教えてもらった最初の店に辿り着いたのは、日没が迫る頃合だった。
 リャガ地区──下町と呼ばれる一帯の中でも中堅どころ、目抜き通りからは少し離れているが、場末過ぎない辺り。ただ、上品に遊ぶには全く向いていない。そんな地区だ。
(へえ……こんな店があったんだ……)
 見付けた店は、俺達が日頃よく立ち寄る店からも近い場所にあった。三日月を象った看板が、入口の上、石組みの壁から突き出ている。扉は開いていて、賑やかな人声や美味しそうな料理の匂いが街路まで溢れ出してきている。俺は、ひょいと店内を覗き込んだ。──ほぼ満席だ。まだ日の沈み切らない内からこんなに客が入っているということは、繁盛している店に違いない。客層は、一見したところ、どう見ても裕福ではなさそうな庶民ばかり。ということは、割合に懐にも優しい店なのだろう。
「おや、いらっしゃい、坊や」
 入口近くの円卓に料理を置きに来ていた赤毛の女性が、目敏く声を掛けてくる。いえ、私は──と口にしかけた俺は、
「人を捜してるのかい?」
 と問われて吃驚した。咄嗟に返事が出来ないでいると、その女性は、張りのある翠玉色の瞳を俺の顔に当て、ふふっと小さく笑った。
「顔を覗かせるなり、きょろきょろ中を見回してたから。──その防寒着は、近衛見習さんのだね。初めて見る顔だけど、もしかして、ノーマン坊やを捜しに来たのかい?」
 俺は再び絶句した。──まさか、この人は“読心”のオーヴァを持っているのだろうか?
 俺の内心がまともに顔に出たのだろう、女性は軽くかぶりを振った。
「アタシは、ちょっと耳がいい程度のオーヴァしか持ってないよ。近衛見習の制服で人捜しに来るなら、捜してるのは同じ見習か近衛兵ってのが相場だろ? で、ウチを贔屓にしてくれてるのは、まず第一にノーマン坊やだもの。初歩的な推理だね」
「お……恐れ入りました。その通りです」
 俺は思わず頭を下げていた。店内を覗いた俺の様子を見ただけでそこまで見抜いてしまうなんて、或る意味、徒者《ただもの》じゃない。
「おーい、ドリー姐さん、こっち、メリア三杯追加で」
「はいな、ちょっと待ってちょうだい」
 客からの声に応じておいて、女性は俺の顔に目を戻した。
「奥の仕切り台の所の止まり木が空いてるから、座って待っておいで。大丈夫、無理に注文させたりなんてしないから」
 いないのなら別の店へ捜しに行きたいので、という言葉を、俺は、すんでのところで呑み込んだ。待っていろ、ということは、此処に来る確証があるということなのかもしれないと感じたから……いや、そうじゃない、何と言うか……相手の、押し付けがましくない厚意の示し方、人を逸らさぬ雰囲気に、ことん[#「ことん」に傍点]、と呑まれてしまったのだ。ええと、もっと簡単に言えば……すっと素直に惹き付けられた、と言うのかな。
 おとなしく、言われた通り止まり木の空席に腰を落ち着けて待っていると、やがて女性は仕切り台の向こうへ戻ってきた。どうやら、この女性ひとりで店を切り回しているらしい。……目の覚めるような美人ではないけれど、なかなか綺麗な人だ。幾つぐらいなんだろう。三十代半ばかなと思うけど、二十代後半かな、と思える一瞬も多々あって、何とも判じ難い。ただ、客から親しみを込めて「姐さん」と呼ばれていることを思えば、ただ若い女性でもないだろう。
「御免ね、坊や。待たせちゃって。──はい、これは、アタシからの奢り。この寒空に、そんな汗だくになって駆け回ってるんだね。ちょっと休んでいくといいよ」
 適温に温められたクァイ水《すい》を大きめの木杯で出され、俺は恐縮した。
「有難うございます」
「此処ひと月ほどはノーマン坊やの姿を見てないんだけど、そろそろ今日辺り来るような気がしてたんだ。新しい王様が即位して、久々のお祝い景気だし」
 女性はにっこり笑うと、注文を受けていたのだろう料理の下拵えを始めた。
「で、そう思ってたら、坊やがやってきた。ああ、じゃあ、もう少し待ってれば間違いなくノーマン坊やが顔を出すね、と思った」
「……え?」
「ノーマン坊やは、そういう子なんだよ。会うべき人に、会うべき時にきちんと出会ってしまう。当人は全然意識してないみたいなんだけど、アタシの目から見てて、不思議なほどに、空振りはないんだ。……坊や、名前を教えてくれる? アタシは、ドリー・フーズ・アーベン。この店の主《あるじ》だよ」
「タリー・リン・ロファと言います。……あの、坊やと呼ばれる年齢は脱してるつもりなんですけど」
「アタシの目から見れば、男は大抵、坊やだよ」
 ドリーと名乗った赤毛の女性は、ふふふと声を洩らして笑った。
「で、タリー坊やは幾つなの?」
「十六です。第七月《だいななげつ》には十七になります」
「ふうん……成程、中身と外側とで釣り合いを取ってるってことか」
 俺は、意外な相槌に、目をぱちくりさせた。俺は周囲から童顔だと言われているし、俺もそれは認めている。初対面の相手に年齢を告げた時に最も多い反応も、「もっと年下に見える」というものだ。なのに、この女性が示した反応は、随分と違っている。
「釣り合いを取ってる……ですか?」
「うん。そう見える。何て言えばいいのかな、アタシには、坊やの中身が、年齢よりもずーっと年上に感じられるのさ。見掛けは十三、四の少年に見えるけど、物腰からすると中身は大人みたいだねえって。ノーマン坊やの方が、よっぽど子供だよ」
「そうですか……」
「坊や、小さい頃から苦労してるんじゃない、結構」
 下拵えを済ませた野菜を鍋に入れながら、女性は無造作に言った。
「物の言い方には気を付けなきゃ、人から悪く思われないようにしなきゃ……っていう構えが、言葉は悪いけど、態度に染み付いてるよ。それが卑屈さにはなってないところは大したもんだけど、アタシの目には、ちょっと痛々しいかな」
 俺は、真正面から心を貫かれた気がして、立ち竦んだ。……いや、座っているのだからこの表現はおかしいのだけど、もし立っていたら立ち竦んでいた、そのくらいの衝撃だった、ということだ。
 いつもは心の奥深くに抑圧している感情、所詮お前は飯炊き女の子じゃないかと蔑まれ続けて降《ふ》り積もっている感情が、不意に表面に溢れそうになる。辛うじて堪《こら》えたが、この、人を見抜く眼を持っている目の前の女性には、いと易く伝わってしまったに違いない。
 ……だが、女性は静かに微笑んだだけで、何も言わなかった。そして、暫く調理に専念し、盛り付けを終えると、その皿を手に、仕切り台の向こうから客席へ出た。
 その隙に、俺はこっそり、指で涙を拭った。
 大人だ、と言ってもらったけど、そんなことはない。俺は、まだ子供だ。こんな風に指摘されただけで涙ぐんでしまう、心の脆い子供。
 ……坊や、と呼ばれても当然だ。
 両手で木杯を抱えるようにして、仄温いクァイを少しずつ飲んでいると、店の入口から「喧嘩だ喧嘩!」と陽気な大声が飛び込んできた。
「おいおい、喧嘩程度で一々騒ぐなよ」
「この辺りじゃ掃いて捨てるほどあらぁな」
 店内にいた客達が、鼻であしらうような答を返す。だが、戸口から大声で言ってよこした男は、何処か得意げに言い返した。
「馬っ鹿だなー、得物ちの七対素手の一で、素手の一が有利なんだぞ!」
「なにぃ?」
「──あ、うわっ、もう四人も地べたに這わせたぜ! ひょーおぉ、やるなあ若いのに」
「ちょ、ちょっと姐さん、終わったら戻るからっ」
「おー、俺もなっ」
 物見高いらしい幾人かの男が、次々と腰を浮かす。客の所へ給仕に行っていた赤毛の女主人も、男達がわらわら駆け出ていった戸口から外をひょいと覗いたが、つと振り返り、笑顔で俺を手招いた。何だろう、と思いつつ席を立ち、寄っていくと、女主人は「ほら」と外を指差した。
「ノーマン坊やが来てるよ」
 えっ、と彼女の指が示す方を見遣った俺は、目を見開いた。
 夕映えの街路で、制服の黒い防寒着を伊達に着崩した近衛兵がひとり、棍棒やら庖丁やらを振り回す男達を相手に素手での立ち回りを繰り広げていたのだ。



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