クベーとキャティラ、両国の境
《さかい》に、シベルリンと呼ばれる森がある。
落葉広葉樹
《らくようこうようじゅ》と常緑針葉樹
《じょうりょくしんようじゅ》とが入
《い》り混じる森林地帯
《しんりんちたい》であり、ミディアミルドでは最大級の面積を誇
《ほこ》っている。
このシベルリンの森は、その広大
《こうだい》さのみならず、この戦国の世
《よ》で一国の命運
《めいうん》を左右
《さゆう》するものの一
《いち》とされている“影
《ジャナドゥ》”──王と王族
《おうぞく》に仕
《つか》える忍
《しの》びの者──の養成所
《ようせいしょ》が多数存在することでも、広く知られていた。
シベルリンの森に、春の朝の光が流れ込む。
小鳥たちの囀
《さえず》り、微
《かす》かに漂
《ただよ》う靄
《もや》──全ては新しい。
少女がひとり、その朝の光の中、高い木の梢
《こずえ》に座り、幹
《みき》に寄り掛かってぼんやりしていた。彼女は、つい今
《いま》し方
《がた》、そこで目を覚ましたばかりであった。
新緑
《しんりょく》萌
《も》える葉
《は》の重なりの中、くすんだ緑色で固めた服装のせいで、少女の存在は、余程
《よほど》に注意して見ない限り、地上からはわからない。
少女は、自分の頭の上にだらりと手を伸
《の》ばし、木に絡
《から》まる蔦状植物
《つたじょうしょくぶつ》の赤い実
《み》を三つ千切
《ちぎ》った。無造作
《むぞうさ》に口の中へ放り込み、ひと噛
《か》みする。ちょっと顔を蹙
《しか》めたのは、酸味
《さんみ》のせいらしい。しかし、それで完全に目が覚めたのも事実であった。
少女の年の頃
《ころ》は、十二、三
|歳
《さい》だろうか。少しばかり大人
《おとな》びた雰囲気
《ふんいき》も窺
《うかが》える。白金色
《プラチナ》に輝く髪
《かみ》は、雑
《ざつ》の一歩
《いっぽ》手前、折角
《せっかく》の美しさを損
《そこ》ないかねない風情
《ふぜい》で不揃
《ふぞろ》いな長さに短く切られており、殆
《ほとん》ど少年めいてさえ見える。灰青色
《ブルーグレイ》の瞳
《ひとみ》は、何処
《どこ》か愁
《うれ》いを帯
《お》びてやや伏し目がちながら、瞼
《まぶた》を上げればそれなりに大きいであろうことは容易に予想が付く。
と、その瞳が不意に、ぱっと見開かれた。
人声
《ひとごえ》を耳聡
《みみざと》く聞き付けたのである。
「此処
《ここ》は初めてでしたかな」
それは、ジャナドゥとしての養成を受けている彼女の、師
《し》の声であった。何やら他人に話し掛けているようなその言葉に、彼女は梢から身を起こし、声のした地上を覗
《のぞ》き込んでみた。
師の隣
《となり》を、誰かが一緒に歩いている。
ざっと一瞥
《いちべつ》した感じでは、かなり若い男性のようである。変わった衣服──丁度
《ちょうど》、北方
《ほっぽう》に住む狩猟
《しゅりょう》の民
《たみ》が身に纏
《まと》うクードのような──を身に付けているが、やや地味な枯草色
《かれくさいろ》であるせいか、奇抜
《きばつ》な恰好
《かっこう》だという印象までは受けない。金色
《きんいろ》の髪の類稀
《たぐいまれ》な輝きが、木洩
《こも》れ日を受けて柔らかく煌
《きら》めいた。
「ええ、初めてです」
青年が発
《はっ》した涼
《すず》やかな低声
《ていせい》に、少女は思わず耳を欹
《そばだ》てた。落ち着いた響きを湛
《たた》えるその声には、聞く者の耳を抑え難
《がた》く惹
《ひ》き付ける不思議な力があった。
彼女は、その青年に少なからぬ興味を覚え、梢
|伝
《づた》いに上から彼らの後を追い始めた。
「昔、研修旅行
《けんしゅうりょこう》でこの森を抜けた時、あそこが名高いタカナ・ルーミン殿
《どの》のジャナドゥ養成所の入口
《いりぐち》だよとは先生から聞かされましたが……軽い気持ちで近付いて良い場所ではないとも聞かされましたし、研修旅行を終えて以降は、そもそも、村の外へ出ることすら稀でしたし。……いい場所ですね、此処は」
青年は、軽く溜
《た》め息をついたようであった。
「このような静かな場所で落ち着いて暮らすことの出来るタカナ殿が、私には羨
《うらや》ましく思えます」
そんな台詞
《せりふ》に、少女は微かに笑った。静かは静かだが、果たして、落ち着いているかどうか……。今の自分にとって、これほど日々
《ひび》厳しい地はないのだから。
因
《ちな》みに、青年の言葉に出てきたタカナというのは、彼女の師の名前である。タカナ・ハリアード・ルーミン──ジャナドゥの世界では名の通
《とお》った人物で、もう六十歳近くになる、ジャナドゥの優
《すぐ》れた養成者であった。
「これで、目的が果たせれば、更にいい場所になるのですが……そう簡単には行かないでしょうね」
「さあ、それはケーデル殿の運
《うん》次第
《しだい》、私には何とも言えませんな」
少女は安心した。師がこのような応じ方をする時には、既
《すで》に、旨
《うま》く行かせる
[#「行かせる」に傍点]算段
《さんだん》を付けているのである。師がケーデルと呼び掛けた青年が目的を果たした上で帰れるのだということが、彼女には何故
《なぜ》か、ひどく嬉
《うれ》しく思えた。
「ところで……ケーデル殿は、デラビダのどちらにお住まいになるのですか」
師の言葉で、少女は、青年がマーナの人間であることを知った。デラビダというのは、マーナの建国
《けんこく》以来の都
《みやこ》なのである。
「郊外
《こうがい》に近いシータ地区です。陛下
《へいか》から、格別
《かくべつ》の御厚意
《ごこうい》により、屋敷
《やしき》を賜
《たま》わりました。ただ、頂くのは有難
《ありがた》いとはいえ、余り大きな屋敷だと困るので分相応
《ぶんそうおう》の家をと申し上げておき、かなり小さい屋敷だからと案内されたのですが……それでも、自分には広過ぎて、途方
《とほう》に暮れているところです」
「はは……いずれ、身に添
《そ》いますよ」
師は軽く声立てて笑った。
「それよりも、シータ地区なら、ケーデル殿には向いているでしょう。町中の、殊
《こと》にデラビダのような活気に満ちた町中の喧噪
《けんそう》は、貴殿の性
《しょう》には合いますまい」
「確かに、その点は」
ケーデルと呼ばれている青年は、静かに頷
《うなず》く。
「今迄
《いままで》ずっと、静かな環境での田舎
《いなか》暮
《ぐ》らしでしたし」
「リーズルは長閑
《のどか》な地ですからな」
リーズル? リーズルと言えば、クデンの一小村
《いちしょうそん》である。クデンの人間が、どうしてマーナに住むのだろう。
(それに、マーナ王から「屋敷を賜わ」るくらいであれば、マーナの中でも、かなり高位の人間なのでは……?)
今ひとつ納得
《なっとく》出来ぬままに、少女は、梢から梢へと、ふたりを追い続けた。
「……そうでもありませんよ、タカナ殿」
暫
《しばら》く黙っていた青年が、ふと呟
《つぶや》く。
「私にとって、あれほど厳しい場所もありませんでした」
おや、と感じたのは少女のみならず、彼女の師もであったらしい。
「ほう……それはまた何故」
「表面上は“学友
《がくゆう》”と呼ばれる存在でも、裏では互いに足の引っ張り合いがありましたから。お互いに切磋琢磨
《せっさたくま》して高め合おうなどという綺麗事
《きれいごと》は、年齢
《ねんれい》を重ねて段々
《だんだん》と己の将来
《しょうらい》が見えてくるにつれ、なかなか通用しなくなってくる。お互いそれなりに頭のいい連中ばかりですから、うっかり隙
《すき》を見せたら最後、酷
《ひど》い目に遭
《あ》いました」
「成程
《なるほど》……ナドマ老
《ろう》は、そのことは御存じでしたか」
「勿論
《もちろん》です。全くの放任
《ほうにん》でした、その点に関しては。いい勉強と言いましょうか、これで随分
《ずいぶん》と鍛
《きた》えられましたね、実際。……こんなことを言ってはいけないのでしょうが、一抜
《いちぬ》け出来てホッとしたところも、正直、あります」
「まるで、このシベルリンの森
|宛
《さなが》らですな」
師の打った相槌
《あいづち》に、少女も同感だった。確かにその点は、この養成所も同じである。気を緩
《ゆる》めるとすぐに怪我
《けが》をさせられてしまうのが、此処の常なのだ。
そして、この時には少女は、自分の抱
《いだ》いた疑問の答を見出
《みいだ》していた。
(この人は、リーズルのナドマ老の塾
《じゅく》の塾生
《じゅくせい》だった人なのだ。それで、マーナ王に仕えることになった)
彼女の師であるタカナは、リーズルのナドマ老と古くから親交
《しんこう》がある。それ故
《ゆえ》、その塾のことは、彼女も話には聞いていたのである。
(でも、そんな人が、どうして、こんな辺鄙
《へんぴ》な土地まで来たのだろう)
彼女が僅
《わず》かに首をかしげた時──
卒然
《そつぜん》、銀光
《ぎんこう》が身を襲った。
素早くよけて別の梢に移るも、その逃れた先を的確に捉
《とら》えた第二撃、第三撃が飛んでくる。だが少女は、その全てを至極
《しごく》あっさりと躱
《かわ》してのけた。銀光の出所
《でどころ》を確認する余裕まであった。
(──せ、先生!?)
師がどうして、と驚く間
《ま》もなく、次の銀光が来る。彼女は、腰帯
《こしおび》に挟
《はさ》んでいた細身
《ほそみ》の小刀
《こがたな》を引き抜くが早いか、その銀光を弾
《はじ》き返した。硬い金属音
《きんぞくおん》と共に宙
《ちゅう》に舞ったのは、彼女が手にしているのと同じ形状
《けいじょう》の武器──ビーラン、と呼ばれる代物
《しろもの》であった。彼女は今度は、自分の方
《ほう》から仕掛けた。他の梢に飛び移りざま、手の中のビーランを師の足許
《あしもと》に放つ。誤
《あやま》って隣の青年に当ててしまうおそれもある位置は狙えないと判断しての、軽い威嚇
《いかく》であった。
だが、今日
《きょう》の師は、妙に容赦
《ようしゃ》がなかった。そんな彼女の心理を見抜いて積極的に追い詰めるかのような、本気の投擲
《とうてき》を繰
《く》り返してくる。仕方ない、先生
《そっち》がその気なら──相手の放つビーランから身軽に逃げ続けていた少女も、遂
《つい》に腹を括
《くく》った。腰のビーランをもう一本引き抜き、梢から師に躍
《おど》り掛かる。相手の投じたビーランを弾
《はじ》き、自分のビーランを相手の肩に投げ付ける。しかし師タカナはそのビーランを鮮やかに躱しざま、彼女に向けて新たなビーランを突き出した。
見る者が咄嗟
《とっさ》には信じ難いほどの、体の動き──少女は、奇跡のような身の熟
《こな》しで、絶対確実と思われたその突き技
《わざ》を外した。いや、正確に言えば、ビーランを突き出してきた相手の手首を掴
《つか》みざま、そこを支点にして身を捻
《ひね》ったのだ。が、それは殆ど一瞬の動きで、近くに居
《い》た青年の目には恐らく捉え切れなかったであろう。
少女は、着地する足に掛かる衝撃を巧
《たく》みに散らし、そのままひらりと躍り上がると、再び師に襲い掛かった。
Copyright (c) 2012 Mika Sadayuki
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