店は益々賑わいを増し、いつの間
《ま》にか殆
《ほとん》どの方卓・円卓
《えんたく》が埋
《う》まっている。三つ目の料理が運ばれてきたところで何げなく店内を見回した私は、壁際
《かべぎわ》の席に座って独
《ひと》り酒杯を傾けている青年に気付いて、ちょっと驚いた。
それは、タリー・リン・ロファ一等近衛であった。
……青年、と言ってはみたが、私より二歳ばかり年上だ。ただ、一見物優しげな童顔
《どうがん》の持ち主なので、どうかすると私よりも若く見える。城からの帰り道ではないのだろう、近衛隊の制服ではなく、典型的
《てんけいてき》な武官の軽装
《けいそう》であった。……但し、半袖
《はんそで》の夏軽装ではない。恐らく私と同じで、暑さを凌
《しの》ぐよりも汗が流れ落ちるのを防
《ふせ》ぐ方を重視しているのではないか。柄
《つか》を握る手が、腕を伝い落ちる汗で滑
《すべ》らぬようにと。
(彼でも、独りで行動することがあるのだな)
別段彼のことをノーマン近衛副長の“付属品”と思っていたわけではなかったが、何とはなし、いつもノーマン近衛副長と一緒に居るという印象が拭
《ぬぐ》えない男であることは確かだ。……先方は、今のところ、私に気付いている様子はない。しかし、余りじろじろ見ていれば、流石に勘付
《かんづ》かれてしまうだろう。
元々、滅多な知り合いと顔を合わせたくないという理由で、此処まで来たのだ。気付かれずに済むならば、その方がいい……
「綺麗
《きれい》な姐
《ねえ》ちゃんよゥ、なァに独りで辛気臭
《しんきくさ》く飲んでンだァ?」
「ほら、絶対賑やかな方がいいってさぁ、一緒に飲もうぜ!」
既に顔を真っ赤にしている若い酔客
《すいきゃく》ふたりが、酔った勢いからか酒杯片手に無躾
《ぶしつけ》な態度で寄ってきたのは、その時であった。……私の服装が目に入
《はい》っていないのだろうか。彼らの位置からは長剣
《リラン》の柄
《つか》は見えまいが、右肩から斜め下に走っている剣帯
《けんたい》を見れば、私が武人で、しかも帯剣
《たいけん》していることぐらい、簡単にわかるだろうに。
事を荒立てたくない気はしたが、彼らの見せる態度への不快感が勝
《まさ》った。こういう野卑
《やひ》な手合
《てあい》は、こちらが大人しくしていればすぐに付け上がる。
「断わる」
素
《そ》っ気ない声で応じ、殊更
《ことさら》に音響かせながら鯉口
《こいぐち》を切ってみせる。卓板上
《たくいたじょう》 に顔を出した柄頭
《つかがしら》を見るや、黒髪の若者の方はやや鼻白
《はなじろ》んだ様子で足を止めた。が、大柄
《おおがら》な今ひとりは、鈍感なのか単なる脅
《おど》しだと思ったのか「いやいやァ、物騒
《ぶっそう》なもン、ちらつかせンなッてェ」と大声で笑いながら私の前の席の椅子
《いす》を引くと、どすんと腰を落とした。
「姐ちゃん、折角の綺麗な面
《つら》なのにそんなンじゃ、男にモテねえぞォ。もっと肩の力を抜けッて」
「生憎
《あいにく》、男には不自由していない。それ以上に迂闊
《うかつ》な口を利
《き》くなら、最低でも腕の一本は斬
《き》り落とす」
「おーお、突っ張っちゃッてェ。いいから一緒に飲みなッてェ」
「……警告した筈だぞ」
冷たく告げて立ち上がろうとした私は、不意に横合
《よこあい》から左肩を押さえられ、不覚にもギクリとなった。
「おふたりさん、この女
《ひと》には、あんまり失礼なことをしたり言ったりしない方がいいですよ」
いつの間
《ま》に近くまで来ていたのか、タリー一等近衛が私の横に立っていた。……一体どうして、彼の接近に気付けなかったのだろう。私はそんなに飲み過ぎていただろうか……
「何だよてめェ、横からァ!」
「お邪魔して済みません、ただ、放
《ほう》っておいたら君達の命が危ないと思ったんで、割り込ませてもらったんですよ」
「あァ?」
「君達もデラビダっ子
《こ》なら知っててもいい筈ですけどねえ。この方
《かた》は、年末
|闘技会
《とうぎかい》であの
[#「あの」に傍点]ノーマン・ノーラ殿を破って優勝したこともあるほどの猛者
《もさ》で、その後
《ご》も連年
《れんねん》、闘技会の上位入賞
|常連
《じょうれん》ですよ。無礼を働いてしまったら、腕の一本では到底
《とうてい》済まないと思いますけどねえ」
タリー一等近衛は、人懐
《ひとなつ》こくも見える笑顔と穏やかな口調
《くちょう》で、とんでもないことを言う。
ただ、その台詞
《せりふ》が余りにのんびりと口にされたせいか、酔った若者ふたりには深刻なものとして受け取れなかったらしい。私の前に陣取っていた大柄な若者の方が、馬鹿にしたような顔で「この野郎、適当なこと吐
《ぬ》かしやがッてェ」と嘲笑
《ちょうしょう》し、自分が手にしていた酒杯の中身を相手の顔に浴びせようとした。
しかし、その酒杯を飛び出した赤い液体は、タリー一等近衛の髪のひと筋
《すじ》すら濡
《ぬ》らすことなく、虚
《むな》しく床
《ゆか》に飛び散った。
私は密かに息を呑
《の》んだ。
それは、“よけた”と表現するのが躊躇
《ためら》われるほどの、自然な動きだった。彼は、その無粋
《ぶすい》な“攻撃”の届かぬ範囲をするりと移動して、相手の手首を難なく掴
《つか》んでいたのである。
「あのねえ、人の忠告は聞いておくものですよ」
「何を──」
掴まれた手を煩
《うるさ》げに振り解
《ほど》こうとした若者は、だが、そのまま悲鳴を上げた。手に握っていた筈の酒杯が、音立てて卓上
《たくじょう》に落ちる。……若者の手の先は、あっと言う間
《ま》に血の気を失い、激しく引き攣
《つ》っていた。タリー一等近衛の方は穏やか極まりない表情を崩していないし、傍目
《はため》には特に力
《りき》んでいるようにも見えないのだが、彼より遙かに大柄な相手が苦痛の余りに呻
《うめ》くばかりで動けなくなっているのだから、相当な力で締め上げられているに違いない。
「出来れば怪我をさせたくないんで、そろそろ引き下がってもらえませんか」
「ぬァ……」
「こ、こん畜生
《ちくしょう》! ライデルに何しやがるっ!」
茫然
《ぼうぜん》と立ったままだった黒髪の若者が、我に返ったように殴り掛かってくる。近くに居た他の客が「おい止
《よ》しとけ、相手は近衛──」と制止しようとした声が聞こえなかったのか、それとも、聞こえていたが無視したのか。
タリー一等近衛は、毫
《ごう》も構える色なく、相手の出足を軽く蹴
《け》り払った。
軽く、としか見えなかったのに、黒髪の若者は自身の勢いで前のめりに転倒する。
と見た瞬間、その若者が悲鳴を上げた。
「……出来れば、と言っただけなんですよね。無理そうだったら早々に諦めますよ」
半ば自分への言い訳
《わけ》のように呟
《つぶや》いたタリー一等近衛は、転倒した相手の左手を素早く踏み付けていた足をどけながら、手首を掴んでいた若者の腕を後ろに捩
《ね》じ上げた。……流石と言うべきか、その“腕を捩じ上げる”という動きが、床
《ゆか》で手を押さえて痛い痛いと喚
《わめ》いている若者の動きをも視界の端
《はし》に入
《い》れておける位置への移動を兼ねていた。
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背景素材:「トリスの市場」さま