私は、彼の側《そば》に立っていた。
 凍え果てながら最期の呼気を送り出した筈なのに、ふと気付くと、私は、彼の側に立っていた。
 たったひとり、私の遺骸を見下ろして佇んでいる、彼の側に。
 冷たい闇に抱かれてぼんやりと混濁していた筈の意識が、自分が今彼の側にいるのだと認識した途端に、鮮明さを帯びる。

 側に、いたい。
 あなたの、側に、いたい。

 そんな思いだけが、今の私の全てだった。
 他には何も、なかった。
 そして、そのことを咎める者は、もう、誰もいなかった。
 何故なら、私は、死んだのだから。
 そうだ。
 こうしてこの玉の緒を他者から断ち切られる以外に、私の辿るべき道はなかった。
 生きていたところで、彼の心を失い果てる所業に走らねばならぬだけだったのだから。現世のしがらみが、私をそこへ否応なく引きずってゆくだけだったのだから。
 だが、もはや、現世のしがらみは何ひとつ、私を縛ることは出来ない。
 何故なら、私は、死んでしまったのだから。

   ※※※

 遂に近藤を亡きものにしようと考えてしまったのは、愚かしい嫉妬の故であった。
 そんなことをしたところで、土方が振り向いてくれる筈などなかったのに。
 確かに、もし、身命を擲《なげう》ってでも支えたい近藤勇を喪えば、土方は、新選組を維持する為に、私の前に膝を屈しただろう。
 けれど、たとえ顔はこちらを向いても、心は未来永劫、私の方を向くことはない。
 そんなことは容易に思い及んで然るべきだったのに、愚かしさの余り、私は、近藤を葬り去る計画を立ててしまった。同志に諮り、了承を得、実行の日を待つばかりとしてしまった。
 思えば、斎藤君が姿を消した時点で、私は、疑わねばならなかったのだ。計画が新選組側に洩れたことを。
 ……いや、今更だが、本当のことを言えば、かすかに、疑わないでもなかった。けれども今日の午後、近藤から来訪を請う書状を受け取った時に、私は、招きに応じれば土方に会えるという思いに取り憑かれてしまった。だから、不審の念から目を背け、斎藤君が姿を消した理由が書状に書かれていた通りなのだと己に信じ込ませ、危険だと引き止める篠原さんを嘘で言いくるめさえして、単身醒ケ井へ赴いたのだ。
 だが、土方は承知していたに違いない。私が、全ての疑惑に目を塞いででも招きに応じてしまうに違いないほど、彼に会いたいと思ってしまうであろうことなど。
 そして、この招きが罠であったのだと、騙されたのだと気付いた時には、もう私は、致命傷を負わせられていた。

 彼が芹沢の話を聞かせてくれたのは、私から平常心を奪う企み故だったのだ。
 あの突然の……も、計算ずくだったのだ。
 全ては、私から正常な判断力を失わせる為の所為に過ぎなかったのだ。
 それを私は、やっと彼が心の内側をほんの少しであっても見せてくれた、あまつさえ私を憐れんで唇まで合わせてくれた、と心揺さぶられ、この身と心に思いがけない報いを受けた、と深く惑った。そして、彼のこと以外何ひとつ考えることも出来ず、彼に指し示されるままの道を選び取り、酔いの足に任せて周囲も見ずに歩き、致死の刃《やいば》を身に受けて斃れた。
 全ては、詐術でしかなかったのだ。
 あの彼が、あの土方歳三が、私になど心を開いてくれる筈はなかったのだ。
 なのに私は、彼の非情さを忘れ、己の恋闇に目を眩まされた……

 己の愚かしさを嗤いながら息絶えなんとしていた私は、けれども、最後の最後になって彼が示してくれた情けに、己の裡を冷たく染めたそんな思いが誤りであったことに気付いた。
 あれは、嘘ではなかったのだ。
 招待の理由は偽りのものであっても、あれだけは、詐術ではなかったのだ。
 結果として私が常の判断力を失ってしまっただけで、彼の方には、そんなつもりはなかったのだ。
 彼は、何の打算も企みもなしに、私に芹沢の話を聞かせてくれたのだ。そして、気の迷いからだとしても、私を憐れんでくれたのだ。

 そして、気が付いた時には、私は、土方の側に立っていた。
 たったひとり、私の遺骸を見下ろして佇む、彼の側に……
「……てめェを悼んでやるなんて、出来やしねえ」
 低い声が、彼の端整な唇を白い息と共に衝く。
「俺ァ……鬼だからよ」
 そんなことはない、と言おうとして、私は、自分が既に彼に声を伝える術《すべ》を喪っていることに思い至った。
 そうだ……私は、死んでしまったのだ。
 二度と、彼と言葉を交わすことは出来ないのだ。
 ……現に彼は、すぐ傍らに立つ私に、気付いた様子もない。
 どうやら、今の私は、周囲の者には姿すら見てもらうことの出来ぬ存在らしい。
 しかし、生きていた時と同じように目も見えるし、耳も聞こえる。自分の手足も自分で見える。
 私は、確かに此処にいる。
 なのに、土方には、私が見えていない。
 どうしようもない痛みが、もう存在しない筈の胸を締め付けた。
 答えたい。
 あなたの言葉に、答えたい。
 あなたは鬼などではない。何処までも怨みと憎しみの目で見ていた筈の私にさえ、最後の最後になって情けをかけてくれたではないか。
 そう、伝えたいのに。
 あなたにはもう、私の声は届かない。
「……ただ、ひとつだけは認めるよ」
 不思議に物寂しさに彩られて見える横顔が、静かに言葉を続ける。
「確かに、あの人とてめェは違う。絶対に同じじゃねえ。だけど、てめェも、俺にとっちゃ、どう忘れようったって忘れられっこねえ人間だ。一生かかっても、てめェのことは、忘れられねえだろう。死ぬまで、覚えてるだろう。……あの人のことと、おんなじようにな」
 私は、うち震えた。
 あなたは、私のことを忘れないと言ってくれているのか。
 あれほどあなたを踏みにじり、何もかも奪おうとした、この私を。
 あなたの為に己の一切合切を、命さえをも投げ出したという芹沢のことと、同じように。
 ふうっ、と気が遠くなる。
 余りの報いに、目を閉ざしてしまう。

  ※※※

 穏やかに流れゆく水の音が、喪った筈の身の裡に響く。
 川向こうからの抗い難い力が、私を川辺へと誘《いざな》う。
 いつの間にか、一面見渡す限りに時季外れの菜の花が咲き乱れる光の野を、私はひとり、漂い歩いている。
 やがて、行く手に、大きな川の輝きが横たわる。
 何と蠱惑に満ちた、ゆったりと緩やかな流れ。この川を渡れば、先に逝ってしまった人々と逢える。懐かしい友垣にも、そうだ、父にも逢える……
 此岸のことは全て忘れて、心静かに微睡むことが出来る……

 ──嫌だ。

 不意に、稲妻にも似た思いが私を貫く。

 まだ、私は、土方の側にいたいのだ。
 土方の側に、いたいのだ!

 強烈に意識を貫いたその思いが、辛うじて、ふらふらと川に足を入れそうになった私を、踏み止《とど》まらせた。
 駄目だ。
 渡っては駄目だ。
 引き返さねば。
 引き返して、彼の側に留まらねば。
 そう思って身を翻した途端、周囲の光景が一変した。
 あっという間に辺りが暗くなり、暴風と言っていいほど激しい向かい風が、殴りつけるように吹いてきた。あんなに優しくそよいで私の歩みを支えていた花々が、私の手足を搦め取り、戻らせまいとした。背後で、川の音が轟々と、今にも私を呑み込もうとするかのように鳴り響いた。
 私は死に物狂いで足掻き、全ての束縛を振り払った。
 嫌だ。
 私は行かない。
 戻るのだ。
 土方の側に、戻るのだ!
 幸いにも、ひと筋の細い糸が、辛うじて、私と彼とをつないでいた。その糸が一体何であるのか、私にはわからなかった。だが、確かにその糸は、私の手の中にあった。そして、その糸のもう一方の先が彼の手の中にあることだけは、間違いなかった。私は無我夢中でその糸を手繰った。手繰って、手繰って、手繰り続けた。
 抗うべくもないように思えた彼岸からの力が、段々と弱まり、やがて、殆ど感じられなくなった。

 疲労し果てながらも私は、ようやく、目指す相手の許へと蹌踉《よろぼ》い戻った。

 土方は、月下の遺骸を見下ろしていた。
 随分と離れていたような気がしていたが、ほんの少しの時間に過ぎなかったのだろうか。
 思いながら見直した私は、はっとなった。
 その遺骸は、私のものではなかった。

 ──藤堂君、なのか。

 ふと気付けば、争闘の音が、周りにあった。
 一体、何が起こっているのか。
 周囲を見回す。
 真っ先に目に留《と》まったのは、小路《みち》の交わる辺りに置き去られた駕籠
 そこには、かつて私であったもの[#「もの」に傍点]が、寄りかかるように座していた。
 まるで、駕籠に乗り込みかけてそのまま眠ってしまったかのように。
 喧騒の中で、その場所だけが、不思議なほど静かだった。
 ……そうか。
 同志達が、私の遺骸を引き取りに来てくれたのだ。そして、そこを新選組に待ち伏せされて襲われたのだ。
 多分、新選組側が私の横死を月真院の面々に知らせ、私の屍《かばね》を餌に誘き寄せたに相違ない。これを機に、一挙に我々を葬り去ろうと考えて。……土方なら、そのくらいやりかねない。
 藤堂君の他には、誰が来ていたのだろう。
 いまだに剣戟の音や傷付けられたらしき者の呻き声が聞こえてくるということは、他にもまだ、同志が残って戦っている筈だ。

 そう思いながら動かした視線の先に、五体が原形を留めていない遺骸。

 ──毛内《もうない》君?

 斬るな、突け、突け、という怒号が聞こえる。
 覚えのある声だ。
 声の主を求めて振り返った私は、多勢を相手にひとり奮戦している服部君の姿を見出《みいだ》して、凍り付いた。
 わかってしまったのだ。
 彼が、今、この場で、命を落とすということが。
 その仕手は、先程の声の主──原田左之助──
 それらは一瞬の内に言葉として鳩尾の辺りに落ちてきた。拒むことも出来なかった。
 思わず救いを求めて辺りを見回した私は、惑乱した。
 まるで周囲の人間全てのではないかと疑うほど凄まじい人数の将来《さき》が、己の裡に雪崩れ込んできたのだ。
 余りにも一時《いちどき》に殺到してきた言葉を、受け止め切れない。
 戦──
 大きな戦が──
 辛うじて、それだけがわかる。
 私は急いで周囲の新選組隊士達から目を背けた。誰かに目を留《と》めるとその相手の将来《さき》がわかってしまいそうで、怖かった。
 だが、周囲に不用意に背を向けた私は、必然、土方の姿を目にすることになった。
 咄嗟に目を閉じようとした私は──
 気付いた。
 来ない。
 何も来ない。目の前の男の将来《さき》は、一語たりとも、胸に落ちてこない。
 何故なのだろう、と訝ったその時、伊東先生、と私に驚いたような声をかける者がいた。私の姿が見える者がいるのか、と吃驚して頭《こうべ》を回《めぐ》らすと、すぐ傍らに、藤堂君が立っていた。
 ……成程、同じ亡霊同士なら、見えるということなのか。
 妙に納得していると、藤堂君は矢庭に私の前に両手を突いた。
〈先生──お詫びしてもし切れない──俺は──見逃しました──斎藤君を──間者と知りながら〉
 呻くような言葉に、私はまじろいだ。
〈何とか止めてほしかったんだ──あんな企てを──だから俺は──〉
〈……手を上げてほしい〉
 私は腰を屈め、蹲る藤堂君を抱え起こした。藤堂君にとって、かつて師と仰ぎ慕い、新選組を離れた今でも決して憎んでなどいなかった近藤を暗殺するという企ては、どれほどつらいものだったろう。それを知りながら、己の嫉妬に任せてあの企てを彼にも強いた私なのだ。
〈彼を間者と見抜けなかった私が愚かだっただけのこと。詫びる必要はない〉
〈でも先生──〉
〈詫びねばならぬのは私の方だ。私の愚かさ故に、君達の身にまで死を引き寄せてしまった。……償うことも出来ないのが、苦しいばかりだ〉
〈いいえ、俺は──けれど先生は生きておいででなければならなかったお人です──なのに俺は──〉
〈いや、違うよ、藤堂君。私は、これ以上、生きていてはならなかったのだ。生きていれば、今更やめにしたいとも言えず、近藤を討たねばならなかったのだから……これで、良かったのだ〉
 ふっと──
 穏やかに告げた言葉の一体何処に対してなのか、藤堂君は何かしら怯んだような表情を浮かべた。
〈先生……それは……〉
 半ば呻くように言葉を絞り出しながら、ぎゅっと、私の袖を握り締める。
〈近藤先生を殺せば土方さんから永久に憎まれるだけだと思い直されたからですか?〉
 ──私はギクリと身を震わせた。
 不意に突きつけられた言葉に、不覚にも、咄嗟の返事が出なかった。
 藤堂君の目が、苦みを帯びて細められる。
〈やっぱり、そうなんですね〉
〈……藤堂君……一体何を言い出す……〉
〈もう隠さないでください。俺は知ってます〉
 いっそ落ち着いた声で、藤堂君は呟いた。
〈先生が本当に手に入れたかったのが、新選組なんかじゃなかったってことは。……新選組を出て行った日、先生が土方さんに何をおっしゃっていたか、俺は、はっきり覚えています。……あの時、斎藤君が止めに入るよりずっと前から、俺は、土方さんの部屋のすぐ外にいたんだ〉
 な……
 何だと……?
 あの……時に……土方の居室の……すぐ外に……いた……?
 私は、自失した。
 ……何ということだ……
 そんなに前から、知られていたのか……
 そんなにも前から、この青年は、私の土方への恋着を、そしてあの狂気の振舞を、知っていたというのか……
 ……ああ、だからこの青年は、斎藤君を止めることなく行かせ、そして私達に対しては“彼は最近馴染みの女に入れ込んでいた、だから金を持ち逃げしたんじゃないか”と誤魔化し取り繕ったのだ。
 私の口にした企てが、国事の為でも何でもなく、ただ近藤への嫉妬から出たものに過ぎないと、見抜いていたから。
 思い起こせば、市中で土方と近藤の行き違う姿を、そしてその信頼と友愛の有様を目の当たりにし、目も眩むような嫉妬に全身を鷲掴みにされて近藤の抹殺を決意した時、その時に私の傍らにいたのは、この青年だった。
 彼には、私がいきなり近藤の暗殺を皆の前で口にした時、その真の理由のみならず、何故そういう考えに至ったかのきっかけまでもが見えたに違いない。
 だから彼は、斎藤君を見逃したのだ……
 ……私を滅ぼしたのは、やはり、他でもない、私自身の愚かしさだったのだ。
〈俺は、伊東先生が土方さんに想いを懸けてたことを責めようとは思ってない。だけど、焼餅で近藤先生を殺そうなんて、そんなこと、してほしくなかった。だから俺は……〉
〈藤堂君……〉
〈でも俺は……俺は……もしかしたら……〉
 つと──
 藤堂君の表情が恐ろしい葛藤に歪んだ気がした。
 その歪んだ表情のまま、私の袖から手を離し、再び蹲り、まるで私から目を背けるかのように、佇む土方を見上げる。
〈もしも……土方さんが最後に言ったことが……本当なら……俺は……山南先生の敵《かたき》を死に追いやれたのかもしれない……〉
 殆ど独白のようなその言葉に、私は、思わず土方の横顔を見た。
 居待ちの月を見上げる、その端整な横顔を。
 ……喋ったのか。
 藤堂君があれほどに知りたがっていた、山南の死の真相を。
 私に芹沢のことを話してくれたと同じように、死にゆく相手に、手向けとして打ちあけたのか。
 何と……奇妙な優しさを持つ男だろう。
 つくづく、生きている間に、もっと、側にいたかった。もっと側にいて、見つめていたかった。語り合い、その声を聞いていたかった。鬼面しか見せようとしてくれぬ、その下の素顔を知りたかった。
 だが、今からでも、遅くはない筈だ……
 いやむしろ、時として煩わしくさえあった肉の身を喪った、今だからこそ……
 ゆっくりと姿勢を正すと、私は、土方を見つめたまま動かない藤堂君を見下ろした。
〈……川の向こうへ行ったら、山南に伝えてほしい〉
 藤堂君が、ぎくっとしたように視線を向けてくる。
 構わず、私は続けた。
〈いずれ川を渡る日が来たら、真っ先に、貴殿の前に両手を突いて詫びるからと〉
〈いずれ……?〉
〈私は今く、此岸に留まる。……いや、もう隠すなと言われた以上、隠すまい。私は、土方の側に留まる〉
〈先生!〉
〈誰からどんなに誹られても詰られても構わない。私は、ただ、彼の側にいたい〉
 きっぱりと、私は、言い放った。
 生きている間は、許されなかった。土方も、そして私の周囲の者達も、私が彼の側から離れるしかないように仕向けた。そして私は、その流れに抗うことが出来なかった。何故なら私にも、志があり、野心があり、そしてしがらみがあったからだ。たとえ一時《いっとき》狂気に押し流されそうになっても、それらに囚われている限り、結局は、己の恋着ひとつに狂うことなど許されなかったのだ。
 だが、もはや、志も、野心も、しがらみも、私を縛ることは出来ない。
 もう、彼に心を傾けてはならない理由は、何処にもない。
 ……自惚れるつもりはないが、志は、誰かが継いでくれるものだ。
 けれども、この想いは、この、私の土方への想いは、知れば誰もが篠原さんのようにとんでもないと諫めたに違いない想いは、誰が継いでくれるというのか。いや──そもそも、誰かが継ぐべき性質のものではないのだ。
〈私は生前、どうしようもなく彼に惹かれ、されど少しも報われず、その冷たさとつれなさに次第に心狂わされ、どうにかしてこの手に入れたいと昏い企みを抱《いだ》き、ひたすら傷付け苦しめ何もかも奪って跪かせてやろうという妄執に囚われ、けれども結局何ひとつ手に入れることが出来なかった。それどころか、傷付き苦しみ、何もかも奪われたのは、私の方だった。心を奪われ、正気を奪われ、そして今、命まで奪われた。だが、それでもなお、彼を恋い慕う心は此処に残っている。いや、此処に残っているのは、もう、彼への想いだけでしかない〉
 そう。
 今の私は、生前の私──元新選組参謀だとか、御陵衛士頭取だとか、そういった肩書を冠されていた“志士”ではない。
 土方歳三という男の側にいたい、ただそれだけの想いで此処に残っている、亡者なのだ。
 それほどまでに、彼は、私の魂に刻まれてしまったのだ。
〈私は今やっと、誰の目も耳も憚らず、この男のことだけを考えていられる身になれたのだ。だから私は、まだ川を渡りたくない。……一度は川岸まで行った。けれども、全てを振り切って、此処へ戻ってきた。その時に私に戻る力を与えてくれたのは、生前の志でも野心でもなかった。ただ、この男の側にいたいという切なる想いだけだった。……無論、いずれ抗い敢えず川向こうへ流される日は来るだろうが、それは断じて、今ではない〉
 藤堂君は、黙っていた。
 何処か苦いような、痛いような、苦しいような、泣きたいような、複雑な表情で、ただ、私の目を見ていた。
 私は、静かに膝を折り、そんな彼の前に両手を突いた。
〈……君には、申し訳ないと思う。いや、私を信じて付いてきてくれた全ての同志達に申し訳ないと思う。到底皆に顔向け出来る所業ではないと、わかっている。だが、それでも私は、彼の側にいたいのだ。触れることも言葉を交わすことも出来なくていい、気付かれなくても何ひとつ報われなくてもいい、ただ、彼を見つめていたいのだ。生きている間は様々なしがらみ故にどうしても離れていなければならなかった、その埋め合わせをしたいのだ。……この、他人から見れば愚かしい我儘でしかない所業を、許してくれとは言わぬ。皆に呆れられ、嘲り罵られ、見捨て見放されることは覚悟の上だ。だから、私が君に言いたいことは、唯ひとつ〉
 叩き付けるように、頭《こうべ》を垂れる。
〈──このまま、見逃してほしい〉
 私には、わかっていた。それでも藤堂君が私の腕をつかんで共に川を渡ろうとするなら、私には振り払うことが出来ない。彼に触れ、彼から袖をつかまれた時、私は、殆ど遠ざかっていた筈の彼岸の力を感じた。私を魂の還りゆく地へ引き込もうとする、抗い難い力を感じた。そして、それを自身では振りほどくことが出来ない己を知ったのだ。
 真っ当に川向こうへ渡ろうとする死者には、彼岸は、川を渡る為の力を与えてくれる。
 だが逆に、此岸に惑い留まろうとする亡者からは、その留まる為の力を奪おうとするのだ。
 だから、真っ当な死者と私のような亡者とでは、勝負にもならない。この世に留まりたいと思うなら、決して、彼らの手に捕われてはならない。彼らの目に留まらぬようひたすら身を潜め、それでも彼らに見付かってしまったら、死に物狂いで足掻いて逃げ回るか、こうして見逃してくれと這いつくばるかしかない。
 生前の私なら、耐えられなかっただろう。こそこそと隠れ、為すところなく逃げ回り、惨めに這いつくばらねばならないなど、矜恃が許さなかっただろう。
 けれども、今の私には、出来る。
 死してなおこの身に残る想いを貫く為なら、どんなことでも出来る……
〈……ひとつだけ、教えてください〉
 やがて、ぽつりと、言葉が届いた。
〈本当に……伊東先生が……山南先生を……陥れたんですか〉
〈憎くて陥れたわけではない〉
 躊躇うことなく、私は答えた。たとえ真実を話すことが藤堂君の私への憤りを招く結果になるとわかっていても答えねばならない、と思った。
 何故なら、この青年の死は、全く以て、私の愚かしさ故にもたらされたものなのだから。
 その償いも出来ぬ私が、どうして彼の問をはぐらかしたり拒んだり出来ようか。
〈だが、土方が、山南が戻ってくることをひそかに心待ちにしていた。山南さえ戻ってくれば私になど大きな顔はさせない、同じ学のある人間を置かねばならぬなら私よりも山南の方が百倍いい、と彼が思っているのが、私には、嫌になるほどにありありと見えた。だから私は、彼がその手で山南を処断せねばならなくなるようにしてやったのだ。……私は、療養中の山南の許を訪れては、その前で土方の冷徹非情さを殊更に褒め続け、新選組の在り様《よう》に強い懸念を抱《いだ》くように運び、遂には土方がいる限り新選組には戻らぬという近藤の書簡を認《したた》めるように仕向けた。あとは、事を荒立て、土方が引っ込みがつかなくなるように、他の幹部達の前でその書簡を公開させるだけで充分だった。……あの頃、もう既に私は、あの男への想いに惑い始めていた。その冷たさとつれなさに、狂い始めていた。どうせ笑顔を見せてもらえぬのなら、せめて、あの男の人知れず苦しむ顔を見たいと願っていた。……私とて、人ひとり死に追いやった良心の呵責に一時《いっとき》苦しみはした。けれど、あの男が陰で山南の死に苦しみ悶える姿を見ることが出来た悦びが、それに百倍した。だから、後悔はしなかった〉
 頭を下げたままの私には、藤堂君の表情は窺えない。
〈……土方は、じきに、山南の死が私の企みの結果だと見抜いた。そして、私の口から、その企みが私の彼に対する妄執から為されたものであったことを知った。だが彼は、他人には決して真相を語らず、山南を慕っていた者達の憎しみを一身に引き受けた。……彼が口を閉ざし続けたのは、まず疑いなく、山南の名誉を守りたかったからだ。私の妄執の犠牲になったなどと明かしてしまっては、その死が救いようのない惨めなものになると思ったからだ。……多分、最後になって君に打ちあけたのは、それでも知りたいと願う君の望みに思いを致したからだろう〉
 私はひとつ“息”をついた。
〈……これで、君の問に対する私の話は終わりだ。もう私には、自分の愚かしさを隠すつもりはない。もしも君が更に問うなら、私が今迄、他人《ひと》に知れぬところで土方にどれだけ悪辣な揺さぶりをかけ続けてきたか、残らず話しさえしよう。……もっとも、今の話だけでも、私がどれほど人の倫を外れた悪行を重ねてきたかを察するには充分だろう。……君が私をどう思い、どうするかは、君次第だ。私がどんなにこの世に留まりたいと望んでも、君が構わず私の腕を取れば、もう私は逃れることが出来ない。否応なく、川向こうへと連れてゆかれてしまう。そして君は、私にそうしていいだけの理由を持っている。だがそれでも、それでも私は、身勝手を承知で頭を下げる。どうか、どうかこのまま、今暫く私が此岸に留まるのを見逃してほしいと〉
 答は、返ってこなかった。
 私は手を突き頭《こうべ》を垂れたまま、待った。ただ待ち続けた。そうするしか出来なかった。
 どのくらい、そうして頭を下げていたのだろう。
 ふと気が付いてみれば、いつの間にか、周囲にあった争闘の音が止んでいた。
 そして、それに気付いた時、
〈……土方さんが、行ってしまう〉
 低くひとりごちるような声が、降ってきた。
〈そんなに側にいたいなら、今すぐ付いていけばいいんだ〉
 私は、思わず顔を上げた。
 藤堂君は、既に立ち上がり、私に背中を向けていた。
〈頭なんか、下げてほしくなかった〉
〈……藤堂君……〉
〈そんな風にされなけりゃ、どんなに嫌だって言われたって、俺は、山南先生の前に引きずっていったのに〉
 半ば吐き捨てるように呟くその肩が、震えた。
〈俺は、もう行きます。服部さんと毛内さんが待ってる〉
〈……有難う〉
〈礼なんかいらない〉
 藤堂君はそのままついと地を蹴った。そして、居待ちの月が青白く輝く空へと滑った。
〈先生は、みんな、包み隠さず話してくれた。それは先生がずっと、山南先生を死に追いやったことを心の底で引きずってたからだ。本当に後悔していないなら、あっさり忘れてしまえる筈だ。だけど、先生は、少しも忘れなかった。……先生だって、全然苦しまなかったわけじゃない。俺は、そう信じます〉
 そんな言葉を最後に、藤堂君の姿は、月明かりに溶けるように消え失せた。
 私は、両手を突いたまま、それを見送った。
 最後まで私の方を見ようとしなかった顔に一体どんな表情が刻まれていたかは、知る由もない。
 けれども、冷たい軽蔑ではなかったことだけは、わかっていた。
 ……有難う。
 もう一度だけ呟いて、私は、立ち上がった。そして、生者の誰ひとりいなくなった周囲を見回し、かつて私であったもの[#「もの」に傍点]に目を止め、静かに微笑んだ。今改めて見直せば、戻した覚えのない刀が何故か鞘に収まっており、閉ざした覚えのない両の瞼が淡々と閉ざされていた。
(……あなた、ですね)
 有難う。
 さっきと同じ言葉を、今度は別の、今は此処を離れてしまった相手に向けて呟くと、私は、己の屍《かばね》に背を向けた。
 そして、冴え凍る月の夜空へと、身を躍らせた。
 己が恋い慕い、なお惑い続けると決めた、その男の許へ戻る為に。



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