胎動
二〇〇五年の、あれは、四月の下旬であったか。
ゆりこさん&白牡丹さんからの情報を元に、JR東海の「そうだ 京都、行こう。」のサイト内で、
月真院《げっしんいん》の紹介ページを見た。
そこには、三月現在の情報として、春の特別公開の案内が出ていた。
高台寺
《こうだいじ》の塔頭
《たっちゅう》、月真院。伊東甲子太郎
《いとう かしたろう》をはじめとした御陵衛士
《ごりょうえじ》の面々が屯所
《とんしょ》としていたお寺。観光客がふらっと訪ねていっても拝観出来ない非公開のお寺ながら、かつては宿坊
《しゅくぼう》として営業していたので宿泊客には公開されていた……ものの、色々複雑な事情があって宿坊としては使えなくなり、今や完全な非公開になってしまったことから、伊東先生方の起居
《ききょ》していたお部屋に佇
《たたず》むという夢の実現は遙
《はる》か遠くなったと思っていたのだが……そうか、春には公開されているのか……
……秋の特別公開はないのだろうか。
そう思いながら、私は、そのページをブックマークした。京都に限らないが、桜や紅葉の美しさで知られる土地の観光シーズンは、春と秋。春の特別公開があるならば、きっと、秋の特別公開もあるに違いないと、淡い期待を胸に……
奮闘開始
八月も半ば。
ぼちぼち、九月の中下旬に予定している、遅い夏休みを利用しての秋の旅の段取りを付けねばならない。
などと思いつつ、八月に入ってから月真院のページをほぼ毎日のように覗
《のぞ》くのだが、秋の特別公開の情報が載せられる気配は、全くない。
そうこうしているところへ、白牡丹さんから、十一月二十七日に月真院で昼食を頂けるという
イベントについての
情報がもたらされた。
……ということは、スポット情報のページはさっぱり更新されないけれど、全く特別公開の予定がないというわけでもないのでは。
うーん……そろそろ、宿と、新幹線の切符、予約しないとならないんだけど……。
追い詰められるといきなり行動的になる私、思い切って、問い合わせの電話を入れることにした。
秋の特別公開の御予定はないのでしょうか? と。
八月十八日。
どきどきしながら電話を架
《か》けると、二回コールほどで先方が出た。ちゃんとした会社並みに早い。ちょっと吃驚
《びっくり》。
……でも、うわ、何か、えらく応対がぶっきらぼうなお人だわ……(汗)
一般公開されている寺社
《じしゃ》とは異なり、普段この種の問い合わせを受け慣れていないのだろうな……ということが、その一事
《いちじ》だけで、ひしひしと伝わってくる。
しかし、その程度で気後
《きおく》れしていては、問い合わせの電話など出来はしない。
慌てて早口になってしまっては、聞き取りづらくなる。何処
《どこ》の情報を元に問い合わせたかということと、可能であれば是非見学させていただきたいというこちらの希望とを、なるべく丁寧に、ゆっくりとした口調
《くちょう》でと意識しながら、お伝えする。どのような結果になるのであれ、こちらがお願いする立場なのだから、失礼だけは避けねばならない。
奮闘すること、数分。微妙に話がかみ合わなくて困ったが、どうにかこうにか、先方の都合
《つごう》とこちらの希望日時さえ齟齬
《そご》を来
《きた》さなければ拝見させていただけそうだという感触はつかんだので、一旦
《いったん》電話を切る。
わかったことは、端的
《たんてき》に纏
《まと》めると、以下の通り。
- 予《あらかじ》め申し込んで、その日時にお寺側の都合が悪くなければ、見学は可能らしい。
- 希望日がイベント等で貸切の場合は、お断わりしている。
- (九月の連休の時期は、と尋ねたところ)(今年の)九月二十四日はお彼岸の法要があるので、見学不可。
- 希望する日時を三つ挙げて、連絡先や人数等を明記の上、FAXで申し込んでほしい。その中から、お寺側が都合の付く日時を知らせる。
あくまでも、先方との遣
《や》り取りを通じて私の受けた印象だが……春だの秋だの特別公開だの、きちきちとしたスケジュールは特になく、普段は非公開だし、この時期なら特別に公開するから来て来て〜と殊更
《ことさら》に宣伝することもしないけれど、特に自分達の都合の悪い日でなければ、事前にちゃんと申し込んでから来てくれるなら問題ない……という感じ……?
夏や冬に申し込んでも見せていただけるのか否
《いな》かは確かめていないので、何処までも、私個人の受けた印象ということで。
八月二十日、朝。
一昨日
《いっさくじつ》に依頼された通り、こちらの連絡先と同行予定人数と訪問希望日時を順に三つ書いたFAXを、先方に送信。
……延々とコールされるも、なかなかFAXに切り替わらない。問い合わせた時に電話を取るのが早かったのは、たまたま相手が電話の近くにいたからだったのかもなぁ。
やがて自動的にかFAXに切り替わり、送信終了。……うん、まあ、この調子なら、きっと、すぐには返事は来ないだろう。留守電にして外出してもいいか……
ところが、翌日になっても、全く連絡がない。
希望日時と連絡先等をFAXで送ったその後が一体どういう流れになるのか、どういう方法で見学可能日時が通知されるのか……そういった情報が全く得られないのが、ひそかな苛立
《いらだ》ちの種になる。
試しにウェブで検索してみても、その種の情報を上げているサイトはないようだし……
FAXで返事が来るのか、電話で返事が来るのか、はたまた京都御所や桂離宮辺りの見学時のように葉書か何かで見学許可の通知が来るのか……って、あちらは往復葉書で申し込むんだから(=送料は申込者側で負担)、違うよなあ……
余談ながら、自サイトの通販ページで、「こうしてもらえれば、いつ頃
《ごろ》にどうする、こうする」ということを一々書いているのは、自分が申し込む側だった場合に、プロセスがわからないと不必要に苛々
《いらいら》しがちな性分だからだ。
無論、先方はあくまでお寺さんであって、お客様が第一というホテルでも旅館でも料亭でもないから、反応はとろいだろうなー、という覚悟はしている。
しかし、当方としては、確定日時をなるべく早めに通知しなければならない同行予定者が複数いるのが気がかり。
それに……もし希望日時で駄目だったら、私自身の旅行の日程そのものを見直し、新幹線の切符と宿とを取り直さなければならない。切符も宿も早い者順だから、立ち上がりが遅くなればなるほど、諸々
《もろもろ》の手配で不利になってゆく。
最初に問い合わせた時に、申込後の流れまでをきちんと確認しておけば良かったな。
余り急
《せ》かすのも悪いし、一週間は待ってみようと思うが……金曜日になっても何の音沙汰
《おとさた》もなければ、流石
《さすが》に電話を入れようっと。
などと思っていたその翌日、月曜日。
……朝の内に、問い合わせの電話を入れた。
エンジンがかかるまでは頗
《すこぶ》る遅いのに、一旦エンジンが暖まって走り出すと、もう止まらない性分なのだ(苦笑)。
かなーり長いコールの後に電話に出たのは、先日の、何処かしらぶっきらぼうなお人。……ああ、やっぱりあの日は、たまたま電話の近所にいただけなのね。
せっかちな奴だなと思われるだろうなあ、と危惧
《きぐ》しつつ、「一昨日
《おととい》、見学希望のFAXを差し上げた者ですが……」と用件を切り出すと、先方あっさり、
「あ、済みません、まだお返事を差し上げてませんでしたね」
忘れとっただけかーい!
もしかしてこちらの希望日時では都合が悪いのかな、断わられたらどうしよう、とヤキモキしていたのに……。
教訓。
せっかちだと思われてもいい。遠慮せず、ビジネス同様、必ず、FAX送信後に追っ掛け電話を入れるべし。
という訳で、第一希望日時である九月二十二日午前十一時は、呆気
《あっけ》なく許可された。
ただ、お彼岸
《ひがん》の最中ゆえ当日のお寺の状況──忙しさや空き具合等──がわからないのでお昼御飯は御遠慮いただければ、というお話だったので、それは了承。
……あああ、すっかり月真院でお昼を頂くつもりだったのに、お昼御飯、何処で食べよう……(汗)。
そして当日
九月二十二日、朝。
前日から同じホテルに宿泊した秋月あやさん、そして我が母と共に、宿泊先のリーガロイヤルホテルから、JR京都駅の烏丸
《からすま》中央改札口へ。
白牡丹さんとの待ち合わせの為
《ため》である。

月真院さんとの約束の時間に遅れてはならじと気合が入り過ぎたその待ち合わせの時間は、何と九時半。結果、約束の十一時より一時間以上も前に、清水道
《きよみずみち》バス停で下車する羽目
《はめ》になった。
本来ならば、月真院へ行くには東山安井
《ひがしやまやすい》バス停で下車するのが最寄
《もより》なのだが、停まる停留所が少ない急行バス
(京都駅烏丸口のD1乗り場から、市バス100系統)は、ひとつ手前の清水道バス停にしか停まってくれないのだ。
まあ、これから十一時まで時間を潰さなければならないのだから、少しぐらい遠い停留所で降ろされたところで、全く問題ないのだが。
わざと遠回りする為、まずは八坂
《やさか》の塔を目指すように、てくてくと、石畳
《いしだたみ》の坂を上る。拝観はお休みという札
《ふだ》の下がっていた八坂の塔の脇を過ぎて更に上り、二年坂をのーんびりと下る……うわー、何処かで時間潰しにお茶を飲もうと思っても、まだ何処の店も準備中で開いてないよー(汗)。

月真院の辺りへ来たのは、二〇〇〇年の九月以来、これが二度目である。
あの時に、「月真院」という単語と「駐車場」という単語が何だかミスマッチな気がして笑ってしまった月真院駐車場は、今も健在。……しかし、あの時には「おーい、こっから中に入れちゃうぞー、それでいーのか非公開なのにー」と焦ってしまうほどすっとんと門内の庭へ通じていた道は、塞
《ふさ》がれてしまっている。……安心したような、残念なような。
門は、柵
《さく》で閉ざされていた。私が初めて此処
《ここ》を訪れた時には、門自体が閉ざされていて、中を窺
《うかが》うことすら出来なかったのだが(……あ、先述
《せんじゅつ》の通り、駐車場からは見事に覗けたけど(汗))……今日は、門だけは開けてあるようだ。
中を覗くと、知る人ぞ知る(笑)桔梗
《ききょう》が、辛
《かろ》うじて一輪だけ咲いている。後で中へ入れるのだから……と思いつつも、通りすがりの普通の観光客のように、門の外から門内の写真を頂いてみる。……桔梗の花、此処まで写真を縮小すると見えないなぁ、右下、白壁
《しらかべ》の手前に咲いているのだけれど(汗)。
お寺の外塀
《そとべい》は、五年前に訪れた時同様、びっしりと掘られた落書きで、無惨な状態であった。
上から噴
《ふ》き付けはされていたけれど、掘り込まれた落書きだから、消えることはない。そして、消えない落書きは、新たな落書きを呼ぶものだ。何やら、外国語の落書きまで見えるのだが(嘆息)。
……何とかならないものだろうか。
箸休め:訪問前後に立ち寄ったお店
此処でちょっとひと休みして、月真院訪問前後に立ち寄ったお店など。

まずは、訪問までの時間を過ごすのに立ち寄った、
「茶房 洛匠《らくしょう》」というお店。
……わざわざ選んで入ったわけではなく、単に、二年坂の辺りからずーっと下りながら、何処か余り時間を取られ過ぎずに休める場所はないかなーとうろうろ歩いていたところ、他の多くのお店がまだ準備中であった中(十時半に開店という店が殆どだった)、月真院前を少し過ぎた絶妙な辺りで丁度営業中だった為、此処にしようと入ってみただけなのであった……
帰宅して、この記事を書く為に調べてみて知ったのだけれど(汗)、私がお抹茶とセットで頂いた、お抹茶入りの美味な蕨餅
《わらびもち》は、どうやら、こちらのお店御自慢の一品だったようである。
事前知識なしで訪ねて「美味
《おい》しい」と思えたのだから、お勧めしても良いかなと思う。
月真院を辞去した後、お昼を頂いたのは、お蕎麦と甘味の店、
「二寧坂 いちせん」。こちらも、事前知識なしに立ち寄って、素直に美味しいと思えたお店だった。
……あれぇ、こちらのサイトの「お品書き」には何故か見当たらないのだけれど、私が頂いた甘味は、「ほうじ茶パフェ」(税抜860円)である。抹茶味の甘味に飽きていたというわけではないのだが、お茶はお茶でも焙
《ほう》じ茶というのが物珍しかったので、頼んでみたのだ。寒天だけでなくアイスクリームも焙じ茶のお味、すっきりさっぱりとした風情で、至極美味であった。うーん、写真撮っておけば良かったかなぁ。
ちなみに食事は、温かい湯葉蕎麦(……勿論、葱抜き(爆))。
名残の地へ
十分ほど前になったので、「洛匠」から腰を上げ、ほたほたと月真院の門前へ戻る。
……えっ……柵がどけられて、門が完全に開いてますけど……
そんなオープンな状態になっているのを見たのは初めてなので、吃驚仰天。ま、まさか、我々が訪ねてくるというので、わざわざ開けておいてくれたのだろうか。
客観的に見て、それ以外には考えられないので、そうなのだろう。
とはいえ、声をかけるのが余り早過ぎるのも、どうだろう……。

という訳で、おっかなびっくり中へ入り、二分前ぐらいまで、前庭をうろうろして、建物や桔梗の写真などを頂くことにする。
が、つと振り返って、驚いた。
……うわっ、一般の観光客、どんどこ入ってくるよ(焦)。門が開いているものだから、ついつい入ってしまうのだろうなぁ(汗)。こんな時にまで、人寄せパワーを発揮しなくてもいーのになぁ、野間(爆)。「開いているのを初めて見た」という京都リピーターらしき小母
《おば》さん達から、玄関先や広間などあちらこちらを覗いては写真を撮っていく若い外国人男性まで……およそ五分の間に、覚えている限りで五組ほどが、前庭まで入ってきていた。うーん、まあ、普段は開いていない門が、我々の訪問予定があったが為に開いていたのがラッキーだったということかしらん(苦笑)。
……だが、ということは、事前に日時のわかっているイベントの始まる少し前頃を狙って近所をうろうろしていれば、どさくさに紛れて門の中までは入ることが出来てしまう、ということになるのだろうか。……おーい、それでいーのか非公開なのにー(汗)。
二分ほど前になったので、そろそろ声をかけても差し支
《つか》えないだろうと判断、透かされていた出入口の脇に付いていた呼鈴
《よびりん》を押してみる。
……どう耳を澄ませても、鳴ってるように聞こえないんですけど。
今度は、奥へ、「御免くださーい」と大きな声をかけてみる。
……どう気を研
《と》ぎ澄ましても、人が出てきそうな気配、ないんですけど。
暫
《しばら》くそうやって声をかけてみたが、まるで反応がないので、予約などの時に色々と問い合わせた先に電話を架けてみる。……実は、万が一のことを考えて、PHSに、先方の電話番号、登録しっ放しにしてあったのである。
……あちゃー、方丈
《ほうじょう》の広間に通じる側から声をかけるんでしたか(汗)。失礼しました(大汗)。
指示された出入口へと回り、再び声をかけるも、応答なし。何度も声を励まして呼び掛けてみるも、全く応答なし。
……あの〜、すっごく、不用心な気がするんですけど……。
何分間かそうして呼び続けたところで、ようやく、奥から人が出てくる。……嗚呼
《ああ》、何て長閑
《のどか》で大らかな。
方丈の広間側へ案内されたことから、もしかしたら伊東さん達の起居していたお部屋は見せていただけないのかも、と心配する秋月さん。
いや、もう、それは駄目で元々、いざとなれば、何食わぬ顔で「衛士
《えじ》の皆さんがお使いになっていたというお部屋は、どちらでしょうか?」と切り出せばいーの、と私(苦笑)。同じ不安を持たないでもなかったのだが、最初から「多分、駄目だろうな……」と諦めてしまっては、此処まで来た甲斐がない。
庭に臨む方丈の広間には、ふかふかの座布団
《ざぶとん》が敷かれかけている。後で聞けば、午後から、外国人観光客の団体が、座禅
《ざぜん》を組みに来るとかで立ち寄る予定になっているとのこと。……成程、予約確認の遣り取りをした時には今日の午後も空いていた筈だから、私が予約を入れた後で、そういう海外からのツアーか何かの予約を受け入れたんだな(苦笑)。
応対に出てきてくれた、お寺の手伝いに来ているらしき化粧っ気のないやや年嵩
《としかさ》の御婦人が、「蚊が多いから」と蚊取線香をふたつ焚
《た》いてくれる。暫く庭を眺めた後、畳
《たたみ》の上にちょこんと正座して、彼女の語る月真院の縁起
《えんぎ》や様々な説明を聞きながら頷
《うなず》いていた私、話が一段落した後、若干
《じゃっかん》の間
《ま》を置いての「……それから、こちらには、新選組の伊東甲子太郎いう人が……」という切り出しに、さっと内心で身構える。……こちらに来られた時には既に「新選組の」じゃないよ、というツッコミは、勿論、口には出さない。
「伊東甲子太郎、知ってはりますか?」
「大好きです(にっこり)」
……躊躇
《ちゅうちょ》なき即答(苦笑)。
そして、すかさず切り出す私。
「あのー、伊東先生方がお使いになっていたというお部屋は、拝見させていただくことは出来ないんでしょうか」
至極あっさり、快くOK。非公開だが特別に見せるんだぞーと勿体振られるような風はまるでなく(……そんなもの、ない方が嬉しい(苦笑))、ごく気楽に、先に立って案内してもらえたのであった。
屋根裏にて
裏庭(?)側の廊下へ出て左手に進み、如何
《いか》にも古い家屋
《かおく》らしい急な階段を上る。

……階段の板は、長年の上り下
《お》りに晒
《さら》され、随分と磨
《す》り減っている。
だが、宿坊時代に此処に泊まったことのある秋月さんが聞いているという話によると、この階段、往時には存在しなかったものらしい。……え、それじゃあ、伊東さん、此処は踏まれていないのか〜。ちょっと悔しいぞ(苦笑)。
階段を上り切った右手の突き当たりが、衛士の皆さんが使っていたと伝えられる一室だそうだ。
それではと足を踏み入れてみて、驚いた。

聞きしに勝
《まさ》る、部屋の狭さよ。
……ひとりで使うならともかく、これを、大の大人の男達十数人で使ったと……?
一、二、三、四……何度数えてみても八畳しかないということは、ひとり一畳分もなかったということ。
天井も矢鱈
《やたら》と低く、しかも、屋根の勾配
《こうばい》がそのまま剥
《む》き出し。これはまさに、屋根裏部屋である。
身長一六〇センチ台の私でさえ、場所によっては梁
《はり》に頭をぶつけそう。
「……これじゃあ、此処を抜け出して鳥撃ちに行きたくもなるわ(苦笑)」
思わず洩
《も》れた呟
《つぶや》きに、秋月さんが笑ってくれる。
御存じの方には無用の説明ながら、かの油小路
《あぶらのこうじ》の変が起きた日、一部の衛士は禁猟区へ(?)鳥撃ちに出掛けていたそうな……という逸話
《いつわ》が残っているのだ。
「みんな、はいはいはいと競《きそ》って手ぇ挙げて、あちこちの出張に出掛けとったかも(苦笑)」
「伊東さん、狭うてやってられへんわーて妾宅《しょうたく》に入り浸《びた》っとったかも(笑)」
狭い部屋の中で、うろうろしたり佇んだり座ったりしながら、勝手な想像を逞
《たくま》しくする我々。
そうなってしまうほど、この狭さと暗さ──余談ながら、どの写真も、見えたままを撮りたくて、フラッシュは一切
《いっさい》焚いていない──に、却
《かえ》って、かつて此処で日本の行く末に思いを馳
《は》せていたのであろう人々の名残
《なごり》が、生々しく息づいて感じられたのである。

左の写真は、部屋の奥側から入口方向を撮影したもの。
奥側を撮る時と違い、天井に明かり取りの窓がある為に、かなり明るく写る。
無論、当時は、明かり取りの窓などない。
流石は古い建物、梁が太くて立派である。レイアウトの関係上このページ内には貼りにくいので、
梁のアップ写真のみのページも作っておく。
入口脇に見える腰高
《こしだか》の窓は、階下の厨
《くりや》に通じている。
衛士達はあの狭い窓から縄梯子
《なわばしご》を垂らして出入りしていたそうな……というのは、秋月さんが、以前泊まられた時に、当時の住職さんから聞いたお話だそうだ。
残念ながら、開かないように打ち付けてあるのか、開けてみようとしても、びくともしなかった。
一方、東側の窓は、開けることが出来た。

当時はこの窓すらなかったという話もあるので、この景色は、伊東さん達は見ていないかもしれない。
ただ、窓の木枠自体は結構古かったので、随分前から嵌
《は》められていたものではあるだろう。
もしかしたら、彼らが此処で起居していた間に、余りに暗いものだから、住職に頼み込んで窓を付けてもらったのだったりして(苦笑)。……いや、単なる想像なので、真
《ま》に受けないように。
ちなみにこの裏庭(?)、ずっと上っていくと、高台寺に行き着くらしい。
ということは、この奥の上が、大砲引き上げて撃ち込むと土方
《ひじかた》さんが息巻いたという裏山になるのかー(苦笑)。
景色が変に傾いているのは、左手奥にあるお墓の一群が写らぬようにと頑張ったせいである。
別段、妙なモノが撮れるおそれがあるからというわけではなく(汗)、お墓の類
《たぐい》は極力写真には撮らない、どうしても撮りたいと思った時にはフレームに入る辺りの墓石達に断わってから一枚だけ頂くというのが、私が旅先で写真を撮影する時のポリシーなのだ(苦笑)。
こちらは、八畳間の隣の三畳間。

此処が居室として使われていたかどうかは判然としないが、すぐ隣だし、もしかしたら、いつの間にか(笑)使うようになっていたかも。
伊東さん、新選組の幹部時代は多分、ひとりで使える部屋を貰っていたのでは……と思うのだが、此処ではどうだったのだろう。あちらの部屋で皆と一緒にいただろうか。それとも、たまにはひとりになりたくて、こちらへ籠
《こ》もっていただろうか。……えーと、だから、単なる想像なので(以下略)
他のお部屋もどうぞ御覧になっていってくださいと勧められたので、それではとひと通り見せていただく。

……伝聞の伝聞ながら、件
《くだん》のお部屋は万年床
《まんねんどこ》であったげな(滝汗)、というお話を何とはなしに彷彿
《ほうふつ》とさせる気がする風景を見掛けて、ちょっと一枚(汗)。
例の部屋と同じ、屋根の勾配剥き出しの“屋根裏部屋”である。
明るく見えるかもしれないが、これは露光
《ろこう》が自動調整されているから。本当は、窓のない、非常に暗〜い部屋である。なので、フラッシュなしだとシャッタースピードがとても遅くなってしまい、為に手振れを吸収し切れていない。……実は、階段を撮った写真も、明るく見えるだろうが、この部屋と同じ程度に暗い場所での、露光自動調整&手振れ気味写真なのである。
此処に限らず、窓のない部屋はどれも、日中でも異様に暗かった。……往時
《おうじ》の部屋の暗さが偲
《しの》ばれる。
庭の風景に名残を惜しみつつ
狭くて暗い部屋部屋を見て回ってから階下へ降りると、裏庭……なのか中庭なのかは判然としないが、少なくとも前庭ではない、建物の裏側に広がる庭の土と緑に、ほっとさせられる。
ひょっとしたら……伊東さん達も、あの暗く狭い部屋から外へ出てきて庭を目にした時には、外の緑の眩
《まぶ》しさに目を細め、ほっとひと息ついていたかもしれない。
……例によって、お墓が写ってしまわないよう、かなり気を遣
《つか》っている(苦笑)。
広間へ戻り、庭を眺める。

庭の左手に穿
《うが》たれている池の手前には、季節の花、萩
《はぎ》が咲いている。前庭の萩は白かったが、こちらの萩は赤紫。
……でも、此処まで縮小すると、よくわからないな……。

多分、こちらのお庭の一年を通じての売りは、左の写真の通り、八坂の塔が見えることであろう。
JR東海のサイトで紹介されている“精進料理を頂く”類
《たぐい》のイベントは、恐らく、方丈の広間に腰を落ち着けて、このお庭を拝見する……というのが眼目だと思われる。
……なので、大河ドラマもとっくに終わっている(=大河ドラマのゆかりの地であることを売りにするシーズンは済んでいる)ことだし、殊更に見せてくださいとお願いしない限りは、衛士の皆さんが使っていたお部屋には案内してもらえないのではないかしらん。
もっとも、案内してくれた御婦人によると、此処へ訪ねてきた人から「(御陵衛士の使っていた部屋を)見せてほしい」と頼まれることが多い、とのことだったので、余計な心配かもしれない(苦笑)。
そろそろお暇
《いとま》しようかと腰を上げたところで、お庭に舞い降りた雉鳩
《きじばと》を目敏
《めざと》く発見、光学十倍ズームでばっちり頂く。
訪問先で動物を見ると撮りたくなるのは、殆ど病気である(汗)。
しかし、結果として、苔生
《こけむ》した石畳も一緒に写っているので、この随想に貼る写真として採用。

辞去の際に、寸志
《すんし》として、些少
《さしょう》の金額を包んでお渡しする。
誤解のないように書いておくと、先方からは一切、何も、求められてはいない。非公開ゆえに“拝観料”はそもそも存在しないし、お食事を頂くというイベントもなかったのだから、極端なことを言うなら、一円たりとも払う必然性はない。あくまでも、貴重なお部屋を拝見させていただいたお礼の気持ち(&わずかではあるが維持費の足しになればという気持ち)として、自発的にお渡ししたものである。
こういうことは個々人の“志
《こころざし》”の問題だから、各自が適当だと思う通りにすれば良いだけの話だ。見せてもらうからには某
《なにがし》かの金額を払わねばならない、と縛られるものでもなかろう。

名残を惜しんでそちこちのお写真を頂いていると、案内してくれた御婦人が前庭まで出てきた。……どうやら、我々が出た後で、再び門を閉ざすらしい。門が開いているものだから相変わらず中へ入ってくる通りすがりの観光客達に、一般の方の拝観は御遠慮いただいている旨
《むね》を説明して回っている。
……うーん、余り長居するのも悪かろう。
と思っていたら、その御婦人が寄ってきた。
「此処へおいでの皆さん、いつも皆さんあちらの鬼瓦《おにがわら》の方向いてお撮りになってはるんですが、有名な鬼瓦か何かなんかしら」
……さ、さあ……
そがぁなこと、私に訊
《き》かれましても〜(汗)。
とは思ったものの、同じくあの鬼瓦の方を見上げて写真を撮った身としては思い当たるフシがないではなかったので、取り敢えず、返事をしておく。
「よくわかりませんけど、丁度、あの鬼瓦の下にある窓の右側の奥にある部屋が、伊東先生方がお使いになっていたお部屋ですから……もしかしたら、そのことを御存じの方は、あの辺りを撮っていかれるかもしれませんね」
……ええ、私も、着いた早々に、撮りましたから(爆)。
結局、月真院での滞在時間、およそ五十分ほど。
二年坂の「いちせん」で昼食を摂
《と》った後、戒光寺
《かいこうじ》の墓所
《ぼしょ》へ赴
《おもむ》き、ゆかりの地での恙
《つつが》ない滞在が叶
《かな》ったことへのお礼を伊東先生に述べ、この日のメインイベントは終了したのであった。
……あ、最初の方には書いておかなかったけど、前日、京都到着の日に、伊東甲子太郎
|殉難
《じゅんなん》の地である本光寺の門前で手を合わせ、伊東先生に入洛
《にゅうらく》の御挨拶
《ごあいさつ》をすると共に、この日の無事を予め祈っておいたので(苦笑)。
余録
翌朝、京都を離れて東京へ戻るべく、母とふたりでJR京都駅の南北自由通路を新幹線改札口へと向かっていたところ、八条口方面から早足で歩いてくる御婦人とすれ違った。
……私の見間違いでなければ、それは、あの、月真院で我々を案内してくれた御婦人であったような。
朝の十時台であったし、烏丸口方面へ向かっていたので、これからお寺の手伝いに行くところだったのかもしれない。
狭くはない京都、行き交う人も多いだろうに、不思議なことであるよ……と思えた、離京のひと時であった。
参考:同行者の皆さんの記録
この訪問で御一緒した白牡丹さんと秋月あやさんの訪問記録にも、リンクを張っておく。併
《あわ》せてお読みいただくと、より重層的に当日の様子がおわかりいただけるかも。
御参考までに。
■ 白牡丹さんの記録
ブログ
「白牡丹のつぶやき」から
「高台寺月真院」
サイト
「月下の白牡丹」から
「伊東甲子太郎ゆかりの史跡めぐり」
■ 秋月あやさんの記録
ブログ
「taka-ku」から
「屋根裏部屋の志士たち」
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