柔らかく温かく、それでいて澄み切った、金とも銀ともつかぬ輝き。
 春のあの朧に霞んだ月の、その只中に佇んでいるような。
 地獄の闇に落ちた筈の意識が、そんなところ[#「ところ」に傍点]をゆったりと漂っているのに気付いたのは、一体、どれだけ経ってからのことだったのだろう。
 余りにも心地かったので、自分がそこにいるということすら長い間覚え得なかったようだ。
 辺りを見回そうとして、見回すべき目どころか体そのものを喪っていたことに気付く。
 そうだった……俺は、死んでしまったのだ。戦場で狙撃され、腹を撃ち抜かれて。
 だが、今、此処に、俺は、いる。
 その思いだけは、疑う余地もないほどにハッキリとあった。
 俺は此処にいる。
 しかし……此処は何処なのだろう。地獄だとは思えないから、極楽浄土だろうか。俺は、極楽浄土に行けるような生き方をしてきたとは思わないのだが。
 そんなことを考えた時だった。
 ――どちらでも ない――
 俺を取り巻く輝きが物を言った、ような気がした。
 いや、言ったのかどうか。何しろ、今の俺には、声を聞くべき耳がない。ただ、目がなくとも己を取り巻く輝きを輝きだとわかる[#「わかる」に傍点]ように、耳がなくとも、その輝きが「どちらでもない」と伝えてきたことはわかった。
 ……待てよ。
 それ以前に、俺は、疑問を声に出していない。出そうにも口がない。なのに、この輝きは、俺の疑問に答えた。この輝きは、俺の心を読めるのか。
 ――きみが こたえを もとめた――
 また、穏やかないらえ[#「いらえ」に傍点]があった。
 ――わたしは その ことばを うけとった だけ――
 どういうことなのか、と考える必要はなかった。どう表現すべきか……言葉として認識した答の他にも、言葉にならない言葉が伝わってきて、要するに……わかってしまったからだ。
 この輝きは、俺が答えてほしいと思った時にだけ、俺の、声に出せぬ問を汲み取ってくれている。それ以外の、例えば俺が知られたくないなと感じるような思考は、たとえ伝わってきたとしても決して触れず、ただ見守る。少なくとも、今の俺に対しては、そうしようという心遣いを持っている。
 そしてもうひとつ、俺は悟った。
 此処は、場所ではない。強いて言うなら、他の誰かの魂の中……だ。死んでしまった俺の魂は、地獄でも極楽でもない此処に抱《いだ》き取られて、しばし微睡み、再生の時を待っていたのだ……
 再生?
 俺は、わかってしまった言葉に吃驚した。再生とは何だ。確かにくたばった筈のこの俺が、息を吹き返すというのか。
 ――げっせきの たみ と して うまれかわるのだよ――
 月石――そういう漢字が浮かんだ――という言葉は初耳だった。
 月石の民。
 一体何なんだ、それは。
 普通の“人”とは違うのか。
 ――それは こうけんやく から きくが よい――
 後見役?
 問いかけようとした時、俺の意識は何かにぐいと引きずり出されるような感覚に捕われた。
 俺はぼんやりと、目をしばたいた[#「目をしばたいた」に傍点]
(暗い……)
 先刻まで周囲にあった輝きは、もはや俺の周りにはなかった。
 目が少しずつ馴れてきて、薄暗いそこが、粗末ながら小屋か何かのような場所だとわかった。俺はそこに、薄い布団を掛けられて横たわっていた。
(……再生)
 どうやら……本当に、息を吹き返してしまったらしい。
 味噌汁の匂いがした。
 と同時にぐううと腹が鳴り、俺は我知らず赤面した。目覚めたら早速腹が減っているというのか。何とも、度し難い体である。あれだけの傷を負ったというのに……
 ……待て。
 傷の痛みが感じられない。以前足指先を吹っ飛ばされた時にはいつまでもしつこく痛んだのに、ほんのひと眠りの間に痛みが取れてしまっている。訝しく思いながら、恐る恐る傷に手を当てた。服地のごわごわした感触を探り、確かこの辺だったと思う辺りに指を這わせてみた。
 全く痛まない。
 俺はそろそろと身を起こすと、掛けられていた布団をはぐって、傷の在所を求めた。真っ先に、朱に染まった己の衣服が目に焼きついた。御丁寧に、銃弾が通ったと思しき小さな穴まで見えた。確かに、撃たれたのだ。この穴と、明らかに血に染まった服を見れば、あれが夢でも何でもなかったことはわかる。だが、服地と下帯を押しのけてみた俺が見たのは、傷痕ひとつない自分の土手っ腹だった。
 まず考えたのは、“ほんのひと眠り”だと思ったのが、実は恐ろしく長い時間だったのではないか、ということだった。次に考えたのは、あの心地好い輝きが、不可思議な力で傷を癒してくれたのではないか、ということだった。
 多分、後者だろうな、と俺は、何の根拠もなく思った。俺を生き返らせたのみならず、傷痕まで消してしまったのだろう。そのぐらいの力はありそうな、そんな輝きだった。
 それにしても……
 俺は改めて自分の恰好を見直した。息を引き取った時と同じ恰好だ。無論洋装、違いはといえば、腰の物《かたな》がないこと程度だろうか。……強いて言えば。全体に汚れて見える。あちこちに土塊がくっついているが、これは何処で付いたものなのだろう。
 また、腹が鳴った。
 味噌汁の香りのせいだ。俺は、囲炉裏の上の鍋を見やった。匂いの源は多分あれだ。別段盗み食いをしようなどという意地汚い考えはないが、この空腹では気にならない筈もない。俺はそちらの方へ身を乗り出し、鍋の中身を覗き込もうとした。
 その時、背後でガタタと戸の引き開けられる音がした。
 俺は慌てて振り返った。
 戸を開けて入ってきたのは、ひとりの男であった。逆光でよくわからないが、着衣は町人風、刀を携えているようではない。だが、咄嗟に身構えてしまったのは、相手に士分の者の臭いを感じたからだ。
 男は、俺が身を起こしているのを見ると、ちょっと動きを止めた。
「……目を覚ましていたのか」
 特段驚いた風もない声が、耳に届く。
 心臓がビクリと跳ねた。
 まさか。
 男が戸を閉め、元の薄暗さが戻る。
 土間から上がってくる男の顔が、はっきりと目に映った。
「い……」
 不覚にも、俺はその場に凍りついた。信じられない相手を見た驚愕に、出かかった声が喉に絡まった。
「……伊東……!?」
 かすれ切った呼びかけに、相手はちらっと俺の顔を見下ろし、ごくかすかな笑みを浮かべた。
 しかし、それ以上には何の反応も示さず、俺の傍らを回って囲炉裏の斜向かいにしゃがみ込むと、下げられている鍋の中身を軽く掻き回し始めた。
 またもや、ぐう、と胃が動いた。
 男は顔を上げ、俺を見た。
「食べるか?」
 淡々とした問いかけに、俺は一瞬ためらった。
 もしもこの、総髪をきちんと束ねた目の前の男が、俺たちがかつて騙し討ちに等しいやり方で殺させた男と同一人物だとしたら――俺が生き返ってしまうことがあったぐらいだ、あの男が生き返っていたとて、何の不思議があろう――俺を恨みに思っていない筈がない。毒の一杯や二杯、盛られてもおかしくはないのではあるまいか。
 だが、俺は結局いた。たとえそうだとしても、俺には文句を垂れる筋合はない。
 男は軽く微笑むと、木の器に鍋の中の汁をよそって、俺の前に置いた。箸も付けてくれる。俺は「忝ない」と呟くように礼を言い、両手を合わせてから、箸と器を手に取った。赤みの強い汁の中に、野菜や魚をぶつ切りにしたらしい具が所狭しとひしめいていた。ひと口る。少し辛かったが、喉から体じゅうに沁み渡るほど美味かった。
「……申し遅れたが」
 ほっとひと息洩らしたところへ、男の声が入る。
「私はズーグリャン。今回、石から頼まれて、不本意ながら君の後見役を務めることになった。暫くは嫌でも一緒に暮らすことになるが、了承してもらいたい」
「ズー……何だって?」
 俺は戸惑った。最初の音がよくわからない。“ズ”なのか“ツ”なのか“ジュ”なのか、どうとも取れる、奇妙な音。
 男はふっと笑った。
「そうか、この国の言葉にはない発音だから、君には難しかったか」
 飯櫃から飯をよそって置いてくれながら、そんなことを言う。
「では、字《あざな》のコンミン、これなら君にも発音出来る範囲だろう」
「コンミン……」
「発音と抑揚が違うな。“コン”はもっと息を強く吐き出すように、それから“コン”も“ミン”も尻上がり気味の抑揚を持つ音だ。……とはいえ、この国の者には難しいだろうからね。君が呼び易いように呼んでくれて構わない」
「……あんた、異国の人なのか」
「元はね」
 コンミンと名乗った男は、自分の飯と味噌汁をよそい、両手を合わせた。
「だが、もう三百年はこの国で暮らしているから、言葉に不自由はしていないよ」
 三百年? 俺はまじまじと相手を見つめた。聞き間違いだろうか。どう見ても俺と同い年程度にしか見えない――伊東は俺と同年の生まれだった――相手が、三百年この国で暮らしていると?
「……目を覚ます前に、石と話はしただろう?」
「石?」
「何か[#「何か」に傍点]と言葉を交わさなかったか? 月石の民として生まれ変わるについて」
 言われて、俺は思い出した。月石の民。あの不思議な輝きが、その言葉を伝えた。それは何だ、と訊くと、後見役から聞けと……
 ……ああ、そうか。後見役。こいつは、俺の後見役を務めると言った。ならば、わからないことはこいつに訊けば良いということだ。
「……それは聞いた。だが、月石の民ってのが何なのか、それは後見役に訊けと言われた」
「ふむ。……では、ひとまず食事を済ませよう。話はそれからだ」
 そう言って、伊東甲子太郎《いとう かしたろう》と同じ顔と声の男コンミンは、行儀良く、静かに味噌汁を啜った。



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