「歳、今度の江戸行きだけどな、伊東君と行ってくれ」
局長近藤勇からそう言われた時、土方歳三は絶句した。
元治二年三月、新選組の屯所
《とんしょ》が壬生から西本願寺集会所に移って、間もない頃
《ころ》である。移転によって屯所が広くなったこともあり、江戸で新たな隊士を募
《つの》るべく、歳三は一両日中にも出発することにしていた。沖田総司が同道する予定になっていたのだが──
「ちょ……ちょっと待ってください、近藤さんっ」
たっぷり五秒
│経
《た》ってしまってから、歳三はうろたえたような抗議の声をあげた。
「何で俺が伊東の野郎なんかと──」
「おいおい、歳さん、口を慎めよ」
勇は苦笑いを浮かべた。
「仕方ねえだろ、総司が忙しくて行けねえってんだ。伊東君も久々に藤堂
《とうどう》君に会いたいと言ってるし、構やしねえじゃねえか」
冗談じゃねえ、構うよ──項
《うなじ》の毛が逆立つ思いで、歳三は唇を歪
《ゆが》めた。総司が行けそうにないと言っている、という話は昨日
《きのう》から聞いていたが、何だって
[#「何だって」に傍点]その代わりが伊東甲子太郎なのだ。
「大体、歳、おめェは妙に伊東君を嫌い過ぎるよ。ちったあ、あの人の話も聞いてみろ」
「俺が嫌い過ぎてるわけじゃねえ、あんたが無防備過ぎるんだ」
「やれやれ、どうにかならねえもんかな」
勇は首筋を叩
《たた》く。
「一体何だってそんなにあの人を嫌うんだ?」
(言えるかよ)
歳三は腹の内で呟
《つぶや》いた。あの悪夢の日
[#「あの悪夢の日」に傍点]から、まだ一か月も経っていない。
(畜生……どうにかならねえかって言いてえのは、俺の方だ)
あれから特に変わったことはないとはいうものの、それは歳三の方が相手とまともに行き会わぬようにひたすら努力しているからなのだ。今度の江戸下りにしても、ああこれで当分は伊東の野郎の面
《つら》を見ずに済む、と、清々
《すがすが》しい気分でいたのだ。
それなのに、何故
《なぜ》、よりによって甲子太郎とふたりで
[#「よりによって甲子太郎とふたりで」に傍点]、旅をしなければならないのだ。
「……嫌いなものは嫌いなんですよ、局長」
「おめェなァ……とにかく、今回は一緒に行ってくれ。もう伊東君の方にも、それじゃ行ってもらおうって言っちまったんだ。総司は無理だが、他に誰か付けてもいい。少々の無理は聞くから」
歳三は深いため息をついた。
「……わかりました。それなら、斎藤君を連れていきますが構いませんか」
「斎藤君を?」
「彼なら、元は江戸にもいた人間、向こうで募集の助けになるでしょう」
「……それだけじゃなさそうだが、まあ、訊
《き》くまい」
勇は苦笑すると頷
《うなず》いた。
「いいよ、歳の思う通りにしてくれ。伊東君と斎藤君には今日中に俺から言っておくから」
「有難うございます、局長」
ホッとしながら、歳三は頭を下げた。斎藤一なら、あの一件
[#「あの一件」に傍点]も承知しているから巧
《うま》く間に入ってくれるだろう。それしか慰
《なぐさ》めがないというのは情けなかったが、まさか気に入らないから叩っ斬
《き》るというわけにも行かない。
(今から道中思いやられらァ……何にもねえようにって願う方が無理だろうし……)
旅立ってしまったら他の隊士の耳目
《じもく》がないだけに、何を仕掛けてくるやら知れぬ。幾
《いく》ら一が同行してくれるといっても、始終歳三の側
《そば》にいられるわけではない。甲子太郎がどう出てくるか……
腐った気分を変えようと、歳三は厩
《うまや》に足を運んだ。青毛の牝馬
《ひんば》射干玉
《ぬばたま》とひとっ走りしてくれば、少しは憂
《う》さも晴れるだろう、と思ったのだ。
ところが、厩に行くと、そこには馬丁
《ばてい》の芳介
《よしすけ》と葦毛馬
《あしげうま》の白天竜
《はくてんりゅう》しかおらず、射干玉の姿はなかった。
「あ、土方先生──射干玉なら、沖田先生が乗って出られてます」
「総司が?」
「小半時
《こはんとき》も前でしたかね、そろそろ戻られると思うんですが」
「……仕様がねえ奴だな」
歳三は呟いて苦笑いした。
初めてのことではないのだ。まだ屯所を移転する前にも、こんなことはあった。山南敬助の切腹から十日ほど経った頃だったろう。その頃歳三は西本願寺への移転準備に忙殺されていたのだが、馬丁の芳介から、最近ちっとも走らせてもらえないので頗
《すこぶ》る射干玉の機嫌
《きげん》が悪い、と泣きつかれ、仕方なし暇
《ひま》を作って厩に出向いた。が、どういう訳か、行ってみると当の馬がいない。首をかしげて外へ出たところへ、馬丁の響きと共に、射干玉に跨
《またが》った総司が帰ってきたのである。
『……おめェが走らせてきてくれたのか』
歳三の姿を見て少し顔色を曇
《くも》らせ、黙って下馬した総司に、歳三は静かな声をかけた。それが、あの日
[#「あの日」に傍点]以来初めて彼が総司にかけた言葉であった。
『……ええ、走りたそうでしたから』
総司は呟くように応えた。それが、あの日
[#「あの日」に傍点]以来初めて彼が歳三に向けて利
《き》いた口であった。
『……済まねえな。有難うよ。……暇を作らねえようにしてたから』
歳三が軽く頭を下げると、総司は二度まばたいて、それからかすかに笑った。
『作らないようにしてたんですか』
『……ああ』
『振り返る余裕もないくらい忙しい方がいい……ですか』
歳三は黙って頷いた。総司はわかってくれていたのだ──という思いが胸を浸
《ひた》した。それは切ないような、面映
《おもは》ゆいような、痛ましいような思いだった。
(……俺は、あいつに甘えてるような気がする……と思ったのは、あん時だ)
歳三は厩の入口に凭
《もた》れながら、裡
《うち》にひとりごちた。
(あいつは……俺を責めたかろうに、ひとっことも、あれから、言わなかった……俺はそれを幸いに、あの日
[#「あの日」に傍点]のことについて口を閉ざしている)
自分がいまだに敬助の死にこだわっているのは、事実である。近い内に東下
《とうか》することなどを郷里の義兄に知らせた手紙にも、とうとう敬助の死を書くことは出来なかった。無論、いずれは明かさねばならないとは、わかっている。今度の江戸下りこそが、その機会になるだろう……
「あ、土方さん」
耳に清々しい声に顔を上げると、総司が射干玉の端綱
《はづな》を引いて戻ってきている姿が目に映った。
「射干玉、拝借してました」
「構わねえよ」
にっこりと笑う総司を、歳三は眩
《まぶ》しいものを見るようなまなざしで見つめた。元気そうな総司の姿を見るのが妙に嬉しかった。それが当たり前のものではないのだとあの日
[#「あの日」に傍点]以来思い知らされていただけに、余計、相手の笑顔が嬉しかった。
「別段、俺の馬ってわけじゃねえからな。おめェにも懐
《なつ》いてくれる方が、こいつの為
《ため》さ」
「あんなこと言ってる」
総司は射干玉を見やった。
「あれはね、本当はね、この浮気者め、って言ってるんだよ、土方さんは」
歳三は思わず苦笑したが、特に抗弁はしなかった。
「あ……そうだ、御出立
《ごしゅったつ》はいつですか? 手紙を書いて言付
《ことづ》けようと思ってるんですけど」
「明日
《あした》にしようと思ってたんだがね……もう何日か後になりそうだ。斎藤君にも来てもらうことにしたんでな」
「あれ? そうなんですか? 伊東さんが御一緒だとは聞いたんですけど」
「……誰から聞いた?」
「伊東さん御本人から。私が代わりに行くことになりましたから、って……嫌なんでしょう、土方さん?」
「わかり切ったこと訊くんじゃねえ」
歳三は唇を歪めた。
「おかげで俺ァ一遍
《いっぺん》に気が重くなっちまったよ。……無事に帰ってこられるよう祈っといてくれ」
総司はちらっと目を伏せる。
「……御免なさい」
「馬鹿、何で謝るんだ」
「だって私が忙しいから行けないなんて言ったばっかりに……本当は」
「言うな」
歳三は遮
《さえぎ》った。遮って、微笑
《わら》った。
「おめェが忙しいって言ったら忙しいんだ。何も気にするこたァねえ」
「土方さん……」
「それよりも、俺が留守
《るす》の間、こいつの……射干玉のことを頼む。可愛
《かわい》がってやれば素直ないい奴だ。時々は走らせてやってくれよ」
「……はい」
総司は笑みを取り戻した顔で頷いた。歳三はそんな総司に頷き返すと、射干玉の肩をひとつポンと叩いて、その場を歩み去った。
急を要する旅ではない。
隊士の募集そのものは、昨年
│来
《らい》江戸に滞在している藤堂平助
《とうどう へいすけ》が尽力してくれていることもあって、向こうで自分達が駆けずり回る必要はないからだ。
が、物見遊山
《ものみゆさん》の旅ではない。その辺りの兼ね合いが微妙なところである。
(まあ、半月)
と、歳三は見ている。
(その半月さえ乗り切れりゃ)
旅を始めて暫
《しばら》くは、特段困ったこともなかった。内心ぴりぴりしていた歳三が拍子
《ひょうし》抜けするくらい、何も起こらなかった。伊東甲子太郎は宿でも専
《もっぱ》ら斎藤一に話しかけていたし、一も熱心に聞いている風であった。
「……君を連れてきて正解だったな」
明後日
《みょうごにち》には江戸へ到着するという日の晩、歳三は一にそう言った。
「まったく、君はよくやってくれる。わかっているつもりでも、伊東と話している君を傍
《はた》から見ていると、こいつは本当に伊東に傾倒しているんじゃなかろうか、と、つい疑ってしまうほどにな」
「私は、ただ、黙って聞いて、時折
│相槌
《あいづち》を打っているだけですが」
一はかすかな笑みを浮かべて応じた。夕餉
《ゆうげ》の膳
《ぜん》を前にした宿の一室、丁度甲子太郎は席を外している。
「それがいいのさ。君がお喋
《しゃべ》りでないことは誰もが知っている。そんな君が急に伊東の話をふんふんと拝聴している連中の輪の中に入っていったら、怪訝
《けげん》な目で見られるだろう。君だってお上手
《じょうず》を言って取り入るなど出来まい。黙って話を聞くというのは、大勢の中では目立たん。が、こういう、他に話を聞いてくれる奴のいない場では、実に効果的だ。殊
《こと》に、今ひとりの同行者は端
《はな》からそっぽを向いて聞こうとしないからな」
歳三は魚を毟
《むし》りながら低く笑った。
「しかも、話をきちんと聞いているということが、相槌の打ち方でわかる。まあ、時々的外れな質問をするのは御愛嬌
《ごあいきょう》だが」
「その方が、警戒されずに済みますから」
「やはり故意か」
と、歳三はまた低い笑いを洩
《も》らした。
「その調子で頼む。……いずれは、私と気まずくなることもあるだろうな」
「心がけておきましょう」
真面目
《まじめ》腐った顔で、一は応じた。
「ところで……お知らせしておくべきかどうかはわかりませんが」
「うん?」
「伊東さんから、今晩は副長と少々大事な話をしたいので中途で座を外してほしい、と頼まれています」
歳三は魚の小骨を喉
《のど》に引っかからせて咳
《せ》き込んだ。
「……承知したのか?」
「しました」
「……斬られる方がマシかもしれんな」
飯を丸呑
《まるの》みして小骨を取った後で、歳三は苦い笑みを唇に押し上げた。
「まあいい……逃げて回るわけにも行くまい。今迄
《いままで》が何もなさ過ぎたのだと思うことにしよう」
努めて軽く言ったものの、やはり、甲子太郎が戻ってきて、やがて一が実にさりげなく中座してしまうに到ると、表情はともかく内心は穏やかでいられよう筈もなかった。
(……しかし、一体俺は、何で此処
《ここ》までこいつに怯
《ひる》ませられなきゃならねえんだ)
口も利かず窓の方ばかり見て手酌
《てじゃく》で盃
《さかずき》の縁
《ふち》を舐
《な》めながら、そんなことを思う。
(弱みを握られたとは言い切れねえじゃねえか……あのこと
[#「あのこと」に傍点]を……芹沢さんとのことをハッキリ知られたってわけじゃねえんだからな)
それに、もしも自分の抱
《いだ》くある考え
[#「ある考え」に傍点]が当たっているとするなら、この男は……
と、不意に、何が面白いのか、これまた黙って手酌で飲んでいた斜
《はす》向かいの甲子太郎が、くっくっと喉を鳴らすようにして笑い始めた。歳三は自分の思考から引き戻され、思わず相手に目を向けた。
「いや……失礼」
なおも含
《ふく》み笑いながら、甲子太郎は口を開いた。
「今、土方さんを見ながら、この男は一体今どんなことを考えているのだろう、と色々想像している内に、つい、おかしくなってしまってね。……何を考えていらっしゃったのです?」
「……御想像にお任せしておきますよ」
歳三は再びそっぽを向くと、そっけなく応じた。
「相変わらずつれないお方だ」
甲子太郎はまた笑う。
「折角斎藤君に無理を言ってあなたとふたりきりで差し向かいになる機会を拵
《こしら》えたというのに、そう窓の外ばかり眺められては、私としても意地悪のひとつもしたくなってしまう」
歳三はじろっと相手を斜めに睨
《にら》むと、傍
《かたわ》らに置いていた堀川国広
《ほりかわくにひろ》の脇差を黙って左
│膝許
《ひざもと》に引き寄せた。「意地悪」の意味の察しはついていた。
甲子太郎は苦笑を洩らした。
「……わかっていますよ。私とて奥の手はそうそう使いたくない。やはり基本的には、抵抗がありますのでね」
「賢明ですな」
とだけ歳三は応じた。そして、盃を空けた。甲子太郎がすっと銚子
《ちょうし》を差し伸べてくる。一瞬
│躊躇
《ためら》ったが、断わるのも余りに狭量な気がして、歳三は何も言わずにそれを受けた。甲子太郎は唇を緩めた。微醺
《びくん》を帯びた端麗な白面に、思わずドキリとさせられるほどの色気がよぎった。
「けれどもね、土方さん、あなたなら、抱いてみても面白いかなという気もする」
「……私は面白くありませんね」
びくっとした拍子に盃を取り落としそうになったのを不覚に思いつつ、歳三は返した。鳥肌が立つのが嫌になるほどわかった。
「戯
《たわむ》れも大概にしていただきたいですな。私にも我慢の限界というものがある」
「これは心外」
甲子太郎は微笑を深めて盃を干した。
「私は至って本気ですよ、土方さん」
「……」
「この手の話題になると、山南さんの処断にも眉
《まゆ》ひとつ動かさなかったほど“冷血漢”の筈のあなたの表情顔色が、実に楽しいくらい揺れ動く。余程強烈な思い出があるのでしょうね、あの墓の主
《ぬし》との間に」
「……その話はやめていただこう」
歳三は極低温の焔
《ほのお》を秘めた目で相手を睨み据え、低く呟いた。奇妙な感情と言うべきだろうか、その時彼を衝
《つ》き動かしたのは、この伊東甲子太郎にだけは
[#「だけは」に傍点]芹沢鴨のことを教えたくはない、という思いであった。
無論、誰にも知られたくはない。ないのだが、たとえ他のどんな人間に知られようと、目の前のこの男にだけは、絶対に、知られたくはない。
歳三のそんな感情を、甲子太郎は敏
《さと》くも感じ取ったようであった。
「……成程、随分と大切な人だったわけですね」
そう呟く笑みが、わずかに歪んだ。切れ長の目の奥によぎったものは、歳三を内心ぞっとさせたほどに昏
《くら》かった。
嫉妬
《しっと》、という言葉がもっとも相応
《ふさわ》しいような気がした。
Copyright (c) 1996, 2003 Mika Sadayuki
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