デラビダからヴェルナーサまでは、耐久力に優れている上に駿足と定評のあるシラン馬であるクリンを如何に走らせ通しでも、夕方遅くまで掛かった。走る道筋自体は起伏の比較的やかなクデファ平原、大した困難ではなかったが、流石に距離が問題であったのだ。並の馬なら夜になったであろう到着を日のある内に果たしたクリンは、やはり名馬の名に値する馬と言えた。後世『ミディアミルド史』を著した史家ユリアン・カール・カーリヒは、その著書中で、「ミディアム・サーガはその生涯に於いて四頭の名馬と出会ったが、中でも最も駿足だったのは最初の乗り馬となったクリン号であった、と、常々の武将達に語っていたという」と記している。そのクリンに対して、ミディアムは、寧ろ人間に対してよりも優しい青年であった。
 しかし、今は、日頃の愛馬への労りも捨てずにはおれない心境が、ミディアムを駆り立てている。
「許してくれ、クリン──急ぎたいんだ──」
 手綱を扱《しご》き続ける主人に、鹿毛馬クリンは不平のひとつも洩らすことなく十二分に応えた。
 やがて、見覚えのある風景が、茜色に染まって、見え始めた。
(おや)
 ミディアムは眉を顰めた。その光景の中に、黒い染みのようにも思える三騎の騎馬武人が交じっていたからである。彼は手綱を絞ってクリンの速度を落とした。相手側も彼に気付いたらしく、警戒するように馬の鼻を向け、軽く速歩《はやあし》で走らせてきた。
 ミディアムはクリンを緩やかに停止させると、労うようにその汗だくの首筋を叩きながら、相手側が近付いてくるのを待った。
「何者だ」
 鋭い誰何の声が飛んでくる。三人が三人とも、甲冑《クァード》を身に付けた軍装ではなく、長剣《リラン》を手挟んだだけの略装である。黒ひと色の上下《ドージョ》に白いフィフィル布製の肩掛け布《コープ》という揃いの出で立ちから見て、マーナの近衛隊、近隣諸国に勇猛果敢を以て知られる黒の部隊《ディーリー・ナーナ》≠フ人間に違いない。ミディアムは、逸る気持ちを抑えつつ答を返した。
「マーナ傭兵隊所属のミディアム・カルチエ・サーガ。──何故、此処にマーナの近衛隊が?」
「傭兵隊のミディアム?」
 三人の近衛兵は、驚きを隠せない様子で互いに顔を見合わせた。
「すると、お前が例の青い炎《グルーグラス》≠ゥ?」
 中で最も年配の、コープに金の縁取りを付けている厳めしい顔立ちの近衛兵が訊いてくる。
「……そう呼ぶ人間も居ます」
 淡々とした答に、近衛兵達は再び顔を見合わせた。
「……此処は今、封鎖中だ」
 金縁コープの近衛兵が改めて口を開く。
「何ぴとたりとも出してはならぬとの陛下の御命令である。従って、この先に進むことも許されぬ」
「……では、引き返せと?」
「如何にもその通り」
「それでも通していただきたいと申せば?」
「この場で斬り捨てるのみ」
 その返答を聞いて、ミディアムは薄く微笑んだ。
「この[#「この」に傍点]、僕を[#「僕を」に傍点]、斬り捨てると」
 声こそ穏やかだったが、その口調には、得も言われぬ底恐ろしさが漂っていた。
 ミディアムは、鞍に掛けていた黒マヤ柄のロックバランを右手で取り、近衛兵達の方へと横ざまに差し出した。武器を突き付けられるような恰好になった近衛兵達は、一騎を除いて、思わずか馬を引いた。だが、退かなかった一騎、三人の中で最も若い黒髪の近衛兵は、ミディアムの先刻見せた微笑に相通ずる笑みを口許に閃かせると、左腰のリランの柄にゆっくりと右手を掛けた。
「面白い……俺は今、最高に機嫌が悪いんだ。噂に聞くグルーグラスとやらがどの程度の奴か、知りたいもんだな」
 コープに銀の縁取りのあるその若い近衛兵は、紫がかった黒い瞳に物騒な陽気さを湛え、不敵な台詞を吐いた。
 だが、最年長の金縁コープの近衛が、リランを抜こうとするその若い近衛の手を押さえた。
「待たんか、ノーマン」
「しかし、ナカラ隊長──」
「早まるな」
 厳しい表情でかぶりを振った近衛隊長らしき金縁コープ近衛──いや、考えるまでもなく、コープに金の縁取りという装飾を許されるのは、何処《いずこ》の国でも近衛隊長だけであることを、ミディアムとて承知していた──は、そうしておいて、ミディアムの面上に目を戻した。
「ミディアム・サーガとやら、陛下の御命《おんめい》を敢えて犯そうというのか?」
「──このバランを預けたい」
 ミディアムは、バランを差し出したままの姿勢を些かも崩すことなく、静かに言った。
 近衛隊長は、意表を衝かれたような顔になった。
「バランを預けるだと?」
「そうだ。あなた方も武人なら、僕の意思表示を無下にはしないでいただきたい。僕には、あなた方の懸念するような他意はない。ただ……ただ、この目で確かめたいだけなんだ。この目で、僕の故郷ヴェルナーサがどうなったのかを」
「故郷?」
「そうだ。──だから、本当なら、あなた方ひとり残らず叩っ斬ってやりたい」
 ミディアムの青い瞳が、初めてあからさまに不穏な輝きを放つ。
「約束する。見に行くだけだと」
 押し殺した声で彼は言い、尚もバランを差し出したままで近衛兵達を見た。武人が何かを約束する時に自分の武器を相手に預けるという行為、それは、その武人が誓約を断じて破らないと相手に示す、最も強い意思表示の手段であった。もし仮に当の武人が約束を破り、為に、普通であればその約束を鵜呑みにした相手にも非があると言われかねない結果を招いたとしても、この場合に限っては、武器を預かった相手が責任を問われることは、絶対にない。それは、全ての非が、武器を預けて誓いを立てた側の武人にあるということであり、従って、武器を預けて約束しながらそれを果たさぬというのは、武人にとっては最も恥ずべきことのひとつであった。
「……よし、わかった」
 近衛隊長は、やや考えた後で頷いた。
「そこまでするなら、預かろう」
「隊長!」
 若い銀縁コープの近衛と中年の縁なしコープの近衛が、殆ど同時に抗議の声を上げる。近衛隊長はそんな部下達の方をちらりと見遣って「但し」と続けた。
「我々が頃良しと認める時間までだ。それで良いか」
 ミディアムは頷いた。何処までも王命に従わねばならぬ近衛兵達に余り無理を言うべきではないと、そう考えるだけの頭はあった。
 近衛隊長に促され、銀縁コープの若い近衛──コープに銀の縁取りという装飾を許されているのは、何処の国でも近衛副長──が馬を進めて出る。右手を無造作に差し出してミディアムの手からロックバランを受け取ったその表情がやや驚いたように動き、ひゅう、と口笛が洩れた。
「ほう、結構重いもんだ」
 若き近衛副長はそう呟くと、バランを片手でブンと鋭くひと回しし、その刃《やいば》をいきなりミディアムの頭上に打ち下ろした。髪一本挟めるか挟めないかの寸前で、ピタリと止める。周囲の制止する暇《いとま》もなく為されたこの脅しとも取れる悪ふざけに、ミディアムは微動だにしなかった。相手に本気で斬り付ける気がないことのみならず、相手がロックバランの重さをきちんと制御出来ていることまで見切れていたから、瞬《まばた》きひとつしなかった。刃《やいば》が止まってから、唇に微かな笑みを浮かべ、目を細めただけであった。
「……近衛隊にも、俺のバランを片手で扱える奴が居たんだな」
 ミディアムの呟きを聞くと、若き近衛副長はニヤリと笑い、バランを引いた。
「グルーグラスの異名は伊達じゃないってことか。──お前のバラン、確かに預かった」
 ミディアムは頷くと、冷や汗を拭いたいような表情で部下を見ていた近衛隊長に目を転じた。
「通《とお》っていいか」
「──む、良かろう。だが、諄《くど》いようだが、我々が呼びに行くまでにしてもらうぞ」
 ミディアムは黙って頷くと、クリンの横腹に軽い蹴りを入れた。



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