兵庫津へ立ち寄ったのは、久し振りであった。
 新選組を離れてからは、初めてではなかったか。
 潮の香りが、鼻孔をくすぐる。何処か長閑な港の活気が、町中を歩いていても伝わってくる。
(ああ……この屈託のない賑わいは、いつまで続くのか)
 兵庫津は、外夷に対して開港を約束させられている港のひとつである。都に近過ぎて、為に攘夷を口にする過激な浪士も他所より多く流れ込み易く、不測の事態が出来《しゅったい》するやもしれない為に危険であり、時期尚早である──という理由で開港を引き延ばしているそうだが、もし、これ以上には延ばせずに開港という次第に相成れば、今のこの長閑な活気も、横浜や崎陽の居留地のような状態になってしまうであろう。
 私自身はと言えば、如何に約定があるとは言え、都から余りに近いこの港を外夷に開くのは前《さき》の帝の御心にも逆らうことであると異を唱えている。しかし、実は、反面──同志達に対してさえ殆ど語りはせぬものの──わざわざ崎陽まで下らずとも夷人の動向を探れる場が出来ること自体は悪くないのでは、とも心ひそかに考えている。
 ……ただ、考えているだけで、実際に自分から夷人に近付いたり言葉を掛けたりしたいとは、なかなか思わぬ。
 無論、この国の為に必要だと思えば夷人から話を聞くことを厭いはせぬつもりだし、現に、あらぬ嫌疑を掛けられて難儀した先般の九州りの折には、崎陽の洋学所などでエゲレス語を教授しているフルベッキなる米国蘭人の噂と彼がひそかに周囲に語ったという内外の情勢について人伝に洩れ聞いて強い関心を持ち、伝手を辿って面会する約束を取り付けられそうなところまで話を進めていた。結局、日時が旨く折り合わず、旅程の残り日数の関係で会うことを断念、都に急ぎ戻りはしたが、いずれ九州を再訪することがあれば今度こそは直に話を聞いてみたいと考えているほどである。
 されど、だからと言って、夷人と日頃から親しく笑顔で付き合いたい気には、どうしてもなれぬ。崎陽へ立ち寄った折にも、居留地の外でも我が物顔に歩いている夷人共を往来で見掛けては、日の本の人々の暮らしが此奴らに土足で踏みにじられているのだと内心で悲憤慷慨していた。外夷の文物の有用性は認めても、外夷に嫌悪感を覚えてしまう心根は、そう簡単には変わりはしない。
「伊東先生、少しお休みになりませんか」
 供をしてくれている新井君が、こめかみから流れる汗を拭いたげな表情で声を掛けてくる。私は頷いた。
「我儘を言って良ければ、茶屋の座敷に上がってしまうよりは、店先に腰掛を並べている茶店か何かの方が良いな……折角こうして兵庫津まで来たのだから、しばし心を放下して、道行く者達を眺めていたい」
「かしこまりました」
 新井君は微笑と一礼とを残して、歩く足を速めた。……どうやら、休息するに適当な店を探してくれるつもりらしい。普通ならば小者のするようなことだと思うのだが、今回は高台寺月真院への屯所移転の種々《くさぐさ》を終えたところで思い立った些少の息抜きを兼ねた遠出でしかなく、小者も連れていない。私は敢えて引き止めることなく彼の好きにさせ、自分は殊更にのんびり歩を進めた。
 程なくして戻ってきた新井君の案内で、小さいが感じの良い茶店の店先に腰を下ろす。出された茶の適度な温《ぬる》さが、喉に心地好く沁みた。
「……鷲の心を知らぬ群雀《むらすずめ》とて、精一杯に囀り、生き生きと飛び回っているものですね……日々の活計《たつき》を立てる為に」
 往来の活気を見ながら、新井君が呟く。
 私は微苦笑した。いつぞや、九州下りの折に私が書き留《と》めた歌を念頭に置いているのだと、すぐ思い当たったからである。
「そうだな。……ついつい、群雀には鷲の心などわかるものかと嘆きを覚えることもあるが……憂国の志を持つことなく俗世に日々を送り活計《たつき》を立てる民草が、憂国の士を物心両面で支えることも少なくはない。それを忘れてはなるまいよ」
「また随分と、高い所から偉そうなことを言ってるじゃねえですか」
 不意に背中から浴びせられた男声に、私はドキリとした。
 新井君が、些かムッとしたように振り返る。
「先生に失礼なことを申すな」
「偉そうな奴に偉そうだねと正直に言うのがそんなに悪いことですかい? お武家さんは兎角、商人《あきんど》と見ると軽蔑しなさるが、商人《あきんど》だって色んなものと戦いながら活計《たつき》を立ててるんですからね。ま、あっしは、その商人《あきんど》に使われてる身でしかねえが」
 ……私がドキリとしてしまったのは、言葉の中身に何かを感じたからと言うよりは、男の声が、あの土方歳三の声に似ていたからであった。新選組からの分離以来、久しく耳にしてはいないが、その刺《とげ》のある物言いも含め、私にとっては、痛く切ない記憶を呼び覚ましかねない声音であった。
「しかし、先生の話に挨拶もなく割り込んだのは無礼であろう」
「新井君」
 私は苦笑混じりにかぶりを振った。
「構わぬよ。我々とて、利いた風な口を高処から利かれた時には、皮肉のひとつも吐かずにはおれぬという気持ちになる。喧嘩腰で食って掛かるほどのことでもあるまい」
「ふぅん。あっしの経験からすると、変に物わかりのいい口を利くお武家さんは、すぐに頭に血を上らせて怒鳴ってくるお武家さんより百倍したたかで、扱いにくくて質《たち》が悪いですねえ。言っときやすが、褒めてるんですよ」
「わかっているよ」
 応じて、私は振り返った。
 後ろの腰掛に腰を下ろしていたのは、三十になるやならずや、十人いれば五人は好男子だと認めるであろう顔立ちの青年であった。内心で恐れていたほどには土方に似ていなかったが、強いて言えば顔の輪郭が、土方に似ていないとも言えない感じである。ただ、土方のような一見優男風の風貌ではなく、反骨精神が前面に出ている印象が強かった。
「恐らく、五月の鯉の吹き流しだろうとは。……畿内の者の言葉ではないようだが、江戸……関東の者かね」
 相手が土方に似過ぎていなかったことに内心でホッとしながら、私は言葉を掛けた。相手は微妙に毒を含んだ笑みを浮かべると、手にしていた串から団子をひとつ、横ざまに引き抜き食った。
「今は、横浜で、エゲレスから来た商人《あきんど》に使われてやすよ。前は、先生お見立ての通り、江戸にいやしたがね」
 余りにさらっと言われて、私は一瞬、何と反応して良いかわからなかった。が、エゲレスと聞いた瞬間に我々の表情が知らず硬くなったのだろう、相手の青年の笑みは毒を深めた。
「お武家さん方も、夷人と聞いたら唾を吐きたくなる口ですかい」
「……そうとは言っていないが、夷人に使われていると堂々名乗る者に出会ったのは初めてだ」
 私は、肩の力を努めて抜きながら返した。
「この新井君も私も、他ならぬこの兵庫津から蒸気船に乗り込んで九州へ下ったことがある。異国の文物だからというだけで何もかもを毛嫌いする域は脱して久しい」
「へえ。そいつぁお見それしやした」
 青年の笑みから、毒が格段に減じた。



Copyright (c) 2007 Mika Sadayuki
背景素材:「十五夜」さま