どのくらい走っただろう。
 そろそろ馬を休ませようと手綱を引いたマリは、風に乗って流れてくる微かな音に気付いて、ふっと目を細めた。
 じっと聞いてみると、その澄んだ音は、どうやら旋律を持っているらしい。マリは興味を惹かれ、風上へと馬を歩かせた。
 丘の上まで来て、再び馬を止める。
 何者かが、もうひとつ先の丘の上に佇んで、笛を遊《すさ》んでいた。こちらに背を向けているので確証は持てないが、武官ではなさそうだ。傍らには二頭の馬が草を食み、従者と思しき人影が控えている。都の風流子《ふうりゅうし》かとも考えたが、それにしては、奏でているのが讐《あだ》に報ゆるの詩《うた》≠ニは些か物騒である。マリは少し躊躇《ためら》ったが、好奇心に負けてまた馬を歩かせ始めた。従者らしき男がこちらを注視していることはすぐにわかったものの、別段彼らに危害を加えるつもりではないのだからと、故意にその視線を無視し、丘を下る。
 笛の音がやんだ。
 曲が終わったのではない。奏者が吹くのをやめ、静かに振り返ったのだ。
 まだ若い男であった。恐らくマリと同い年か、或いは、やや年上だろう。物静かな雰囲気の青年である。大地の民とは思いにくい変わった服装だが、従者の恰好はごく在り来《きた》りの物なので、恐らく当人の趣味なのだろうと、マリは推測した。青年は、馬を寄せてくるマリを警戒する風もなく見下ろしている。マリは丘を登り切る少し手前で馬から下りると、後は徒歩で登っていった。
 青年は、マリが近付いてくると、微笑と共に先に一礼した。北方出身者か、若しくは北方出身者の血を引いているか。類稀な輝きに彩られた金色の髪と色白の面が、その出自を物語っているような気がした。マリは、ふと、自分の婚約者の顔を思い出した。鮮やかな黒髪と、それなりに日に焼けた面を。
(変ね、どうして急に、あの人のことが浮かぶのかしら)
 マリは心の中で肩を竦めながら、一旦立ち止まり、自分も軽く頭を下げた。
「遠乗りですか」
 青年が言葉を掛けてくる。マリが「はい」と応じて歩みを再開すると、青年は「そうですか」と頷き、従者を顧みた。
「ルード、そう警戒しなくていい。御婦人に失礼のないように」
「はい、失礼致しました」
 マリを鋭いまなざしで見ていた従者は、丁寧に一礼し、非礼を詫びた。主人と変わらない年頃の青年である。恐らく護衛なのだろうが、刀剣の類は手挟んでいない。しかし、挙措を見る限り、かなりの武の心得がありそうだ。その細い目が、ちらりと、マリの左腰の細身剣《ディラン》に向けられる。マリはそれに気付くと、足を止めた。
「気になるのでしたら、どうぞあなたが預かってくださいな」
 主従共に丸腰であるのだから、従者の警戒は当然だったろう、と思いながらマリは微苦笑し、剣帯《けんたい》とディランを外してそのまま従者に差し出した。従者の表情は殆ど動かなかったが、褐色の瞳に戸惑いの波が過《よぎ》るのをマリは認めた。
「いいえ、構いませんよ。剣を戻してください。害意がないことは最初から承知しておりましたから」
 主人たる青年の方が言う。マーナの大抵の人間にあるデラクロア訛りどころか、訛りそのものがが全く感じられないことに、マリは驚いた。旧フィリス国、或いは旧カシーム国の辺りが出身地なのだろうか。
「……それにしても、貴女は相当に腕の立つお人のようですね」
「え?」
 ディランを元通りに提げ直したマリは、相手の発言内容を訝った。この青年は一体何を根拠に、そんなことを言い出したのだろう。
「私が? お世辞ではありません?」
「いいえ、こちらのルードが警戒をなかなか解かないので、そうと推察したまでです」
 青年の返してきた言葉に、マリは思わず忍び笑いを洩らした。笑われるとは予想外だったのか、今度は青年の方が怪訝そうな表情になる。マリはクスッと笑うと、澄まして言った。
「貴殿は、相当に抜け目のない、頭の宜しいお人のようですね」
「……褒められているのでしょうか」
「ええ。腕が立つのですねと私を持ち上げつつ、そちらのお人の実力もさりげなく示唆して、私を牽制なさろうとする辺り」
 青年は二度ぱちぱちと瞬き、それからその目を細めて小さく嘆息した。そして、感心したことを隠さない笑みを浮かべながらマリを見つめた。
「まだまだマーナの将軍府には人材が埋もれているようですね。貴女のような、一を聞いただけで二を知る方がいらっしゃるとは」
「いいえ、人材だなんてとんでもない。それに私は、残念ながら将軍府には所属しておりません」
「では、近衛府の方ですか?」
 青年が首をかしげる。マリはかぶりを振った。
「こんな恰好をしているので誤解なさるのも無理はないでしょうけれど、私はどちらの人間でもないんです。徒《ただ》の、武家のお転婆ですわ」
「……失礼とは存じますが」
 青年は、深く澄んだ碧眼に抑え切れぬ興味の色を上らせながらも、用心深くその目を伏せ気味にし、静かに口を開いた。
「もし差し支えなければ、教えていただけませんか。貴女は……ずっとデラビダにおいでだった方でしょうか?」
「七年前までは、そうでしたわ」
 マリはそうとだけ答えたが、青年は一瞬考えただけで微笑みと共に頷いた。
「それでわかりました。貴女は、ナカラ・マーラル近衛隊長の長女マリ嬢でいらっしゃいますね」
「え──」
 何故それを、と流石に言葉を失ったマリを見て、青年は微かに悪戯っぽい笑いを閃かせた。
「図星だったようですね。どうしてわかったのか、とはお尋ねになりませんように。私は、抜け目がなくて頭が良いばかりか陰険まりない策士だということで、貴女の未来の花婿殿から蛇蝎の如く嫌われている人間なのですから」
「あの……」
 マリ・マーラルは面食らい、戸惑った。彼女には、相手が一体何を言っているのか、よくわからなかったのである。
「御免なさい、私、まだ、トストから戻って二か月にもならないもので、仰ることが……」
「おや、これは申し訳ない。とすると、近衛副長閣下もまだ流石に貴女の前で私の悪口を言うまでには至っていないのですね。安心しました」
 青年は、可笑しそうに、声さえ立てて笑う。従者が吃驚したように主を見ている様子からすると、この青年がこういう笑い方をするのはよっぽど珍しいことなのだろう。
「済みません、失礼しました」
 やがて笑いを治め、ひとつ溜め息をついてから、青年はマリに一揖した。
「私は、ケーデル・サート・フェグラム、将軍府に所属する者です。階級は四等将官、デリーラ四年の春にマーナへ参りました」
「──え!!」
 恬淡と名乗られた名前に、マリは目を円くした。



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