此処のところ毎晩のように泊まりに訪れる歳三が、殆どいつも、夜中や明け方に、うなされている。
 彼女きみが最初に歳三の異変に気付いたのは、十日近く前、弥生三月もそろそろ終わろうとしている一日《いちじつ》、むずかる娘のせいで夜更けに目を覚ましてしまった時のことであった。
 まるで何ものかに間断なく鞭打たれ、痛め付けられているかのような……そんな印象を受けた。小さいながらも余りに苦しげな呻き声に心が騒ぎ、起こそうかと肩に手を伸ばした時、再び深い眠りに戻ったのか、その異様な呻きはふつりと途絶えたのだが……
(今夜も……うなされてはる……土方はん……)
 そもそも、彼が毎晩のようにこの壬生の休息所に泊まっていくなど、以前にはなかったことだ。どんなに頻繁であっても二日に一度、それが今迄の彼の振舞であったのだ。
(……それが、今は、殆ど毎晩)
 不思議なことに、だからと言って、臥所を共にすることを求められるわけではない。いや……むしろ、未だ赤子である娘みちと一緒に眠っている彼女を気遣ってか、やや離れた場所へ床を別に伸べさせるくらいである。
 そして、泊まってゆく時には必ずと言っていいほど、多かれ少なかれ、彼は、うなされている。
(体の具合が悪いんやろか……それとも、気苦労が多うなったんやろか……)
 うなされ方が余りにもひどいと、起こした方がいいだろうかと迷うことがある。けれども、下手に起こすのは良くないのでは、という理由のない思いが勝り、手を掛けられないでいる。
 目を覚ましている時、歳三は、何も言わない。訪れが明らかに増えた理由も語ろうとしないし、自分がうなされていることに自身で気付いているかどうかも、きみに気取らせない。勿論、殊更に体調が悪い様子とも見えない。ただ、まだそれほど暑い季節ではないのに、ひどい寝汗をかく。そして、その寝汗を屯所に持ち帰りたくないと言わんばかりに、いつも、朝から井戸端で水を被っている。
 恐らく自身でも気付いているのだろう、と、きみは思っていた。
(……もしかしたら、毎晩此処へ来ぃはるのは……)
 屯所に詰めている隊士達に、うなされている自分の声を聞かれたくない、ましてや姿を見られたくない……だからではなかろうか。
 だが、きみは、詮索しようとは考えなかった。他人に弱みを見せたがらぬ歳三がその種の詮索を嫌うことは、よく知っていた。きみに出来ることは、ただ、歳三の訪れを普段と変わりなく受け止めることだけであった。

 翌朝、歳三が屯所へ帰っていった後、きみは久し振りに、娘の面倒を下女ちよに任せて他出した。
 三味線屋へ立ち寄るだけのつもりであったのだが、初夏の爽やかな陽気に誘われ、祗園の辺りまでそぞろ歩いた。
 帰路は、五条の方へと回った。五条大橋の近くで小屋けしていた小さな茶店の縁台で茶を喫し、足許に寄ってきた雉虎猫を戯れに構っていると、つと、影が射した。
「……失礼して構いませんか」
 何げなく、しかし突然に降ってきた男の声に、きみは、凍り付いた。……否、もっと正確に言うなら、不意に逆流した体の血が沸騰しつつ凍て付くような感覚に晒されて、動けなくなった。
 その声の主を、よく知っていたからである。
 だが、彼女は、咄嗟に気持ちを奮い立たせた。
 相手を目にしてしまうのが怖かったが、努めてゆったりと顔を上げ、柔らかく微笑んでみせた。
「どうぞ、伊東はん」
「……忝《かたじけな》い。長居はしません」
 声の主は──かつて、過ちから一夜限りの契りを結んだ男は、軽く頭を下げ、供をしていた連れの者に「先に戻っていなさい」と告げると、彼女からは少し離れて、縁台の片端に腰を下ろした。
 猫が、新たな来客からのおこぼれを期待してか、緩やかに尻尾を振りながら男の足許へと寄る。
「……これ。何もないぞ。……あぁもう、何もないと言うておるのに……」
 困惑気味の小さな呟きが聞こえ、きみは、こんな時なのに含み笑いの衝動を覚えた。思わぬ出会いに緊張を強《し》いられていた心が、ふっと解《ほど》けた気がした。
 男は、茶と一緒に何を頼んだのか、小さく毟って猫にやり始める。二刀差しの水際立った容姿の男がそんなことをしている様は、不釣り合いと言えば不釣り合いなのだが、にっしゃにっしゃと一心に何かを食《は》んでいる雉虎猫を穏やかに眺める横顔を見ていると、不思議に、見苦しい振舞だとは思えなかった。
「……御存じかもしれませんが、先月の二十日に、新選組を離れました」
 雉虎から目を離すことなく、男は呟いた。
 きみは、黙って頷いた。他ならぬ彼女のいる休息所で、ひと月近く前、その為の話し合いが持たれたのだ。全く知らない話ではあり得なかった。
「……愛しき者にも、二度と会えない。……会ってはならない」
「その方が……宜しおす」
「わかっています」
 雉虎の喉を指の腹で静かに撫でながら、男は小さく頷く。雉虎は、ごろごろ……と気持ち良さそうに喉を鳴らし、目を細めた。
「君鶴殿に会うと、土方を思い出してしまう。……声を掛けずに知らぬ振りで通り過ぎてしまえば良かった」
「……そない思たんどしたら、何で……」
「そう思っても、儘ならぬのが、我が心」
 甲子太郎は、傍らに置いていた茶をひと息に飲み干すと、すっと立ち上がった。
「土方は……その後、変わりありませんか」
「……伊東はんは、新選組を出て、土方はんの敵にならはったんどすか」
 そうであれば迂闊には答えられぬ、と感じての何げない返しであったが、甲子太郎にとっては何かしら深甚な動揺を呼ぶ問であったらしい。彼女から目をそらしたままの横顔が、一気に色を失ったように見えた。
「敵……ではない……そう思いたい……」
 かすれた声が、低く洩れ落ちてくる。
「けれど……あの男にとって私は……出会った初めからずっと、敵でしか……いや、今の私の立ち位置が新選組にとっては敵対陣営なのかと問われれば、そう見てもらわねば困ると答えるのが妥当でしょう」
 つまり、表向きは敵となっているが内実は違うのだ、と言いたいのだろう。きみはそう了解したが、しかし、前半のかすれた呟きこそが男の本音に近い言葉であることも、同時に悟っていた。
「……ほんなら、うちには、お教え出来まへん」
「そうですね。愚問でした。……邪魔を、致しました。お元気で」
 会釈を残して、男は去った。気のせいか、足許がふらついているような、そんな印象があった。
 その後ろ姿を見送る彼女の胸に、ふと、相手の残した言葉のひとつが戻ってくる。
『愛しき者にも、二度と会えない。……会ってはならない』
 きみは、何故か唐突に思い起こされたその言葉に、戸惑った。
 鳩尾《みぞおち》の辺りで何かが違和感となって引っ掛かったが、その“何か”が何であるのか、咄嗟には、形にはならなかった。

 その晩も、歳三は、休息所へやってきた。
 膳を前にして夕餉を摂る姿は常と変わりないようにも見えたが、よくよく見れば疲労の色、それも気疲れしたような色が濃いように思われた。
 きみは、その斜向かいに娘を抱いて座り、軟らかく煮た粥を匙で掬って小さな口に運んでやりながら、時折ふっと息をついた。歳三が来てくれるのは嬉しい。嬉しいけれども、今日は、つらい。会ってはならない相手に偶然とはいえ会ってしまい、言葉を交わしたことで、心の何処かしらが重くなっている。そんな自分を、歳三に悟られたくなかった。
 しかし、そういう時に限って、歳三は目敏い。
「疲れてるのか、おきみ」
 きみは、いいえ、と応じてかぶりを振った。
「そうか? 何か……顔色が良くねえぞ」
 気遣わしげに自分を見やる歳三の視線が苦しく感じられて、目を伏せる。
「……そない言われても……ほんまに、しんどいこと、あらしまへんし……」
「そう言われて素直に信じられる顔色じゃねえ。おみちには俺が食わせておくから、早めに休め」
 きみは、またひとつ息をついた。
 誤魔化し続ければ、歳三は却って、不審に思うだろう。
(正直に……言うてしまおう)
 心を決めて、きみは顔を上げ、口を開いた。
「……今日、五条の方を回って帰る時に、伊東はんから声掛けられました」
 歳三の箸が止まる。
 その表情がサッとこわばり、頬から見る見る血の気が引く。彼にしては珍しいほど明確な動揺の色に、きみは怯みそうになった。
 だが彼は、すぐに気持ちを立て直したか、笑みさえ浮かべてかぶりを振った。
「済まねえな……あの野郎の仕出かした別の悪さを思い出して、ちっと気分が悪くなっただけだ。……しかし、向こうから声を掛けてきたってか。全く以て図々しい奴だな、あの野郎は」
 殊更におどけたような物言いに、動揺が色濃く残っている気がする。きみは小さく嘆息した。
「新選組を離れましたて、殆ど挨拶だけで、行かはりましたけど……動じるな思ても、難しおした。……堪忍しておくれやす、土方はんには、もう、心弱いとこ、見せとうなかったのに……」
「気にするな。向こうだって、平気じゃなかった筈だ。……嵐に遭った時に、皆が皆、すぐに心強く乗り越えられるわけじゃねえ」
 歳三は何処か複雑な微笑を頬に刻むと、きみが膝に抱いている娘みちに手を伸ばし、自分の指先を握らせた。
「さあ、この話は、此処までにしよう……おみちも粥を欲しがってるしな」

 その夜、彼らは、どちらからともなく求め合い、枕を交わした。
 いつになく濃く、深く……そして激しく。
 娘が傍らで眠っていることさえも忘れ果ててしまうほどに……。
 けれども、悦びの波打ち寄せる渚に誘《いざな》われ、熱に浮かされたように歳三の名を口走りながら、きみは、頭の片隅で、今日の昼間に出会ってしまった男との一夜限りの逢瀬を思い出していた。
 それは、しかし、彼女を慈しむ歳三の振舞が、今迄とは微妙に異なるせいでもあった。
(ああ……何や……まるで……)
 まるで、何処か、あの人のような抱き方だ──と、きみは感じた。
 何が同じというわけでもない。何の根拠もありはしない。けれども、今宵の彼の愛撫に身を委ねているとどうしても、あの過ちの一夜が忍び寄るように思い出され、重なり合ってしまう。
 今宵の歳三が、特別なのか……それとも、今宵だけのことではなく、彼の中で何かが変わってしまったのか……彼自身が意識しているか否かは知れぬが、その接し方は何処かしら、あの雨の夜に自分を翻弄し去った狂熱の嵐のようだ……
 正直、今でも忘れられない。たった一夜のことでも、いや、だからこそ却って、忘れ去ることが出来ない。これほどまでに世話になっている歳三に対して何という裏切りかと自分を責め抜いても、その男が自分の五体に刻み付けていった記憶を完全に消し去ることは……
『儘ならぬのが、我が心』
 ひそやかな嘆息が、耳の奥で鳴る。
 ──つと、歳三の手が止まった。
 苦悶の呻きに似た声が、歯ぎしりと共にこぼれ落ちる。
 そのまま蹲るように、彼は、彼女の肩に縋り付いた。
 唐突に突き放されたような思いに戸惑いながら、きみは、不意に気付いた。
 同じだ。
 この苦悶に満ちた呻きは、彼が毎晩うなされていた時の呻き声と、同じだ。
「……畜生……」
 殆ど声になっていない、あえかな吐息のような呻きが、耳許をかすめる。
「忘れてやる……てめェなんざ……抉り出して捨ててやる……畜生……誰が思い出してなんかやるか……てめェの夢なんざ見てやるか……絶対に忘れ果ててやる……畜生……」
 きみは、無言で相手の背《せな》に両腕を回し、小刻みに震えている体をそっと包み込んだ。
 ……全てが理解出来た気がした。
 彼が夜毎うなされていた理由も……閨《ねや》での振る舞い方が、別の男の手を自分に思い出させてしまう変わり方をしてしまった理由も……そして今、彼女に曝してしまうほどに煩悶に打ち震えている理由も。
『愛しき者にも、二度と会えない。……会ってはならない』
 あの時に甲子太郎が、「二度と会えない」「会ってはならない」と呟いた「愛しき者」──それは、あの時に彼の傍らにいた、つまりは、彼が再び自ら声を掛けてきた自分きみのことではあり得ない。
 そのことにさえ気付いてしまえば、その「愛しき者」が誰であるか、答を導き出すのは容易《たやす》い。甲子太郎の一連の態度を改めて思い返せば、掌《たなごころ》を指すよりも明白である。
 けれども、その答は、歳三に向かっては決して口に出して確かめてはならぬものであった。
 思い出してみれば、歳三が毎晩のように泊まってゆくようになったのは、先月の二十日過ぎ。甲子太郎が「新選組を離れました」と話していた時期と、重なる。
 勝手な想像でしかないが、新選組を離れてしまえば「愛しき者」と二度と会えなくなるという現実を前にして想いを抑え切れなくなった甲子太郎が、強引に想いを遂げようとした……いや、ひょっとしたら、ひと思いに遂げてしまったのではあるまいか。
 どんなに不本意であろうとも、相手の狂熱の想いに晒され、その色に少なからず染められてしまったからこそ、歳三の中で何かが変調を来《きた》した。そして、きみと臥所を共にする内に自身でそれに気付き、負わせられていた“傷”の深さに愕然となった。……そう考えれば、彼が突然洩らした苦悶の呻きも、すんなりと得心が行く。
 もし、白日の下《もと》に晒せぬ淫靡な関わりが彼と甲子太郎との間に何ひとつ存在していないなら、彼が夜毎あれほどに苦しみ、今またこうして苦悶している筈がない……
(もしかしたら……)
 きみは、障子越しの星明かりのみが仄かな影を落とす闇の底で、まじろいだ。
 かつて甲子太郎が自分と深い関わりを結ぶに至ったのも、今にして思うと、自分を仲立ちとして間接的に「愛しき者」と交わりたくて、或いは「愛しき者」との親密な関わりを求めても得られぬ代償として、また或いはそれを得たいが為の迂遠な目論見から、したことだったのかもしれない。
 だが、仮に甲子太郎が打算から自分に近付いていたのだとしても、彼が全く彼女を踏みにじって顧みないつもりでいたのだとは、彼女には思えなかった。
 勿論、相手の感情や行動を自らの利に引き寄せようとする策士的な一面も、彼は、持っているのであろう。けれども、他人に対して徹底的に冷徹に、計算のみで接し続けられる、情の欠落した男ではない。……決して長くはなかった付き合いの内に、彼女は、相手の人柄をそう見て取っていた。
 ただ、彼は、どんなに想いを懸けても決して報われぬ相手に、魂を奪われてしまったのだ。そのことが、不幸にも彼に、時として人の倫《みち》を踏み外すほどの狂熱と心の闇とをもたらしてしまったのだ。
 ……しかし、そうであれば疑いなく、彼が歳三との間に結ぼうとした関わりは、歳三にとっては、一方的に強《し》いられる関わりだった筈である。
 支えたい──と、きみは思った。
 あの時には、歳三が、命を絶とうと思い詰めまでした自分を受け止め、支えてくれた。今度は、自分が、彼の添え木となる番だ。
「……うちは、土方はんのものどす……」
 きみは、全ての理解を心の奥に呑み込みながら、ひそやかに囁いた。
「どないなことがあっても、うちの心は……」
「……疑ってなんざいねえ」
 喉声の囁きが、耳許に返る。
「それでも……何もかも全部、忘れてしまえたら、どれだけ気が楽か……そう思うことも、ある……」
「……うちも」
 きみは、目を閉じた。
「それでも……土方はんが、いてくれはった。咎めもせんと、支えてくれはった。そやから、段々に、忘れられた。……うちは、幸せ者《もん》どす」
「おきみ……」
「……うちは、いつでも、側におります……いつでも、この身を捧げます……土方はんが、望んでくれはる限り……」
 無論、歳三も恐らく、そう簡単には、その身に受けてしまったのであろう嵐を忘れることなど出来まい。自分が未だに、その男と過ごした一夜の嵐を忘れ去ることが適わぬように。
 けれども、自分は、乗り越えたのだ。確かに時折こんな風に思い出してはしまうけれども、その男と往来で不意に出会っても笑顔を向けられる程度には、心の平穏を取り戻すことが出来たのだ。
「そやから……」
 ほわぁ、という細い泣き声が、不意に傍らであがった。
 きみも歳三も、虚を衝かれたように、泣き声のあがった方を見た。睦み合う傍らで忘れ去られていた娘みちが目を覚ましたらしく、布団を蹴脱ぐ勢いで、ほわほわと藻掻いている。
 ふたりは顔を見合わせた。
 期せずして同時に、苦笑が洩れる。
「……邪魔、されちまったな」
「しょうがあらへんなぁ……泣く子には、だぁれも勝てへん」
 微笑みながら、きみは、泣き泣き這ってくる娘を抱き寄せた。そして、無心に乳房に縋り付いてくる姿に、優しく目を細めた。

 その夜を境に、歳三が毎晩のようにうなされることはなくなった。
 少なくとも、明け方にうなされている姿をきみが目撃することは、全くなくなった。また、そもそも歳三が泊まりに来ない夜が以前のように複数日続く日も、出てくるようになった。
 それでも、泊まりに来ている夜には時折、深更にうなされる姿を見ることはあった。しかし、そんな時に限って、あの夜以来川の字で寝るようになった娘が目を覚ましてむずかり始め、手足をぽふんと父親の顔やら腹やらに乗せて起こしてしまうのだった。
「敵わねえな」
 起こされると、歳三は、そう呟いて小さく笑う。そして、娘をあやしながら再び眠りに就き、恐らくそのまま朝まで、うなされることなく眠る。
(何やろなぁ……みちの方が、うちより、ずうっと、土方はんの支えになってるなぁ……)
 今迄は、夜中にぐずぐず泣かれるのは困りものだと思ってきたのだが、歳三の気分を変えてくれているのなら、むしろ有難い夜泣きなのかもしれない。
 自分が歳三の異変に気付いたのも、思えば、娘の夜泣きに起こされたからだった……
 きみは、そう思いながら、目を閉ざす。

 ……忘れ難き狂熱の爪痕も、段々に、薄れゆくだろう。
 こうして、淡々と、日を送る内に。



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