競技場を出て、宿“ユニコーンのたてがみ亭”に戻りながら、サラ=フィンクはひどく真剣に何事か考えているようであった。宿に着いてからも、あれほど急いで出発したがっていたのが嘘のように、出掛けようとも言わず寝台に腰を下ろし、じっと何かを思い詰めるような表情で腕を組んで床を見つめている。そんな彼に、ミルシェは、話し掛けようとしては見えない壁に阻まれる感じを味わった。
 暫くして、サラ=フィンクは立ち上がった。
「……少し出掛けてくる。夕方までには戻るから、外出するんじゃないぞ」
「何処行くの?」
「魔道士《ソーサラー》ギルドだ」
 言って、足早に出ていってしまう。付いてゆく、と言い出す暇もなかった。ミルシェは肩を竦めると、仕方なく窓辺に椅子を引いてゆき、腰掛けた。サラ=フィンクが宿を出て、通りを急ぎ足に町の中心部方面へと向かうのが見えた。
(帰ってくるのが夕方じゃあ、出発は明日の朝ね)
 そんなことを思いながら見送っていた目が、ふと、惑う。視界に引っ掛かった何かがあった。
 ミルシェは通りを見渡した。人通りは多かったが、その“何か”はすぐに見付かった。彼女は思わず目を円くして立ち上がった。宿の丁度向かいの建物の間の細い路地に、先刻競技場で会った“不思議なオジサマ”と思しき人物が、ひっそりと佇んでいるではないか! 相手は彼女に気付いていたらしく、彼女が吃驚して立ち上がるのを見ると、微笑して――と彼女には見えた――彼女を手招いた。
 ミルシェは、サラ=フィンクから「外出するな」と言われていたのは覚えていたが、こんな不思議な、何だかとてもワクワクするような誘いを受けて、じっとしていることなど出来なかった。なので、窓の向こうに大きく頷いてみせると、護身用の小剣《ショートソード》やマントを帯びるのももどかしく、部屋を飛び出し、急いで階段を下りた。
(サラ=フィンクが戻る前に戻ってればいいのよ、うん)
 そう思いながら、店番をしていた娘に「ちょっと出てくるね」と言い置く。
 通りに出たミルシェは、やはり同じ場所に黒マントとフードの出《い》で立ちで佇んでいた長身の相手の所へ駆け寄った。
「済みません、呼んでしまって」
 相手は、静かに笑いながら言った。
「もう少しだけお嬢さんと話がしたいと思って、悪いとは思いましたが……お連れの方に叱られませんでしたか」
「ううん、彼、少し前に出掛けたから」
 ミルシェはかぶりを振りながら、相手を見上げた。あの時はひょっとしたら夢かなどとも思ったが、今こうして再び目にする相手の姿は、確かな現実感と共にそこに在る。
「それに、あたしも、もう一度あなたに会えないかなーって思ってたし。外に居るの見た時には吃驚したわ。どうしてあの宿がわかったの?」
「たまたま通りがかったら、お嬢さんが窓から姿を見せたので、驚きました。それでつい眺めていたら……という訳です。……話の出来る所に行きませんか、もし宜しければ」
 ミルシェはあっさりと頷いた後で、首をかしげた。
「でも、あたし、この町、よく知らないわ」
「少しなら私が知っていますから大丈夫ですよ」
 魔道士はそう言うと、ミルシェに背を向けて歩き出した。ミルシェは、奇妙なくらい警戒感なく、その後を追った。

 暫くあちらこちらと寄り道を重ねた後――ミルシェが色々な店に入りたがったのを、相手は笑って許してくれたのだ――ふたりは、港を見下ろせる郊外の小さな丘の上に辿り着いた。
「うーん、何だかちょっと寒いわね」
「冬が近いですからね」
 魔道士は、海側に面して張られている柵に軽く背を凭せ掛け、西の方《かた》を見遣りながら応じた。
「お連れの方はルーファラを目指しているそうですが、だとしたら急ぐ気持ちは当然です。ルーファラはスタールよりも北方にある国、冬の訪れも早い。雪で街道が閉ざされたら、とてもではないが移動は出来ない。この町に春まで足めになってしまう。それを恐れているのだと思います」
「ルーファラって遠いの?」
「あなた方の足なら、ひと月でしょうね」
「ふーん、急いでたのはそれでかあ。ちゃんと説明してくれればわかるのに、無愛想で、ちっとも理由を話そうとしないんだから」
 ミルシェは潮風に目を細めると、柵に凭れて海を見遣った。
「あ、そう言えば、あたし、まだあなたの名前聞いてないわね。あたしはミルシェっていうの」
「名前……ですか」
 魔道士は微かに笑った。苦笑とも微笑ともつかぬ笑みだった。
「そうですね、トラム、と呼んでください。そう呼ぶ人も居ますから」
「ふーん、じゃあ、そう呼ぶわ。トラムって、スタールに住んでるの?」
「いいえ……昔は、ケルリの都ニフティスに居ました」
「ニフティス? あたしもニフティスで育ったのよ――」
 そこでふと、ミルシェは首をかしげた。何故だろう、妙に、この相手と以前一度会っているような気がしてくる。いつ、とは言えないが、ニフティスで、しかもまだ王女として暮らしていた頃に王宮で……?
「えーっと、ねえ、トラム、あなた、ケルリに居た頃、お城に行ったこと、ある?」
「どうしたんです、急に」
 相手はじっと、不思議そうにミルシェを見下ろす。静かな灰色の瞳。何となくどぎまぎし、ミルシェは慌ててかぶりを振った。
「う、ううん、何でもない。今の質問、なしね。忘れて」
 相手はクスッと笑った。
「訊かれたくないこともあるようですね。昔の話はよしましょう。お嬢さんは、お連れの方とは恋仲なのですか」
「えっ? サラ=フィンクと?」
 自分がうっかりサラ=フィンクの名を口にしたことに気付かぬまま、ミルシェは答を返した。
「うーん、考えたことなかったわ。そりゃあ、他の女の子や男の子がべったべたしてくるの見たら何だかムッとなっちゃうけど……恋してるかどうか、意識したことないの。サラ=フィンクは無愛想で、なーんにも説明しようとしない人だから、なに考えてるかわかんないけど、きっと内心では鬱陶しがってると思うわ。あたしが勝手に付いて歩いてるんだし」
 溜め息を挟んで、言葉を続ける。
「それに……あたし、好きだった人、居たもの。ちょっとあって、許せなくなって、今も許し切れてないんだけど、でも今でも好きなのかもしれない、だから余計に許せないのかなって思うことはあるし……結婚出来たらなあって、ずうっと思ってた相手だったし……トラムは結婚してるの?」
 魔道士は苦笑した。
「していませんよ」
「好きな人居ないの? 恋したことは?」
 ミルシェの何げない問に、魔道士は暫く沈黙していたが、やがて目を閉じて答えた。
「……居ます。恋も、あると思います。けれども、私には魔道が全て。……もう遅い」
 ごく小さな呟きの中に、信じられないほどの激しいおもい[#「おもい」に傍点]を感じて、ミルシェは息を詰めた。
「……何が遅いの?」
「私は、魔道を全てとして生きてきた挙句、自分の大切な者たちや、果ては自分の体まで喪ってしまった男です。後悔はしていませんが、それでも胸が疼くことがある……」
 彼はそこで口を噤むと、ふっと目を開いて微笑んだ。
「……少し、喋り過ぎてしまったようですね」
 ひどく透き通った笑い。ミルシェは、相手が今にも消えてしまうような気がして、咄嗟に手を伸ばし、そのマントを掴んでいた。
 その時である。
「――居やがったぞうっ!!」
 丘の麓から複数の罵声が聞こえてきた。武装した男が三人、何やら喚きつつ、わらわらと駆け上ってくる。それを見ると、魔道士は薄い唇を皮肉っぽく緩めた。
「やれやれ、根に持つ人たちですね。ちょっと礼儀を教えてやっただけなのに」
「何なの、あのむさい[#「むさい」に傍点]連中?」
「ああ、さっき町中を歩いていて、肩が触れたの触れないのと因縁を付けてきたので、軽く頭を撫でる程度の魔法で礼儀というものを教えてやった冒険者《アドベンチャラー》たちですよ。冒険者という人種にもピンからキリまで居ますが、あの連中は破落戸《ごろつき》と大差ないキリの方でしょうね」
「キリで悪かったなあっ、この魔道使い《コンジャラー》!」
 駆け上がってきた戦士《ファイター》風の男が蔑称混じりに喚く。魔道士は鼻で笑った。
「悪いですよ。あの時には周囲にも人が居ましたから穏便な術で済ませましたが、今度は容赦しかねますね」
「けっ、可愛い娘っ子が側に居るからって恰好付けんじゃねえ」
 別の戦士が、ペッと唾を吐いてミルシェの方を見る。
「へへっ、結構別嬪じゃねえか。おい、魔道使いよ、いけねえなあ、こんな所で若い娘口説いてちゃあ」
「ん? おい、ちょっと待て――」
 不意に、盗賊《シーフ》風の男が目を細める。
「この娘、ひょっとしてアラシアの賞金首じゃねえか!?」
「な、何!? 銀貨十万枚のか!?」
「――間違いねえ! 布告の似顔そっくりだぜ!!」
 ミルシェはギクリとなった。
 賞金首? 銀貨十万枚!? あたしが[#「あたしが」に傍点]!?
(そう言えば、この間サラ=フィンクが助けに来てくれたあれ[#「あれ」に傍点]……それで、あたし、連れ出されたの?)
 先日自分がハーフエルフの女らに拉致されたのは、自分に十万キルシュもの賞金が懸けられていたせいだったのか――ようやくミルシェはそうと悟ったが、こればっかりは「言ってくれればいいのに」とサラ=フィンクを責めるわけには行かなかった。何しろ、自分は本当の素性を彼には隠しているのだから。
「おう、魔道使い、その娘さっさと寄越しな。そうすりゃ今回は見逃してやらあ」
「痛い目に遭いたくなかったら、言うこと素直に聞いた方がいいぜ」
 目の色を変えた荒くれ男たちが剣を抜いて詰め寄ってくるのを意に介しているのかいないのか、魔道士は静かな、そして皮肉っぽい笑みを消すことなく応じた。
「思い出さなければ今少し長生き出来たものを。目先の欲に命を落としましたね」
 その目がすうっと細められ、穏やかな凄みに満ちる。
「その魂、暗黒神《ティラス》にでも引き取ってもらいなさい」
 それまでと別人のように冷ややかな声で言うが早いか、魔道士は呪文を紡ぎ放った。
「万物の源たる魔力《マナ》よ、生命《いのち》る血、凍て付かせよ!!」
 ミルシェには、何が起こったのかわからなかった。彼女の目には、一斉に斬り掛かろうとした男たちが、魔道士が何か口早に唱えて右手を彼らに向け横に払った途端、ばたばたっと地面に崩れ倒れてしまった、としか見えなかった。
 魔道士は、動かなくなった男たちを冷然と見下ろすと、彼らの命を奪った右手をマントの下に隠し、ミルシェを振り返った。
「お連れの方が心配する頃でしょうね。戻りませんか」
 さっきの冷たい声が嘘のように、穏やかな声だった。ミルシェは男たちを見下ろした。夢ではなく、男三人はそこに倒れている。そして、もう喚きも剣を振り上げもしない。
「……この人たちは?」
「血を凍らせました。死んでいますよ」
 ごく淡々と、魔道士は言った。
「一瞬のことです。殆ど苦しみもない。ひょっとしたら自分たちが死んだということすら意識出来なかったかもしれない。そういう意味では、却って残酷な殺し方だったかもしれませんね。私がこの男たちの命を奪ったのをやり過ぎだと思ったのでしょう?」
 ミルシェは小さく頷いた。
「……他の方法はなかったのかな……って」
「こういう手合は金には汚い。仮に脅して逃がしてやれば、またお嬢さんを狙いましたよ。そうすれば結局は死を迎えるという点で同じこと……あなたのお連れの方に斬り殺されて、という違いがあるだけでね」
 それは確かにその通りかもしれない、とミルシェは思った。人の血を啜らねば“生きて”ゆけぬという魔剣ブリザードを持っているサラ=フィンクは、襲ってきた相手を斬殺することを寸刻も躊躇《ためら》いはしないだろう……
 だが、それにしても、この魔道士の態度は何処か妙だ。ミルシェが“賞金首”であることは男たちの言動でわかっただろうに、少しも驚いた風はないし、それどころか、連れの者が心配しているだろうから戻ろうなどと言う。彼女をアラシアに連れていってどうこうしようという素振りは、全く窺えなかった。
「ねえ……トラム、あたしの、その、懸賞がどうとか、っていうの……欲しくないの?」
 恐る恐る、しかし好奇心には勝てずミルシェが訊くと、魔道士は静かに微笑んだ。
「アラン殿の所へ戻りたくなったというのなら考えますが、まだ、今も[#「今も」に傍点]彼を許し切れていない[#「許し切れていない」に傍点]のでしょう?」
 さらりと言われて、ミルシェは絶句した。
「戻る気もない者を無理に拉し去るような真似はしません。第一、私には今更金銭など必要ない。アラン殿に返さねばならぬ借りもない。あなたを連れてゆく気はおろか、あなたが今何処でどうしているかを告げる気すらありません」
 魔道士はそこまで言うと、ちょっと首をかしげた。
「まあ、でも、これだけは言っておいた方がいいでしょう。アラン殿……今はもうアラン“陛下”と呼ぶべきでしょうが、彼は別段、あなたに危害を加えようと思って、賞金まで懸けて捜しているわけではないのです」
「ト……トラム、あなた一体……」
 ミルシェは流石に青ざめた。黒衣の魔道士が穏やかに語った台詞は、ケルリが滅亡したあの日から、彼女が誰にもひとことも洩らしたことのない筈の自分の素性に、深く関わっていたのである。
「あなた一体……何者なの? どうしてそんなこと……あたしに話せるの!?」
「訳あってアラン・シィ・アラス殿とは知り合いなので」
「知り合い? 何故?」
「ケルリの一地方領主に過ぎなかった彼をアラシアという国の王にしたのが、私だからです。つまり、私は、あなたにとってはお父上オレン・ウル・カーリー陛下を始めとする肉親たちの命を奪った、敵《かたき》とも言えますね」
 余りに静かに言われ、ミルシェは一瞬言葉を失った。目の前のこの黒ローブが、両親や兄姉の敵《かたき》だというのか?
「……そんな……いきなり言われたって……あたし……」
「ピンと来ないでしょうね。でも本当のことです。直接手を下したわけではありませんが、アラン殿が『反乱しかない』と思うように仕向けたという点で」
「どうして……どうしてそんなことしたの!?」
「あなたのお父上と同じことをしただけです」
 魔道士は穏やかに応じる。
「あなたのお父上、宮廷魔道士、魔道士ギルド長といった面々は、何らケルリの法を犯してもいないこの私を、その力を恐れる余りに殺した。しかも間に多くの人間を入れ、首謀者が誰であるかを容易には掴めぬようにしてね。私は、直接手を下すことなく私から大切なもの達を奪っておいて陰で祝杯を挙げた彼らを、許せなかった。だから、同じように、間に人を入れて、ケルリ王から彼の大切なもの達を奪わせたのです」
「ちょ、ちょっと待って……い、今あなた、殺……されたって言ったの?」
「言いましたとも。それがどうかしましたか」
「ど、どうかしたかって、それじゃあなた、亡……」
亡霊の類《ホーント》かと? そう思ってくれても別に困りませんよ、私は」
 魔道士は笑った。悪戯っぽく、しかし透き通るような笑い。ミルシェは訳がわからなくなった。自分の目は確かにこの長身の魔道士を見ている。その姿は、噂に聞く幽鬼《スペクター》のようにぼうっと透けてはいない。だが、前に一度消えた時のことを思い出すと……
 ミルシェはいきなり手を伸ばすと、ギュッと魔道士の体を抱き締めた。疑いようのない質感と、温もり。魔道士が一瞬体を強張らせたのまで、感じ取れた。
「――生きてるじゃない!」
 ミルシェは断言し、真っ直ぐに相手を見上げた。
「触《さわ》れるし、温《あった》かいし、ちゃんと生きてるじゃないの! どうして殺されたなんて嘘くのよ!?」
「……大胆なことをしますね、あなたという人は」
 魔道士は苦笑いしたが、ミルシェの腕を振り解いて逃れようとまではしなかった。
「でも、私の話したことに嘘はありません。と言うか、嘘ではなく、ただ……」
「ただ何なのよ?」
「……私があなたに会いに来てしまったのは何故だろう。不思議ですね。こんな、彼[#「彼」に傍点]に悟られる危険を冒してまで、ふらふらと来てしまったのは……私があなたに抱《いだ》くならば、精々嫉妬の感情である筈なのに……でも、あなたと話してみて、今のそのひたむきなまなざしを見て、その理由がわかったような気がします」
 突然妙なことを言い出す相手に、ミルシェは面食らった。
「何わかんないこと言うの?」
「わからなくていいのです。わからないように話しているつもりなのですから」
 魔道士はまた悪戯っぽく微笑んだ。



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