前金で六〇万ダラーずつ、残りは成功報酬――ということで引き受けた仕事《ミッション》は、依頼人《クライアント》であるブライティこと諸葛亮子《もろくず りょうこ》自身の所に持ち込まれた仕事《ミッション》の依頼人《クライアント》の裏を調べてほしい、というものであった。
「そんなに胡散えのか?」
 ブライティのオフィスに出向いたムーンストーンの片割れ石田歳三《いしだ としみつ》は、雑用ロボットではなくオフィスの主《ぬし》、つまり亮子自身が淹れてくれた緑茶を啜りながら言った。
 彼女ブライティのオフィスは、現代では稀少な、庭付きの木造平屋一戸建である。一歩玄関に足を踏み入れると靴脱ぎ場があり、そこから先は土足厳禁の板張り廊下。部屋は全て畳敷き。客間に置かれている机は脚の短い方形の卓で、当然、客は座布団の上に正座を強いられることになる。客間の窓の外には広くはないが狭くもない日本庭園様の庭の風景が広がり、とどめに、出される飲み物が、湯呑みに入った温かい緑茶――但し、夏は、冷やした鳩麦茶が出ることもある。
 トーキョー・シティ――かつて日本と呼ばれた地域――に住み、ジャパニリタン――かつて日本人と呼ばれた人々――の血を色濃く引く歳三でさえ、此処へ来る度に、二、三百年は昔の時代に足を踏み入れているような錯覚に捕らわれるのだ。ましてやジャパニリタン的趣味をかけらも持ち合わせない他のシティの人間は、異世界に来た気分に陥るに違いない。
 もっとも、ブライティがこのオフィスに他人、特に依頼人《クライアント》を入れることは殆ど皆無に近い。ムーンストーンもそうなのだが、常に仕事人《ランナー》ネットで仕事を請け、何か相手と話し合わねばならぬことがあっても決して自分のオフィスには招かず、依頼人《クライアント》またはその代理人《エージェント》の許へ出向く。何故なら、仕事人《ランナー》たちにとって、オフィスは隠れ家に等しい。出来れば居場所を知られない方が、何かと安全というものであった。
 ――閑話休題――
 緑茶の湯呑み片手にブライティに問いかけているムーンストーンの片割れの台詞の続きに戻ろう。
「六〇〇万も出すほど、調べにくい相手なのか? ヨコシマ・システムズの社長なんってったら、どっから調べたって幾らでも情報は手に入るじゃねえか?」
「私が知りたいのは数字の類ではない」
 短くしている黒髪に縁取られた面《おもて》を心持ち緩め、しかし、深い森の奥にひっそりと湧く泉の澄み切った水面《みなも》を思わせる有機的な無表情を保ったまま、亮子は応じる。端然たる和服姿がほっそりとした体にしっくりと似合って、如何にも良家の令嬢然とした気品を漂わせた女性ではある。だが、歳三は、自分より三つか四つ年下のこの凛然とした女性が、普段外部と接触する際には男装しており、為に“ブライティ”の通り名《ランナーネーム》やその独特の喋り方とも相って、殆どの者から男性と思われていることを、知っている。つややかで青光りするほどの黒髪も一見無造作に切られているように見えるショートレイヤードだし、端整な顔立ちもどちらかと言えば中性的だから、低く落ち着いた声で「貴公は……なのか」とやられると、大概の相手は彼女を線の細い美青年と思い込んでしまうのだ。
「依頼の内容が穏やかではないのだ。私は即答を避けたが、それは、この仕事《ミッション》の背後が目に見えぬ所にあるという直感が働いた為。そうでなければ、請けていた」
「差し支えなかったら、どんな依頼か聞かせてくれねえか?」
「折角珍しくも足を運んできてくれた歳《とし》に、隠すつもりはない」
 今度こそはっきりと笑っているとわかるほど表情を緩めた亮子に対し、歳三は口をへの字に曲げた。
「てめーみてえな色気も可愛げもねえ女のとこに通うほど、俺ァ日照ってねえよ」
「相変わらずの女たらしか」
「ふん。女の方が俺を放《ほ》っといてくれねえのさ。ま、決まった彼女《あいて》はいねえがな」
「それも相変わらずか。皆、友達ということだな」
 亮子はふっと肩をすくめて、真顔に戻った。
「依頼そのものは単純だ。ヨコシマ・システムズ会長横島愛太郎《よこしま あいたろう》を事故死させてくれ。それだけだ。成功報酬は一三〇〇万ダラー」
「……ちょっと待った」
 歳三はピクリと眉を動かした。
「その仕事《ミッション》の依頼人《クライアント》は横島愛一郎《よこしま あいいちろう》社長じゃなかったか?」
「その通り。代理人《エージェント》を間に立ててはきたが」
「じゃあ何かい、依頼人《クライアント》は手前《てめえ》の親父を殺してくれってのか」
「そうなるな」
「……」
 歳三は腕を組んで考え込んだ。
「跡目争い絡み、じゃあねえな……他に兄弟姉妹もいねえっていうし、第一とうに自分は社の実権を握ってる……一体、何が理由なんだ?」
「そこから調べてもらいたいのだが」
 あっさりと亮子は言い、湯呑みに口を当てた。そりゃ確かにその通りだ、と歳三は苦笑する。そういった、数字ではない情報《プライバシー》は、通常アクセス出来るデータバンク等には入っていないものである。それこそ、仕事人《ランナー》の中でも特別な情報収集手段を持っている者――月代惣次郎《つきしろ そうじろう》のような――が、各社各団体等の機密ネットへの非合法のアクセスを試みねば、手に入れることが出来ない代物なのだ。それにしたところで、必ず成功するとは限らない。まあもっとも、惣次郎はその点実に優秀な仕事人《ランナー》で、だからこそ亮子も、歳三たちムーンストーンに依頼したというわけなのだろう。
「惣ちゃんなら安心して任せられる。私の情報ルートでは限界があるのだ。現に、せいぜいわかったプライバシーといえば――」
 亮子は淡々と続けた。
「横島愛太郎会長が男色好きで、その為もあってかひとり息子の愛一郎社長を幼い頃から溺愛していた、ということぐらいだ」
「げーっ、げろげろっ」
 歳三の顔に縦線が入る。彼にはまるでそのテの趣味はなかったし、頭では理解出来ても感覚的にはどうも理解出来ない世界の話だったから、この反応は極めて当然であった。
「まさか親父と息子に念縁があってどーのこーのってんじゃあねえだろうな?」
「愛一郎社長はごく普通に家庭を持っているし、その道の噂はひとつもない。父親も、息子に手を出すほどではなかろう。第一、そんなことにうつつを抜かしていれば、企業経営など出来はすまい? まあ、もっとも、会長となってからは暇になったらしく、最近はその道[#「その道」に傍点]の方に随分と熱心ではあるらしいが」
「脛毛と脛毛触れ合わせるって感覚がわからねえぜ。俺ァ女の方が断然いい」
 歳三はかぶりを振りながらそう宣言すると、右手側に置いていた愛刀――セラミック製のロングブレード“堀川国広レプリカ”を取って、座布団から腰を上げた。
「まあ、とにかく調べてみるさ。期限は五日後だったな? そっちの返事は、いつまで延ばせるんだ?」
「三月十五日。六日後に返答することになっている」
「余りやべえ仕事《ミッション》引き受けんなよ。生き残って幾ら《ハウマッチ》ってえのが俺たち仕事人《ランナー》だ」
「わかっている」
 亮子は軽く頷いた。
「だが、今回の私の仕事《ミッション》は、歳が鍵を握っている。どうせ巻き込まれるなら、報酬があった方がいいだろう」
 部屋を出ようとしていた歳三は、思わず振り返って亮子の有機的無表情を見つめた。
「……予感、か?」
「外れたことはない」
 しとやかな身ごなしで立ち上がりながら、静かに、亮子は告げる。
「私も、妙だとは思うのだ。だが、この仕事《ミッション》を依頼された時、何故か、全く関わりのない筈の貴公の姿が脳裡に浮かんだ。あの……初めて貴公に出会った時の、貴公の姿がだ。以来、予感は強まる一方だった。……だから私は、ムーンストーンに依頼することにしたのだ。歳にとっては、私が依頼人《クライアント》になるのは気に入るまいが、そういう事情を汲んでほしい」
 石田歳三は胃の腑の辺りに手をやった。跡も残っていない筈の古傷が疼き出す気がした。
「……わかったよ。忌ま忌ましいが、お前の予感ってなぁ外れたことがねえ。肝に銘じとくさ」
「良ければ、貴公のオフィスに送るが」
「パス! 俺ァ自分の足で帰るっ。第一、いきなり部屋ん中に降って湧いたんじゃあ、惣次郎の奴が魂消ちまわぁ」
 玄関まで歳三を送ってきた亮子は、ふっと笑みを閃かせた。
「惣ちゃんは私の瞬間移動《テレポーテイション》を見馴れているから、歳ほどにはびびらぬだろう」
「悪かったなっ。見馴れてたって、魂消るモンは魂消るんだよっ」
 むくれ顔で、歳三は靴に足を入れる。ブライティこと諸葛亮子は、超感覚的知覚《ESP》系統と念動《PK》系統の双方に優れた能力を持っているという、常識外れ・掟破りの超能力者《サイオニック》なのだ。
「では、宜しく頼む」
「ああ」
「惣ちゃんにも宜しく伝えてくれ」
「わかったよ……」
 子供時代、一時期ニューヨーク・シティに両親の仕事の関係で住んでいたことがあるという亮子は、同じくニューヨーク・シティに来ていた月代一家と近所だったことがあるそうで、何故か惣次郎のことだけは“惣ちゃん”と呼ぶ。その喋り方とマッチしないこと甚だしいのだが、当人も惣次郎も気にしていないようである。歳三も、最初の頃は激しい違和感に苛まれたものだが、最近では随分馴れてしまった。
 だが、馴れはしても、やはり違和感は完全には拭い切れない。
(それに、俺には、猫の子に呼びかけるでもあるまいに“歳”じゃねえか……っても“歳ちゃん”じゃあ流石にゾッとしねえけどな)
 歳三は肩をすくめながら苦笑いして、玄関の引き戸に手をかけた。

 ブライティのオフィスであるジャパニリタン式庭付き木造平屋一戸建という“別世界”を出ると、二十二世紀末トーキョー・シティの現実の一角が、ムーンストーンの片割れを待っていた。
 不吉なサイレンの音が鳴り響き、野次馬が集まってガヤガヤ騒いでいる。警官《スタンダードポリス》の姿があちこちにあり、道端に、毛布がかけられた何か[#「何か」に傍点]――恐らく遺体だろう、セピア色の厚い毛布の端からわずかに人の指先が覗いていた――が転がっていた。石田歳三は野次馬の中に器用に割り込むと、前の方へ出た。
「撃たれたらしい――」
「通り魔だってよ、後ろからいきなり――」
「麻薬《ヤク》中の仕業らしいぜ――」
 声高な“囁き”が耳に入る。どうやら、麻薬中毒患者絡みの行きずり殺人らしい。このトーキョー・シティ特別区第三ブロック辺りは歳三たちのオフィスのある第十四ブロックよりはずっと治安も良い筈なのだが、それでもこういう犯罪と無縁ではいられないのだ。
 毛布から覗く手指の細さと毛布の作っている山の大きさとで、多分女性だろうと歳三は見当を付けた。側に、小さな鞄が落ちていた。赤い、可愛らしいウサギの絵の付いた、幼児が持つような鞄である。歳三は眉をひそめた。毛布のかけられた遺体は明らかに大人のものだ。あの鞄の持ち主とは考えにくい。
「子供が撃たれたのか?」
 近くの野次馬男に尋ねると、その男はかぶりを振った。
「いいや、若い女らしい」
「見たのか」
「俺は見てないよ。通りがかったら人がたかってたから」
「見た奴はいるのか?」
「さあ……」
 男は首をひねる。すると、横合から別の男が口を挟んできた。
「目撃者のおっさんは、とうにケーサツ《アドポリ》に連れてかれたよ。ちょっと聞いたとこじゃ、女の子が消えてるらしい」
「消えた?」
「撃たれた女は子供連れだったって、おっさんは言ったらしいけど、その辺にはいないのさ。ほら、あれ、あそこに荷物だけは残ってるだろ。だけど、おっさんが逃げて通報してる間にいなくなったらしいよ。多分逃げたんだろうね。遺体らしきものも見付かってないしさ」
「犯人は? 捕まったのか?」
「まだらしい。何せ、その辺にいたのが、殺された女と、子供と、目撃者のおっさんだけで、おっさんは逃げちまったからなァ。その辺まだうろついてなきゃいいけどなァ。まったく物騒な世の中だよ。何処に武器持った奴がいて、いつ襲われるかわかりゃしない」
 歳三は黒いレザーコートの前を合わせながら頷いた。彼は今、そのコートの下に愛用のセラミックブレードを差している。持っていて悪いわけではないのだが、殊更に見せびらかす気にはなれなかった。
(昔、このトーキョー・シティが“日本”ってぇ名で呼ばれてた頃には、一般市民の銃刀類所持は御法度だったそうだが……その時代の為政者は、ある意味で、今の銀河連邦政府の連中よりゃマシだったのかもしれねえな)
 そんなことを考えながら、赤い鞄を見やる。よく見ると、口が開《あ》いて中の物が少し飛び出している。歳三は無造作な足取りで鞄の所まで歩み寄った。警官《SP》がすっ飛んでくるのを視界の端に捉えつつ、鞄からはみ出している品を素早く一瞥する。市民《ID》カードだ。持ち主らしい童女の立体顔写真が焼き付けられている。名前までは見えなかったがその上にある市民ファイルコードは見えた。
「おいこらっ! 勝手に近寄るんじゃないっ!」
 しっしっと言わんばかりの口調で、駆け寄ってきた白手袋の警官《SP》が手を振る。歳三はひょいと一歩退くと、如才ない笑顔で軽く頭を下げた。
「いやあ、どうも済みませんでした、ロープが張られてなかったからいいのかなぁと思って……」
 その昔製薬会社の営業部員《プロパー》だったこともある歳三は、その気になれば幾らでも愛想良い好男子に変身出来るのだ。人をそらさない笑顔で素直に謝られては警官《SP》もそれ以上怒るに怒れなかったらしく「いいから早く行きなさい」と言うに留まった。歳三は笑顔でもう一度済まなそうに頭を下げると、さっさと場を離れた。長居は無用だ。見るべきものは見たのだから。
 歳三は、彼なりの記憶法で英数字の羅列を頭の片隅に叩き込んだ。たとえ一見関わりのない、関わってこないだろう事柄でも、得られる情報は得ておいた方が良い。それが、この男が仕事人《ランナー》として生きる中で身に付けてきた、仕事のやり方のひとつだった。
 情報収集を怠ったことで本当の[#「本当の」に傍点]死者になってしまった仕事人《ランナー》は、幾らでもいるのだから。



Copyright (c) 1997, 2002 Mika Sadayuki
背景素材:「トリスの市場」さま