大鳥圭介いる中軍、更には後軍が宇都宮城に入城したのは、翌四月二十日の正午であった。
 歳三先鋒軍が再び城に到ったのは、それよりもやや少しだが後になった。一旦蓼沼まで引き返して泊まり、それからまた三里の道程を辿ってきたのだから仕方なかったが、些か間の悪い思いをさせられたのは確かだった。
 歳三は、先鋒軍の指揮官である秋月登之助に断わっておいてから、急ぎ圭介に面会を求めた。
「ああ、土方殿、此度は誠に──と、どうされました? 何やら──お顔の色が優れないようですが」
 労いの言葉を口にしかけた圭介は、しかし途中で歳三の厳しい表情に気付いてか訝しげな顔を見せた。歳三は苦い笑みを浮かべた。
「犠牲を出し過ぎましたから」
「何の、敵の犠牲はそれ以上でしょう。──過大に評価は出来ないが、過小に評価するつもりもない。先鋒軍の勝利は事実です」
「ならば」
 歳三はすかさず応じた。
「誰よりも先に、先鋒軍の兵士を労ってやっていただけまいか。私や秋月殿ではなく、実際に敵と砲火を交え、白刃を合わせた、兵士達を」
 圭介は目をしばたき、ひと呼吸置いてから尋ねた。
「── 一番の武功があった部隊は?」
「皆、それぞれに困難な戦いを戦った。なれど、強《し》いて一番奮戦した部隊を挙げよと言われれば、第一に桑名藩兵」
「それは、下河原門に当たった部隊の主力ですか? あの辺りが一番、激戦の跡を留めていた」
 今度は、歳三が目をしばたいた。
「……さっき、城の内外を見て回ってきたところですから」
 と、圭介は照れ臭そうに笑った。
「これから秋月殿とおふたりお呼びして、あの門に当たった部隊が何処だったのかを訊こうと思っていたのですが、先手を取られましたな。承知しました。先鋒軍の兵の面目を潰すようなことはしませんよ。祝いの盃は、誰よりもまず桑名の兵に、次いでそれ以外の先鋒軍の兵士達に取らせます」
 歳三は表情を緩めて頭を下げた。自分が急いで面会を求めた理由も全て見透かされたなと感じたが、存外悪い気はしなかった。
(……兵を正しく賞することの出来る将なら、少なくとも、愚将にはなり得ん)
 そう思った。
 
 その日は、一日祝宴となった。
 余り飲める性質《たち》でもないし、喜び浮かれる気分にもなれなかったが、歳三も盃を取った。下手に沈んだ顔を見せては、折角の士気に水を注す。兵士の間を回り、笑顔で労を労いつつ次の戦へと気持ちを向けさせるよう声を掛けながら、彼は、ともすると表層に上ってきそうになる苛立ちと不可解な焦りを抑え続けた。
 焦りはともかくとして、苛立ちには訳がある。笠間藩の態度である。一昨日たまたま蓼沼で面会した笠間藩士を通じて藩の重役を出張させるようにと申し入れたにも拘らず、来訪はおろか返事すら来ないのである。笠間藩は譜代の藩、藩主の牧野貞直は最後の大坂城代を務めていた幕閣でもあった。歳三自身、面識もないではない。が、その譜代中の譜代藩が今は“勤王”側に付いているらしいというのは、頭では理解してやれても、感情的に納得し難かった。最終的に出兵に持ってゆけずとも、下館藩に対してしたように、それなりの藩重役に会ってその変節を詰りたい。なのに、先方は、形だけの誠意すら見せようとせず、こちらの申し入れを黙殺している。
 昼、大鳥圭介に会った直後、だから歳三は、牧野貞直に宛てて殆ど恫喝に等しい書状を送った。いまだに誰ひとりよこそうとしないその姿勢を咎め、明日中に宇都宮まで重役をよこさないようなら兵を差し向ける、と認《したた》めて。
 だが、辺りに夜の帳《とばり》が下りる頃になっても、先方からは何の反応もなかった。弁明する気が少しでもあるなら、取り急ぎ、人なり、引き延ばしを請う返書なりが来てもおかしくない。それがないということは、こちらを完全に軽侮しているとしか思えない。
(虚仮《こけ》にしやがって)
 己の居室に割り当てられた城内の一室──大鳥圭介はじめ幹部級の将は、本丸内で辛うじて火を免れた各部屋に分居した──に戻ると、歳三は、それまで抑えていた苛立ちを一気に爆発させた。文机の上に置き去られていた誰の物とも知れぬ扇を引っつかみ、真っぷたつにへし折った。
 残骸を畳に叩き付けたところで、くぐもった“声”が届いた。
〈……何をそんなに荒れているんです〉
 昨日来気配すらなかった、あの亡霊の声だった。歳三は急ぎ辺りを見回した。だが、いつもの姿は見えなかった。
〈笠間藩のことですか、それとも〉
「姿を見せろ」
 歳三は唸り声をあげた。誰も見ていないと思ったからこその醜態を見られた、という意識が、声を潰した。
 亡霊の嘆息が伝わる。
〈……姿を見せれば、口が利けなくなる〉
「また“力”とやらが足りねえのか。だったら、とっとと俺にしがみ付け。俺の言うことが聞けねェ筈はねえな」
〈あいにく、抗える時だってあります。特にその“しがみ付け”にはね。あなたの寿命に関わることだから〉
「……姿が見えねえと落ち着かねえンだよ」
 歳三は唇を歪めた。
「せめて、何処にいるか教えろ。この──手に、手ェ置け。それくらいなら出来るだろう」
〈……握らないでくださいよ〉
「ああ」
 促すように右手を差し出して両の目を閉じると、ひんやりとした風が掌上《しょうじょう》をかすめた。次いで、確かに何かが、そう、丁度、冷え切った指のようなものが、そっと触れた。
 瞬間、歳三はそれをつかんで引き寄せた。誰かがぶつかってくるような衝撃を受け止め、素早く左腕を回す。寒さに凍え果てた者を抱き締めた感覚に目を開くと、青ざめた半透明の亡霊の姿があった。
〈に、握らないと──〉
「握ってねえよ。つかんで、引きずって、捕まえただけだ」
〈──呆れた人だ〉
 亡霊はわずかにもがき、しかし逃れられぬと諦めたか、ぐったりと力を抜いて嘆息するような様子を見せた。
「……窶れてるじゃねえか。丸一日見ねェ間に」
〈死人なんですよ、私は。元気そうに見えたら変でしょう〉
「髪はほつれてるし、げっそりした面して、着物も恐ろしく草臥《くたび》れてる。いつもはもっときちんとしてるだろうが。……大量に死人が出たせいか」
 亡霊は黙って頷いた。
「……沢山、死なせちまったな」
〈戦には犠牲が付きもの、だったのでは?〉
「窶れ切ってるくせに口の減らねェ奴だな」
 歳三は苦笑すると、亡霊を抱え込んだままで腰を落とし、胡座した。
「それとも、少しは力が戻ったか、亡霊」
〈少しどころか、結構な力が流れ込んできていますよ〉
 情けなさそうな“声”が返る。
〈でも、最初の頃のような、怖いほどの流れ込み方ではない……あの夜[#「あの夜」に傍点]、今戸であなたが私の膝に縋り付いて泣き明かした時からずっと、あなたから流れ込む力は不思議に穏やかで……よもや、私のせいで、あなたの生者としての力が衰えたのではないかと……〉
「誰が泣き明かした? どさくさに紛れて大袈裟なこと吐《ぬ》かしやがって。……心配するな。何度でも言うが、俺の寿命は、てめェなんぞに左右されるもんじゃねえ。なに、多分、俺の方が、一方的にてめェに力とやらを持ってかれねェように加減が出来るようになっただけさ。……うん、言われてみりゃ、確かに今戸の膝枕からこっち、てめェに触っても寒かねえな。冷てェ、ぐらいで、どうかすると気持ちいい」
〈気持ちいい?〉
「誤解すンなよ。そうだな、丁度、墓石《はかいし》に触ってるような感じだ」
〈……芹沢のですか?〉
「ふふン、そうだと言ったら怒るか?」
〈怒るには到りませんが、複雑な心境ですね〉
 亡霊は──寿命を縮めるという怯えが鈍麻してしまったのか、ごく自然に──歳三の肩に頬を押し当てながら応じた。
〈ようやくそこまでの存在に昇格させてもらえた、と思う反面、私は芹沢の代わりではない、とも思う。怒るに怒れず、喜ぶに喜べず〉
「まァ、そうなんだろうな。──けどよ、あの人の墓石は喋らねえし、こうして付き纏ってくることもねえ。そういう点では、代わりでも同じでもねえよ」
〈……言いくるめられている気がするんですが〉
「気にすンな」
 歳三は微笑し、亡霊の背中を優しく叩いた。仮にも男性をこんな具合に抱き寄せるなど、相手が生身だったら到底出来ないだろうな、と思う。だが、この亡霊は、触れようとすれば触れていられるものの、何処か生身の力強さや確かさに乏しい。頼りなく儚げで、特に今は、手を離すと消えてしまうのではないかと危ぶんでしまうほど、ひ弱な感じだ。下手な生身の女性などより余程、保護欲めいた気分に駆られてしまう相手なのであった。
(おかしなもンだな……生きてる時にはあれほどに絡んできた奴が、死んでからは一定の距離を守ろうとする。反対に俺は、生きてる間はあんだけ邪慳になれたのに、今じゃこんなに構ってる。まるで、散々冷たくして振っちまった後で気になり出した女にちょっかい出してる男みてェだ……)
 などと思って苦笑いしていると、亡霊が目を上げた。
〈……苛々は治まりましたか?〉
「苛々?」
 歳三は目をしばたき、そして思い出した。自分がさっきまで、笠間藩に対して腹を立て、荒れていたことを。
「……あァ、何か、てめェに構ってる間に、もう、そんな大したことじゃねえって気がしてきた」
〈ははあ、それが墓石の御利益なんですか〉
 亡霊はくすりと笑った。
〈元々、怒ったり苛立ったりしたところで仕方のないことだったんですよ、あれは。先方にしてみれば、何処の馬の骨とも知れない輩から届いた無礼千万極まりない高圧的な書状。黙殺したくなったとしても無理はない〉
「馬の骨? 何を言ってやがる。俺ァ牧野殿とは面識もないじゃねェし、言葉を交わしたことだってあるんだ。それの何処が馬の──」
〈確かに土方さんのことは存知でしょうが〉
 むっとしたような歳三の反論を、亡霊は面白そうに遮る。
〈内藤隼人なる人物のことは御存じないと思いますよ〉
 うっ、と歳三は言葉に詰まった。
 自分は今、対外的には内藤隼人で通している。たとえ周囲の多くがその名を呼ばずとも、自分から名乗る時にはその名を名乗る。当然、書状の署名も“内藤隼人”として出した。
 だが、この名を使い始めてから、まだ二か月ほどしか経っていない。“内藤隼人”が土方歳三だと知れ渡るには、余りに短かろう。先方が承知していない可能性は、十二分にある。
「……どうやら、てめェの言うことが的を射てるらしい」
 歳三は肩で息をついた。
「本気で攻めに行ってやろうと思ってたが、何だか間抜けな気がしてきちまった」
〈間抜けだとまでは思いませんが、現実にはそれだけの時が……いえ失礼、将来《さき》の話は御法度でした〉
「そこまで言っといて、御法度もへったくれもあるか」
 歳三は苦笑し、亡霊のこめかみを指で弾《はじ》いた。



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