゃねえんだ」
「だったら、どういう間柄なんです」
 私は微笑を口許に押し上げると、目を開いて相手を見つめた。──そのまなざしに潜む、青黒い焔《ほのお》を。
「芹沢鴨……新選組の結盟時からの筆頭局長でありながら酒を飲むと粗暴狼藉、商家からは金策と称して強請《ゆす》り集《たか》り、思い通りにならなければ土蔵を打ち壊して火をかけたこともあったとか、挙句他人の妾まで寝取って我がものとし、その果てに酔った寝込みを長州人に襲われてその妾諸共斬殺された……もっとも、刺客が本当に長州人だったかどうかは、多分、あなたが一番よく御存じなのでしょうね、土方さん?」
「黙れ……」
 土方の右手に──私の喉頸《のどくび》を扼《やく》している右手に、力が入る。
「それ[#「それ」に傍点]を知ったというだけで、てめェは殺されたって仕方ねえんだぞ……」
「喋ったりしませんよ」
 絞め付けられているせいか、声がやや潰れる。だが、私は言葉の糸を紡ぎ続けた。私の言葉が進む毎に相手の表情が見る見る険悪に変じてゆくのが、空恐ろしいくらい楽しかった。
「新選組の名をこれ以上穢されぬ為に、と、土方さんが暗殺の刃《やいば》を振るったからといって、責める気はありませんよ。だって、闇討ちされても仕方のないほど、どうしようもなくひどい御仁だったわけでしょう?」
 薄笑いと共に殊更し様に言ってやると、土方の表情は面白いほどに引きつった。凄まじい目が、殺気を帯びた底光りを見せ始めた。
「黙りやがれ……」
「おや、違ったんですか? 皆さん、芹沢という人の乱行には手を焼いていたと……」
 急激に強まる圧搾に、声が途切れる。──息が詰まる。
「それ以上……あの人のことを、知りもしねえくせにべらべら喋るんじゃねえ……」
 かすれ切り、小刻みに震える声が、私の喉を絞め付け続ける男の端整な唇から洩れ落ちてくる。
「あの人はそんな単純な乱暴者《らんぼうもん》の一語で片付けられていい人じゃなかったんだ……金輪際あの人のことを俺の前で話題にするんじゃねえ……このまんま縊り殺して、二度とその舌の根も動かせねえようにしてやろうか……」
「やはり……何かあった……」
 入ってこない空気を求めて喘ぎながら、それでも私は相手に言葉を投げようとした。
 知りたい。
 どうしても、知りたい。この男がそこまで深く心に留めている相手のことを、この男の口から、どうしても、聞き出したい。
 急速に白くなる脳裡にこびり付いているのは、もはや、そんな妄執だけ。
「どんな人……本当は……それほど……土方さんが……引きずっている……本当の姿……とは……」
「本気で殺されてェか、伊東ッ!」
 土方の表情が瞬時に殺意に染まり、肩を押さえていた左手までもが喉頸に喰らい付いてくる。
 私は流石に抗う必要を感じた。だが、呼吸を痛め付けられ続けていた五体には、ロクに力が入らなかった。払いのけるどころか、逆に一層激しく絞め上げられた。ぎりぎりと食い込んでくる十指は、引き剥がそうと試みても、びくともしなかった。
(ああ──)
 こうして、この男の手にかかるのか。
『指一本だって俺に触れてみやがれ、誓って、ぶっ殺してやる』
 聞いたことのない筈の言葉が、頭の中でがんがんと鳴り響く。
 全身に震えが来た。
 それは、恐ろしく奇妙な震えだった。何と表現すればいいのだろう……まるで、己が、この男にこんな風にしてもらいたかったのだ、と悦び悶えるような、どうしようもなく甘美な震え……
 両手の力が抜けた。次の一瞬には息が絶えてしまいそうなほど苦しいのに、志も野心も溢れるほど残っているこの命を奪われようとしているのに、ふっつりと、抗い逃れようとする気力が失せてしまった。このまま、この男の手にこの身を委ね、最期の時を迎えるというのも、存外、悪くない結末かもしれない……
 思った時、突然、空気が戻ってきた。
 直後、何かが体の上にどさりと落ちてきた。反射的に抱き止め、見直す。──土方だった。気を失っているのか、その目は閉ざされ、ぴくりとも動かない。
「う……?」
 誰かが、土方を失神させたらしい。恐らく、後ろから殴るか何かして。
 乱暴に雪崩れ込んできた空気が、激しい咳き込みを呼ぶ。喘ぎ、目を回しながら私は、行灯の灯《ひ》のみに支配されている室内を見回した。一体誰が、私を扼殺から救ってくれたのだ……
「──大丈夫ですか、伊東さん?」
 声と共に私の傍らに片膝を突いてきたのは、座を外してくれていた斎藤君であった。どうやら、いつの間にか、半時は優に経過していたらしい。
「しっかりなさってください──ああ、これはひどい、凄い跡になって──」
「大丈夫……です……」
 私は笑顔を見せた。声は、予想ほどには潰れていなかったが、それでも、がらがらと濁って響いた。息をどうにか整えて上体を起こすと、土方の体が滑り落ち、脇に転がった。だが、完全に意識を失っているのだろう、少々の衝撃きでは瞼すら動かない。私は喉をさすりながら、傍らに横倒しに伏して動かぬその姿を見下ろした。
「何をしたんです、斎藤君……」
「柄頭で頭を殴っただけです。手加減はしましたが──」
 身を起こすのに手を貸してくれた斎藤君は、青ざめこわばった顔を一層こわばらせて応じる。
「まさか副長が、こんな真似をなさるなんて──一体どういうおつもりなのか──何か、あったのですか?」
「……酒の上の諍いですよ。私の話の何処かが、お気に障ったらしい」
「だとしても、絞め殺そうとなさるなど、幾ら何でも短慮も甚だしいじゃありませんか」
 斎藤君の声は、わずかに震えて聞こえる。土方に負の感情を持ったらしいことは、態度言葉で明らかだ。
「副長がこんなことをなさるような方だとは思わなかった──こんなことでは──」
「斎藤君、いいんです」
 軽く咳き込みながら、私は笑顔で遮った。折角のこの機会、斎藤君に、私が土方に比べてどれほど寛大な人間であるかを見せておくべきだろう。
「このこと[#「このこと」に傍点]は、君の胸ひとつに収めておいてください。他言は無用です。誰にでも、カッとなって、普段なら取らないような行動を取ってしまうことはあります。殊に、酒が入っていてはね……私とて、手もなく縊られそうになったなどとは余り公にしてもらいたくはないですし」
「……わかりました」
「申し訳ないが、熱めのお茶を一杯、貰ってきてくれませんか。流石にあれだけ絞め上げられては、声もなかなか元には戻らない……お願いしますよ」
「はい、すぐに」
 一礼して腰を上げ、斎藤君は出ていった。
 その足音が完全に遠ざかってから、私は、唇の端を吊り上げて含み笑った。そして、傍らに転がる土方の頭に右手を置いた。親指を額に滑らせ、ゆっくりと仰向かせる。行灯の灯に照らされてさえも青白いほどに冷たい端整な白面は、意識を失っているというのに奇妙な蠱《まじ》を潜め、あたかも私を誘っているかのように見える。私は飽かずその顔を見つめながら、裡に涌き上がる昏い思いのままに言葉を紡ぎ出した。
「……何と苛め甲斐のある可愛らしい方だ、あなたという人は」
 低い笑いが、喉を震わせる。
「冷静、沈毅にして、頭脳明晰……抜け目もなくて油断のならない切れ者……そんなあなたが、私の言葉のひとつひとつに心き乱される。あの墓の主のこと、話したくないと言いながら、ちょっと挑発して誘いかけただけで、あの通りの有様……」
 抑え難い衝動に任せて、相手の頬骨の辺りを両手で挟む。きめ細かく滑らかな、わずかに吸い付いてくるような感触が、私の指先を迎えてくれる。
「危うく殺されかけたほど……充分に伝わってきましたとも、あなたの引きずっている感情が何であるかはともかく、その根の深さは、あなたの両手の指の一本一本を通じてね」
 ぞくり、と身の裡を這う妖美な感覚に促され、十指を相手の喉頸へと、撫でるように滑らせてゆく。
「だけどね……この私を縊り殺そうとしたことそれ自体は、許しませんからね。絶対、忘れはしませんよ」
 今となっては、あの時このまま殺されてもいいかもしれぬと思ったことなど、単なる気の迷いに過ぎなかったと言い切れる。……そう、私は、こんな所で死ぬわけには行かぬのだ。この男を手に入れ、新選組を手に入れ、国事に邁進せねばならぬ人間なのだ。いずれは私のものになる身でありながら、その私の命を断ち切ろうとしたこの男を、断じて、このまま許してはなるまい……。
「……そう……貸しにしておきましょうか……いずれ、高利を付けて返してもらうということでね……」
 いつか、今日の私と同じ目に、いや、利息分も含めて、それ以上の目に遭わせてやる。
「その時には、二倍、いや三倍の時間をかけてゆっくり責め、たっぷり苦しませてさしあげますからね、土方さん」
 二度三度と、軽く戯れかかるように相手の喉頸を扼しながら、私は静かに微笑んだ。
 安心するがいい。
 あなたは、私の大切な、掌中の珠だ。間違っても、砕いてしまうような馬鹿な真似はしない。砕いてしまっては、何の役にも立たない。
 だが……そう容易く砕けてしまう“珠”でもあるまい。
 いつの日か必ず、機会を作り、半死半生になるまでじっくりと責め苛んでくれよう。
 この手で、心ゆくまで。



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