『無闇に刀を抜くものではありませぬ!』

 私は、はっと“目”を開いた。
 夢を見ることもなくなった筈の身でも、目を閉じてうつらうつらしていると、まるで夢のように、聞こえる筈のない人の声が聞こえてきたり、見える筈のない人の姿が見えたりする。

 此処は、外海《そとうみ》をひたすら走る蒸気船の中。
 その人[#「その人」に傍点]の声が聞こえる筈もない。
 ましてや、姿など。

   ※※※

 私は、海路江戸へ戻ろうとしている土方の側《そば》にいる。

 鳥羽伏見の大戦《おおいくさ》を経て、どういう心境の変化があったのか。
 土方は、船中で、外見を変えてしまった。

 ひと括りに束ねていた漆の黒髪を下ろし、ばっさりと、肩に触れぬ長さにまで短くしてしまった。
 それだけではない。羽織袴を捨て、事もあろうに夷人の戎服を身に纏ってしまった。

 流石に眉をひそめた私は、だが、その断髪と夷人服の姿が腹の立つほど彼に似合っていることも、認めざるを得なかった。
 自分は絶対にそんな恰好は御免だ、と顔をしかめた近藤でさえ、『……おめェには、似合うな』と言ったのだ。

   ※※※

 時の流れは、容赦ない。
 うとうとしていても過ぎてゆく。
 はっと気付くと、周囲の光景が変わっていたりする。

 私は、ずっと、土方の傍らにいる。
 けれども、私が“目を覚ました”時、船室には、彼の姿はなかった。

 響いた声の余りの生々しさに思わず辺りを見回したが、私を“うたた寝”から引き戻した声の主は、いなかった。
 ……いる筈がない。
 その声は、十数年以上の昔に聞いた声だ。声の主は既に、それだけの年齢を加えた姿になっている。

 ふと、外の騒がしさに気付いた。
 私は立ち上がると、壁を抜けて船室を出、甲板まで上がってみた。
 どうやら、船は、いつの間にか何処かの港に立ち寄っていたらしい。艀《はしけ》に移り下船する兵士達の姿が見えた。
 よく見れば、新選組の隊士達も、混じっているようだ。
 私は急いで土方の姿を探した。置いていかれてはたまらない。いや、無論、奇妙な糸は相変わらず私と彼とを結び付けていて、それを手繰れば彼の傍らに辿り着くことは出来るとわかってはいたのだが、それでも、なるべくなら彼の側《そば》を離れたくはなかったのだ。

 降りてから気付いたが、そこは品川宿であった。
 “釜屋”を宿所として落ち着いた新選組には、当座の任務もなさそうであった。
 鳥羽伏見の修羅場を生き延びた隊士達の中には早速遊里へと繰り出し流連《いつづけ》をする者もいたが、土方は特に何も言わず、処分をしようとする素振りも見せなかった。
(……やはり、何らかの心境の変化があったのだろうな)
 以前なら、此処で気を緩めてはならぬではないかとばかりに厳しく対処したのではないか、とも思うのだが。
 睦月も半ばを過ぎると、達しがあって、新選組は宿所を移した。幕臣の役宅であったが空宅になっていた屋敷を、提供されたのだ。
 私も当然、土方にくっついて、動いた。
 程なく、如月の頃となった。

 己がこの世に留まる“力”を蓄える為に、私はしばしば、隊士達の雑居する広間でうつらうつらした。
 本当は土方の居室に居付いていたいのだが、大勢がいる場所に潜む方が、特定の相手だけから生気を引き寄せて奪ってしまうような真似をせずに済むと、わかったからだ。
 出来る限り外界の出来事に気を向けず、“目”を閉ざしていれば、じわじわとではあるが、“力”はこの現《うつつ》ならざる身に戻ってくる。
 けれども、悲しい哉、「副長」或いは「土方先生」という言葉を聞くとやはり、ぴくりと反応して“目”を開いてしまう。土方ゆえに亡者となった身では、致し方ないことではあるが。
「……な筒袖の着物なんて、何だか、みっともないよなあ」
「だけど、調練や戦の時だけでいいって、副長は仰せだろう」
「まあなあ……」
 ……何人かが寄り集まって、調練の時に着せられるようになった新しい戎服の話をしているらしい。土方は、自身が夷人服を纏うようになってから何か思うところでもあったか、日常には強いず調練の時だけではあったが、隊士達にまで、夷人服の上下を真似て仕立てさせた着物を着せるようにしたのである。
「……でも、副長は普段でも洋装を召されてるじゃないか。我々も、見習わなきゃならないんじゃ……」
「副長がいいとおっしゃってるんだから、いいんだよ」
「そうそう。窮屈だし、見映えが悪いんだよなあ、この“ずぼん”とかいう袴
 ぼやく若い隊士は、情けなさそうに、自分が穿いている“ずぼん”をつまんでいる。
「でもさあ……そんなに違わない物の筈なのに、副長が穿いてるのは、何でか、見映えがいいよなあ……」
「そうだなあ……」
「あの通りのお人だから、何を着てもお似合いになるんだろうなあ……」
 場に寄り集まっている隊士達が、期せずして同時に、ほうっと嘆息する。
 私は、思わず苦笑した。
 全く以て同感だったからだ。
 無論、末端の隊士達に押し着せられているのは、所詮は真似て作られた急拵えの代物だ。土方が下船してから体に合わせて直ちに仕立てさせた(とは言っても、どうも元々は夷人が着ていた古着を、体に合わせて仕立て直したものらしい)本物の夷人服とは、そもそも仕立ての技術が違う。が、そういった事情を考慮してさえもやはり、末端の隊士達が洋装している姿と土方が洋装している姿とは、絶対的に違うのだ。
 何と言えば良いのか……“着ている”と“着こなしている”との差、であろうか。
 思い起こせば、元々土方はなかなかの洒落者であった。着る物は流石に華美にならぬよう留意していたようだが、小物類の色使いにはいつも、思わず目を惹かれてしまうものがあった。髪を束ねる組緒も、刀の下げ緒も、微妙に染め色の異なるものを何種類か持っていて、着る物の色に合わせて選んでいたようであった。
 そんな土方だから、着馴れぬ夷人服と言えど細心の注意を払いながら身に纏っているに違いなく、恐らくはその意識の差が、似合う似合わぬの差につながっているのであろう。
(……だが、それを除いても)
 好い男は、何を着ても似合うものだ……隊士達の羨望混じりのそんな嘆息が、妙に、私には、頷けるのであった。

 その日も私は、隊士達の屯《たむろ》する広間で、うとうとしていた。
 このところ土方は、新しく自分の乗り馬にした若駒にかまけている。忙しい合間を縫って体を磨いてやったり、毎日のように遠駆けで乗り回したり。元気ならば私も付いてゆくところながら、馬の走る速さに合わせて移動していたのではたちまち疲れ果ててしまう。仕方なく私は、彼がその早蕨《さわらび》と名付けた赤糟毛馬に跨って出てゆくのを見送った後、彼が戻ってくるまで広間で“うたた寝”をする、という日々を送っていたのであった。
「……から戻る時、三田の辺りだったかな……」
 周囲を流れる意味を持たぬ言葉の羅列が、不意に意味を帯びたものとして“耳”に引っかかったのは、はや日も西に傾こうかという時分であった。
 私は“目”を見開くと、言葉を発した人間を求めて辺りを見回した。
 だが、がやがやと周囲を飛び交う言葉の中に、私の耳を引いた言葉は二度とは出てこず、声の主を特定することも出来なかった。
(三田……)
 私は暫く、そのわずか二文字の言葉に心を揺り動かされていた。
『無闇に刀を抜くものではありませぬ!』
 蒸気船を降りる前に“夢”に聞いた、声。
 その声の主は、もしかしたら……まだ、そこに……三田に住んでいるかもしれぬ……。
 品川から此処へ移る時には、そんなことを思いもせずに漫然と通り過ぎた。けれども、一旦そんな考えが涌いてしまうと、妙に気になって、心が惑う。
(……愚かな)
 私は、揺れる心を静めようと、殊更に裡に吐き捨てた。
(私は、土方ゆえに亡者になった身。それ以外のことなど、私にとって、何ほどの意味があらんか)
 ましてや、己が捨て去った相手ではないか……
 だが、抑え付けても抑え付けても、考えは消えなかった。むしろ、抑え込もうとすればするほどに、懐かしく慕わしくさえある心地が、胸に沁み出してくる。
 私は、荒々しく“嘆息”した。
 このままでは、土方の側《そば》にいられなくなる。他の者に思いを残していては、逆に、土方の近くに留まることが困難になってしまう。
 散々に迷った挙句、私は、決心した。
 それほど気になるのなら、行ってみれば良い。行って、相手がまだそこに住んでいるのか、もし住んでいるとしたらどういう暮らしをしているのか、この“目”で確かめてしまえば良い。
 そうすれば、この遣る方ない愚かな心持ちも、多少は治まりがつくだろう。

 三田は、品川宿からそう遠いというわけではないが、品川の賑わいに比べれば遙かに閑静な土地である。
 治安が頓《とみ》に悪くなっているらしい江戸の町、日暮れを過ぎると、出歩く町人も殆どいないようだ。私は、妙に胸を締めつけられるような思いを味わいながら、覚えのある道を漂い辿った。目指す場所の随分な近くまで来てしまうと、何だかこのまま踵を返してしまいたいという気後れさえ感じた。けれども、此処まで来て引き返すのは、誰が誹るわけではなくとも、臆病極まりなく情けない話。私は己を叱り付け、そこからはもう脇目も振らず、目的の場所を目指した。
 だが、その家の前に辿り着いた時には、流石に、足が止まった。
(如何《いか》にせん……都の春も愛《お》しけれど……馴れにしあづまの花の名残は……)
 一昨年の冬であったか、殆ど嘆息のように、ひそやかに詠んだ歌。
 どれほど京の都に慈しむ女がいようとも、若き日に己が恋し、思いがけなくも夫婦《めおと》となるを許されて縁《えにし》を結び、そして愚かしい激情に任せて離縁してしまった女のことを忘れ去ることは、結局、出来なかった。今こうして恐る恐る此処までやってきてしまったのも、己が理不尽に別れを強いた女が今どうしているかが気になって仕方がなかったせいだ……
 ふらふらと中へ漂い込んだ私は、はっと立ちすくんだ。
 土間に、男物の草履がきちんと揃えられていたからだ。
 来客であろうか。
 それとも……
 愚かしい想像に陥りたくなくて、私は、急ぎその場を離れた。確かに此処は彼女の親戚筋を頼って借りていた陋屋だが、そのまま彼女が住んでいるという確証もないではないか。もしかしたら、別の、家族者が住まうようになっているだけかもしれぬではないか。
 人の気配を求めて、私は、奥へと漂った。
 つと、女の声が聞こえた。
 喪って久しい筈の心の臓が高鳴る錯覚が、私を襲った。
 聞き間違える筈のない、低めに落ち着いた、それでいて、凛とした張りと、ほのかな艶のある声。
 私は、その声の聞こえてくる一室へ、ふらふらと引き寄せられていった。
 そう──その時ばかりは、さしもの私も、土方のことを忘れてしまっていた。
 しかし、その時聞こえてきた、聞き覚えのあるようなないような男の声が、懐かしく慕わしい声に殆ど魅入られかけていた私の心を醒ました。
「それでは、一体いつになったら、この話を受けるのだ」
 さっきの草履の主であろうか。年長者めいた印象を受ける声だった。私は、知らず波立ってしまった気持ちを落ち着けながら、声の聞こえてきた一室──当然ながら障子は開け放たれていた──を覗き込んだ。
 なくした筈の心臓が大きく跳ねるような、そんな感覚。
 そこに端座していたのは、紛れもなく、己が一昨年《おととし》の秋に愚かしさに任せて三行半《みくだりはん》を叩きつけて顧みもしなかった女であった。
 確か今年二十八、だが二年前と殆ど変わらず、少しく若やいで見える美しい顔立ち。聡明さの光を湛えた真摯なその黒い瞳は、私の覚えていた彼女うめ[#「うめ」に傍点]の瞳、そのまま。
 一方、彼女の前に座っているのは、些か年配の男であった。何処かで会った、と思い、じっと記憶を辿り、そして思い出す。師の妻の弟、つまり、うめ[#「うめ」に傍点]にとっては叔父に当たる男であった。私自身は、片手の指で数え切れるほどにしか会ったことはない。というのも、師の妻は早くに他界しており、そのせいか、母方の親戚が姿を見せることは余りなかったのである。
「そなたも武家の女子《おなご》であれば、もっと家のことを考えよ。そなたを捨てるようなつまらぬ婿に義理立てするのも大概にして、今度こそきちんとした婿を取り、跡取りを挙げねば──」
「叔父上が伊東の家のことを案じてくださるのは有難く存じます」
 うめ[#「うめ」に傍点]の声は、静かに落ち着いていた。
「けれども、大蔵を責めるのはおやめください。何度も申し上げている通り、離縁に至ったのは全くわたくしが愚かであったが故でございます。伊東の家がわたくしの代で絶えるのはわたくしが愚かであったからで、大蔵の罪科ではないのです」
 私は、身を絞られるような思いで、うめ[#「うめ」に傍点]を見つめた。
 何ということを言ってくれるのだ。
 そなた以上に愚かだったのは、私だというのに。
 そして──まさかそなたは、今も、独り身なのか。「伊東の家がわたくしの代で絶える」と言い切るということは、これからも独り身でいるつもりなのか。
「ええい、いつまでそのような強情を張るつもりかっ」
 男が声を荒らげる。恐らく、それまでの言葉の端々から察するに、この叔父は彼女に婿取りの話を持ち込むか何かしているのであろう。にも拘らず彼女がそれを頑強に拒むので、苛立っているというわけだ。
「叔父上が何とおっしゃられましても、お受け出来ませぬ。わたくしは、亡き父の遺言で大蔵と添うた時に、生涯添い遂げるとお約束致しました。わたくしのふとした愚かしさが元で離縁と相成ったからと言って、その言葉を反故にするわけには参りませぬ」
 うめ[#「うめ」に傍点]は、一歩も引かぬ。静かに落ち着いた声の中に、厳然として動かし難い強烈な思いが横たわっている。
「ただ大蔵の身のみを案じ、国を案ずるその思いを案じなかったわたくしが大蔵以外の者を婿として迎えれば、わたくしは、死んでからも大蔵に顔向け出来ませぬ。わたくしに出来る残されたことは、ただ大蔵の志が実を結ぶ日が来ることをこの地の片隅からお祈り申し上げることだけでございます」
「如何に志が高かろうと、殺されてしもうては果たすべくもなかろう──」
 吐き捨てるように応じてしまってから、だが男はハッと怯んだような色を浮かべた。
「──叔父上」
「いや、何でもない」
「今、何と仰せになりましたか」
 うめ[#「うめ」に傍点]の、それまでさながら氷のように冷たくさえあった冷静極まりない声が、激しく小刻みに震える。
「殺されたとは──真実《まこと》の話でございますか」
「いや、わしはその……そういう噂を小耳に挟んだだけで……」
 思えば、私が新選組の刃《やいば》に斃れてから、三月《みつき》にはならぬ。まだ、江戸表にまでは、私の横死の知らせは伝わっていなかったということか。いや、この叔父には既に噂にでも伝わっていたものを、うめ[#「うめ」に傍点]には何も知らせていなかったのか。……恐らくは、後者であろう。物静かながら内に激しいものを秘めている彼女に不用意に私の死を知らせれば、早まった行動にも出かねないと、危惧したのであろう……
(──早まった行動)
 私は、自分で自分の考えにギクリとなり、次いで戦慄を覚えた。
「取り乱したりは致しませぬ、叔父上。どうぞ、御存じのことをお話しくださりませ」
 青ざめてはいるが冷静さを取り戻したやに見える表情で尋ねる彼女に、私は、恐ろしい眩暈《めまい》を覚えた。こうなった時の彼女こそが一番危ないことを──思い詰めた挙句の思い切った行動に出易いことを、私は知っているのだ。
 だが、どうやら、付き合いの深くもなかった叔父の方は、彼女の落ち着き払った態度に安心したらしい。それでこそ武家の女子《おなご》、と感心したような顔で、ぽつぽつと、自分の知っている噂とやらを彼女に語った。曰く、私が新選組を離れて前《さき》の帝の陵《みささぎ》を衛るお役に就いていたこと、しかしそのことで新選組の怒りを買い、過日、宴席に招かれた帰途に騙し討たれたこと……はっきり言ってそれは、不確かな噂の域を越えた、かなり正確なものであった。誰かがわざわざこの叔父に知らせでもしたのか、或いはこの叔父が人を都へ遣って調べさせでもしたのかと疑うほどであった。
「……わかりました。お話しくださって有難うございました、叔父上」
 うめ[#「うめ」に傍点]は、静かに三つ指を突いた。
「去月来のお話の件、後日お返事申し上げます。……本日は、どうか、お引き取りくださりませ」
「そ、そうか……では、また日を改めよう。いや、見送りはいらん」
 かつての夫の死を知ったばかりの姪に「だからもうさっさと次の婿を取れ」という話までは流石に出来かねたと見え、男は何処か逃げるように立ち去っていった。
 そしてそこには、うめ[#「うめ」に傍点]と、うめ[#「うめ」に傍点]の目には映らぬ私ばかりが残った。
 うめ[#「うめ」に傍点]は、暫くの間、何処か茫洋とした様子で、月明かりに照らされたささやかな庭に目を投げたままじっとしていた。
 が、やがて目を閉じ、ひと呼吸した後で、すっと腰を上げて隣室に消えた。
 私は、血の気の引くような感覚に襲われて立ちすくんだまま、それを見送った。最悪の想像が裡をよぎり、不意に身動き出来なくなってしまったのだ。
(何とか──何とかしなければ)
 彼女の気性は知っている。ほんの幼い頃から、気丈で一途だった。普段は慎ましやかで理非分別も十二分に持ち合わせている賢妻であったが、こうと思い定めたら水火も厭わぬ烈しさを秘めていた。
 そんな彼女が、離縁されてもなお貞節を貫こうとしていたかつての夫の横死を知らされた時、どのような行動に出るか。
 敵わぬまでも一矢と太刀を取って死地へ向かうか、或いは己も跡を追うか──
(──落ち着け。──何か出来ることはないか考えろ)
 図らずも己がこの場に立ち会ってしまったことに意味がないとは思えない。不意に彼女の声を“夢”に聞き、やがてその声に誘われるようにして此処へ来てしまったことに、何の意味もないとは思いたくない。
 私は金縛りに遭ったように動けなくなっていた己《おの》が身をどうにかこうにか取り戻すと、彼女が消えてしまった隣室への襖を通り抜けた。
 中は灯りもなく薄暗かったが、闇夜でも周囲が昼間同然に見えてしまう私の“目”には、室内の様子ははっきりと見えた。
 床《とこ》が述べられていて、彼女はそこに、手早く着替えたらしく白の単《ひとえ》で端座していた。
 その膝に置かれている守り刀が目に留《と》まった瞬間、己の呪わしい負の“力”どころか己が肉の身を持たぬ亡者であることも念頭から消し飛んだ。彼女がその柄と鞘口に手をかけるのと、そこへ飛びついた私の手がその彼女の手を押さえる恰好になるのとが、ほぼ同時であった。
〈抜いてはならぬ!〉
 殆ど無意識の内に、私は“声”をあげていた。
 うめ[#「うめ」に傍点]が、息を呑むような小さな悲鳴を洩《も》らす。
〈早まってはならぬ──軽々に命を捨ててはならぬ!〉
「お……」
 凍りついたようになっていた相手の唇が、のろのろと動く。
「大蔵……さま……?」
〈抜いてはならぬ〉
 私は、彼女の手を押さえたまま繰り返した。
〈過ぐる日、永代橋の袂で、無闇に刀を抜いてはならぬと私を叱ったは、そなたではないか。そのそなたが、今軽率に刀を抜いて如何《いかん》する〉
「大蔵さま……なのですか……?」
〈我が身は既に死して、姿を見せることは出来ぬ。だが……そなたに詫びねばならぬと思えばこそ、魂は、此処まで来ることが出来た〉
 思い付きに近い言葉は、だが、口にしたことで、紛れもない真実となった。そう……その思いあればこそ今日此処へ来たのだと、それが自身も気付かぬ心の奥底に潜んでいた真意であったのだと、口にしたことで私は、気付いたのである。
〈私が愚かであったのだ。そなたの心も顧みず、ただ己の怒りに任せて軽々しく縁を切ってしまった。……怒りだ。それ以外の何ものでもなかった。それを『国事を知らぬ』と言い放ったは、我が怒りを正当化する欺瞞に過ぎなかった。だが、国事を理由にしたは己の欺瞞でしかなかったと痛感した時にはもう、取り返しは付かなかった。せめてもの償いと、生涯他に妻は持たぬ、そなたの家の名を捨てることもせぬと心に誓ったが、それでも、いつかは詫びたい、文《ふみ》などではなく顔を合わせて詫びたいと、心ひそかに思い続けてきた〉
 私は、生前に彼女のことで抱《いだ》いていた悔いを、残らず吐き出した。吐き出し続けた。それ以外に、今の彼女を止める術《すべ》を思い付けなかった。自分が語り続ければ、彼女は聞いてくれるだろう。聞いてくれる間は、短慮も起こさぬであろう。そう信じて、ただひたすらに喋り続けた。
〈だが、それを果たす日を得ることもなく、私は、命を失った。それでも様々な思いが残り、こうして、この世を彷徨《さまよ》っている。そなたと言葉を交わす日を得たことは我が喜び、されど、此処でそなたが命を絶つを見るは、我が苦しみ。頼む、どうか私の跡を追おうなどという短慮は起こさないでほしい。私は──私は、そなたにだけは、何があろうと、生きていてほしい──生きていてほしいのだ──生きて、私のことを、私という人間がわずかな間でもそなたの夫であったことを、覚えていてほしいのだ──〉
 こみ上げてきた想いに任せ、私は、彼女の細身を抱き締めた。己の呪わしき“力”のことも忘れ、ただ、そうしたいという激しい思いだけに駆られて。
 うめ[#「うめ」に傍点]は、私に抱き締められて凍えそうな思いをしているに違いなかったが、全くそんな素振りは見せず、何処か夢を見ているような声で私の名を──互いに慈しみ合った頃の私の名を呟き、半ば失神するように床《とこ》に崩れた。その、かつて馴れにし女の何処か陶然とした表情を目の当たりにした瞬間、肉の身を喪って久しいこの現《うつつ》ならざる身には残っている筈もないと思っていた熱病のような衝動が、私を貫いた。
 私の名を熱に浮かされたように洩らし続ける紅い唇を封じ、その白い項《うなじ》に指を這わせる。半ば我を忘れて、優しく、次第に激しく慈しむ内に、彼女の体は抑え難く震え始め、やがて深い歓びの声が嘆息のように洩れ落ち始めた。それが私を深みに誘《いざな》い込み、またそれが彼女を更なる深みに引き込み──そしていつしか諸共に、深奥なる歓喜の淵へと沈んでいった。

 明け方に、私は、新選組の屯所へと戻った。
 もう、かつての妻への未練はなかった。
 彼女を慕わしく思い慈しむ心が失せたり薄れたりしたわけではない。けれども、もはや、彼女の身を無用に案ずる必要はなくなってしまったのだ。
『髪を……下ろします……』
 眠りに落ちながら、彼女は言った。
『歳月至り、わたくしの命が終わる日まで……大蔵さまの菩提を……弔います……』
 彼女が自死を思い止《とど》まってくれたことは、その言葉で十二分にわかった。そして、この先、やはり誰とも夫婦《めおと》としての縁《えにし》を結ぶ気がないことも。
 魂同士が深く絡まり合い、交じり合い、融け合うような目合《まぐわ》いの最中《さなか》に、私は、私の知らぬ彼女を知った。ほんの幼い頃からの彼女も、私に離別を強いられてからの彼女も、全ては、私の魂に刻み込まれた。今、私は、己の記憶を掘り起こすほどに容易く、彼女の記憶を掘り起こすことが出来る。深川の永代橋の袂で初めて出逢った時の彼女が私のことをどう思ったかも、それからどういう気持ちで見つめてきたかも、夫婦《めおと》となった夜のことも、私が上洛を決めたと聞いた時の思いも、どんな思いで私からの便りを待ち続けていたかも、理不尽な別れを告げられてからの深い悔恨も……全ては、私の裡にある。
 けれども、それは同時に、彼女の知らぬ私が、彼女の裡に刻み込まれたということでもあった。深川時代に白井君に対して犯した愚かしい過ちも、上洛してから土方に抱《いだ》いてきた狂気に等しい恋着も……全ては、彼女の知るところとなった。それほどに、私達の魂の交歓は、深く激しいものだったのだ。
 私は、もう、彼女には、何もかも知られていいと思っている。
 そして、彼女も私に対して同じように思ってくれていることは、我がことのように断言出来る。

 来世も共にありたいと望む、二世《にせ》の契り。
 それが、私と彼女が結んだ縁《えにし》だ。



Copyright (c) 2002, 2003 Mika Sadayuki
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