慶応三年十一月十八日の午後、高台寺月真院に在る御陵衛士頭取伊東甲子太郎の許に、新選組局長近藤勇から一通の書簡が届けられた。
「──何ですと!?」
 暫時の後、甲子太郎の居室に、魂消たような声をあげる篠原泰之進の姿があった。
「さ、醒ケ井に行く? しかもおひとりで!?」
「いけませんか? 形の上では、我々はまだ立派な“盟友”ですよ」
 ひどく淡々と、甲子太郎は笑った。
「しかし伊東さん、もし万が一にも斎藤が、あの破廉恥漢が新選組に転がり込んで機密を洩らしでもしていたら──」
「そんなに悪し様に言わなくとも。誰にでも一度や二度の過ちはあることですよ。前非を悔いてその犯した過ち以上の功を上げれば、それでいいと思いますよ、私は。……実はその斎藤君が、さっき近藤の所に来たそうです。今更面目なくて戻れないから腹を切るというのを押し止《とど》めた、衛士の者を新選組で処断するのは約定に照らしても不都合だから、私に身柄を引き取りに来てほしいという話。そうそう、金については活動資金の援助も兼ねて全額弁済するとも」
「だったら他の者を行かせれば済むことでしょう」
 泰之進の言葉に、甲子太郎はかぶりを振った。
「折角の機会是非とも久方振りに先生の御高論を拝聴したい──ともあるんです。大政奉還後のこちら[#「こちら」に傍点]の情勢を知りたいらしい。それもごく内密に──ということは、上[#「上」に傍点]に知られては拙い話もしたいということでしょう。向こうが去就に迷っているようなら、私が色々と話すことで向こうを動かせると思います」
「それは別に日を改めて向こうが来れば済むことでしょう」
「……篠原さん。どうしても私を行かせたくないようですが」
 甲子太郎はすうっと目を細めた。
「まさか、私を侮っているのではないでしょうね。ひとりで行かせるのでは心許なし、と」
「とっ、とんでもない──あんたの腕はよう知っとるとですよ」
 泰之進は慌てたように応じる。
「ただ──そのう、あんたがまだ──あの男のことをですね」
「あの男?」
 さも怪訝そうな顔で甲子太郎が首をかしげると、泰之進はやや憮然とした表情になった。
「……まだ土方に血迷うとるんじゃないか、そう思うて心配しとるとです」
「嫌ですね、篠原さん」
 甲子太郎は苦笑した。
「いつの話ですか。私にだって分別はありますよ。近藤は、土方にも内緒で話をしたいと言ってよこしているんです。だから[#「だから」に傍点]私は、行っても構うまいと判断した。もしもあのふたりの間に付け入るだけの溝が出来ているのだとしたら、我々にとってはこの上ない好機じゃありませんか」
「む……それはまあ……土方が同席しないというのでしたら……」
 いいでしょう、と口の中で呟く泰之進から目を外して、甲子太郎はこっそりと息をついた。そして、何気ない風で文机に向き直りながら言った。
「……今日親しげに会っておけば、四日後にこちらが何をしようと考えているかも、気取られずに済みますよ」
 泰之進は成程確かに、と頷くと、納得したように退出していった。甲子太郎はその足音が聞こえなくなるのを待って、文箱から最前の書簡を取り出した。そして、火鉢の中に置いた。焦げ目が付き、小さな炎が舐め、灰になるまで、じっと見守った。火箸を取って灰を掻き回し、完全に形も残らなくなるまでに崩し散らせた。
 全てを終えた後で、彼は、文箱の、今度は底の方から、一本の組緒を取り出した。紫がかった赤色、いわゆる紅梅色の組緒。暫く見つめ、そっと撫でた後で、懐に仕舞い込む。
「……私にだって分別はある、か……」
 嘘つきめ。
 彼は、己に向けてそう呟くと、唇を泣き笑いの形に歪めた。
 
 用件など何でも構わなかったのだ。
 何であれ、それは、この男を招いてしたたかに飲ませる為の口実に過ぎないのだから。
 山崎烝に案内されて部屋に姿を現わした伊東甲子太郎を眺めながら、土方歳三はそんなことを思った。
 にこやかな笑みを色白の頬に、甲子太郎は、集っていた面々に久闊を叙し、用意された座に腰を下ろす。立居振舞は相も変わらず優雅で、そのくせ全く隙がない。下手に仕掛ければ返り討ちだな、と、改めて歳三は感じた。
(とにかく、飲ませるこった。……こいつは、飲むとなったら止めどなく飲む奴だ)
 あの江戸下りの時も、流連《いつづけ》騒ぎの時にも。ある一線を越えてしまうと、そこからは控えるということを知らなくなってしまうところがあるのではなかろうか。
(その一線を越えさせることさえ出来りゃ……)
 斎藤一が連れてこられ、その処分を問われると、甲子太郎はごく穏やかに笑って、歳三の予想通り、寛大な処分で臨む意思を示した。新選組側が辞を低くして、一が“使い込んだ”五十両を弁済することを申し出たせいもあったろうが、何よりも、自分が寛容な姿勢を見せることによる利を考えていたのだろう。何しろこの場には、勇に歳三は勿論のこと、原田左之助、山崎烝、吉村貫一郎といった新選組の幹部連中が集まっている。彼らの前で、殊に新選組の“法の番人”鬼副長土方歳三の目の前で、自分の寛容さとそのもたらす結果── 一は実に感謝の体《てい》で、必ずこの御恩には報いますと今迄以上の挺身を約束していた──を見せつけてやれば、さしも厳罰主義の歳三でも感じるところがあるに違いない──
(おあいにくだな。てめェがそう思いてえだろうって見越して、俺がお膳立てしてやったんだよ)
 思惑交じりの甲子太郎の視線に無感動を装いつつ、内心で歳三は冷笑した。
(ひとつ事がいい方向に運んでると思うと満足する大甘が、てめェの弱点だ……のこのこ[#「のこのこ」に傍点]ひとりで此処へやってきた時点で、もう、てめェの命数は尽きてんだ。せいぜい、いい気になりやがれ)
 斎藤一の件がそうしてひと段落し、酒肴が運ばれてきたところで、歳三は席を替えた。
 甲子太郎の右隣に、である。
「さ、伊東先生、まずは一献
 微笑と共に銚子を差し出す歳三に、甲子太郎は一瞬はっ[#「はっ」に傍点]とたじろぐような表情を浮かべた。わずかながら、その白い頬に血の色が射す。
「……頂きましょう」
 やや複雑な笑みで、甲子太郎は盃《はい》を上げた。
 それは、奇妙な逆転だった。かつてなら、こういう酒宴の席で屈託なげな笑顔ですり寄ってきて銚子を差し出すのは甲子太郎、引きつり気味の笑いを浮かべてその勧めを受けるのは歳三、といった図式であったのだから。
 実は、これが歳三の、甲子太郎に酒量を過ごさせる為の戦術だった。相手が新選組にいた頃には、歳三の方から進んで酒を注《つ》いでやるなどということは、全くなかった。それを、相手のすぐ側に寄って、笑顔で酌をする。相手は驚き、動揺する筈だ。これまで少しも振り向いてくれなかった歳三が、自分の隣にやってきて、酒を勧めてくれるなんて……。想いを寄せている人間から思いもかけず差し出される銚子を、どうして拒むことが出来るだろう。
 歳三から何気ない風にじっと見つめられると、甲子太郎はうろたえたように目を伏せて、盃《さかずき》に口を付けた。
(……飲む前から耳まで赤くしてんじゃねえよ)
 意外な状況に戸惑い、心乱しているというのが、容易く見て取れた。周囲から頻りに先生先生と話しかけられればそれでも得意の舌は回るものの、笑顔で話に相槌を打ち、そうしながら折々に盃を満たしてくれる傍らの歳三が、どうしても気になるらしい。時折そっと見やってきては、慌てたように目をそらす。そんな相手を、歳三はひどく落ち着いた気持ちで眺めていた。
(こいつ、暫く会わねえ間に、妙に気弱になりやがったな……それとも、俺の方が図太くなったのか)
 多分、両方だろう。八か月の空白は、明らかに歳三の側に有利に働いたのだ。恐ろしく冷静に相手を観察し、どう振る舞えば相手から平常心を奪えるだろうかと考えを巡らしている自分が、歳三には不思議だった。一体いつの間に、自分はこの男に対してそんな心境で向かい合えるようになったのだろう……。
 やがて、歳三は勇に目で合図して中座した。
 廊下に出ると、身を切るような寒気が押し寄せてきた。さして酔ってもいない身には、応える冷えだ。歳三はぶるっと身震いして歩き出すと、少し離れた一室へと向かった。
 そこには、ひとり臥せっている沖田総司の姿があった。
「あ、土方さん……お客さんを放っておいて、いいんですか?」
 目を閉じていたのに眠ってはいなかったらしく、歳三がそうっと障子を開けるとすぐに目を開いてにこりと笑い、そんなことを言う。その枕許に腰を下ろしながら、歳三は顔をしかめた。
「向こうには近藤先生達がいる。此処にはおめェひとりしかいねえじゃねえか」
「とか何とかおっしゃって、実は逃げてきたんでしょう」
「そんなんじゃねえよ」
 歳三は憮然として応じた。
(ただ……ちょっと、笑ってるのに疲れただけさ)
「……まったく、折角人が心配して様子を見に来てやったってェのに、口だけは減らねえ奴だ」
「でも、もしも私が押し黙ってぐったりしていたら、だから止めたのに無茶しやがって、って小言言うんですよね、きっと」
 総司は笑い、笑って咳き込んだ。歳三は慌てた。
「馬鹿。笑うんじゃねえ。咳が出るだろうが」
「大丈夫……ですよ……」
 掛布団を目許まで引き上げて咳が外に洩れないようにしながら、それでも総司は笑っている。
「咳が出たって、笑ってる方が……ずっといいでしょう?」
「咳が出なくて笑ってる方がずっといい。もう寝ろ。ゆっくり寝て、早く良くなりゃ、好きなだけおめェの冗談に付き合ってやる」
「本当ですか? 約束ですよ、土方さん」
 ようやく咳の治まった総司が念を押す。歳三は頷くと、その額に手を当てた。まだ随分と熱があるようだ。歳三が京に戻ってきた頃は道場で冗談ばかり飛ばしながら隊士達に稽古を付けられるくらいには元気だったのが、つい二、三日前にかなりの血を喀いてからは、どうもいけなかった。今日でも、甲子太郎が訪ねてくると聞いて、自分も会いたいからと此処までやってきたのだが、熱が上がってしまい、結局こうして別室で休む羽目になっている。以前には、治る筈のない病と頭でわかっていても、元気そうに笑っている総司を見ると、ひょっとしたらたいしたこともなく治ってしまうのではなかろうか──と思うこともあった。だが、流石に此処まで顔色悪くやつれ横たわっている姿を見ては、それが虚しい期待に過ぎないことを認めざるを得なかった。
「……約束するから、寝ろ。寝付くまで、此処にいてやるよ」
「はい」
 総司はおとなしく返事をして、目を閉ざした。歳三は暫くの間、彼の寝息が確かなものに変わるまでじっと黙ってその顔を見つめていたが、やがて彼がちゃんと眠りに就いたと見て、腰を上げた。
 起こしてしまわないように、と思いつつ静かに障子を開けようとしたその手が、つと、止まる。
 外に、誰か、いる。
(……来たか……?)
 障子を隔てた外に人の気配を感じ取った歳三は、唇を笑いに似た形に歪めた。そして、ひとつ深呼吸をすると、それから障子を開けた。
 廊下に佇んでいたのは、やはり、歳三が予想した通りの男であった。
「見付けた……」
 男は、酔いに火照った白面をあでやかな笑みに崩して呟いた。
「こんな所にいらっしゃったのですか……」
 いきなり抱きつかれて、流石に歳三はのけぞった。幾ら心に余裕が生まれていようと、突然こんな具合に迫られれば、どうしても顔が引きつってしまう。後ろに二、三歩よろけ、そこで辛うじて踏み留まった歳三は、小声でたしなめた。
「静かにしてくれませんか──折角寝入ったところなんです。起こしたくない」
 その言葉に、相手は酔眼を上げて部屋の中を見た。
「……沖田君ですか」
 呟くその口許が、わずかに攣る。
「あんなに愛想く酌をしていたくせに、途中でふい[#「ふい」に傍点]といなくなってしまったから、何処へ行ったのかと思ったら……私を放ったらかして、沖田君なんかのところへ来ていたんですか?」
「なんか[#「なんか」に傍点]?」
 歳三はすうと目を細めた。
「そんな言い方は沖田君に失礼ではありませんか、伊東先生[#「先生」に傍点]
「ふん……」
 甲子太郎は、投げやりな笑みを閃かせた。
「この頃は随分と悪くなっているんですってねえ……そのまま永遠に寝ていればいいんだ……二度と起きてこなければいいんだ……」
「先生[#「先生」に傍点]
 歳三は声を尖らせて、相手の低い呟きを遮った。
「何て言い種だ。沖田君が何故此処にいるか、御存じですか。沖田君はね、先生[#「先生」に傍点]が今日こちらにおいでになるというので、自分も是非ともお会いして話がしたいと、我々が止めるのも聞かず此処に来て待っていたんです。あいにく熱を出したのでこうして別の部屋で寝かせたが、先生[#「先生」に傍点]にお会い出来ないことをひどく残念がっていた。……その沖田君が、今の先生[#「先生」に傍点]のお言葉を聞いたら、何と思いましょうな」
 歳三の台詞に、甲子太郎は、昏い笑みを消した。些かながら、我に返ったらしかった。
「そう……ですか……申し訳ないことを言って……」
 声が、かすかに震える。
「……でも私だって……何故私が此処にいるか、土方さんは御存じですか? 何故私が、篠原さんに嘘までついて、此処へ来たと思っているんですか? そう……嘘までついたんですよ……ひとりで行くなんてとんでもないと止められて……咄嗟に、土方さんは同席しないなんて大嘘をついて……おかげで書簡も処分しなければなりませんでしたよ……後で嘘だと知られたらまたガミガミ言われると思ったから……そこまでして……そこまでして……どうして私が、そんなことまでして、此処へやってきたと思うんです?」
 甲子太郎は、歳三に抱きついた両腕にぎゅっと力を込めた。
「あなたに──あなたに[#「あなたに」に傍点]会いたかったからなんですよ! 招きに応じればあなたに会える、そう思っただけでもう、矢も楯もたまらなくなってしまったんですよ、なのに──なのにあなたは、私を放り出して、こんな所へ──」
「静かにしてくださいと言った筈ですよ、先生[#「先生」に傍点]
 歳三は低く叱責した。
「何度も同じことを言わせないでいただきたい。第一、沖田君に対して、非礼にも程があるんじゃありませんか」
「……わかっている……わかっていますとも……わかってはいる」
 甲子太郎は呻く。
「わかってはいるんですよ……沖田君には悪いと……でも私は……あなたの姿を見、あなたの声を聞くと、分別を失ってしまうんです……だからつい、あんなことを口走ってしまう……どうして……どうしてこんなに、私はあなたに惹かれてしまうのか……どうして私だけ、こんなに狂わされてしまったのか……どうしてあなたは、こんなに私を狂わせておいて平然と……」
「以前、篠原さんにも言ったことですがね」
 歳三は相手を押しのけながら、やや皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「私が伊東先生[#「先生」に傍点]にどうぞ私に狂ってくださいとお願いしたわけではありませんよ。先生[#「先生」に傍点]が勝手に狂っただけですよ。それを私の所為《せい》にされても、困りますな」
「土方さん……」
「埒もない世迷い言はいい加減にしていただきたい。見苦しいですよ。先生[#「先生」に傍点]が随分と酔っておいでなのはわかりますがね」
 それを聞くや、甲子太郎は顔を引き歪ませた。そして、矢庭に歳三の胸倉をつかんで、廊下へと引きずり出した。歳三は敢えて逆らわず、相手のするに任せた。──ただ、引きずり出された後で、部屋の障子を後ろ手に閉めはしたが。
「酔って延々愚痴をこぼした挙句、今度は暴力ですか、伊東先生[#「先生」に傍点]
「──酔わせたのは誰です!」
 かすれ声で、甲子太郎は叫んだ。酔いに染め上げられた端麗な白面が、一層激しく引き歪んだ。
「あなたが──あなたが[#「あなたが」に傍点]《つ》いでくれるんですよ! 飲まずにいられますか! こっちにいた頃は一度だって自分から酌なんかしてくれたことのなかったあなたが、たとえ作りものでもそれでも紛れもない笑顔で、私の為に[#「私の為に」に傍点]作ってくれた笑顔で、私の盃を満たしてくれるというのに──毒だって飲みますとも!!」
 叫びざま、甲子太郎は歳三を荒々しく抱きすくめた。流石に今度は歳三も、させじと逆らい抗う。が、かみつかんばかりに迫る紅唇を避けようと揉み合う内に、足がもつれた。体勢が大きく崩れた。
(しまっ──)
 しまった、と思い終えるより早く、後頭部に激しい衝撃が来た。眼前に火花が散り、次の瞬間、呆気なく暗転した。何が起きたのかを意識する間もなかった。
 伊東甲子太郎は、よろめいた拍子に柱に頭をぶつけてずるずるとその場に崩れ込む歳三の姿に、酔いの興奮も一気に醒める心地に貫かれた。
「……土方……さん?」
 答はなかった。甲子太郎は、動かない歳三の前に恐る恐るしゃがみ込んだ。頭の芯まで凍える思いに、唇がわななく。彼はそろそろと右手を上げて、相手の鼻腔の辺りに指を近付けてみた。
 風……かすかな風。
 甲子太郎はホッと息をついた。相手は、単に気を失っているだけらしい。安堵が押し寄せてきた。彼は辺りを見回し、障子が開け放しになっている隣室に目を留《と》めると、今度は今少し落ち着いた様子で、両手を伸ばした。起こしてしまわないように、そっと相手を抱え上げる。そして、もう一度周囲を見て余人の目がないことを確かめてから、その隣室に入り込んだ。
 居待ちの月が、冴えた輝きをその部屋にも注いでいる。
 甲子太郎は、ぐったりとなったままの歳三を静かに畳の上に下ろすと、障子を閉ざしてその輝きを閉め出した。余りに明るく、それでいて冷たい輝きは、この場には、いらない……そう思いながら彼は、横たえた相手の顔を、正座した自分の膝に乗せた。
「……土方さん……」
 障子越しの淡い月影に照らされた端整な白面を、じっと、食い入るように見つめる。息が震えた。胸が締めつけられる思いがした。求めても求めても手に入らない男が、こんなに無防備な寝顔──寝ているわけではないが──を自分の眼下に晒している。わずかに開いたままの唇が、あたかも自分を誘っているかのように見える。
「……いいんですか……?」
 思わず震える指を歳三の頬に滑らせながら囁きかけた後で、甲子太郎はかぶりを振った。いい筈はない。
(木偶人形を抱いて……何になる?)
 もしもこのまま意識のない相手を掻き抱《いだ》いてみたところで、それは只の“盗み”に過ぎない。
(私は……この男の体が欲しいわけではない……)
 この男の存在そのものが欲しいのだ。その身のみならず、心も、才覚も、何もかもが欲しいのだ。その全てを、自分の、自分だけのものにしたいのだ。もしこの男を抱くのなら、その為でなければならない。この男に、自分甲子太郎のものにされてゆく己の有様を、ハッキリと意識させてやる為でなければ。そうでなければ、抱く意味はない。
(私は、この男を、奪いたいのだ……)
 その筈だ。その筈なのだが……彼は、ふと、今朝方見た夢を思い出した。あの、いつも見ていた夢とはまるで反対に、自分が相手に奪われる夢。あの夢から醒めた後、彼は暫く茫然と放心していた。その名残が、余りにも、怖いほどに、甘美だったからだ。
(……私は、この男を奪うことを望んでいないのだろうか……?)
 あの夢の中で指摘されたように、自分は、本当は、この男を手に入れることを欲していないのだろうか。それどころか、この男の掌中のものとなることを、心の底では願っているというのだろうか。信じ難いことだが、自分の中に、奪いたい欲望以上に、奪われたい願望が潜んでいるのだろうか。



Copyright (c) 1996, 2003 Mika Sadayuki
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