まだ、日は西の空にある。
 島原の木津屋を訪った歳三は、自分が来たことを遊興中の芹沢鴨達に伝えてもらった。待つほどのこともなく、通って構わない旨の返答がもたらされ、彼は仲居の案内で奥の座敷へ足を運んだ。嬌笑と酔声が、廊下を渡る彼の耳にまで聞こえる。騒ぎっぷりが想像出来た。
 許しを得て入室した歳三は、酒臭にくらりとなるのを覚えた。
「やあやあ珍客の御入来だ」
 などという声もろくに耳に入らないほどの吐き気をかろうじてこらえながら、奥の中央に胡座している芹沢鴨の前まで行く。
 端座して軽く頭を下げると、低い声が降ってきた。
「……何の用だ、土方君」
「まずは」
 歳三は顔を上げ、相手の目を真っすぐに見据えた。
「お人払いを願います」
「……」
 鴨は目を細めて暫く黙っていたが、盃を置くと頷いた。芸妓達を退がらせる。歳三はその間まじろぎもせずにいたが、当然のような顔をして場に残っていた平山五郎と平間重助に低温のまなざしを向けた。
「両君にも退出していただく」
「拙者らがおっては拙いと言うのか!?」
「私は新選組副長として此処にいる。副長が局長に急ぎ決済していただきたい儀があって此処へ参ったのだ。両助勤の関与するところではない」
「何を──」
 五郎が隻眼を引きつらせて何か言おうとしかけた時、それまで黙っていた鴨がひとこと、
「やめろ」
 と言った。そして、
「俺が呼ぶまで、よその座敷ででも飲んでおれ」
 と、無愛想な声で命じた。五郎と重助は顔を見合わせたが、鴨からそう言われては致し方なかったと見え、おとなしく出ていった。
「……御遊興を妨げ致し、誠に申し訳ございません」
 ふたりがいなくなると、歳三は再び頭を下げた。
「しかし、急遽局長の御決裁を願いたい事柄があって、やむを得ず非礼を承知で参上致した次第」
「……局長なら他にもおろう」
 感情の死に絶えたような声が返ってきた。
「わざわざ俺の所へ来ずとも、良いではないか」
「近藤局長には既にこの件相諮り、御裁可の上、お手ずから命令書を認《したた》めていただき、御署名も頂きました」
 歳三は用心深く顔を上げながら応じた。
「しかしなお重要事ゆえ、是非とも芹沢局長の御署名をも頂きたく」
「……」
 鴨は、酔いの両眼を歳三の面上に据えたまま、物言わぬ。声と同じ、感情の死に絶えたような顔である。
「局長」
「……決裁の儀は」
 歳三は、懐から例の書状を取り出した。
「これを」
「……」
 差し出された書状を鴨は無言で受け取ると、開き、一瞥した。
 流石にその顔色が動くのを、歳三は認めた。
「……新見が何をした」
 やがて書面から目を上げて、鴨は低く呟いた。わずかに感情が窺えるような気がした。
「押し借り、乱暴、狼藉は挙げれば限りなく、昼間から遊興に耽り隊務を疎かにすること甚だしく、新選組副長として隊士に範を示すべき立場にありながら、非行の数々、もはや黙《もだ》し難いところまで来ております。幹部といえど、いや幹部だからこそ、厳然たる処分で臨まねばなりません。それでこそ、隊士も粛然と襟を正しましょう」
 一歩も退《ひ》かぬ色を全身に漲らせて歳三が口を閉ざすと、鴨はうっすらと唇を歪めた。
「俺が訊いたのは、そんなわかり切ったことではない」
「……は?」
「新見の非行とやらは、俺もしていることだ……俺の方が、もっと桁外れで激しい……そうではないか」
「しかし新見副長は、芹沢局長の名で勝手に私《わたくし》の金策を繰り返しております。これは如何お考えですか」
「……それが事実なら、俺に対する裏切り行為よな」
 鴨は笑み──に似たもの──を消さない。
「だがあいにく、それは事実ではない」
「事実です。いつ何処から金策したかも全て調べはついております」
「金策が事実ではない、と、いつ俺が言った。俺が事実と反していると言ったのは、俺の名で勝手に云々という部分だよ」
「しかし現に」
「土方」
 再び感情の封じられた声が、反駁しようとした歳三の言葉を断ち切った。
「俺が、許したのだ」
「──」
「俺の名を使っても構わんとな。だから、それだけ[#「それだけ」に傍点]では、俺は納得せぬよ、土方。仮にも俺の右腕をバッサリ削ぎ落とそうというのなら、俺を納得させられるだけのものを示せ。新見が何をした。……おぬしにだ[#「おぬしにだ」に傍点]
 歳三は言葉に詰まった。
 鴨の昏い瞳が、ねじ込むように見つめている。
「……俺は、ずっと、おぬしを見てきた」
 答えられずにいる歳三を前に、鴨は低く呟く。
「おぬしの声に耳をそばだて、一挙手一投足を見つめてきた。俺は、おぬしの上に落ちたわずかな変化の影も、見逃しはせぬ。かつて、おぬしが新見のことを口にする時、その声にも目にも、さしたる感情はなかった。せいぜいが苦々しさぐらいしか漂っておらなんだ。だが、今のおぬしは違う。どうあっても奴を生かしてはおけぬという思いの炎《ほむら》が、言葉にもまなざしにもありありと見える。……答えろ、土方。新見と何があった」
 歳三は膝頭に指を食い込ませた。全身が小刻みに震え始めているのがわかった。抑えようとすればするほど、体の奥底から熱病の悪寒のような震えが這い上ってくる。相手の昏いまなざしが、ゆっくりと細められた。
「……何もないのか」
 はい、と応じようとした唇が、こわばって動かない。
「何もないとなれば、これは、こうだな」
 言いざま──鴨は手にしていた書状を引き裂いた。実に悠然とした手つきであった。
「……俺の方を放っておいて、先に新見の非行を言い立てるのは納得出来ん。新見もそう思う筈だ。余程の思惑が後ろにあるのだろうな」
 怒号でも何でもない。だが、その昏い炎を底に秘めた目で見据えられながらいっそ静かなほどの低い声で言葉を投げかけられると、不思議に震えが止まらなかった。
「自分が頼めばどうにかなる、とでも思ったか」
「う……」
「俺の頼みを拒んでおいて、よくも虫のいい話よな……それとも気が変わって、俺の望みを叶えてくれるか」
 来た──歳三はビクリと肩を震わせると、うわずりそうになる声を懸命に抑えて応じた。
「それで……芹沢先生が納得して……くださると……おっしゃいますなら……」
 その答を聞くと、鴨は何故か、唇をひどく苦しげに歪めた。そして、ゆっくりと歳三から顔をそむけた。
「……そこまでおぬしは新見が憎いのか」
「え……」
「残酷な男だよ、おぬしは……確かに、俺から腹を切れと言われれば、新見は応えるだろうな……俺は、見離される者の痛みと苦しみはよく知っている……その俺に、新見を見捨てさせようとするか……その為になら、己の好悪を形だけでも脇へ置こうと言えるほど、新見を憎むのか……俺は、奴が羨ましい。一体何をすれば、何を言えば、おぬしからそれほどまでに深く激しい感情を以て見てもらえるようになるというのだ……奴の何処が、おぬしにそこまでさせるのだ……」
 鴨の声は深く沈んだ。
「俺は、そんなおぬしを見たくない……」
「見たくなくとも」
 歳三は目を伏せた。
「これが、私です。……もし、私怨を以て新見副長を斬れば、それは局中での私闘になる。私は、新選組の副長です。実際に隊士を束ねる任を負う副長がそんなことをしては、隊士に示しがつきません」
「やはり……何かあったのだな」
「……」
「……新見は、俺のおぬしへの想いを薄々は察しているようだった」
 鴨は盃を取り上げると、ひと息にあおった。
「それが先日、酒の席で言いおった……自分ばかりが切れ者のような顔をしているが、あんな男でも取り乱してあの生白い顔を屈辱に引き歪ませることはあるのだ、とな……だから俺は言ってやった。誰であろうと、あの男は、自分のそんな姿を見られた相手を生かしてはおくまいよ、と」
「……」
「そうしたら、奴は言ったよ。なに、あの男は結局抜いた刀を元に収めて逃げ帰った、そんな腰抜けに何が出来るか……俺はその時から、近い内に必ずおぬしが動くと思っていた。何があったかは新見も口にしなかったが、おぬしが一瞬でも我を忘れて刀を抜いたというのだから、余程腹に据えかねることがあったのだろう……そこまでしながら敢えておぬしが刀を収めたということの方が、恐るべしではないか」
「……芹沢先生は、よくわかっておいでです」
 歳三は、目を伏せたままで呟いた。
「けれども、もし新見副長を処断することが新選組の為にならぬ、と判断していれば、私は、私怨の方を殺していました。……それだけは、はっきりと申し上げておきたい」
「……新選組、か……」
 鴨は空にした盃を置くと、ほろ苦い笑みを浮かべた。
「いい名だ……だが、常陸の泥ナマズには似合わぬよ。多摩の清流で育ったアユ達にこそ相応しい名だ」
 歳三は思わず顔を上げて相手を見つめた。
 目が合った。
「だが、我らがあの清河めと袂を分かって京に残り、壬生浪士組と名乗った頃を覚えているか」
「……」
「あの頃は、それこそ鼻をかむ紙一枚にさえ窮乏していた……だが……」
 言いかけて──
 ふと、鴨は、口を閉ざして苦笑した。
「いや……言うまい。おぬしに言うても、今はわかるまい……殊更に喧伝することでもない」
 ……ずっと後になって、歳三は、この時鴨が何を言おうとしていたのか、自分なりの理解に到ることになる。
「どの道、俺は泥ナマズだ……若アユを恋うても詮ないこと、叶わぬ想いとわかってはいるよ」
「……」
「第一、俺とおぬしとでは、器が違う……。俺は、酒がなくては何も出来ぬ……だがおぬしは、素面で鬼になれる。自分の愛する新選組の為なら、血も涙も捨てることが出来る。……今はまだ、鬼の面《めん》が己に合わず擦れて痛い思いもしておるようだが、そう遠くない内に、その鬼の面は、おぬしの生来の顔と変わらぬほどぴったりと肌に沿うようになるだろう。……俺には、その面の下でおぬしが傷だらけになってゆく様が、今から見える」
「……たとえそうなるとしても」
 歳三は、ゆっくりとひとつ、まばたいた。
「それで新選組が私の目指す姿になるのなら、本望です」
「……他のアユ達は、鬼にはなれぬ」
 鴨は目を閉ざして呟いた。
「俺も、飲まねば、何も出来ぬ」
「そうでしょうか……あの時[#「あの時」に傍点]、先生は素面でいらっしゃった……」
 歳三の口から、内心に収めておくべき言葉がついこぼれる。言ってしまってからハッとなったが、一度口から出たものは引き戻せない。
(馬鹿、俺から蒸し返すようなこと言ってどうすんだ……)
 鴨が苦笑を洩らした。
「成程……おぬしもそれだけは認めてくれておったのだな」
「……」
「そう体をこわばらせなくてもいい。俺は今、酒が入っている。素面だったことをおぬしが認めてくれていたというなら尚更、おぬしを脅《おびや》かすような真似は出来ぬ。……紙と筆を貸せ」
「……え?」
「紙と筆を貸せと言ったのだ。用意周到なおぬしのことだ、俺があれ[#「あれ」に傍点]を反故にするかもしれぬことなど見越して、そのぐらいの物は持ってきておろう」
 歳三は息を呑んだ。
「で、では……」
「新見が何をしたのかはわからぬ。だが、何があったと訊いても真っ青になって震えるばかりで答えぬおぬしを見れば、それがどれだけおぬしを傷付け辱めたかということはわかる。……俺の大切に思うておる者を故意に貶め辱めたとなれば、俺は奴を許すわけにはゆかぬ」
 歳三は、不意にこみあげてきた熱いものをぐっとこらえた。そして、矢立と紙とを黙って取り出し、相手に渡した。
 鴨は、別段手を震わせもせず、至極無造作に筆を動かした。
「これでいいな」
 差し返された紙を、歳三は両手で受けた。墨が乾くまで、少しの間かかる……自分が持参してきた書状と一字一句変わらぬ文面と鴨の署名を見つめながらそんなことを考えていると、鴨が言った。
「俺は、おぬしがよこせと言うなら、右腕どころか命さえくれてやってもいいのだ」
 ごく低い呟きだった。
「俺とて、水戸の芹沢鴨だ。志もあれば、思想もある。……だが、おぬしを目の前にすると、俺はその一切を忘れてしまうのだよ、土方。報国も攘夷もどうでもいい、ただこの男の側《そば》にいたい、その声を聞いていたい、そして成ろうことなら……そう言う物狂いに取り憑かれてしまうのだよ」
 自分が酔っていることが頭にあるせいだろうか、鴨は半ば目を伏せ気味にして、いつぞやのような思い詰めた風はない声音で、半独白のように呟き続けた。
「……だから、俺はおぬしの望みなら、全て叶えてやりたい……但し、おぬしを恋うるのをやめること以外ならな」
 最後は笑いに紛らせる。乾いた、自分自身を突き放すような笑いだった。歳三は何も言わなかった。言えなかった。相手の言葉達は、深い諦めと、にも拘らず断ち切れぬ想いとに彩られていた。それにどうしても応えられぬ己が、何の言葉を返すことが出来ようか……
「もう墨も乾いたろう。早く、近藤の所へ戻ってやれ。こちらも、余り長いでは平山達がそろそろ痺れを切らすだろう」
「……はい」
 歳三は書状を畳んで懐に仕舞うと、矢立を腰に戻し、その場に両手を突いた。
「御裁可を頂けましたこと……感謝致します」
「……手を上げろ。気に病むことはない。行け」
「はい……では、失礼させていただきます」
 もう一度そのまま頭を軽く下げておいてから、歳三は立ち上がった。
 だが、退出しようと身を翻したか翻さないかの刹那に、すっと目の前が昏くなった。
 後ろに引き込まれると感じた一瞬には、既に意識が暗転していた。



Copyright (c) 1995, 2003 Mika Sadayuki
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