風は激しく、海は訪問者達を拒むかの如く荒れ狂っていた。
「此処から先は、この船じゃあ、あきませんぜ!」
 水夫の叫び声も、叩き付ける風にちぎられる。
 季節外れの嵐となった海の只中で、さほど大きくない船は頼りなく波に揉まれていた。大抵の海には慣れっこの筈の水夫達が、青い顔で甲板を慌ただしく行き来する。その中で、船縁を握り締めて佇む白金色の髪の一青年ばかりは、殆どまじろぎもせずに、黒い海の向こうを見つめて動かなかった。
 すっかり薄汚れてしまった白いローブの裾が、強い風に音をたてる。
「カルキ」
 誰かが、側に寄ってきた。振り返った青年の目が、つと和んだ。
「シュリー……大丈夫か」
「私は大丈夫。……ひどい荒れになったわね」
 青みがかった草色のローブを身に纏った若い女性がひとり、青年の横に立つ。黄金《こがね》色の長い髪が、容赦ない風に吹き乱されている。
「これ以上は進めないって、水夫達が青くなっているわ」
「ああ……だけど、そうも行かない」
 青年が苦笑したところへ、今度は別の声が届いた。
「おい、カルキ、どうする? どうやら、ヴィラバドラはオレ達の訪問が気に入らんようだぜ」
 真っ赤なローブに身を固めた青年が、金色の杖《スタッフ》に縋りながら、少々危なっかしい足取りで近付いてこようとしている。女性が走り寄って支えると、その赤ローブの青年は、土気色の顔にべっとりと脂汗をにじませつつ、瑠璃色の大きな瞳に笑みを浮かべた。
「はは……悪いな、シュリー」
「大丈夫なの、ガルーダ?」
「面目ないね……“炎使い”と恐れられるガルーダ様が、船酔いとはな……奴ら[#「奴ら」に傍点]が見たら、さぞかし笑うだろうよ……」
 そんな遣り取りをよそに、カルキ青年は、煙《けぶ》るようなスミレ色の瞳を、再び海の向こうに据えた。視線の先に、島があった。広い海の中では全く取るに足りない、小さな島だ。だが……。
「……仕方ない。此処から先は、小船を下ろしてもらって、僕らだけで行こう」
「大丈夫かしら……」
「元々、僕らのやろうとしていることは、水夫達には関わりのないことだ。巻き添えには出来ないだろう? 僕が、小船を下ろしてくれるよう、頼んでくる」
 カルキ青年は静かに言うと、船縁から離れた。

 ヴィルシャナ島は、ちっぽけな島である。
 歩いて二十分もあれば横切ってしまえる程度の面積しかない上に、申し訳程度にへばり付く草木《そうもく》の他は岩と砂ばかり。だが、この殺風景な小島の何処かに住むと言われているひとりの黒魔道士を捜し出せた者は、これまで、ひとりとして存在しない……。
 “白き魔道士”カルキ、“大地の子”シュリー、“炎使い”ガルーダ、この三人の若い、しかし三人ながらに当代一流の能力を持った魔道士達が或る邪悪なる魔の一族との戦いに立ち上がって、今日で六日目であった。三人は全力を尽くしてはいた。しかし、彼らの力は、一族に対抗は出来ても、その暴虐の支配域を押し戻し、一族本来の棲み処に逼塞せしめるには、いまだ不足であった。三人のリーダー的存在カルキは、五日目の晩にひとつの決意をした。彼は、自分の異名のままに己《おの》が永遠の敵と見做して憚らなかった黒魔道士ヴィラバドラを、同志として迎えようと考えたのである。
 黒魔道士ヴィラバドラ――三年前、当時黒魔道士として最強最大の力を持つと自他共に認める魔道士であった“邪悪の申し子”ルドラを葬った魔道士である。以来、“ルドラ殺し”との異名を冠されているのだが、不思議なことに、この魔道士が一体何処で生まれ何処でどのようにして育ったのか、誰ひとり知らなかった。ルドラを倒したことで一躍その名を知られるようになった後も、この魔道士は、他者にその素顔を知られることのない奇妙な魔道士であった。というのも、ルドラ亡き後を失って右往左往する黒魔道士達の上に立つでもなく姿を消してしまったからで、ただ噂ばかりが、彼がヴィルシャナ島に引き籠もって黒魔の術の研究三昧の日を送っていることを、嘘か真か、伝えているだけなのである。
「どうせ、また、目晦ましか何かでオレ達を辿り着かせまいとするに決まってるぜ」
 陸《おか》に上がったことですっかり顔色《がんしょく》を取り戻したガルーダは、そう毒づくと、今やけろり[#「けろり」に傍点]と凪いでしまっている海を忌ま忌ましげに眺めた。彼らは、自然や生き物に対する技に秀でた緑魔道士であるシュリーの力を借りて荒れる波を静め、やっとの思いで先刻この浜に小船を寄せて上陸を果たしたところであった。嵐は人為的なものであったようで、その術を破る為に疲労困憊したシュリーは、今、カルキに支えられてようやく立っている。
 そのシュリーが、ふっと指を上げた。
「どうやら、そうでもなさそうよ」
 シュリーの指差した方を何気なく振り仰いだカルキとガルーダは、ハッと目を凝らした。
 小高い岩場の上に、人影があった。黒い雲が切れ、日の光が地上に注いだ。一瞬だが、その光が、岩場に立つその人影を余す所なく照らし出した。
 黒衣に身を包んだ男であった。年の頃など、遠目ゆえに確《しか》とは知れないが、風に晒されている長髪の艶やかな黒からすると、まだ充分に若いとは思われた。距離があってさえもハッキリと感じ取れるほどに鋭い視線が、砂浜の三人の上に注がれていた。
 ヴィラバドラ……。
 三人は今迄、ヴィラバドラの容姿など噂にも聞いたことはなかった。だが、その男を見た途端、彼らは、相手がヴィラバドラだと直感した。証拠など必要なかった。ただ、わかってしまったのだ。
「――待って!」
 だが、姿を見せたのも束の間、黒衣の男はあっと言う間に身を翻し去った。シュリーが思わず発した声で、他のふたりも我に返った。
「シュリー、ガルーダ、僕につかまれ!」
 カルキは素早く印を結ぶと、口早に呪文を唱えた。
「ABIRO・FONICA・ARSU!」
 ふわり、と足が地を離れた――と見えた次の瞬間にはもう、三人は岩場を見下ろせる上空まで一気に舞い上がっていた。
「――あそこだ!」
 ガルーダが目敏く指差す先で、さっきの男は今まさに岩陰にすっと入り込んでゆくところであった。三人もすかさずそこへ降り立つや、跡を追って岩場へ駆け込んだ。
 ――足が宙を踏む!?
 あっと感じた刹那、三人は闇の中を転げ落ちていた。
 だが、カルキは程なく、墜落速度が意外に遅いことに気付いた。
(この空間――“落下制御”の術がかけられている?)
 ふうわり[#「ふうわり」に傍点]と下に叩きつけられるが早いか跳ね起き、辺りを見回した彼は、仄明るい闇の奥で端然と座している件《くだん》の男をすぐに見出した。
「ヴィラバドラ……?」
 どういう空間なのか、声が奇妙に反響する。
 背凭れ付きながら凝った細工のない粗末な椅子をこちらへ向けて座っていた男は、閉ざしていた目をゆっくりと開いて、カルキを見た。鋭いが変に尖ったところはない漆黒の瞳と、煙《けぶ》るような、しかし一本芯の通ったスミレ色の瞳とが、静かにぶつかり合った。
「ヴィラバドラ……だね、君が」
 カルキはもう一度口にしたが、それは既に問ではなく、単なる確認であった。相手は頷くことすらせず、カルキを見つめて動かなかった。外見《みてくれ》はカルキよりは年上、それでも恐らく三十前後と比較的若いのに、何処か見る者を畏怖させる威厳を具えている魔道士であった。
「ヴィラバドラ……僕の名はカルキと言う。後ろはガルーダ、そしてシュリーだ。……聞いたことがあるだろうか」
 背後でガルーダとシュリーもまた身を起こしているのを感じながら、カルキは名乗った。
 相手は黙って頷く。その表情には、さしたる驚きは見られない。が、三人の名を聞いたことがあるということは、少なくとも、世間に全く疎い魔道士ではない筈だ。そのことに力を得る思いで、カルキは語り始めた。
「君も、今この人間世界を危機に陥れている魔の一族のことは知っていると思う。僕らは、奴ら[#「奴ら」に傍点]と既に五日五晩戦ってきた……だけど、僕ら三人だけの力では、奴ら[#「奴ら」に傍点]を封じることはおろか、早晩敗北を喫することになるだろう。ヴィラバドラ……君は、強大な力を持つと噂に高い魔道士だ。いや、今現にこうして君を見た僕は、噂が真実だと確信している。どうか、君の力を貸してほしい。あの邪悪なるひとつ目の一族を、本来の居場所たる魔世界に封じ込める為に」
 黒魔道士ヴィラバドラは、カルキの言葉を聞き終えると、不可解な笑みを見せた。そして、傍らの机に据えられた水晶球に手を置いた。
「――かの一族[#「かの一族」に傍点]に向かってゆくなら、私は確実に死ぬ」
 やや低めの、濁りのない声が、やはり奇妙に反響する。
 カルキは、すっと自分の顔から血の気が引くのを自覚した。
「それは……どういう……?」
「この水晶球に訊いてみたのだ。かの一族[#「かの一族」に傍点]に戦いを挑めば、私を待つのは死の一字のみ」
「――だから嫌だってのか、ヴィラバドラ!?」
 激したのはガルーダであった。片膝を突いていたカルキを押しのけざまに立ち上がり、殆どつかみかからんばかりにヴィラバドラに詰め寄る。
「オレはな、元々、“ルドラ殺し”の貴様に力を借りるなんて大反対だったんだ! だけどオレ以上に黒魔道士なんて人種を厭い抜いてるカルキが、それでももうこうするしかないって、下げたくもない頭を下げると決めた以上、オレだって何をか言わんや、だったよ――それを貴様、死ぬのがわかってるから奴ら[#「奴ら」に傍点]に戦いを挑むのは嫌だと吐《ぬ》かす気か!?」
「死ぬとわかっていて、わざわざ命を捨てにゆくあほう[#「あほう」に傍点]が、そうそういるものかな」
「何だと、この――」
「やめて!」
 シュリーが必死で引き止めなければ、ガルーダはそのままヴィラバドラに殴りかかっていたに違いない。カルキはその間《かん》、青ざめた顔でじっと下を向いていたが、やがて、声を絞り出した。
「わかった……」
 かすれ切った声だった。
「わかった……もう頼まない」
「……そこを真っすぐ行けば、お前達が小船を着けた浜に出る」
 ヴィラバドラは無表情に指で示すと、それなりそっけなく目を閉じてしまった。
 カルキは、下を向いたまま、ゆっくりと立ち上がった。そして、一歩二歩と行きかけたが、不意にこみ上げてきた感情を抑え切れず振り返り、ぎゅっとヴィラバドラを睨みつけた。
「僕が馬鹿だった――少しの間でも、黒魔道士なんかに望みを懸けた僕が、馬鹿だったんだ!!」
 ガルーダでさえ度肝を抜かれたほどの激しさで言葉を叩きつけざま、カルキは駆け出した。ガルーダが、三瞬遅れて跡を追う。シュリーもまた彼らを追って二、三歩行きかけたが、つとその足を止め、ヴィラバドラの前に戻った。
「……まだ何か言い足りんことがあるのか」
 目は閉ざしたまま、ヴィラバドラが唇を開く。シュリーは静かに頷くと、碧い瞳を、相手の青白い端整な顔に当てた。
「あなたにお礼を言いたくて残ったんです、ヴィラバドラ」
 彼女の紡いだ言葉は、充分に黒魔道士の意表を衝いたらしかった。彼は目を開くと、まじろぎもせずに彼女を見つめた。
「礼だと……?」
「ええ。わたしは、あなたのその気持ちだけでも嬉しかった、と」
「気持ち? 何のことだ」
「あなたは言ったわ――『水晶球に訊いてみた[#「訊いてみた」に傍点]』と」
 ヴィラバドラの瞳が、ごくわずかにたじろぎを見せる。
「あなたは、少なくとも、かの一族[#「かの一族」に傍点]に対して自分が何か為すべきだと思ってくれた。だからこそ、訊いてみた[#「訊いてみた」に傍点]のでしょう? いえ、否定しないで。そう信じさせて。あなたは、あの邪悪なルドラを倒した人。そのルドラの跡を襲って黒魔道士達の上に立つような愚かなことをしなかった人。わたしは、あなたの気持ちだけでも嬉しかったです。わたし達は、あなたの分まで力を尽くして、やれるところまでやってみるつもりです。あと、それから――カルキやガルーダのことを悪く思わないでください。彼らは、あなたの言葉に潜んでいた気持ちがすぐには読み取れなかっただけなんです。――わたしの言うことは、これだけです。静かな暮らしをお騒がせしてごめんなさい、ヴィラバドラ。さようなら。どうか、わたし達の分まで、生きてください」
 そっと頭を下げて、シュリーは身を翻した。ひとり残されたヴィラバドラの表情を、彼女は恐らく一生の間、知ることはなかった。

「何をしてたんだ?」
 不思議な闇を抜けて外の砂浜へ出た緑魔道士シュリーを迎えたのは、赤魔道士ガルーダの苛立った声であった。シュリーは静かに微笑んだ。
「彼に……ヴィラバドラにお礼を言っていたの」
「礼?」
 赤髪の魔道士は呆気に取られ、次いで怒り出した。
「あんな奴に何の礼がいるってんだ!?」
「あなた達は気付かなかったのね。……カルキ、元気を出して。あなたは馬鹿なんかじゃないわ。あなたの目は、間違ってなんかいなかったわ」
 砂浜に出てからというもの唇をかんで黙りこくっていた白魔道士カルキは、シュリーの言葉に少し顔を上げ、力なく彼女を見やった。
「思い出して。彼は言ったでしょう。『水晶球に訊いてみた[#「訊いてみた」に傍点]』って。彼は少なくとも、かの一族[#「かの一族」に傍点]と戦おうと思ったのよ。でなければ、初めから訊きもしないわ。カルキ、ガルーダも、わかってあげて。あなた達はもう、死も辞さない決心でいるから思い至らないかもしれない。でも、殆どの人にとって、死は、乗り越え切れない壁なのよ。ヴィラバドラは、そこを越えられなかっただけなのよ」
「オレはな――奴ら[#「奴ら」に傍点]に逆らわなきゃ命らえられると思ってる、その浅はかさが気に入らないんだよ!」
 ガルーダは吐き捨てた。
「たとえ今一時《いっとき》を生き永らえたって、奴ら[#「奴ら」に傍点]の世の中になっちまったら自分もオシマイだってことに、どうして気付かないんだよ! 奴ら[#「奴ら」に傍点]が見逃す筈もなけりゃ、奴ら[#「奴ら」に傍点]から逃げ切れる筈もないんだからな!」
「――その通りさ、けっけっ」
 突如、癇に触る笑い声が振ってきた。ギョッとなる暇《いとま》もなく閃光が落ち掛かり、カルキを、そしてシュリーを貫いた。
「き――貴様ら、いつの間に――」
 ひとり際疾くも攻撃を避け得たガルーダは、愕然と周囲を見回した。彼らは囲まれていた。空にも、海にも、陸にも、ひとつきりの目を無気味に光らせる魔物共が溢れ返っていた。
「くそっ、何だって急にこんなにわんさか[#「わんさか」に傍点]……」
「お前らがちょろちょろと目障りなのでこの際ひと思いに叩き潰せと、かの方[#「かの方」に傍点]より御下命があったのさ」
 赤黒い肌の背中に黒光りする羽を負った三本角のひとつ目魔物が、上空から小馬鹿にし切った笑いを放《ほう》ってよこす。
「人間族の分際で我ら一族に歯向かうからさ。けっけっけっ」
 ガルーダは歯軋りした。足許では、幸い軽傷だったらしいシュリーが、深手を負ったカルキに懸命の治癒の術を試みているが、なかなか思うようには行かないようだ。ガルーダは一気に精神を集中し、印を切った。
「DOEKU・KAST・KARSU!!」
 空中の一点を中心に、巨大な火球が爆発した。空に群れていた魔物の一団が、一瞬で消滅する。ガルーダは印を替え、別の呪文を唱えた。炎の竜が凄まじい勢いで地を走り、海面を薙ぎ、天に駆け昇り、魔物共の群れを斬り裂いた。 しかし、何しろ相手の数が桁外れに多い上に、倒されてゆくのは主に雑魚ばかり。やがて、ひとつ目一族の中でも最上位種に属する赤黒肌の羽ある部族共が、彼の疲労を見透かしたかのように攻勢をかけてき始めた。
「くそっ――」
 ガルーダは印を結び直すと、一転して守りに回った。白熱した輝きが三人を守る。いつしか、彼のこめかみを、ひと筋、ふた筋と、赤いものが伝い落ちていた。
「シュリー、カルキは――」
「何とか……もう少しだけ……」
 殆ど即死に近かったカルキを回復させようとしているシュリーの額にも、汗が無数に浮かんでいる。ガルーダは気合を入れ直し、いや増す外からの圧力に耐えて結界を張り続けた。
 が、人ひとりの力では、やはり限界があった。
「――ガルーダ!?」
 シュリーが気付いて悲鳴をあげると同時、ガルーダの体がぐらりと傾いた。結界が光を失い、魔物共が喜悦の叫びをあげる……
 意識の糸が切れ、地の底へ墜ちてゆく感覚は、だが、確かだが柔らかな衝撃に出会って、止まった。
 ガルーダは、かすむ目を開けた。黒い双眸が、彼を見下ろしていた。細く、鋭い、しかし、何処かしら温かいものを秘めたまなざしだった。自分がその人[#「その人」に傍点]に受け止められたことを、ガルーダはぼんやりと悟った。
 魔物共は攻撃してこないのか……それとももうオレは死んでしまって、今オレを支え見下ろしているのは、死の国の人なのか……余りの静けさにガルーダは訝り、そんなことを考えた。
「案ずるな。結界は引き継いだ。少し休むがいい」
 その人[#「その人」に傍点]が口を開く。
 ガルーダは、耳を疑った。
 まさか。
 彼は、何度かいたずらに唇を動かし、そして、遂に、その名を声にした。
「ヴィラバドラ――ヴィラバドラ[#「ヴィラバドラ」に傍点]!」
 その人[#「その人」に傍点]はかすかに笑うと、ガルーダを砂の上に静かに横たえた。
「ああ、ヴィラバドラ――」
「お前はその白魔道士を早く治してやれ」
 何か言いかけるシュリーを制し、ヴィラバドラは立ち上がった。
 ひとつ目一族は、突然現われたこの助っ人に少なからず面食らっていた。その助っ人は、表情ひとつ変えずに破られかけた結界を引き継いだばかりか、今迄以上のそれ[#「それ」に傍点]を作り出し、しかも印も結ばずに平然と維持しているのだ。
「けけっ、小賢しい人間め――」
 気を取り直し、更なる攻撃の命令を下そうとした羽ある部族の長《おさ》は、しかし、その手をふと惑わせた。その助っ人魔道士が、自分を守る筈の結界からすっと歩み出、無防備な姿を彼らの前に現わしたのである。その意図を量りかね、魔物共は戸惑ったように動きを止めた。
 ヴィラバドラの右手が、いとも無造作に挙がった。
「NENEMU・AR・ARIA・KUKU・ZU・NEI・KAR・MONSTS」
 ごくそっけなく呪文が終わると共に――
 風が吹いた。
 死の風であった。
 茫然と見守るガルーダ達の目の前で、あれほどに空を、海を、陸を埋め尽くしていたひとつ目の魔物共が、声もなく、ばたばたと墜ち、倒れ始めた。命の灯《ひ》を吹き消され、そうなっては元々人間世界のもの[#「もの」に傍点]ではない彼ら、海にも地にもその抜け殻は留まれず、次々と消滅してゆく……際限なく、静かに。
 かろうじて死の風に抵抗し得たひと握りの魔物も、半ば戦意を喪失していた。人間、しかもたったひとりの人間相手にこんな醜態を晒すなど、誰が予想しただろう!?
「おのれ――おのれ人間!!」
 羽ある部族の長も、生き残っていた。彼は、畏れ多くも一族全ての上に立つ長直々の命令で、“目障りな人間共”をひねり潰すべく沢山の魔物達を率いてきていたのだ。それが――!! 彼は憤怒と屈辱にそのひとつしかない目を恐ろしい色で満たし、奇声と共に黒衣の魔道士目がけ一気に襲いかかった。
 ヴィラバドラは、右手の人差し指を、襲いくる魔物に差しつけた。
 何かに引っかかったように、魔物の動きが止まる。
「NEIA」
 黒衣の魔道士が口にしたのは、ただその一語だけだった。
 次の瞬間、羽ある部族の長の顔に、信じられぬと言いたげな表情がよぎった。
 空白が、すぐ後を埋めた。
 そして――
 この世に存在することを許されず、その姿が消滅した。
 残った魔物共は、ヴィラバドラにゆっくりと見回されると、抑え切れぬ恐慌に陥った。
「お――覚えておれ、人間ッ!」
 遂に。
 誰かの悲鳴同然の台詞をきっかけに、ひとつ目の魔物共は、先を争い逃げ去っていった。
 島は、元の静けさを取り戻した。
 何事もなかったかのように、波が砂をさらった。
「――あ」
 シュリーが驚いて止める手を払って、完全には傷えておらぬカルキは立ち上がった。彼は砂を踏み締めながら、端然と背を向けて佇む黒魔道士に歩み寄っていった。
「ヴィラバドラ……」
 かける声がかすれた。
「ヴィラバドラ、君は……」
 黒衣の魔道士の返事はない。カルキは更にその背に向けて、一歩を踏み出した。
 その時、その黒魔道士は砂の上に崩れ落ちた。
 シュリーとガルーダはハッとなって立ち上がると、倒れた黒魔道士に急いで馳せ寄った。覗き込んだ三人の目に、土気色にやつれ果てた顔が映った。
「構うな……休めば戻る……」
 目を閉ざしたまま、殆ど声にならぬ声で、黒魔道士は呟いた。
「ヴィラバドラ……あなた……」
「皮肉だな」
 シュリーがそっと頬に手を触れると、黒魔道士は微苦笑した。
「私は……ルドラを倒したいばっかりに、闇世界の王と契約を結び、力を手に入れた……ルドラを葬れさえすれば、私はそれで満足だったのだ……だが、ルドラを倒したその力が、お前達を呼び寄せ、私を死に向かわせることになるとはな……」
「契――約だって!?」
 カルキのギョッとしたような大声に、ヴィラバドラはまた苦笑した。
「闇族や魔族との契約行為に白魔道士のお前が拒絶反応を示すのも無理はないが……契約とは、隷属ではない。いや……他の黒魔道士にとってどうかは知らない。だが私は、少なくとも、今持ってもいないモノで取引をしたわけではない……」
 言って、彼はうっすらと目を開いた。
「今持ってもいないモノ、って、何のことだ?」
 つい釣り込まれるようにガルーダが問いかけると、ヴィラバドラは三たび苦笑を閃かせて答えた。
「将来の隷属……つまり、早い話が、自分の死後の魂とかいう代物のことだ」
「じゃあ――お前は一体何を闇の王に差し出したんだ?」
「知ってどうする?」
 何処か可笑しそうに、ヴィラバドラはガルーダを見上げた。ガルーダは返答に詰まり、顔を赤らめた。自分が、出会って間もない相手に詮索がましい質問をしてしまったことに思い至ったからであった。
「……私は、ルドラさえ倒せれば、それで良かったのだ」
 そんなガルーダからカルキ、そしてシュリーへと目を移しながら、ヴィラバドラは穏やかに言葉を紡いだ。
「私は、全てを奴の為に一瞬にして奪われた。両親も、祖母も、兄も姉も、友も、家も、故郷も、何もかもだ。……だが、何よりも許せなかったのは、それが、奴にとっては、一々数えるのも覚えておくのも面倒な日々の戯れのひとつに過ぎなかったということだった。そう……奴にとっては、私が失ったものなど、路傍の小石ほどの値打もなかったのだ。奴は、私から奪ったものどころか、私から奪っていったことそれ自体すら、意識しようとしなかったのだ。……だから私はルドラを殺した。奴が最も手放したがらなかったものを……命、魔道士としての力、それに伴う“声望”と権力、そういったものの全てを一度に奪うには、それしかないと思った……」
 そこで一旦、彼は黙り込んだ。ただでさえ疲労しているところを、長く喋り過ぎて疲れたのかもしれなかった。三人の魔道士達は、息を潜めるようにして、彼の次の言葉を待った。
「……その為だけに、ルドラを殺すその為だけに、強大な力が得られれば良かった。それさえ済めば、後はもう、生きる必要も感じなかった。そう……命だよ。私は、私自身の命を削って魔力《ちから》に換える契約を、闇世界の王タルガルと結んでいるのだ」
 三人は喉を詰まらせた。咄嗟には、返す言葉が出なかった。
「……案ずるな。まだ、幸い残金[#「残金」に傍点]はある。……あと四、五日程度なら、役に立てるだろう」
「ヴィラバドラ、僕は……僕は……」
 カルキは胸を押さえた。傷の痛みなのか何なのかよくわからない痛みが、静かに胸を浸しつつあった。熱いものが、頬を伝った。
「何も言うな。もう決めたことだ」
 ヴィラバドラはそっけなく目を閉じかけたが、ふと、あほう[#「あほう」に傍点]が四人になったな、と呟いて、笑った。



Copyright (c) 1991, 2002 Mika Sadayuki
背景原画:高井玖実子さま 「里の画廊」収録「四番目の魔道士」