夏が終わろうとしている。
 マーナの都デラビダのシータ地区にある小さな屋敷の主がその日遠駆けから戻ると、ひとりの下男が玄関広間で待っていた。
「お帰りなさいませ」
「どうした、リオード」
 彼が声を掛けると、まだ二十代ばと思しき細い目の下男は、軽く頭を下げた。
「ケーデル様、グライン・マーリが先程戻りました。御報告に遣りましょうか」
 下男──否、それは仮の姿であり、その実は彼ケーデル・サート・フェグラムが個人的に抱えているジャナドゥ隊の隊長である、リオード・エフィラ・ボーグ──の言葉に、彼は「そうだな」と頷いた。
「着替えの済んだ頃に寄越してもらおうか」
「かしこまりました」
「ああ、ちょっと待て、リオード」
「はい」
「誰でも良いから、冷やしたクァイを二杯、同じ頃に運ばせてくれ」
「かしこまりました。他には何かございましょうか」
「いや、今のところはない」
 ケーデルは、そう応じて歩み去った。
 自室に戻って三分ほど経ったところで、扉を叩く音がした。彼が誰何の後に入室を許すと、すらりとした少年のような体にジャナドゥ装束を纏った人物が、クァイ水──基本、水に柑橘の絞り汁を垂らして作る清涼飲料水──の杯を乗せた盆を携えて現われた。無論、主の前で顔を隠す必要はない為、ジャナドゥ頭巾までは被《かぶ》っていなかったが。
「何だ、まだ着替えていなかったのか?」
 その姿を見て、ケーデルは少し驚いた顔になった。彼女、グライン・ミルドラ・マーリは、室内の中央にある円卓の上に盆を置いて、席に着いた主の前にクァイを勧めると、三歩退いて跪いた。
「御報告を済ませるまでは、任務は完了しておりません」
「だからか? そんなものかな。……まあ、それでは早速聞こう。ただ、そうやって跪いたままで長話をされたのでは、見ている私の方が気詰まりだ。お前もそこに座って、先に喉を湿せ。そちらの一杯はお前の為に支度させた杯だ」
 先月、ケーデルは、このグラインをレーナの王都シャーラミディアへ送り、動静を探らせていたのであった。
 開け放った窓から流れ込む夕風が涼しい。
 やがて、時告げの絡繰りの時針が半回りを要したほど長い報告を、時折質問を交えながら聞き終えたケーデルは、ゆっくりと、すっかり常温になってしまった生温いクァイを飲み干した。
「……では、レーナ王は結局、ラードではなく、ニージアの方に力を入れるということか」
「はい、徒《いたずら》に惑わされるのは愚かしいと──予てからの思惑通り、ニージアの水軍を鍛えたいと」
「ふむ……確かにレーナの水軍は、マーナの水軍と比べると貧弱極まりない。レーナは領土内に海と大河を得たのが今のリュウ・シェンブルグの代からで、マーナとは歴史が違い過ぎるからな。仕方がないところはある」
 ケーデルは小さな苦笑いを浮かべたが、その笑みはすぐに消えた。
「だが、だからと言って現状のまま放置していたのでは、いずれマーナから海路で攻め込まれないとも限らない。そうなる前に、海に面した町に防衛の拠点を築いておこうとするのは、賢い選択ではある。……勿論、今回の私の思惑を阻止することは出来ないとしても、それでも長い目で見れば、と考えたのだろう」
 ケーデルは暫く口を閉ざし、このところ頓《とみ》に早くなった夕空の方に目を投げていた。
「……グライン」
「はい」
「お前がレーナ王なら、やはりそうするか?」
 問われて、グライン・マーリは戸惑ったように顔を上げたが、正面に座るケーデルが戻してきた目にぶつかると、慌てたように下を向いた。
「どうだ?」
「え、あ、はい……」
「遠慮するな。私から訊かれたら、思ったままを答えろ」
「は、はい」
 グラインはそれでも暫くは顔を上げなかった。ケーデルは、黙って待った。
「……それよりも先に、他の所に手を打ちます」
 暫しの後、躊躇《ためら》いがちに、グラインは口を開いた。
「他の所?」
「はい……マーナとの国境沿いにあって、レーナにとっては最も大事な町の守りを固めます」
「最も大事な町」
「はい……そう申し上げて拙《まず》ければ、マーナに取られては困るからこそ苦労して手にした町です」
 ケーデルは二度ぱちぱちと瞬《まばた》くと、溜め息をついて苦笑した。
「そうか。わかった。……やれやれ、何ということだ」
「……え?」
「グラインがレーナ王でなくて良かった」
 若干おどけたような口調で言い、再び窓の方を見遣る。
「あの……?」
「参った。降参だ。お前が考えた通りのことを、私は目論んでいるのだ」
 グラインは色白の頬を赤らめた。
「然様でございましたか……」
「誰にも内緒だぞ、と言っても、その内に皆にもわかることだがな」
「ケーデル様が良いと仰せになる時まで、誰にも申しません」
 無言で頷いたケーデルは、席を立ち、窓辺に寄った。そして、肩越しにグラインを振り返った。
「御苦労だった。退《さ》がって良い」
「はい……」
 はいと返事をしておきながら、しかし、グラインは何故か席を立とうとしない。ケーデルは訝しげに目を細めた。
「どうした。まだ他に報告があるのか」
「は……あの……」
 グラインは発言をひどく躊躇しているように見える。ケーデルはいよいよ訝りを深め、もう一度問を発しようとした。だが、その時ようやく相手は顔を上げ、思い切ったように唇を開いた。
「あの……間もなく第十月になります」
「それが、どうかしたのか?」
「……セタリナーサへは、お出《い》でにならないのですか?」
 ケーデル・フェグラムの冷静な面に、情動の細波が動いた。彼はふい[#「ふい」に傍点]と、それを隠すかのようにグラインから顔を背け、長いこと物言わなかった。
「……余計な気遣いは、しなくともいい」
 やがて、彼の、小さいがきっぱりとした声が、グライン・マーリの耳を訪った。
「私が、そんなことをする人間だと思っているのか?」
 主の言葉に、彼女は急にかあっとなって、頭《こうべ》を垂れた。
「も、申し訳ございません、出過ぎたことを申しました」
「謝る必要はない。気にするな」
 ケーデルは振り返り、ごく小さな声で短く笑った。何処か翳りのある笑いだった。
「……私は、立ち止まらないと約束したのだ。もう、お前達のことは振り返らない、前に進む、と」
 低い呟きが、その端整な唇から洩れる。
「忘れはしない。……だが、後ろは見ない」
「……」
「第一、今更やんだところで、誰ひとり戻らん……」
 そこまで呟くと、彼は、目を閉ざした。
「……お前のせいではない。もう気に病むな」
 グラインは、きゅっと唇を噛んだ。主が今、思い起こしてしまったであろうこと……彼女にとっても、それは、後悔と慚愧の念なしには思い出せない、そんな記憶だった……。
「お前が間に合わなかったのだ。他の誰が行っていても、間に合わなかっただろう。人間に不可能事を求めるつもりはない。……さあ、もう良い。退がって、ゆっくり休め」
「はい……あの、では、私に……休みを下さいませ。一日だけで構いません」
「休暇を?」
「はい。……行ってまいりたいと存じます」
 控えめに、しかし明確な意志を以て切り出された言葉に、ケーデルは躊躇い、それから頷いた。
「……わかった。第十月の……十三の日と十四の日、休んでいい。十五の日も、足らねば休め」
「有難うございます」
「礼など要らん。それより……いや、好きに使え」
「何か?」
「何でもない……」
 彼はかぶりを振り、それなり黙った。席を立ったグラインは一礼して部屋を退出しかけたが、ふと思い付いて尋ねた。
「ケーデル様……無躾ですが、あの方がお好きでいらっしゃった花などございましたら、お教えいただけませんか」
 ケーデルは振り向くと、微かに口許を緩めた。
「……リュアスは、今は咲かない」
「……はい」
 その時にグライン・マーリは悟った。先刻が言い止《さ》したのは、花のことだったのだ、と。
 彼女は今一度深く一礼すると、その場を退いた。



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