お馬鹿も遂に此処まで来たかと、我ながら呆れるのだが……
 二〇〇〇年五月五日午前、母と共に茨城県のJR石岡駅へ降り立った私は、わざわざ栃木県宇都宮市から馳せつけてくれた風樹裕さんと落ち合い、風樹さんのお車で、茨城県新治郡千代田町の、その昔志筑藩があったと思しき辺りへと赴いた。
 志筑──元治元年(一八六四)に新選組に加盟した鈴木大蔵の生まれ育った土地である。
 ……“大蔵”を“おおくら”と読むのか“だいぞう”と読むのか、そこのところは判然としない。手持ち文献の中では両方のルビを見たことがあり(ちなみに子母澤寛先生は“おおくら”と振っておいでだ)、どちらかに決めるべき決定的な史料を持っていないからだ。
 という訳で、読み方を確認出来るかもしれない小野圭次郎氏の「伯父 伊東甲子太郎」(という文章があるらしい)を読みたい今日此頃。
 そう……
 鈴木大蔵とは、後に江戸へ出て深川の伊東道場に北辰一刀流を学び、やがて請われて師の娘婿となって伊東姓を名乗り、元治元年、甲子《きのえね》の年の上洛を機に、名を甲子太郎と改めることになるお人である。
 
 伊東さんの故郷、志筑。現在は(……昔からか?)上志筑・中志筑・下志筑と分かれていることは、郵便番号簿や市販の地図で確認済みである。地図を見る限りでは、背の高い建物や遊興施設などの殆どない、観光ずれしていない、なーんにもない土地のようだ。その方が幕末の風情が窺えていい、と思う辺りが既に病気。
 無論、一行の誰にとっても初めての道で、行き方がわからないので、必然、この旅(?)に最も情熱を燃やしている私が助手席でナビゲートしながらのドライブとなったのだが……
 ……えッ? も、もう志筑一帯通り過ぎちゃったの?
 驚いたことに、車で走ると、志筑の名が付いた地域は、あっと言う間に終わってしまう。勿論、歩き回ればそれなりの面積はあるのだろうけれど……小さな藩だったとは聞いていたが、これほどとは。
 ちょっと流石に目が点になった。
 
 そのまま走って千代田町内を抜け、某所でお弁当。鴨の棲み着いている池を眺めながら、「常陸だけに鴨?」とか馬鹿なことを言いつつ、しばし休息した。……ん、何で常陸で鴨かって? 茨城県は常陸国、常陸国と言えば水戸、水戸と来れば当然、芹沢鴨よね(笑)。
 鴨に餌(食べ残しの御飯)をやって和んだ後、再び風樹さんのお車で、今度は筑波山を目指す。鈴木少年が毎日のように見ていたに違いない山、万葉の昔からしばしば歌にも詠まれ、“西の富士、東の筑波”と並び称される関東の名峰である。男体山と女体山の二峰に山頂が分かれており、実は女体山の方がほんのちょっと高い。
 で、時間の関係上、徒歩でなく車で登ることにしたが、有料道路で一気に登るのも何だよねー、と一般道を通ったら、これが物凄い坂道。傾斜は恐ろしく急だわ、ヘアピンカーブでうねってるわ、狭いわ……どーにかこーにか風返峠まで無事に辿り着いたが、ハンドルを握っていた風樹さんは相当寿命が縮む思いをされたと思う[#ひとつ汗たらりマーク] 申し訳ない[#ふたつ汗たらりマーク]
 そこまでして登ったものの、休日の為か、その先が大渋滞。長蛇の列で、超のろのろ運転。一時間頑張って並んだが、それでもロープウェイ駅まで半分の距離も進めていない事態にげんなり[#「げんなり」に傍点]、遂にリタイアして下山した。……重ね重ね風樹さんには悪いことをしてしまった。
 救いは、車窓からも関東平野が一望出来たことかな……。
 
 車は、石岡駅へ戻る道を走る。
 私としては、後は志筑辺りから見た筑波山の風景を一枚写真に撮れればそれで上出来、という思いであった。
 ところが、中志筑を通り抜けようとした所で、目の端に“城址”の文字がフッと引っかかったのである。
 えッ、城址って、志筑城址!?
 慌てて車をUターンしてもらい、看板を確認。間違いない。“志筑城址”と書かれている。ということは、この近くに、お城の跡があるのだ。
 しかし、問題は、車を停めておける場所が近くにないことである。車中に人が残るにしても、道が狭くて、路肩駐車は論外。駐車場を持つコンビニは、余りに遠い。結局、道端の郵便局の駐車場にちょっと入れさせてもらって(無論いつでも出られるような体勢で)、私ひとりだけが城址探索に赴くことにした。……あああ、またまた風樹さんに御迷惑をおかけしてしまう私[#ふたつ汗たらりマーク] 御免なさい御免なさい[#三つ汗飛散マーク]
 で、志筑城址。どうやら、今は志筑小学校がある場所らしい。道の途中に“指付の池”と看板が出ている池があった。多分、地名と同じ読み方なんだろうな、と思いつつ、緩やかな坂となっている“御登城の道”を上る。守り重視で藩内の高台に城を築いたのかな──と、ふと思う。子母澤先生の著述によれば、志筑は、藩の規模は八千五百石と小規模ながら、その陣屋は大体城の形を備えていたという。
 きっと鈴木大蔵少年も、年幼くして家督を継いでからは、この“御登城の道”を歩いたに違いない……。
 ところで、さっきから私は文中で“鈴木少年”と書いてきた。本来、元服した男子(元服していなければ家督は継げないから、仮にその時まだ元服前だったとしても、家督を継ぐに当たって当然元服した筈)を“少年”と呼ぶのは不適切だと思う。だが、我々の感覚からすれば少年と称される年齢ではと思われるので、敢えて“少年”としてきた次第である。
 彼は、嘉永五年(一八五二)二月に父を亡くしている。この時わずか数えの十八歳。満年齢で言えば十六か十七である。彼が、家老と衝突して脱藩した父に代わって家督を仰せつけられたのは、その後無念の家名断絶と相成り、水戸へ出て学問と剣を学んだことなどを考えると、多分それより何年か前だろうから……満年齢で十五以下……やっぱり、青年と呼ぶにはまだ早い、少年という言葉がしっくり来る年齢のような気がするが、如何だろう。
 それはさて置き、志筑小学校。正門横、金網《フェンス》越しの敷地内に、志筑城址の石碑が建てられていた。流石に中へ入るわけには行かないので、周囲に沿って歩いてみる。……人っ子ひとり、通らない。ただ、鳥の鳴く音《ね》と、周囲の木々の梢を渡る風の音だけ。ふっと時の狭間に迷い込んだような感覚に捕われる。今にもその角から、羽織で背筋を伸ばした白面の美少年が姿を現わしそうな……
 ……だが、辿る下り坂の彼方に忽然と出現した道路と、走り過ぎてゆく車とを見て、現実に返った。
 自分が余りに長く風樹さんと母を待たせているに違いないことにも、思いが行く。名残惜しかったが、旅の前には期待もしていなかった史跡に巡り会えただけでも、幸運だ。拙作であれだけとーんでもない描かれ方をされたのに、伊東先生ってば何て寛大なお方……
 先生の御加護に感謝しつつ、私は、来た道を下り、風樹さんと母の待つ千代田志筑郵便局前へと引き返したのであった。
 
 今、私の手許には、県道沿いで写した筑波山の写真がある。
 風樹さん命名“伊東さんのふるさとツアー”の締め括りに、志筑を離れる辺りで車を停めてもらい、そこから見える筑波山を焼き付けたものだ。
 ……でも、写真って、目で見た通りには写らないのかなァ。
 同じ場所でこの目に“鈴木少年の見ていた風景”として焼き付けた筑波の山は、とても大きく見えていたのだが……
 とまれ、伊東さんは、間近に筑波嶺《つくばね》を望む場所で生まれ育った。
 片や、土方さんは、関東平野の只中、視界を遮るもののない場所で生まれ育った。
 どちらが良いとか悪いとか言うつもりはないけれど、常に仰ぎ見るもののある場所で育った人間と、目の前を塞ぐもののない場所で育った人間……勤王を志し国事を思って悩んだ伊東さんの姿と、行く手を遮る難事を払いのけ前進し続けた土方さんの姿とが、彼らそれぞれの少年期の原風景に重なる気がすると言えば、穿ち過ぎだろうか。
 
 それにしても……
 またしてもこんなお馬鹿な旅にお付き合いくださった風樹さんに、平身低頭、多謝再拝である[三つ汗たらりマーク]
 次こそは、会津若松、御一緒しましょうね!
 
 
※入稿直前に、別件で手持ちの歴史資料本を調べていたら、その中に、小野圭次郎氏の「伯父 伊東甲子太郎武明」が収録されていた。
 が、がちょーん(死語)。
 一昨年買った本じゃないか。
 もっと早く気付けよ、おい〜[#ひとつ汗たらりマーク]
 元来が『まなざし』で「流山」を執筆していた頃に、近藤さんと土方さんとの“流山別離”の現場にいたらしい隊士の手記が目的で購入した本だったので、その史料しか眼中になかった……(恥)
 全文修正しようかとくらくら来たが、自身の馬鹿を曝すのも悪くないし、何より文章展開技法上の問題があるもんで(要は、馴染みのない方の名前で書き出しておいて、「これ誰?」と思っているだろう読み手に、周知の名前の方を後から何食わぬ顔で示す──という手法を使っているので)、そのままに置くことにした。
 ちなみに、振り仮名は“おおくら”となっていた(笑)。



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