私が嫌ったり憎んだりするのは、兄上が嫌ったり憎んだりする相手だけだ。
 兄上が好いたらしく思う相手は、私もまた、好いたらしく思う。
「でも、私は、たとえ兄上と同じ女に惚れたとしても、絶対に近付いたりはしませんよ、兄上。だって、兄上が物凄く焼餅焼きだってことを、私は知ってますからね」
 一日《いちじつ》、気心の知れた同志である内海さんと新井さんも同席している酒の席で、どんな話の流れだったかそう告げて笑った時、兄上は虚を衝かれたような顔をした。
「……私が?」
「ええ。……覚えていらっしゃいますか? 志筑を離れた頃、私が母上や姉上の所で長々と時を過ごして帰ってくると、決まって何くれとなく私に無理難題を吹っ掛けて。凍える冬の最中《さなか》に、夕方までに蛙を二十八匹集めてこいとか……鮒を十七匹釣ってこいとか。ああ、きっと兄上は私が母上や姉上に甘えていたのがお気に召さないんだ、と、幼心に嫌でも悟られましたよ」
 どれもこれも、外へ出なければ果たせない難題ばかりで、しかも数がやけに具体的で多かったから、と付け足すと、兄上は苦笑いを浮かべた。
「……そんな意地の悪いことをしたかな」
「ひどいなぁ、した方は覚えていなくても、された方は忘れないものですよ」
 余りに具体的に過ぎる数字には、兄上の意地の悪さと優しさとが複雑に交錯していたのだと、今の私は思っている。余りに早く帰ってこられるのは気に入らない、だから多めの数を口にする、けれども、三十匹や二十匹というキリのいい数ではない。……そう、端数はいつも、七か八だった。意地の悪い気分が勝っている時が八で、そうでない時が七。
 兄上は、バツの悪そうな表情で軽く頭を下げた。
「……済まぬ」
「いいえ、でも、結局は楽しかったですから」
 にっこりと、私は笑ってみせた。
「土手を掘り返して、折角眠っている蛙を集めたり、氷に穴を空けて、鮒を探したり……いつの間にか夢中になって、決まって日がとっぷり暮れてしまって。星までまたたく頃になると、必ず兄上は心配して探しに来てくださった」
 そして、帰ってから私が母上に叱られると、「私が探してきてくれと頼んだのです」と庇ってくれる。
 周囲にそうとは見せないものの実は結構な焼餅焼きで、時々は意地の悪いことをしたり言ったりもするけれど、根っこの所では情が濃やかで、心優しくて男気もある。それが、私の知っている兄上だった。
 勿論、人の姿というのは、一様ではない。それはあくまでも私が見ている兄上であるというだけで、それが本当の兄上だと言うつもりは毛頭ない。屈託なく母や姉に甘えている弟に焼餅を焼く兄の姿など、別におかしなものでもないと思う。
 ……けれど、私には、上洛してからというもの、ひとつ、気にしていることがあった。
 焼餅を焼いている時の兄上の態度を知っている私だからこそ、気になることだ。
 それは……持って回った言い方をするのも何なので率直に言ってしまうが、新選組の副長、土方歳三
 上洛以来、兄上は、彼と話している時に私が横合から声をかけると、決まって、やけに尖った返事をするのだ。……母上や姉上と長話をして戻ってきた時と同じような、何処かしら突っ掛かるような、不機嫌な物言いで。
 ハッキリ言えば、「おめ、何で邪魔すんだ」と咎められているような、そんな印象。
 けれども私は、ずっと、そんな兄上の気持ちには気付かぬ振りを続けてきた。兄上が、皆の前では、土方に対して勝れて特別な関心を持っているらしき態度を、一切見せまいとしていたからだ。周囲の目から自身の想いを隠そうとしているのが明らかなのに、兄上ほど細かい所に気付かず察しも良くない筈の私が無邪気にその想いについて指摘してしまったら、兄上はきっと、三郎が気付くぐらいだから誰しもが気付いているのではないかと、ひどく思い詰めてしまわれることだろう。
 新選組を離れることが出来てホッとしたのは、兄上のそういう不機嫌に尖った姿を見ることがなくなったせいでもある。
「伊東先生は、我々には決してそのような微笑ましいお姿を見せてくださることはありませんね」
「いやいや、そんなみっともない姿など、君達に見せられるものではないよ」
 新井さんの言葉に、兄上は、苦笑いを浮かべて盃を空けた。
「さぶ……三木君にも兄として我儘を言ったことはないつもりだったのだが……つもりに過ぎなかったということか」
「あ、私は構わないんですよ、兄上」
 私は慌てて応じた。
「あの頃の兄上はいつも、余りにも、周囲に向けて気を張っておいでだったから。……確かに、無茶苦茶を言われたその時には『えっ』と腹を立てたりもしましたけど、結局は楽しい思い出ですし……今では、兄上は私だからこそ我儘な顔を見せてくださったんだなと嬉しく思えるんです」
「成程、やはり血の繋がった兄弟というのは、心の許し方が何処か違うものなのですね」
「世の中には仲の悪い兄弟とて幾らでもいるというのに、羨ましい限りですよ」
 口々に言われて、兄上は何処か、はにかんだような表情を見せた。
 だが、内海さんと新井さんが先に屯所へ引き揚げてゆくと、兄上は、私を手招いて、そして、気まずげに呟いたのだった。
「……確かに私は、結構な焼餅焼きだと、自分でも思うことがある。だが、のべつ幕なし、嫉妬に身悶えしているつもりもない」
「無論です、兄上」
 私は苦笑した。
「焼餅なんて、誰だって、特別な相手に対してだけですよ。……私はそれほど焼餅焼きでもないですけど」
「……三郎、お前、身を固める気はないのか?」
「へっ?」
 いきなり何を言い出すのだろう、と少しく訝しく感じたが、兄上は真面目に話をしたいらしかった。
「いや……お前もいい加減、身を固めた方が……鈴木の家のこともあるし……」
「……あんちゃん、あんちゃんは、鈴木の家には戻らねのか?」
 兄上は、静かに頷いた。
「鈴木の家は、お前に任せる。……おめにな」
「そったごど言われても……」
「俺ぁ、伊東の家ん名を捨でる気はねぇ。……おめなら、俺の気持ちはわかる筈だ。……我儘言っで済まね」
 ……私は、そのひとことで、兄が、三行半《みくだりはん》を叩き付けた義姉上《あねうえ》のことを心の何処かで引きずり続けていることを悟った。あれ以来、義姉上を一切忘れたかのように振る舞い続けていた兄上だが、本当は、少しも忘れてなどいなかったのだ。
「……わがっだ」
 私は微苦笑を浮かべた。色恋に余り器用ではない兄上らしいな、と思ったからだ。
「まっと世ん中が落ち着いだら、どうにでもしで、嫁さ貰うべ」
「済まね、三郎」
「謝るごどながっぺ」
 私は手を左右に振った。
「んだげどよ……」
 兄上は何か言いかけ、しかし、自分でかぶりを振った。そして、ほっと息をつくと、手酌で盃を満たした。
「あんちゃん、んだげど、何?」
「何ちゃねえよ」
「あっ、俺に嫁の来手がねぇと、心配してるべ?」
「まさか」
 兄上はくくくと笑った。
「おめは俺よりいい男だ。引ぐ手、数多《あまた》だっぺ」
「そっだごど……悪ぃ冗談だ、あんちゃんには敵わね」
「何がだ」
 盃を舐めながら、兄上はかぶりを振った。
「おめは……お天道様だ」
「お天道様? 何言うんだ、あんちゃんの方が、俺にはお天道様だ」
「馬鹿、お月さんだ、俺ぁ」
 そう言って、兄上は、穏やかな笑みを浮かべた。
「夜の間はな、お天道様がいねぇがら、月が綺麗に見えんだ。昼間の月さ見でみろ。しらーっとして、目ぇ凝らさねと、何処にあんだが、さっぱりわがんねだろ? 俺ぁ、今の世ん中が夜ん闇だがら、光って見えんだ。おめは、世ん中の闇が明げだら、俺より、まっと、光るさ。……おめは、俺よりいい男だ。あんなぁ、女にとっての男ってなぁ、面だげ良ぐでも駄目だっぺ。多少の嘘でも許してやるぐれぇの度量がねえと。……昔っから俺の意地悪さぁ笑いながら楽しんだぐれぇ度量の深いおめは、女にも好かれっさ。おめは……俺みだな馬鹿な男になんじゃねえ」
 ……ああ……兄上は、義姉上のたった一度の嘘を許せなかったことを未だに悔いているのだ。
 私は、だが、その件については何も指摘せず、ただ、「だども、やっぱりあんちゃんの方がいい男だっぺ」と呟いて、曖昧に笑った。兄上も、それ以上には、その件を話すことはなかった。

 冬が深まると、世の中は目に見えて動き始めた。
 その最たるものが、幕府が政を朝廷に返上したことだ。
 兄上は、実に生き生きとしていた。政が帝の御手に戻ったこの機を措いてこの国を新しくする時はない、この国の夜明けの時が近付いたぞと、日頃の自身の考えを建白書に纏め、議奏を通じて奏上した。
 だが、私は、そんな兄の姿に、何処か漠然とした不安を覚えていた。
 兄上は、自身を「月だ」と言っていた。月は……夜闇が終われば輝きを失う。考え過ぎかもしれないが、この国の夜明けが近付いたということは、月がその役目を終える時が近付いたということにはなるまいか……
 何を馬鹿な、とは思う。兄上の輝きは、私にとっては、まさに陽光の輝きだ。だが……兄上自身がそうは思っていない、自身は月に過ぎないと思っているということが、私には、何やら不吉の前兆のような気がしてならなかったのである。
 私は、その不安を、控えめにだが、兄上にぶつけてみた。何を馬鹿なことをと笑い飛ばしてもらえたら、少しは安心出来る。そう思った。
 けれども、兄上の答は、私を安心させるものではなかった。
「もしも私が斃れたら、お前が私の志を継いでくれ。それでいいではないか。……良いか、たとえこの兄の身に理不尽な凶刃が降り掛かっても、お前までもが斃れてはならぬ。仇討ちなどは、もとより無用のこと。そのようなことを考える暇があるくらいなら、私の志をこそ継いで、この国の為に働いてくれ」
 まるで遺言ではないかと却って不安になったが、兄上の表情は淡々とした微笑に彩られていながらも妙に威圧的で、私に反駁の隙を与えなかった。
「……それから、継いでほしいのは、我が志のみだ。この兄の愚かなところは、構えて、継いではならぬ。……良いな」
 冗談めかした表情になっての付け足しも、私の心を晴らすには至らなかった。

 そして、それから数日後に、兄上は命を落とした。
 新選組の奴原の手に掛かって。

 兄上の遺骸を引き取りに行った先で新選組の奴原から襲われた時、私の頭をよぎったのは、兄上の言葉だった。
『お前までもが斃れてはならぬ』
 夢中で、逃れた。
 兄上の遺骸を置き去りにして逃げたのかと責められてもいいと思った。
 兄上は、私が斃れることを望んではいない。
 それをハッキリと言葉にして伝えられていたことが、私の支えになった。
 けれども、
『仇討ちなどは、もとより無用のこと』
 ……それだけは、如何に兄上の言葉でも、承伏し難かった。
 弟が兄の仇討ちをせずして、誰が仇を討つというのか。
 確かに、兄は、鈴木家を離れて伊東家の者となった。だが、それでも私には、たったひとりの、血の繋がった兄なのだ。
 誰にもひとことも洩らしはしなかったが、私は、生まれて初めて、兄上が好いたらしく思っていたのであろう相手を、斬ろうと思った。
 土方歳三。
 兄上の心を踏みにじり、その想いを利用して兄上を罠に陥れたに違いない相手を、憎いと思った。
 ……勿論、向こうが兄上の気持ちを知っていたという根拠はない。けれども、そうでも思わなければ、気持ちの収まりが付かなかった。
 薩摩藩邸に匿われてからも、私は、土方の動向を知ろうと努めた。私が新選組にいた時分、供も連れずに単身で出歩くことも多かった男だけに、きっと隙はある筈と信じた。
 けれども、流石に向こうも用心しているのか、なかなか、隙に繋がるような話は伝わってこなかった。流れてくるのは下っ端の隊士どもの動きだけで、つまりは、躍起になって襲い傷付けたところで益体もない相手ばかりであった。
 虚しかった。
 そうこうしている内に、王政復古で、幕府勢力が都から退去を余儀なくされた。当然、新選組の奴原も、京にはいられなくなった。しかも、何という天の導きか、我々が匿われている伏見の地へ移ってきた。
 しかし、これで彼奴らの動きがつかみ易くなると思った矢先、情けないことに私は、高熱を発して倒れてしまった。
 本当に情けなかった。風邪などひくのは、気力が足りないからだ。
 だが、同志達は、私を気遣ってか、責めるようなことはひとことも言わなかった。
 無理をしたら熱が上がる、今は休め、とだけ言ってくれた。
「この程度の熱なら、二、三日もすれば下がります。きっと、伊東先生が、無理をするな、少し休め、と言ってくれているんですよ」
 看病の為に残ってくれた内海さんは、兄上の道場で塾頭まで務めていた人なのに、ひどく穏やかだ。
「先月からずっと、疲労がたまっていたんでしょう。毎日駆け回って、巡察の新選組の連中を襲って……みんな、よく倒れないでいられると思うくらいだし」
「だけど……」
「いや、私も少し横になりたいと思う時がありますよ。恥ずかしながら」
 行灯に灯を入れてくれながら、内海さんは、小さな欠伸をかみ殺すようにしてみせた。
「でしたらどうぞ、私に遠慮せず、横になってください。内海さんがお休みになったら、私も休みますから」
「いや、流石にそんなことは出来ませんよ。……私が傍らにいては寝付けないでしょうから、隣の部屋にいますよ」
 何かあったらすぐ呼んでください、と言い残して、内海さんは、隣室に引き取った。
 私は、目を閉じた。
 額に乗せてもらった手拭いの冷たさが程なく遠くなり、そして、ぼんやりとした睡魔が忍び寄ってきた。
 何となく眠りたくない気がして、その睡魔に力なく抗っていると、誰かが静かに傍らに寄ってきて、音もなく端座したような気配があった。
 同志の誰かが戻ってきたのだろうか。
 私は重い瞼をどうにか持ち上げ、その気配の方を見やった。

 ……信じられなかった。
 そこに端然と座して私をじっと見下ろしていたのは、亡き兄上だったのだ。

 驚きの余り、叫びをあげそうになった。
 だが、何故か声が出なかった。
 兄上は、静かに微笑むと、三郎、とひとこと、声を発した。……いや、それは、果たして本当に声であったのか。確かに兄上の声ではあったけれど、何処か現《うつつ》ならざる響きで、胸の裡に湧いてくる。
 私は……いつの間にか眠ってしまって、夢を見ているのだろうか。
〈……私の声は、聞こえぬか?〉
 少し心許なげな表情になって、兄上が尋ねる。私は急いでかぶりを振った。
「いいえ、いいえ兄上……聞こえます。ですがこれは……」
〈……私は今、お前の夢枕に座って[#「座って」に傍点]いるのだよ、三郎〉
 諧謔の色を漂わせながら、兄上は再び微笑んだ。
 ……嗚呼、何ということだろう。
 兄上は……あの世への川を渡っていないのだ。
 言葉にされずとも、悟ることが出来た。兄上は、この世に残した思いの余りの大きさと重さに、こちらの岸を離れることが出来ないでいるのだ。
〈あの夜以来……だなぁ。おめに限らず、誰かと言葉を交わすってなぁ〉
「……あんちゃ……」
 私を安堵させようとするかのような砕けた物言いに、不意に涙が、こみあげてきた。
 兄上の方から砕けた言葉遣いになることなど、これまでになかったことだ。それだけ、兄上は、今の、この不甲斐ない私を気遣ってくれているのだ。
〈なに泣いでんだ。大の男が〉
「あんちゃん……」
 私は、唇をかんだ。
 悔しかった。
 どうして兄上が、あんな風に殺されなければならなかったのか──という悔しさではなかった。認めたくはないが、新選組の奴らには、奴らなりの“正義”がある。それがこちらの正義とは著しく掛け離れていても、奴らにとっては、自分達の方こそが正義だ。どんなに奴らを詰り罵ったところで、奴らは胸を張って応じるだけだろう。悪いのは貴様らだと。我らに危害を加えようとしていたのは貴様らの方ではないか、我らはその芽を、最も効率的なやり方で摘んだだけだと。
 だが、頭でそうと考えることは出来ても、心は別だ。
 あの油小路の辻にうつぶせに倒れ息絶えていた兄上は、刀も抜いていなかった。路上には流血の痕跡はなく、ということは、兄上は、別の場所で刀を抜く暇《いとま》も与えられぬまま殺され、そして、あの小路に運ばれ打ち捨てられたということではないか。
「あんちゃん……俺ぁ……絶対に、新選組の奴らを許さねえ……」
〈……三郎〉
「奴らに、俺と同じ思いを……させてやりてえよ……」
 無惨に闇討ちされ、あまつさえ路上に屑物のように放り出され晒された、そんな兄の亡骸を目の当たりにさせられた弟の気持ちが、貴様らにはわかるか。
 兄上は、私にとっては、心の天空にいつも輝いている太陽だった。
 兄上が斃れた時、私の太陽は、心の天空から墜ちて消えたのだ。永久《とこしえ》に。
 太陽を喪った心は、闇に食い荒らされ、荒みゆくばかりだ。
 だが、兄上は、静かにかぶりを振った。
〈愚か者。あれほど言っておいた筈ではないか。仇討ちなど、無用と〉
「──あんちゃんだったら、悔しくねぇのか!」
 私は、感情の赴くままに言い返した。
「刀抜ぐ間もねぇ卑怯な闇討ちされて! 辻に放られで晒し者にされて! 俺がそんな目に遭っだら、あんちゃんは何も思わねぇのか!」
〈……私は、刺客を返り討ちに出来なかった〉
 兄上は、目を伏せるようにして呟いた。
〈確かに最初に受けた傷は、物陰からの闇討ちによるものであった。だが、私は、お前が思っているほど、手もなく討たれたわけではない。……私の技量が、彼奴らを返り討ちに出来るほどのものではなかっただけなのだ〉
 咄嗟には返す言葉も覚えず、私は、兄上を見上げた。兄上は、それでは、刺客と刃《やいば》を合わせた上で敗れていたのか。刀が鞘に収まっていたのは、奴らが、抜いてない体《てい》にもてなしたからなのか。……抜かせたままにしておけば、単に抜き合って討ち取っただけだ、こちらの闇討ちなどではなかったと言い張ることも出来ただろうに、わざわざ御丁寧にも、闇討ちしたぞと世人に知らしめるような真似をしたというのか。
「……あんちゃんは、それで悔しくねぇのか」
〈周囲に対する注意を怠っていた私が愚かであっただけだ。悔やみはしているが、悔しくはない。……何故そのようなことを訊く〉
「……あんちゃんは……奴らに哀れまれたんだぞ」
 私は、震えた。……発熱のせいではなく、純粋に、怒りで。
「刀さ手ぇ掛げでながっだら、誰だって、闇討ちされたんだって思うっぺ! 奴ら、わざわざ、あんちゃんの刀収めで放り出したんだぞ! あんちゃんが反撃する間もねぇ闇討ちでしたって、皆に取り繕ってやったようなもんじゃねぇか!」
〈それは考え違いだ、三郎。あの男が刀を鞘に戻してくれたのは、私の手からこぼれ落ちるがままに離れ離れになるのは忍びないと感じてくれたからだと思う。それは確かに哀れみではあろうが、受けた側が屈辱に思うような類の哀れみではない。むしろ、武士の情けに類するものではないか。如何に私を殺めた奴原が憎くとも、全てを悪く取ってはならぬ〉
 やや困惑したような表情を浮かべて、兄上は応じた。
 私は……またしても、返す言葉を失った。
 「あの男」……とは、誰なのだ。
 まるで何ひとつ断わり置く必要を感じていない口調で当たり前のように口にした、その「あの男」とは……!
 問うまでもないことであるように、私には思えた。
 兄上は、もはや、亡者である。亡者は、この世に思い遺した未練の余りに強きが故に、その思いに生前よりも更に強く囚われ、この世に留まってしまうのだと、誰かから聞かされたことがある。……兄上が……あの、己の発する言葉がきちんと理解してもらえるようにと、人と話をする時には回りくどいほど言葉を選んでいた筈の兄上が、私に不審に思われるだろうことを顧みず、何の説明もせず、当然のような顔で不用意に口にした、「あの男」という言葉。……恐らく、その「あの男」こそが、兄上がこの世に敢えて留まっている理由に繋がっているに違いない。
〈……三郎、何度でも言う。私は決して、報復など望んではいないのだ〉
 自身の“失言”には気付いていないのか、兄上は、諭すような口調で言葉を続けた。
〈無論、お前達を止めようとは思わない。巡り合わせがある相手ならば、自ずとその時は来る。けれども、巡り合わせがない相手にまで報復の手を伸ばそうとして苦しまないでほしい。……巡り合わせのない者を討とうと焦っても、何の益もない。それよりもむしろ、私が果たそうとして果たせなかった報国の志をこそ継いでほしい。……それが、この愚かな兄の望みだ〉
 ……兄上は、嘘はついていない。
 口にされたその気持ちには、些かの偽りもない。
 けれども、その言葉の裏には、私に対して秘し隠していることがある。
 真っ直ぐに問い詰めたい衝動を必死でこらえながら、私は、わかったよ、と呟いた。此処で正面から問い詰めれば、兄上を苦しめてしまう。私には教えられないことだと判断しているから、兄上は、何も言おうとしないのだ。
 だが……
「でもあんちゃん、ひとつだけ教えてほしい」
 私は、兄上を見据えながら、考え抜いた問を発した。
「あんちゃんに刃を付けたのは、一体誰だったんだ」
 もしかしたら……この問い方であれば、兄上の口から「あの男」の名を引き出せるかもしれない。
 引き出せさえ、すれば……。
 けれど、兄上は流石に慎重だった。わずかに躊躇うような表情を見せた後で、ぽつりと応じた。
〈……私の馬丁をしていた勝蔵と、監察の大石鍬次郎。けれども、彼らはただ上から命じられて従ったに過ぎないということも、私にはわかっている〉
 内心で求めていた男の名は、出ることはなかった。だが、報いをくれてやるべき仇の名がハッキリとわかったのは、それはそれで、有難いことだった。
 それに、兄上は、「上から命じられて従ったに過ぎない」と言った。それは、間接的ながら、自分の横死に新選組の中でも監察に命令出来る権限を持つ者が関わっていることを承知していると認めたも同然の答であった。
 私の知る限り、新選組で監察に直に命令出来るのは、副長の土方だけだ。形の上では、局長の近藤でさえも、副長を通さなければ監察を動かすことは出来ない……筈だ。
 ……いや。
 大石を動かしたのが近藤だとしても、土方が関与していない筈がない。
 実際に大石に命を下したのがどっちだって、構いはしない。
 よく考えてみれば、むしろ、近藤の命を狙い奪う方が、より私の望みに適うではないか。
 唯ひとりの大切な兄、尊敬する兄を理不尽且つ無惨に奪い去られたこの同じ思いを、土方に……「あの男」に味わわせてやるのなら。
 奴が身命を擲ってでも支えようとしてきた近藤の首を、たとえ、差し違えてでも、挙げれば……
「……勝蔵はともかく大石なら、人の恨みを買うようなことばかりしてきた奴だ、巡り合わせがきっとあると思う」
 胸に浮かんだ思いと抑え切れず頬に浮かんだ笑みの真意とを悟られぬよう、私は、殊更にそんなことを呟いてみせた。
 兄上は、端麗な顔を曇らせただけで、何とも答えなかった。もしかしたら、私の笑いに潜む真意に気付いたのかもしれないが、もしそうだとしても、自分の口から土方の名を出すことは危険だと考えているだろう。だから、仮に見抜かれていたとしても、咎められるおそれはなかった。
 やがて兄上は、暫く伏せ気味にしていた目を上げて私の顔を見つめ、そして、静かに口を開いた。
〈……三郎〉
「は……はい」
〈名残惜しいが、そろそろ私は、お前の夢枕から去らねばならぬ。どうか……〉
 そこで兄上は言葉を切り、じっと、私の目の奥底を見据えた。
〈私の代わりに、母上を頼む〉
 私は、ハッと胸を衝かれた。
 母上……
 そ、そうだ。どれほど土方が憎くとも、母上を遺して、近藤と差し違えるわけには行かない。
 もう、鈴木の家には、跡を継ぐべき者は、私より外《ほか》に残っていないのだ。
 流石は兄上だ、と私は、複雑な感嘆の念と共に思った。兄上は、多分、もはや私が実質的に鈴木家の跡取りであることを私に思い出させることで、遠回しに、私の軽挙を封じてのけたのだろう。無論、それは決して方便ではなく、真実母上の身を案じての言葉であったのだろうが、それでも、私の妄動を戒める効き目をも有していたのだ。
〈……さらばだ、三郎。体を厭えよ〉
 ゆらりとその姿を薄らがせゆく兄上が最後に私に向けてくれたのは、過ぎし日に変わらぬ、何処までも穏やかな微笑みだった。

 あんちゃん、と思わず叫んで手を伸ばした時、私は、やはり自分が夢を見ていただけであったことを知った。
 心配そうな顔で私を覗き込んでいたのは、隣室に引き取っていた筈の内海さんで、私が目を開いたのを見ると、ほっとしたように、浮かせていた腰を落とした。
「大丈夫ですか、三木さん。何か悪い夢でも」
「……いえ」
 ぼんやりと応じてから、私は、辺りを見回した。当然のように、兄上の姿はなかった。
 ……いや……何処となく、兄上がまだ、この部屋の中で私を見守ってくれているような気がした。
「吃驚しましたよ。隣でうつらうつらしていたら、突然、『一体誰だったんだ』という三木さんの大声が聞こえたものですから」
「……兄上が」
 私は、気を取り直して応じ直した。
「兄上が、夢枕に立って……いえ、座ってくださったんです」
「……伊東先生が」
 内海さんは小さく息を詰め、そして、ほうっと吐き出した。
「……そうでしたか」
「馬丁の勝蔵と監察の大石鍬次郎」
 呟きは、自分でも不思議なほど、淡々と響いた。
「誰が刃を付けたのかという問い掛けに、兄上はそう答えてくれました。……物陰から襲われ、刺客を返り討ちにしようとして果たせなかったとも」
「……そう……でしたか」
「もし、抜き合わせて、兄上を一瞬でも凌ぐことが出来るとすれば、三度の飯より暗殺が好きという物騒な噂もあった大石の方でしょう。……巡り合わせがあれば、必ず報います。報復を望まれなかった兄上も、そこまでは止めなかった」
「……先生が……報復を望まれなかったと?」
「巡り合わせのある相手なら自ずとその時は来る、けれども、巡り合わせのない者にまで報復の手を伸ばそうとして苦しむなと。報復などよりも、私の志をこそ継いでほしい、そして母上を頼むと」
「……先生らしい仰せですね」
 内海さんは、小さく苦笑いを浮かべた。
「新選組の連中に報いずにはおれないと走り回っている我々の気持ちにも、思いを致してくださったのでしょう」
 私は、小さく頷いた。
「……内海さん」
「はい?」
「まだ皆には内緒なのですが、私は、年が明けた頃にでも、鈴木の姓に戻り、名を改めるつもりです」
「名を……?」
「他家へ養子に出た時、もう二度と鈴木の姓を名乗ることもないと思っていた。でも、養家との縁はとっくに切られてしまったし、鈴木の家を継げる者は、もう、私しかおりませんから」
 けれども私は、三木三郎の名も、捨て去るつもりはなかった。
 元々、養家を勘当された時、鈴木の姓に戻ることも許されずに、酒で身を誤った我が身を省みて「三木荒次郎」──御酒《みき》で荒んだ次男坊よ──と名乗っていた。だが、兄上に従って上洛すると決めた時に、兄上に倣って名を改めることとし、尊敬措く能わざる頼山陽先生の御子息である頼三樹三郎先生に肖《あやか》りたく、しかし養家に勘当された不肖未熟の身ゆえ全くの同字を憚って「三木三郎」と名乗り、爾来、それを通してきたのである。
 そういう経緯で自ら付けた名をそうおいそれと放り出すわけには行かない……という事情も、勿論、ある。しかし何より、この名は、兄上が長い間、皆の前では「三木君」と呼び、ふたり切りの時には「三郎」と親しく呼んでくれた、大切な名なのだ。
 兄上が、義姉上のたった一度の嘘を許してやれなかった悔いを胸の底に秘めて伊東の家の名を遂に捨てなかったように、私も、兄上が口にしていた「三木」と「三郎」の名を捨てはしない。
 亡き兄上と同じ四文字の名というのも、乙ではないか。
 だが、まだ、それを皆に言う気はなかった。……何らかの区切りが必要な気がするのだ。それが何であるかは今はわからないが、何かしら、「今だ」と確信出来る、区切りの時が。
「……伊東先生も、きっと喜ばれますよ」
「ええ。……いい加減で身を固めろ、鈴木の家はお前に任せると、このところ陰で頻りに言われていましたから……」
 応じながら、私は、胸に落ちてきたひとつの思いに涙を覚え、目をしばたいた。
(……もしかしたら……)
 兄上には、いつ斃れてもという覚悟以上に、近い内に己が斃れるという漠然とした予感があったのかもしれない。
 だから、まるで何か目に見えぬ何ものかに急き立てられてでもいるかのような勢いで建白書を認《したた》めて奏上し、私にも色々と“言い置いて”ゆこうとしていたのかもしれない。
 けれども、もう、それを確かめる術《すべ》はない。
 兄上と言葉を交わす術はない……。
「先生は、他に何か、仰せでしたか」
「他に……?」
「そうですね……例えば、この国の行く末のことや、どうしても告げ置きたい心残りのことや、残された同志である我々に対して望むことや……あ、いえ、先生は三木さんの許へおいでになったのだから、我々にも何かと願うのは贅沢だとは承知していますが」
 訊かれて初めて、私は、己が、夢枕に座ってくれた兄上から殆ど話を聞いていなかったことに気付いた。
 私はただ、兄上が殺されたことで自分がどれほど悔しい思いをしたかを感情の赴くままに吐露し、どうにかして兄上から報復の道に繋がる言葉を得ようとしていただけだった。
 兄上がどんな思いで私の夢枕に座られたのか、それを尋ねることもせずに。
 ……何と、愚かなことをしたのか。
 私は、今更ながらに後悔の臍をかんだ。折角兄上が私の夢枕を訪ってくれたというのに、私は、己の仇を討ちたいという思いに関わることばかり聞き出そうとし、兄上の心残りを聞いてさしあげようとすらしなかった。
 そんな私の姿を見せられた兄上は、どんなにつらい思いをされただろう。
「……もっと、話を聞いてさしあげていれば良かった……」
「三木さん……?」
「私は……兄上に寄り掛かってばかりで……兄上が私に寄り掛かりたいと思うことがあるなど、想像だにしたことがなかった……」
 内海さんは、求める答が得られぬ事を察したのだろう、それ以上に私に問い掛けてくることもなく、ただ穏やかな微笑を浮かべた後で、黙って、私の額の手拭いを取り替えてくれた。
 私は目を閉ざし、熱のせいか簡単に溢れてくる涙を、流れ落ちるままに任せた。
 兄上が私の夢枕に座られたのは、私と言葉を交わしたいと願ったからではなかったか。どうしてもこの世に語り置きたいことがあって、それで、血の繋がった弟である私を頼ってきたのではなかったか。
 兄上とて、悟りを開いた聖人ではない。肉親である私に寄り掛かりたいと思うことがあったとて、何の不思議があろう。
(あのことだって……土方とのことだって、ちゃんと告げておけば良かった)
 こんなことになるのなら、ちゃんと告げておけば良かった。変に私が指摘すれば兄上は思い詰めてしまわれるのではないかなどと、生半可な配慮などせず。
 悔やんでも詮ないことと思っても、悔いは消えなかった。
 ちゃんと、兄上が生きておいでの間に、言葉にして告げておけば良かったのだ。
 土方に懸想してしまったからって、ちっとも構わないではないかと。
 私だけは、誰が何と言おうと私だけは、兄上のなさることなら、どんなに傍から見て愚かに見えたとしても、ちゃんと理解してさしあげる、責めたり咎めたりはしないと。
 だって、どんな兄上でも、私にとっては唯ひとりの兄上なのだから。
 だから──だから私にだけは何もかも打ち明けて、少しでも心を軽くしてほしいと。
 もしも私がそう告げていれば、兄上は、たとえ一時《いちじ》は動揺から気持ちを乱されたとしても、いずれ心の平穏を得られたことだろう。
 何も隠さなくていい、責めることも咎めることもしない、ありのままに話を聞いてくれる者が、すぐ傍らにいるのだと。
 けれども、私は、何も告げなった。
 下手に告げれば兄上が疑心暗鬼に陥り思い詰めてしまわれるだろうと、何ひとつ気付かぬ風を装い続けた。
 だから兄上は、何も私に打ち明けてくれなかった。
 そして、誰にも悩み苦しみを告げることの出来ぬまま、ひとり、土方への叶わぬ想いを募らせ続け、死の道へと足を踏み入れてしまった。
 私は、つまらぬ遠慮を続けたことで、兄上を却って、黄泉の道へ追い込んでしまったのだ。
(あんちゃん……)
 俺……何にも、あんちゃんの助けになれなかった。
 ちゃんと、気付いてたのに。

 だから、あんちゃん……
 俺、あんちゃんの言い付け、守るから。
 あんちゃんが言いたくても言えなかったこと、俺、わかってるから。
 ……巡り合わせがない限り、あいつに手は出さないから。

 俺が嫌ったり憎んだりするのは、あんちゃんが嫌ったり憎んだりする相手だけだ。
 あんちゃんが好いたらしく思う相手は……

 ……心配しねぇでも、わがっでっから。



Copyright (c) 2005 Mika Sadayuki
背景素材:「トリスの市場」さま(加工品につき当ページからの持出厳禁)