私がその夢を見たのは、旧知の藤堂平助
《とうどう へいすけ》君が私の道場を久方振りに訪ねてきた日の、翌朝のことだった。
夢の中の私は、たったひとりで、白や紅紫
《べにむらさき》の花咲かせる萩
《はぎ》の原に佇
《たたず》んでいた。遙
《はる》か西の方
《かた》を望み、胸
|轟
《とどろ》かせながら。
京へ――都へ――憂国
《ゆうこく》の志
《こころざし》持つ者の集
《つど》う地へ、我もまた往
《ゆ》くのだ。
夢の中の私はどうやら、早くも、昼間藤堂君から聞いた話に心躍らせ、彼の勧めに応じて“新選組”という勤王浪士の一隊に加わることを決めているらしかった。
西風が吹いてくる。
萩の枝々がざわざわと揺れ始める。
風に向かって私が歩き出したその時、漆黒
《しっこく》の毛並の馬が一頭、忽然
《こつぜん》と目の前に躍り出た。あたかも私の行く手を阻むかのように、ぴたりと、私から三間
《さんげん》ほどの場所で、横腹向けて足を止める。思わず馬を睨
《にら》もうとした私は、その背に跨
《またが》っていた羽織袴
《はおりはかま》に二刀差しの男がひらりと下りてくるのを見て、はっと立ち止まった。
一瞥
《いちべつ》した瞬間どきっとしたのは、恐らく、ひと括
《くく》りに束
《たば》ねただけの総髪
《そうはつ》が、あの白井匡輔
《しらい きょうすけ》君を連想させたせいだろう。無論白井君とは似ても似つかぬものの、その男もまた、実に端整な横顔の持ち主であった。多分、行っていても三十歳、私と同い年か年下か……そんな年代と見えた。
何者だろう。
勃然
《ぼつぜん》と興味を覚えた私は、ゆっくりと、その見知らぬ男に歩み寄っていった。
「……あなたは、どなたですか?」
三歩の距離で立ち止まって声をかけると、男は、今初めて私に気付いたとでもいうように、頭
《こうべ》を回
《めぐ》らした。
その、まなざし――
私は息を詰めて立ちすくんだ。まるで秋霜のような冷たい目が、私を射貫
《いぬ》いて、場に縫
《ぬ》い留
《と》めたのだ。
何という――何という冷ややかな目なのか。
憧れや尊敬、或いは羨望
《せんぼう》の目なら知っている。それらは常に私の周りにあった。だが、こんなにまで冷然と、凍てつくような目で私を見た相手が、今迄
《いままで》にいただろうか。脱藩した父に代わって実家の家督
《かとく》を継いだ時に出会った借財の取り立て達でさえ、此処
《ここ》まで冷たい目はしていなかった。彼らの目は確かに冷たく厳しいものではあったけれど、それは決して私自身を咎
《とが》め責める目ではなかった。当時まだ幼かった私が、何とか催促に応えて金を返そうと苦心惨憺
《くしんさんたん》している姿を、少なくともその努力だけは認めてくれていた目だった。だが、今私の目の前に佇む男の目には、何もない。私という人間の全てを否定し、拒絶するかのような、冷たく乾き切った光しかない。
私は、訳のわからぬおののきに襲われた。
一体何者なのだ。この私を、この伊東大蔵
《いとう おおくら》を、そんな冷え切ったまなざしでしか見ようとしない男は。
と、男がまじろいだ。そして、ふっと目許
《めもと》を綻
《ほころ》ばせた。秋霜の冷ややかさが春の淡雪のように融
《と》け、峻厳
《しゅんげん》でさえあった端整な白面が、驚くほど温かい微笑
《ほほえ》みに彩られた。
その笑みに覚えず胸をときめかせた次の瞬間、私はうろたえた。
(――馬鹿な)
何故
《なぜ》、この私が、酒が入っているわけでもないのに、男に対して
[#「男に対して」に傍点]、こんな得体の知れぬ胸の高鳴りを覚えねばならないのだ?
そう思った時、男の端整な唇が動いた。
「――さん」
よくは聞こえなかったが、私でない誰かの名を呼んだことだけは間違いなかった。私は後ろを振り返った。かなり離れた所に、別の浪人がひとり、立っている。容姿は判然としないが、私や私の前にいる謎の男よりは遙かに幅広の体躯
《たいく》を、黒い紋付に包んで……。
不意に、私はカッとなった。男の笑顔は、私にではなく、その浪人に向けられたものだったのだ!
「そんな所にいたのかい――今、行くよ」
男は、ごく親しげな口調で、そう言った。言って、歩き出した。私の存在など眼中にないかのように、私の右脇をすり抜けてゆこうとした。
目も眩
《くら》むような憤りが、私の全身を駆け巡った。
(――行かせない!)
瞬時に沸き立った執着の激しさは、己のものとは到底思えぬほどの代物
《しろもの》だった。私は、男の両肩をわしづかみにした。激情のままに地にねじ伏せ、押さえつけ、唇を奪った。有無を言わせず抱きすくめ、何度も何度も頬
《ほお》を擦
《す》り寄せ、幾度
《いくど》も幾度も唇を貪
《むさぼ》り吸った。
「――行かせるものか!」
そうしながら、私は叫んでいた。
「あなたは私の――私のものだ――他の誰にも渡すものか!!」
自分が何を叫んでいるのか、自分でわからない。普段の私は何処
《どこ》へ行ってしまったのだ。どうして私ともあろう男が、こんな、見も知らぬ男の為
《ため》に、此処まで心乱されねばならないのだ。
男が、あの冷たいまなざしで私を見据える。
「……気安くべたべたすんじゃねえ」
乾いた声が、心に突き刺さった。
「俺ァ誰のものでもねえ。誰のものにもならねえ。死にたくなかったら、俺に近寄るんじゃねえ」
「――何者なんだ」
私は呻
《うめ》き声をあげた。私がこんなに心狂わせているのに、男の何と冷然としていることか。余りの悔しさと切なさに、知らず、涙までがにじんだ。
「何者なんだ――私にこんな、こんな信じ難
《がた》いほどに狂おしい想
《おも》いを抱
《いだ》かせるあなたは――あなたは一体――!?」
それを聞くと、男は薄笑みを浮かべた。何処までも冷ややかな、それでいて身震いしてしまうほどに魅惑的な、微笑みだった。
「……知りたけりゃ、来いよ」
「ど……何処へ来いと?」
「てめェの行こうとする所へさ。……だが、覚えとけ。俺に近付いたら、命はねえ。指一本だって俺に触
《ふ》れてみやがれ、誓って、ぶっ殺してやる。……それでも構わねェなら、来るがいいさ」
そんな言葉を残して――
男はまるで、風に溶け去るかの如
《ごと》く、その姿を消した。
ふと気付けば、男のみならず、男の乗ってきた黒い馬も、男が声かけた浪人も、姿を消している。
私は、唯ひとり萩原に取り残されていた。馬鹿のように茫
《ぼう》と、場に膝
《ひざ》突いたままで。
置き去りにされて初めて、私は、気付いた。たとえそれがどんなに冷たいまなざしであろうと、向けてもらえただけ幸せだったのだ。あの男が自分の目の前からいなくなってしまう方が余程、耐え難い。私はその場に蹲
《うずくま》り、啜
《すす》り泣いた。恐ろしい痛みに、心が張り裂けそうだった。この痛みに一生苛
《さいな》まれるくらいなら、殺されてもいいから、あの男の側
《そば》にいたい……今すぐ飛んでゆきたい……抑え切れぬ慟哭
《どうこく》が喉
《のど》を震わせ、肺腑
《はいふ》を焼いた……。
――そこで目が覚めた。
おかしなもので、あれほど強烈な夢見だった筈
《はず》なのに、何故か、夢から覚めたのだと認識した途端に、夢の中身は半
《なか》ば以上頭から抜け落ちていた。ただ、夢に見た男の容姿ばかりが、端整な容貌と氷のまなざしだけが、くっきりと、心の裡
《うち》に刻印されていた。
(……くだらぬ夢だ)
忘れてしまえばいい――そう思った。
だが、その夜、床
《とこ》に就
《つ》く前になって、私は、文机
《ふづくえ》に向かった。ゆっくりと墨を磨
《す》り、筆を執った。そして、やや暫
《しばら》く考えたが、紙の上に静かに穂先を下ろすと、一気呵成
《いっきかせい》に動かした。
心なき人を心に思ひそめこゝころみたるゝ秋の萩原
(……くだらぬ歌だ)
墨痕
《ぼっこん》を見つめ、苦い笑みを刻む。反故
《ほご》にしようか――という考えもちら
[#「ちら」に傍点]とよぎったが、思い直してそのままに置いた。詞書
《ことばがき》もないこの一首が、よもや夢に見ただけの相手を、それも、美女ならぬ美男
[#「男」に傍点]を想って詠まれたものだとは、誰も、想像すら出来まい。
それだけが、せめてもの、救いだ。
Copyright (c) 1996-2002 Mika Sadayuki
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