「……これは、オーブルーに着く前に、此処で一戦えることになりそうですね」
 タリー・ロファは、やっと設営出来た近衛隊長用天幕の中でクァイ水を啜りながら、ほっと息をつくような口調で言った。
 マーナ軍を率いるロブスト・クエンナ三等将官は、昼夜を分かたぬ急行軍を続け、カクタス樹海の南西に広がるベリタスの野まで来た所で、ようやく陣を敷いたのである。
「そっちの方が百倍いいに決まってるから、予定変更で此処に腰を据えたんだろ」
 ノーマン・ノーラは鼻を鳴らした。
「下手にオーブルーで市街戦にでもなってみろ、町も荒れるし、最悪じゃないか」
「確かに。……レーナ軍は、明日には姿を見せるでしょうかね」
「後ろからスクラの兵が追い掛けてきてるから、その前にこっちを潰さんと逆に自分達が危ないってんで、一気に来るだろうさ」
「でしょうねえ。今の我々は、本来なら二十万は居る筈の兵力を分けている状態ですから、潰し易いように見えるでしょうし」
「ふん、そう簡単に行くかよ。向こうが舐めて掛かるなら、マーナの“|黒の部隊《ディーリー・ナーナ》”の恐ろしさを教えてやる」
「……そこで『俺の恐ろしさを教えてやる』じゃない辺り、昔よりは謙虚になりましたね、隊長」
 軽口を叩いたタリーは、クァイを飲み干すと、腰を上げた。
「そろそろ私の方の天幕も設営が終わっていると思いますので、戻りますよ。……あ、そうだ、ひとつ伝えそびれてました、ベルマンの奴なんですが」
「ん? ベルマンがどうかしたのか」
「昨日、ぽろっと洩らしたところによると、遂に、リリア嬢に結婚を申し込むんだそうです。この戦から帰ったら大事な話があると伝えてきたと」
「なに!?」
 ノーマンは驚きの表情でタリーを見遣った。ベルマン・ティナ・ミル一等近衛は、第二中隊の中隊長で、ノーマンから見れば一年後輩。タリーとは取り分け仲の好い同期でもある。
「あいつが? 本当か?」
「ええ。顔を真っ赤にして照れ捲ってましたから、先方の御家族にはともかく、本人には承諾してもらえる見通しがあるんでしょう。私としては、ベルマンが今迄この話を周囲に黙っていられたことの方が驚きです。……まあ、何か話したそうにしているなあとは感じていましたが、こっちも軍議に参加する方が優先でしたしね」
「そいつは何よりだ。都《デラビダ》に帰ったら、とっとと言ってこいと尻を叩いてやらんとな」
 心底しそうに笑ったノーマンは、つと首をかしげた。
「しかし、何年だ? 俺が結婚した時、確か、もう何年もの付き合いだったよな?」
「あの頃は、付き合っていると言うより舞踏会の時に屋敷まで送らせてもらえる程度の仲で、そもそも先方の御両親が好《い》い顔をなさっていませんでしたからねえ。家柄が釣り合わないということで」
「ええ? まさか今でもそれで付き合いを邪魔されてるのか?」
「らしいですよ。以前に酒の席でナイルスとふたり掛かりで吐かせたところによれば、昨年の夏に口づけまでは何とか行ったらしいんですが、それ以上は流石に親に隠れては出来ないってんで、まだなんだそうです」
「はああ? 去年やっと口づけだと? なにモタモタしてんだ、あの馬鹿は」
「あいつもねえ、喧嘩の手は早いくせに、本命女性に対してだけは奥手もいいところですからねえ。……まあ、下手に近衛兵、しかも中隊長などやっていると、全てを投げ出して駆け落ちすることも出来ない。だから辛抱強く我慢してるんだと思います。他のことでは短気なのに、この件では呆れるくらい根性がありますよ、ベルマンの奴。諦めが悪いとも言いますが」
「しかしアスデル家も大概だな。貴族ったって、末端の季位爵《きいしゃく》じゃないか。三十歳でマーナ近衛隊の中隊長になったほどの男を捉まえて、未だに家格がどうのと寝言を言ってやがるのか。マーナ近衛隊の歴史の中でも、三十歳以下で中隊長になった奴なんて、俺とお前を含めても十人ぐらいしか居やしないぞ」
「……まあ、ぶつぶつ文句を言っている先方の御両親も、娘が頑として他家《よそ》からの縁談を受け入れないので、そろそろ諦めてくださるんじゃないですかね。幾ら十歳年下でも、ベルマンが今年三十二ということは、あれ[#「あれ」に傍点]ですし」
 苦笑するタリーに、ノーマンも複雑な笑みを浮かべた。
「完璧に“嫁《い》き遅れ”扱いされる年齢になってるもんなあ……」
「ですねえ、しかも、跡取りのひとり娘ならまだしも、末の四女ですしね。……どうせなら、『大事な話がある』じゃなくて結婚そのものを申し込んでくれば良かったのにと思いましたけど、ナイルスに言わせると『そりゃ逆に縁起が悪いし、第一、仮に断わられたら戦どころじゃなくなるだろ、気分的に』だそうで」
 タリーは肩を竦めた。
「まあ確かに、武人にとって『この戦から帰ったら結婚してくれ』は悪縁起に繋がるとも言われますけど」
「ベルマンの奴はそれでいいとして、お前はどうなんだ、タリー」
「はい?」
 思わぬことを訊かれたという表情になるタリーに向け、ノーマンは真顔で続けた。
「お前だってもう三十二になってるんだろう。結婚する気はないと昔っから言ってるのは知ってるが、せめて惚れた女ぐらい居ないのか」
「……私の女性に対する好みは、かなり風変わりで、我儘贅沢だと自覚してますからね。なかなか難しいですよ」
 タリーは、苦笑とも苦渋ともつかぬ、仄かな笑みにも似た表情を浮かべた。
「相変わらずあれか、自分を負かすような女じゃないと好き心を動かされんって奴か」
「……そんなこと、言いましたっけ?」
「言ったじゃないか。俺がマリの奴との結婚を控えてた頃に。自分が不覚を取るような腕前の女に会ってみたいって」
「あのう……『会ってみたい』と『好みだ』には、随分と開きがある気がするんですが」
「じゃあ、どんな女が好みなんだ?」
「どなたかを紹介しようと考えておいでなら、御遠慮しますよ」
「なに先回りしてやがる」
 ノーマンは覚えず苦笑した。
「お前が結婚したがってないことぐらい、よく知ってる。何年の付き合いだ」
「だったら別に無理に訊かなくても良さそうなものですけど」
「デフィラ・セドリック嬢辺りは、いい線行ってたんじゃないか?その昔、俺より先に、自分から声掛けてたぐらいだし」
「……もう、いつまで根に持ってるんですか、先輩
 タリーは嘆息気味に肩を落とす。
「まあ、今だから白状しますが、好みには近かったです。武術の力量は無論人に勝《すぐ》れておいででしたし、頭の回転の速い賢女でもいらっしゃいましたし。ただ、先輩にとって大事な方だというのを知っている身で、自分から声を掛けようなんて大それた気持ちは」
「今更だから別に怒りもせん。色んな奴から惚れられて当然の、佳《い》い女だったんだ」
 ノーマンは小さく鼻を鳴らし、座り直せと相手に指で示した。
「大体、恋なんてのは、しようと思ってするもんじゃない。したくなくても、落ちるものなんだ。落ちちまったら、義理や柵《しがらみ》も役に立たなくなる。お前がその程度の理屈で踏み止《とど》まれたってことは、彼女は、お前の理性を吹っ飛ばすほどの相手じゃなかったってことだ」
「……いえ、向こうから誘われたら理性が役に立たなくなった程度には、好もしく思っていました」
「は?」
 予想外の相槌に、ノーマンは思わず目を見開いた。
「ちょっ……ちょっと待て、そ、そいつは、自分から声を掛ける気はなかったが彼女から掛けられた時には応じた、って意味か!?」
「ええ、仕舞まで行ったわけじゃないですけど」
 タリーは苦笑気味に肯定した。
「端折《はしょ》って、結果だけを言えば、そういうことです。自分の心の中に、相手から此処まで明白に求められるなら仕方ない、という狡い気持ちが生じたのは確かです。相手が普段よりも深酒をしていて、理性が恐ろしく緩んだ上での所為だと承知していたのに、それを諫めようともせずに付け込んだ……そうと詰られても反論は出来ません。自分の弱さ脆さを思い知った一夜でした。……もう、何だか遙かに遠い昔の出来事のようです。私が二十七の時、あの方が亡くなったカルゲニアの戦より少し前のことでしたから、まだ十年と経ってない筈なんですが」
「……ったく、油断も隙もありゃしないな、この色男」
 ノーマンは僅かに口を尖らせた後で、何処かしらホッとしたような苦笑いを唇に刻んだ。
「何となく安心したぞ。お前も、聖人君子じゃなかったってことか」
「ええっ? そもそも誰が聖人君子なんですか。誤解してませんか、私のことを」
「いや、同性異性を問わず、そっちの[#「そっちの」に傍点]方面には淡泊な奴だと思ってたからな」
「淡泊と言うよりは、誰かに執着を持つことが好きになれないんですよ」
 タリーの表情は茫漠《ぼうばく》として見えた。
「こっちが好いたところで、相手にだって、事情や気持ちというものがあるわけですし」
「よくわからん理屈だな。誰かを好きになって、そいつがこっちを向いてなかったら、振り向いてもらう為に口説くもんだろ」
「そんな単純に片付くものじゃないですよ。……まあ、そういう訳で、好みなど語っても虚しいと思ってます。何の未来もないですし」
 ノーマンは、その言葉と、相手の見せた苦渋に彩られた苦笑とに、奇妙に引っ掛かるものを覚えた。
 何が、とは言えないが、何かが……
 しかし、それを咄嗟に言葉に出来ない内に、相手は再び腰を上げた。
「では、そろそろ失礼します。おやすみなさい、隊長」
「ああ……また明日な」
 天幕を出てゆくタリーの背中を見送った後で、ようやくノーマンは、自分の感じた引っ掛かりを表現する言葉を見付けた。
(……まさか、居るのか、あいつ)
 当のタリー自身が自分で明確に意識して発言しているのかどうかはわからない。だが、今迄この手の話をする時には単に「誰とも結婚する意思はない」とか「そういう人に会ってみたいと思う」とか、或る意味漠然とした発言をするだけだった筈の彼が、初めて「語っても虚しい」とか「何の未来もない」とかいう言葉を口にした。相手の側にも事情や気持ちがある、語ったところで虚しい、何の未来もない……それは、裏を返せば、具体的な誰かしらの姿が目の前に見えていて、その上で諦めているということではないだろうか……。



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