ミンは、その時のことを思い出すと、いつでも奇妙な心の昂りを覚えた。仮令《たとい》それが一時の気紛れであったとしても、仕える国と主とを同時に失った自分に居場所を与えてくれたデフィラに、彼は、尽くさずにはいられなかった。
「あなたは、ミン殿、マーナへ復讐しようとは思わないのですか?」
 不意に、青年将校の口から、そんな台詞が放たれる。
「自分の仕うるべき主を奪ったマーナという国に、敵わぬまでも一矢を報いようとは?」
「ジャナドゥにもよるでしょうが」
 ミンは、痛烈な非難とも取れるこの問に、いっそ微笑で応じた。
「私は、道具として使う者よりも、一個人として扱ってくださる方の方を、仕うるべき主と認めたのです」
 彼は続ける。
「ですから、私には、マーナもリーダも、どうだって良い。仮令マーナが百万回滅びようと、デフィラ様さえ御無事でいてくだされば、私は満足です」
「……称うべき哉
 低く、青年将校は呟いた。そして、傍らの年幼い侍者を顧みると、軽く笑い掛けた。
「アル、お前はどう思う」
「私も同感です」
 アルと呼ばれた侍者は、心からのものとわかる頷きを見せながら応じた。
「そうだろうな……近々カシームも滅びるし、カシームにもひとりふたりはこういうジャナドゥが居よう。今から食指を動かしてみるとしようかな」
 青年将校が何の気なしに口にした言葉は、本人以外の者に少なからぬ驚きを与えた。
「カシームが滅びる?」
「ええ、デフィラ三等士官」
 青年は、クァイを飲み干した後で、あっさり首肯した。
「それも多分今年の内にです。……ああ、アル、済まんがまたクァイを貰ってきてくれないか」
 彼は空になった酒杯を侍者に渡し、再びデフィラ主従の方に目を戻した。
「そんなに吃驚なさるほどのことではないと思いますが。今のカシームはガタガタですよ。御存じとは思いますが、今、カシームは、四方八方から叩かれ、疲労の極にあるのです」
 デフィラもミンも、それは確かに知っていた。カシームは現在、中小五つの国──クベー、キャティラ、リベル、レーナ、ステリア──と国境で悶着を起こしており、僅かずつではあるが、周囲に領土を剥られつつある。マーナがデリケムスでの痛手にも拘らずナーヴィッツとノーパを自国領として維持出来ているのは、全く以て、カシーム側が奪回の為の軍事行動どころではない状況にある“おかげ”以外の何ものでもなかった。
 しかし、何と言っても、混迷《ダニュア》の戦国時代で大国とされてきた国である。デフィラ達は、そう簡単にこの大国が滅びるとは信じられなかった。
「カシームは、しかし、つい先達て、マーナに大勝している。底力は侮り難いと思うが」
 デフィラの反論を聞くと、青年将校は嬉しそうに笑った。
「そう、それ[#「それ」に傍点]ですよ、デフィラ三等士官。それ[#「それ」に傍点]が、カシーム軍の見ている、救い難い幻影なのですよ」
「幻影?」
「自分達はマーナ軍を叩きのめした、だから自分達はまだまだ衰えていない、いざとなれば底力を発揮して、一挙に片を付けることが出来る──という幻想に、兵士達ならともかく、カシームの上層部が、将帥達が、事もあろうに溺れている。兵士達がそうと思っているのなら、まだしも士気に繋がるかもしれないんですがね」
 青年は肩を竦めた。
「残念ながら末端へ行くほど自分達の力を見切っていて、幻想を抱《いだ》いていません。寧ろ望みを失いかけている。士気《ディユー》も語気《ナリュー》もあったものではない」
 デフィラは軽く首をかしげた。「士気《ディユー》も語気《ナリュー》も」とは、“四《ディ》”と“五《ナリ》”で洒落たつもりなのか、それとも何か意味があるのか……青年の表情からはどちらとも読み取れないものの、後の単語に意味があるとも思えないので、恐らく前者であろう。
「では、今マーナが兵を向ければ、カシームは落とせるか、ケーデル一等上士官」
「無理です。マーナはデリケムスで負け過ぎました。兵が足りません」
 ケーデル青年は涼しい顔でかぶりを振る。
「仕方ありません。愚劣な戦いを仕掛けたマーナに対し、“ウェラーの法則”とやらは公平に働くでしょう。今回は辛抱して、次の機会を窺うべきです」
「貴殿は厳しいな」
 デフィラは、余り不快げでもなく苦笑いした。“ウェラーの法則”とは慣用句、“至高神ウェラーは地上で為された全ての善行悪行を知っていて、それぞれに相応の報いを与える”という感じの言葉である。
「相手は選びますよ、デフィラ三等士官、幾ら自分が正しいと考えていることを話すにしたところで」
「私ならいいのか」
「はい」
「一応められたと思うことにしよう」
 またデフィラは苦笑し、ミンはそんな主を見つめた。
 その時であった。
「デフィラ三等士官」
 ミンにも聞き覚えのある男の声が、彼の主の名を呼んだ。場の三人とも、露台へ歩み寄るその声の主に目を向ける。その男は、武官らしい毅然とした、且つ悠然とした足取りで彼らの所へやってくると、デフィラに向かって右手を差し出した。
「今から、デラクロア・ガダリカナが始まる。貴女しか、見事に踊れる女性が居ない。青二才とのお話はそれまでとして、私と踊っていただきたいのだが」
 ガダリカナとは、男女がふたりひと組で踊る、速い曲速《テンポ》と難しい足運び《ステップ》と激しい動きとが特徴の舞踏である。その中でも、マーナの都デラビダが属するデラクロア地方で発達したデラクロア・ガダリカナは、曲の最初から最後まで恐ろしく目紛しいことで知られていた。
 それにしても──ミンは内心あ然としながら、相手の男を見た。
(よくもまあ、本人の面前で言い放つものだな、このお方も)
 ミンは“青二才”呼ばわりされた当の青年将校を見たが、青年は微笑さえ浮かべて相手の武官を見遣っており、これまたミンをあ然とさせた。
(大した面の皮だ)
 一方、彼の主は、この申し出を受けるらしく、自分の手を相手に預けて立ち上がった。
「お受けしよう、ノーマン近衛副長。だが、その言い様はケーデル一等上士官に対して失礼ではないか?」
「私は、心にもない讃辞や評価を口にするのが昔から好かんだけだ。中傷する気などない。正直に思うところを面と向かって言えばいい。現にこのように──」
 デリケムス戦の後、カミル王子戦死の責任を取る形で死を賜わったモモクリ・キハチネンに代わって僅か二十六歳で近衛隊の副長に任じられた“ノーラ家の不良息子”と呼ばれるこの男は、その時に初めて青年将校の方を見下した。
「何を考えているかわからん薄ら笑いで、悪し様に言われても受け流す、いや、腹の中に押し込めるような奴は、大嫌いだ」
 青年将校は二度いただけで、反応らしい反応は示さなかった。
「その辺にしておかれると良い、ノーマン近衛副長。もうガダリカナは始まったようだ」
「うおっとっと、こいつは失礼」
 青年将校が居たせいか、それまでいつになく堅苦しい言葉いをしていた年若い近衛副長は、普段のように言葉を崩して少々具合悪げに頭を掻くと、ミンの主を伴って、行こうとした。ミンの主は、ミンに此処で待っているよう命じた後で、青年将校の方に軽く会釈をし、そして、軽やかな足取りで近衛副長と共に広間へと出ていった。
「……わかる奴だけがわかればいいんだ」
 そのふたりを見送りながら、青年将校が呟く。
「わからない奴を無理に付いてこさせようなんて、そんな必要はないんだ……そうだろう、グライン?」
 呟いて傍らを顧みた青年は、ハッと戸惑ったような表情を過らせ、更にミンの視線に気付くと、その表情まで消し、全くの無表情と化した。そして、何かしら慌てたように足を組み、広間の方を見遣った。



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