慶応二年の師走九日夕刻、宮川町に構えている休息所から、覚悟していた知らせが届いた。
「今宵が山かと存じます……近在に身内の者がいれば日が暮れる前に呼びにやった方が宜しいでしょう、との言伝にございます」
 それが、医師からの使いの者の言葉であった。
 ……はる。
 折角かった子も生まれる前に失い、齢二十を目前にして、命を終えようとしている女。
 私は嘆息し、苦いものをかみ締めながら筆を執った。

 彼女は、私にとって、いわゆる妾である。
 しかしながら、相手のことが気に入って囲うようになった、という、世に多々ある経緯から始まったものではない。私の島原での馴染みである花香太夫の禿《かむろ》から引舟《ひきふね》となったものの、病がちであったことから、花香のたっての望みで昨年夏に私が身代を引き受け、請け出したのであった。
『ねえさまに申し訳ない』
 落籍《ひか》されるとなった時に彼女が口にしたその言葉は、その後、半ば彼女の口癖となった。
 身籠もったと知った時にも、彼女はそう呟いた。不幸にも、流れてしまった時にも。
 そして、再び起きることの適わぬ病に冒されたと悟った時にも。
 ……私に対しては、申し訳ないとは思わぬのか。
 正直、そんな風に思ったこともあった。とりわけ、子が流れたと知った時には、強く感じた。
 けれども、口にはしなかった。はるにしてみれば、禿の頃から何かと面倒を見てくれた花香を差し置くようにして自分が身請けされてしまったという遠慮や負い目は拭えまい。それ故の口癖だと、察せられていた。
 それに、私にもまた、はるに対して、花香に心を残したままで接するのを申し訳ないと思う、拭えぬ負い目があった。
 奇妙なものだが、それ故に、互いの夜の営みは、細やか且つ激しいものとなった。申し訳ないという思いが、必ずしも人を萎縮させるとは限らない。はるの場合、花香に申し訳ないという思いは却って、褥《しとね》の内での乱れた振舞に繋がっていた。
 ……勿論、私の方も、はるに申し訳ないという負い目を抱えているが故に、殊更に細やかに接していたのだが。

 島原では小春という名であった彼女を身請けした当初、私は彼女に、花香に申し訳ないなどと思わないでほしい、そなたの身を引き受けたのは花香も望んだことだし、私とて情愛を持てぬ者を側に置こうなどとは思わないのだから、と言い聞かせていた。だが、彼女はるは、人の情に敏い女であった。私の心の奥底に、本当は花香を請け出したかったのにという気持ちの欠片《かけら》が潜んでいることを疾く悟り、そして、落籍からひと月と経たぬ一日《いちじつ》、鷹揚で物わかりの良い男の顔を見せていた私を、思わぬ激しさで追い詰めてきた。
『うちは、ねえさまの代わりにはなれへん。ねえさまに頼まれたからしょうことなしに[#「しょうことなしに」に傍点]面倒見てくれてはるなら、すっぱり捨ててくれて構しまへん』
 普段は引っ込み思案なほど物静かな彼女が、恐ろしくきっぱりと告げ、本音を言ってほしいと迫った。そして、私にだけ本音を言わせるような卑怯なことはしないからと、油紙が燃え上がるかのような勢いで、花香に対する存念を口にし始めた。そんなことなどしなくていい、と私が制止する暇《いとま》もなかった。
『ねえさまは、うちが禿の頃から伊東はんに惹かれてるのを知ってはった』
 だから花香が私を自分に譲ったのだと、はるは言った。
 ……そこまでなら、美談で済んだかもしれない。
 だが、はるの話は、そこでは終わらなかった。



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