俺が、許婚
《いいなずけ》の──いや、正しく言えば、今し方俺は、その約束を白紙に返してきた──こと
[#「こと」に傍点]と別れ、柳町
《やなぎちょう》の試衛館
《しえいかん》道場へ戻った時には、既に日は西に沈みかけていた。
(……休暇
《きゅうか》は終わりぬ、か)
駕籠
《かご》から降り立った目に、茜色
《あかねいろ》に染まった辺りの風景が、わびしく見えた。
まだ、胸の奥に、感傷の名残
《なごり》がある。この手の中で桐の花と共に握り潰
《つぶ》した筈
《はず》の、こと
[#「こと」に傍点]の面影が、瞼
《まぶた》の裏に甦
《よみがえ》ってくる。
俺はかぶりを振った。
新選組の副長としての己に、戻らねばならない。今の俺は、隊士の募集の為
《ため》に江戸へ下ってきている身なのだ。
(……嫌な奴が付いてきてはいるがな)
忘れていたい男のことを思い出してしまい、愉快
《ゆかい》ならざる心地
《ここち》を覚える。
という訳で、俺は、自室へ戻るより先に、今一番会いたくない奴の部屋へと足を向けた。
会いたくはないが、会わねばならなかったからだ。
俺の留守
《るす》中は、そいつが隊士
│徴募
《ちょうぼ》の諸々
《もろもろ》を取り仕切った。留守を預けた身としては、礼のひとことなり、言わねばならぬ。また、留守中に変わったことがなかったかどうかも、訊
《き》かねばならぬ。
……嫌なことは、さっさと手早く済ませるに限るのだ。
「おや──今、戻られたばかりでは」
俺が姿を見せると、その男は、端麗な白面を嬉しそうに輝かせつつも、意外そうな声を発した。
伊東甲子太郎
《いとう かしたろう》。
元は深川の北辰一刀流
《ほくしんいっとうりゅう》伊東道場の主
《ぬし》で、文武に秀でた傑物
《けつぶつ》として名が知れていた。昨秋近藤さんが江戸へ下向した時に、藤堂平助
《とうどう へいすけ》の仲立ちで門弟達を引き連れて新選組に加盟。隊内での肩書こそ副長助勤
《ふくちょうじょきん》だが、そういう経歴の持ち主だけに、些
《いささ》か特別待遇されている。
……初対面の時から、何か嫌な予感のする奴だった。
何が、とハッキリ説明は出来なかったが、とにかく、何かが気に入らなかった。
そのせいで、こいつと顔を合わせると、俺は、自分でも嫌になるほど刺
《とげ》のある口の利き方をした。他の相手に対するよりもっと愛想のない、冷たく突き放すような態度になった。
普通なら、自分が嫌えば、相手も自分を嫌う。人の付き合いとは、得てしてそういうものだ。
……それなのに、こいつは……
そっけない言動を見せても一向に応えた風もなく俺に話しかけ、ちょっと油断するとすぐに、俺の心に後ろから土足で忍び込もうとしてくる。あまつさえ、最近では、とんでもない嫌がらせまで仕掛けてくるようになった。……男色の趣味などないと本人は言っているが、あれだけの嫌がらせが平気で出来るようでは、怪しいものだ。
今では、嫌いを通り越し、苦手の域
《いき》に達している相手──それが、この、俺と同い年の、伊東という男であった。
俺は表情を殺し、失礼、とだけ呟
《つぶや》いて男の斜め前に腰を下ろした。
「……留守中、先生には隊士徴募の諸々で御面倒をおかけして申し訳ない。何事もありませんでしたか」
淡々と問い掛けると、相手はにっこり笑った。
「いいえ……特段、特筆すべきことはありませんでしたよ。明日からまた宜しくお願いします」
意外なほどあっさりとした返答に、俺は内心
│拍子
《ひょうし》抜けした。留守の間会えなくて寂しかったとか何とかほざかれて絡まれるのではないかと用心していたのだが。
何はともあれ、用件は終わった。この上は、一刻も早く立ち去るが勝ちだ。うっかり長居して、また心の裡
《うち》をあれこれ探られてはたまらない。俺は「それでは」と頭を下げると、そそくさと立ち上がろうとした。
そこへ、伊東が、やんわりとした声を投げかけてきた。
「今日は、お疲れでしょう。ごゆっくり、お休みください」
……単なる挨拶
《あいさつ》とも取れたが、何かが、引っ掛かった。
だが、何が引っ掛かるのか……
考えかけて、俺はやめた。此処
《ここ》で足を止めて考えるのは愚
《ぐ》だ。今は立ち去る方が先だ。
「……痛み入る」
とだけ返し、部屋を後にする。
自分の部屋に戻って障子
《しょうじ》を閉ざすと、思わず知らず、安堵
《あんど》の息が洩
《も》れた。情けない、と思ったが、とにかく、あの手の嫌がらせだけは御免被
《ごめんこうむ》りたかった。何もされずとも、じっと意味ありげな目で見つめられるだけで、いつぞや受けた嫌がらせが思い出されてしまい、肌が粟立
《あわだ》つ思いに駆られるのだ。もし実際に何かされたら、肌が粟立つどころでは済まない。
夕餉
《ゆうげ》を済ませてから、俺は、早めに床
《とこ》に就いた。
だが、なかなか寝付けなかった。郷里でのこと、特に、こと
[#「こと」に傍点]のことがどうしても心を去らず、目が冴
《さ》えてしまっていけなかった。
夜も更
《ふ》けようとする頃
《ころ》、俺は、眠るのを諦め、起き出した。
こういう時は、何も考えずに思い切り木刀を振るうに限る。くたくたになるまで体を苛
《いじ》めれば、嫌でも眠れるようになる。
既に四月の半
《なか》ばだが、長いこと横になって潜り込んでいた布団
《ふとん》から抜け出た身には、少し肌寒かった。羽織を肩に引っ掛け、足音を忍ばせて居室から滑り出る。既に他の者は皆寝静まっているらしく、稽古場
《けいこば》へ向かう道すがら、灯
《あか》りの点
《つ》いている部屋はなかった。
(……だが)
嫌な予感がしないでもなかった。伊東の居室を立ち去る時の、あの、微妙な引っ掛かり。それがいまだに胸の何処
《どこ》かにささくれのように残っていた。確かに、伊東の居室の前を通った時、灯りはなかった。だが、果たしてそれは、既に床に就いているからだったのだろうか。もしかしたら、俺と同じように、床に入ったものの眠れずにいて、俺が通り過ぎた気配を感じて起き出した……かもしれない。
だとしたら。
必ず伊東は俺の跡をつけようとする。そして、その行先が稽古場だと知れば、必ずそのままこっそり覗
《のぞ》き見を始めるに決まっている。
あいつは、今迄
《いままで》にもしばしば、俺の稽古を覗きに来た。俺の手を知っておこうというのか、それともあいつ自身が言うように俺のことが『気になって仕様がない』からなのか、とにかく、俺が隊士達に稽古を付けていると、気味の悪いくらいに嗅
《か》ぎ付けてやってきて、声もかけずに窓から覗き見ていた。
今度もそうしないと、誰が言える。
……だが、それとなく後ろに注意を払いながら稽古場に辿
《たど》り着くまでも、ひんやりとした床に素足
《すあし》を付けながら稽古場に灯りをひとつ灯
《とも》してからも、誰かがつけてきたような気配は感じられなかった。
(杞憂
《きゆう》だったか)
苦笑しつつ羽織を脱ぎ捨てて、俺は、木刀を手に取った。
ただひたすらに木刀を振るう内に、こと
[#「こと」に傍点]のことも、伊東のことも、念頭から消え失せていた。
天然理心流
《てんねんりしんりゅう》の稽古では、木刀を多用する。立ち合いの時には軽い竹刀
《しない》も使うが、型の稽古をする時には基本的に木刀だ。重い木刀を自在
│且
《か》つ迅速に操れなくて、どうして真剣で素早い太刀捌
《たちさば》きが望めよう。
俺達が実戦に強いのは、実戦を重んじた稽古をするからだ。
道場剣法は、見た目は派手かもしれないが、実戦となるとどうか。例えば、北辰一刀流の道場師範だった伊東の奴などは、噂
《うわさ》ではかなり派手な剣を使うとかで、川向こう一の使い手と褒
《ほ》めそやされていたが……
……つと、俺は、木刀を操る手を止めた。
視線と、気配。
殊更
《ことさら》に振り向いて確かめなくても、相手は知れていた。
(……来やがったな)
いつから来ていたかは、悔しいが、わからない。つけられていたのに気付かなかったのかもしれない。ひょっとしたら、俺の行先などとうに読んでいて、俺が稽古場に入った頃を見計らって居室を出てきたのかもしれない。
……いずれにせよ、今迄気付けなかったというのは、不愉快な話ではある。
が、今の今迄気付けなかったことを相手に悟らせるのは、もっと癪
《しゃく》に障
《さわ》る話だ。
手を止めたせいか吹き出てきた額の汗を拭
《ぬぐ》った後で、俺は、振り向きもせずに声を発した。
「覗き見とは、余り良い趣味ではありませんな、伊東先生
[#「先生」に傍点]」
「……声をかけられる雰囲気ではなかっただけですよ」
わずかな間
《ま》の存在が、俺に気付かれたとは気付いていなかったことを、俺に知らしめた。
こいつとても、化け物ではないのだ。
そう思えることは、俺にとっては新鮮だった。これまではずっと、何かというとこいつに怯
《ひる》ませられてきた。だが、俺がこいつを怯ませることだって、しようと努力すれば出来ることなのではないか……
「何と言うか、見惚
《みほ》れてしまいましてね」
近くなった声に、俺は振り返った。
今宵
《こよい》は望月
《もちづき》。入口から射
《さ》し込む冴えた光が、相手の姿をくっきりと縁取
《ふちど》る。
……全く隙
《すき》のない所作で、伊東は、俺に歩み寄ってきた。
得物
《えもの》を持っているのは俺の方なのに、ゆっくりと忍び寄ってくる圧力に、打ち込んでみてやろうかという気すら起こせない。
反射的に退きたくなるのをこらえ、
「今日が初めてではないでしょう」
と言ってやる。うんと冷ややかに聞こえるだろう声で。
「稽古を覗きに来ながら、中に入ろうともしない。先生
[#「先生」に傍点]に稽古を付けていただければ感激する隊士もおりましょうに、自分の手を明かすのがそれほどお嫌ですか」
「とんでもない」
伊東は、端麗な頬
《ほお》に罪のなげな笑みを浮かべた。
「ただ、配慮しているだけですよ。他の隊士達の前であなたを叩
《たた》きのめしてしまったら、あなたの面目
《めんぼく》が潰れてしまうだろうと」
──言ってくれる。
「成程」
一瞬覚えた殺意を押し殺し、俺は低い声で応じた。
「では、折角他の隊士達もいないことですから、稽古を付けていただけますかな」
「喜んで」
伊東は、本当に心底から嬉しそうな顔をした。よっぽど俺と立ち合いたかったらしい。余りにも嬉しげな表情に、奇妙な話だが、微妙に殺意を削
《そ》がれてしまった。
木刀で叩きのめそうと思っていたが、そこまですることも、ないだろう。
それに、前々から、こいつの腕前には興味があった。噂こそ上洛
《じょうらく》前に聞いていても、その腕の程を実見したことはなかった。そして、こいつは、新選組に加盟してからというもの、稽古場でその手を見せることは全くない。他の者に手を悟られまいとしているのか、と勘繰
《かんぐ》りたくなるほどであった。
折角のこの機会、一体こいつが本当はどれほどの使い手なのか、自分の身で確かめてみるのも悪くない。
「……出来れば木刀のままで、と行きたいところですが、いきなり腕の一本もへし折ってしまっては、稽古にもなりますまい。竹刀に持ち替えましょう」
脅
《おど》し半分で投げた言葉に、伊東は、笑顔のままで平然と頷
《うなず》いた。
「わかりました。では、私はこのままの恰好
《かっこう》で。土方さんは、お好きに」
自分は防具はいらないが、俺には着けてもいいぞと言っているのだ。
かすらせもしない、と言いたいのか。
こん畜生。
「──このままで結構」
意地に懸
《か》けても、自分だけ防具を身に着けるなどというみっともない真似
《まね》が出来るか。
幾
《いく》ら軽い竹刀でも、当たり所が悪ければ大怪我は免れ得ない。危険と背中合わせの立ち合いになるとはわかっていたが、此処で引くわけには行かなかった。
竹刀を選んだ伊東と、向かい合う。
俺の平晴眼
《ひらせいがん》に対し、伊東は、ゆっくりと下段
《げだん》に構えた。
「……ひとつ、賭
《か》けをしませんか」
うっすらとした笑みと共に差し出された言葉に、俺は眉
《まゆ》をひそめた。
「賭け?」
「只
《ただ》の稽古では面白くない。……あなたに本気になってもらう為に、賭けをしたいのですよ」
……どういう意味だ。
「私が本気でないと?」
「私の見る限り、あなたの稽古は、相手の立ち回りの癖
《くせ》をつかもうとするもの。相手を斬
《き》り伏せる為の太刀捌きではない」
成程、それを「本気」ではないと言いたいわけか。
確かに、隊士達に稽古を付けてやる時の俺は、相手を斬り伏せようなどとは考えていない。長所を引き出してこそ、であって、叩きのめしてしまっては、稽古にならない。
よく見ている、と評してやるべきだろうか……。
「……どうせなら、私を叩きのめしたいのでしょう?」
微妙なかげりを帯びた笑顔で、伊東が呟く。
当たり前だ、と返すのも大人気
《おとなげ》ない。俺がむすりと黙っていると、彼は、笑みを深めた。
「嫌でも本気になれるよう、条件を付けてさしあげましょう」
──いるか、そんなもの。
流石
《さすが》に今度は、俺も抗弁の必要を覚えた。どうせロクでもない条件に決まっている。変なことを言われない内に拒絶するに如
《し》くはない。
だが、「別段条件など付けられずとも本気だ」と言い返すよりも早く、言葉の匕首
《あいくち》が喉許
《のどもと》に突き付けられた。
「あなたが負けたら、明日
《あす》の朝まで私の部屋で寝
《やす》んでもらいますよ。勿論、臥所
《ふしど》はひとつしかありませんがね」
咄嗟
《とっさ》に、言葉を失った。
こいつは、俺が負けたら一緒に寝ろ、と要求しているのだ。
冗──冗談ではない。
左の耳朶
《じだ》がぞっとざわめき、そのざわめきが総身へと波打ち走る。一気に頭に血が上り、一気に引いた。
「──だっ──誰がそんな──」
「嫌なら私に勝てばいい。簡単なこと」
完全に裏返った声で拒否しかけた俺を、くっくっという伊東の笑いが押し戻す。
「それとも、腕をへし折ると言ったのは、はったりですか? 自信がないのですか?」
畳
《たた》み掛けられ、俺は歯を食い縛った。そこまで言われて、何の言い返す言葉があろう。言い返せば言い返すほど、自信がないからだろうと嘲笑
《あざわら》われてしまう。
だが、どうにかしてその「条件」を払いのけねば、万が一にも俺が負けてしまった時に……
と、不意に伊東が、
「ああ、そうだ、私が負けたら、どうしましょうか」
何思ってか、そんなことを言い出した。
「それも決めないと、あなたも楽しみがないでしょう」
余裕、という奴だろうか。自分が負けることなどないと、高を括
《くく》っているのだろう。
が、この際、その態度に腹を立てるよりも、相手の油断に乗じる方が先だ。
「──では、私が勝ったら、今後一切、私に妙な嫌がらせをしないと約束していただく」
「ほう……」
すかさず返した言葉に、伊東は笑いとも何ともつかぬ微妙な表情を浮かべた。
「それでいいんですか?」
「いいに決まっている」
何を勿体振
《もったいぶ》って、と思いつつ吐
《は》き捨てると、相手の目がゆっくりと眇
《すが》められ、朱唇
《しゅしん》がより一層の笑いの形に歪
《ゆが》んだ。
「そうですか……当然、覚悟の上でしょうね」
「なに?」
「そんな、私にとって最も受け入れ難
《がた》い条件を呑
《の》ませてしまったら、私が手加減出来なくなってしまうということをですよ。……結構、呑みましょう。その代わり、あなたにも、私の出した条件を呑んでいただく」
──してやられた。
初めから、そう来るつもりだったのだ。俺が出す条件など承知の上で、わざと訊いてきたのだ。
だが、俺が何とか言い返すより早く、伊東は嬉しそうに宣言した。
「──さあ、おいでなさい」
つつっとわずかに退く相手に、思わず釣り込まれる。誘い込まれたと悟ったが構わず打ち込む。下手
《へた》に引いては、却
《かえ》って恰好の餌食
《えじき》だ。が、しまったと感じたことが微妙に打ち込みの手を鈍らせたらしい。あっさりかわされたと思った瞬間、胴に激しい打撃が食い込んだ。
下段の構えから胴への斬撃。
噂には聞いていた、伊東の得意の捌きだ。俺の竹刀をよけたついでのように、すり抜けざまに喰らわせてきやがったのだ。
何て──こった。
あっという間に、決められてしまうとは──
「今のは慣らしということにしておきましょう」
目の前が暗くなりながらもかろうじて踏み留まった背中を、弾み気味の声が叩く。──今のは勝負の内に入れないでおいてやろう、と言われたも同然。思わずカッとなって振り向くと、伊東は、にこやかな笑みを湛
《たた》えて下段に構え直した。
(落ち着け)
相手は、俺を怒らせて隙を引き出そうとしている。此処で何か言い返しては、余計に気が乱れる。そう何度も相手の術中
《じゅっちゅう》に嵌
《は》まってたまるか。
俺は無言で打ち込んだ。
だが、何度打ち込んでも、突きを繰り出しても、悉
《ことごと》くかわされ、流され、はねのけられた。かなりのところまで相手に迫っているという確信はあるが、ぎりぎりの部分でどうにも竹刀を当てることが出来ない。
(くそっ)
十何度目かに思い切り打ち込んだ竹刀を、伊東が鍔
《つば》で受け止める。弾
《はじ》き返され、間合
《まあい》が開
《ひら》いた。
先に構えたのは、伊東。
(──なに?)
俺は一瞬、戸惑った。彼が見せたのは、今迄の下段の構えではなく、明らかに天然理心流の平晴眼の構えだったのだ。
と思う間もなく、相手は諸手突
《もろてづ》きで踏み込んできた。
戸惑った分、対するのが遅れた。喉許に来た突きを咄嗟にかわすのが精一杯だった。
──刹那
《せつな》、首の根元に凄まじい衝撃が叩き込まれた。
たまらず床に転がった瞬間は、何が起きたのかわからなかった。だが、血振るいするかのように竹刀を払っている伊東を見た時、やっと、認識が訪れた。
こいつは、事もあろうに、俺の得意としている技、諸手突きから斬りに転じる技を使って、俺を打ち倒したのだ。
普段から稽古場での俺の立ち回りをよく見ていたからこそ、出来たのだろう。しかし、俺にしてみれば、これ以上の屈辱はなかった。自分の一の得意の技で斬り倒されるなど、あってはならないことだった。斬り倒す──そう、これが真剣なら、いや木刀でも、打ち込まれた方は確実に死んでいる筈だ。
「……これしきで参るあなたではないでしょう」
穏やか極まりない声が降る。
「三本勝負にしましょう。先に三本取った方が勝ちと、それで如何
《いかが》です」
俺は呻
《うめ》いた。完全に舐
《な》められている。──いや、いたぶられている。
が、現実に既に二本も完璧に奪われ、俺の方は相手にかすりもしていないでは、抗議も出来ない。
「勿論、さっきの慣らしは数には入れないでおいてさしあげますよ。……立てないんですか?」
物優しげだった目が、ふっと嗜虐
《しぎゃく》の微光を帯びる。
「降参したいならそう言ってくださいよ。でないと、引きずり上げてでも稽古を続けますからね」
俺にとっては勝負でも、こいつにとっては稽古に過ぎないのか。
……いや、そうではない。これも、俺を怒らせようという、こいつの手だ。乗せられてなるものか。
俺は、怒りと屈辱をこらえながら、立ち上がった。
そして、下段に構えた。
返してやる。
こいつが俺の得意の技を使ったように、俺も、こいつの得意の技で一本取ってみせる。
見たのは今さっきの一度切りだが、出来ない技ではない。
伊東の表情が、ごく微少の戸惑いを帯びる。
逃さず、俺は踏み込んだ。
胴へ斬り込んだ竹刀は、寸前で止められ、払いのけられた。
伊東が、口許
《くちもと》を綻
《ほころ》ばせながら下段に構え直す。──それまでの余裕の笑みとは異なる、反撃されたことが嬉しくて仕方ないかのような笑み。
詰まるところ、こいつは、俺がどう出ても、楽しんでしまうわけか。
ならば、へこませてやろうと思っても、徒労だ。
余計なことを考えて力んでいては、手もなくあしらわれて終わりだ。
俺は、構えもせずに、脛
《すね》目掛けて打ち込んだ。
破れかぶれに近かった。
逆にそこに活路を見出
《みいだ》せるかもしれないと、なりふり構わず突っ込んだ。
だが、あっさりとすくい上げられ、押し返された。負けじと押し返すと、ひょいと外された。
小手にビシリと衝撃が来る。
……なりふり構わなさ過ぎても、あしらわれて終わりか。
「今のは浅いですかね。数に入れないでおきますか」
『あなたが負けたら、明日の朝まで私の部屋で寝んでもらいますよ』
楽しげな声が甦り、俺は呻いた。
「……入れていただいて結構」
「あと一本になりますが、構いませんか?」
うっすらとした妖美な笑みが、月明かりに映える。
身震いを抑え、即答した。
「結構」
もはや、一本もやれない。
約束は約束だ。武士に二言なし。負ければ、俺は、明日の朝まで相手の部屋で……
(……待て)
一瞬、何かが脳裡
《のうり》に引っ掛かった。
伊東の言葉を素早く思い返す。
『あなたが負けたら、明日の朝まで私の部屋で寝んでもらいますよ』
負ければ……明日の朝まで……相手の部屋で……寝なければならない……
(──それだ!)
見付けた。
仮に負けたとしても、約束を違
《たが》えることなく、相手から逃れる術
《すべ》を。
その為には、絶対に相手を、気死
《きし》させるほどに叩きのめさねばならない。
勝てなくてもいい。
相手を失神させることさえ出来ればいいのだ。
とはいえ、この相手を失神させるなど──殺すつもりでかからねば、無理かもしれない。
(……いいだろう)
殺すつもりで、やってやる。
俺
│如
《ごと》きに竹刀でぶち殺されるような相手でもあるまい。
俺は、平晴眼に構えた。
伊東は、下段。
打ち込んでは、こない。元々下段の構えというのは守りの構えだが、今迄以上に慎重に間合を測っている。半眼
《はんがん》に眇めた目で、俺の動きを読もうとしている。
打ち込めば、返されるだろう。
だが──
俺は、相手の小手に軽く打ち込んだ。
相手の反応は迅速だった。俺の浅い打ち込みを、踏み込み、はね上げた。はね上げざまに、打ってきた。
が、それは俺の予測の範疇
《はんちゅう》だった。
と言うより、狙い通りの反応だった。
予測出来た打ち込みを外すのは容易
《たやす》かった。わずかに身をひねっただけで、相手の竹刀は俺の肩先をかすりもせず、宙を切った。
はね上げてもらっていた竹刀を、間髪
《かんはつ》容
《い》れず、袈裟
《けさ》に入れる。
相手は二、三歩後ろに下がったが、踏み止
《とど》まった。
俺は突いた。相手の表情など、確かめもしなかった。確かめるより先に、次の手を繰り出していた。喉許を狙った突きがかわされた刹那、長年染み付いた動きが、考えるより先に出た。
払った。
手応えが来る直前、胴に殴撃
《おうげき》が来た。三本目。だが俺は構わなかった。こいつを失神させるまでは、絶対に手を止めるわけにはいかない。
相手の首筋に叩き付けた竹刀を、素早く引く。
──空いている。
立て続けの斬撃に大きくふらついた相手の懐
《ふところ》が、完全に。
狙いすまして、諸手突きを鳩尾
《みぞおち》に叩き込んだ。
手加減、なしで。
稽古場の床に崩
《くず》れ落ちた相手を見下ろして、俺はようやく、ほっと息をついた。
こいつとても、化け物ではないのだ。
改めて、そんなことを思う。
緊張がゆっくりと解けてきて、相手に打たれた箇所
《かしょ》が鈍く痛み始めた。……殆
《ほとん》どが、真剣なら致命傷になる部位ばかり。
(負けは負け……)
不本意ながら、認めざるを得なかった。こいつの腕は、今の俺より、甘めに見ても、わずかながら勝
《まさ》っている。そのわずかの差と、俺の側の気持ちの乱れとが、負けにつながったのだ。
(……約束は約束)
俺は、自分と相手の竹刀を片付けると、羽織を肩に掛け、灯
《ひ》を消し、稽古場の外へ出た。
冴えた月は、まだ西の空にある。
夜明けまでは、あと一時
《いっとき》と半、いや二時
《にとき》ばかりだろうか。
体の火照
《ほて》りが治まりつつある身に、空気が少し冷たく感じられた。
歩き出そうとした足が、ふと、止まった。
(……あいつも、汗ぐらい、かいた筈じゃねえか……)
ちょっと考えた後で、稽古場に引き返す。わざわざ失神させたのだから起こしてやる気は毛頭
《もうとう》ないが、かと言ってあのまま吹き曝
《さら》しの床っぺたに放
《ほう》っておくのも酷
《こく》な気がしたし、それ以前に、汗が冷える寒さのせいで早くに目を覚ましてくれては困る。
俺は、崩れ伏したまま動かない伊東の許
《もと》へ戻ると、自分の肩に引っ掛けていた羽織を、起こしてしまわぬよう、静かに、彼の体に掛けた。
射し込む月明かりに照らされた、苦痛の色のまるで窺
《うかが》えない寝顔──この表現は不正確な気もするが──を暫
《しばら》く見下ろした後で、くるりと背を向ける。
(……折角気を遣
《つか》ってやったんだ、せめて、夜明けまではそこで寝てろよ)
心中
《しんちゅう》に呟いて、俺は、稽古場を後にした。
伊東に割り当てられている居室には、夜具
《やぐ》も敷
《し》かれていなかった。
恐らく、最初から、俺が稽古場へ行くことを予想して、寝ずに待っていたのだろう。
俺は、障子を閉ざしながら、小さな息をついた。
(何だって、男相手に、そんなに熱心になれるんだかな……)
芹沢のことを、ふと思う。彼は、想いを告げる時には些か強引な真似もしてきたが、それからは殆ど全くと言っていいほど、俺に“危害”を加えてくることはなかった。俺を脅
《おびや》かすまいと、してくれた。だが、そんな彼でさえ、俺は、受け入れることが出来なかった。
いわんや、伊東をや。
……俺は勝手に夜具を持ち出し、床を延べると、さっさと潜り込んだ。
この部屋で、朝まで寝る為に。
それが、俺が負けた時の約束だったから。
そう──あいつは、自分の部屋で寝てもらうとは確かに言ったが、自分と一緒に寝ろとは、ひとっことも言っていない。
それに気付いたからこそ、俺は、何が何でも相手を失神させようと狙ったのだ。この部屋で寝る羽目になっても、あいつが一緒ではないという状況を作りたかったが為に。
だが、いざ床に就いてみると、情けなくも、いつ相手が目を覚まして戻ってくるかが気になって、なかなか寝付けなかった。
眠り込んでしまって、もしそこへ相手が戻ってきたら……想像するだに恐ろしい。
そんな次第で、うとうと、とろとろと微睡
《まどろ》みかけては、かすかな物音に目を覚ます、結局その繰り返しの内に、障子の向こう側がぼんやりと白
《しら》み始めた。
(……そろそろ、退散するか)
約束は朝までということだったが、外が明るくなってくれば、もう義理は果たしただろう。
俺は夜具から抜け出し、ぱたぱたと畳んでまとめた。ただ、完全に仕舞ってしまうのは、やめておいた。俺がちゃんと約束通りに此処へ寝に来ていたことを伊東の奴が察することが出来るようにしておかなければ、意味がない。
辺りを見回し、万が一にも忘れ物がないかどうかを確認してから、障子を引き開ける。
早朝の冷気が、布団の温もりに守られて些かぼんやりと緩んでいた肌を、素早く引き締めた。
(夏はまだ名のみ……薄着だと、明け方は少し寒いな)
廊下に足を踏み出し、歩き出そうとした俺は、ふと、視界の端
《はし》に引っ掛かった人影に足を止めた。
──伊東が、あ然とした表情で立っていた。
全身に、何故
《なぜ》俺がこの部屋から出てきたのかという驚きが、ありありと出ていた。
いつもは何を考えているか知れない薄笑いを浮かべて俺を見る彼が、己の心の動きを隠さず表に出してしまっている。そんな様子の彼は珍しく、意外にも思われたが、そう思ったことを面
《おもて》に表わすのは控えた。相手に関心を持った素振
《そぶ》りを迂闊
《うかつ》に見せては、すぐにつけ込まれてしまう。
「……負けは負けだったから、約束は果たしたからな」
ついと顔をそむけ、そっぽを向いたままで、俺は、この部屋から出てきた理由を相手に告げた。無言で立ち去るより、此処で説明してから去る方が後々に引きずらず、面倒がなくていい。
──そう、嫌なことは、さっさと手早く済ませるに限るのだ。
伊東は、怪訝
《けげん》そうな呟きを洩らした。
「約束……」
一瞬置いて、静かな苦笑が漂ってくる。
「……確かに……私と一緒に、とは言いませんでしたね……」
殆ど即座に俺の意図
《いと》を悟ったような答が返ってくる辺り、やはり馬鹿ではない。ただ、こいつの場合、わかっているくせに「どういう意味です?」などとわざと問い掛けてくることの方が多い。それがないとは、今朝はまた随分とおとなしく素直なものだ……
……もしかすると、自分が勝ったとは思えないでいるのかもしれない。
三本先取したとはいえ、落とされたのだ。余り恰好のいい勝利でないことだけは確かである。伊東の態度がいつもと多少違っているのは、存外、俺に勝ち切れなかったということが引っかかっているせいなのかもしれない。
だが、俺の負けは事実だ。
そのことは、俺自身が一番、痛感している。
「……てめえの腕の程は、よっくわかった。二度と、あんな賭けはしねえ」
低く吐き捨てると、「残念ですね」という嘆息混じりの声が返ってきた。
「でも、私も二度とあなたに、立ち合えと迫ったりはしませんよ」
意外な台詞
《せりふ》に思わず振り返った俺の目に、伊東が差し出した物が映る。──俺の掛けてやった羽織だった。
「……お返しします。有難う」
淡々と礼を口にした伊東の穏やかな、それでいて寂しげな表情を見た時、ぼんやりと、わかった気がした。どうして今朝のこいつが、妙におとなしく素直に見えるのか。
強
《し》いて言葉にするなら……控えめな……痛いような嬉しさに打ちのめされているような……
……だが、感じたことを巧
《うま》くまとめることは出来なかった。
俺は黙って羽織を受け取ると、黙って会釈
《えしゃく》した。
そして、黙って、相手に背を向けた。
元治
《げんじ》から慶応と改められて間もない夏が、まだ、始まったばかりであった。
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