僕たちが選んだ“瑠璃の泉”亭に、その魔道師は居た。
「ディル、あたしは本っっ当にお腹ぺこぺこ。早く何処でもいいから座りましょ」
 ごった返す店内の喧騒に負けない大声で、白い神官服のフィリアが訴える。空腹というのが嘘に思えるほど元気のいい声だ。僕は苦笑し、店内を見回した。町は、この国の王様に世継ぎが生まれたとのことで祝祭の最中《さなか》にあり、大通りから外れているこんな店でも大いに賑わっているようだ。殆どの卓《テーブル》は埋まっていた。しかし、ずっと奥の方には、ちらほら空席のある卓《テーブル》が見える。その中で四人が一緒に座れそうな所は、一番奥まった一卓だけのようだった。僕はそちらへ歩いた。仲間たちも付いてきた。
「相席失礼しても宜しいでしょうか?」
 僕は胸を手に当て、先客に一礼した。その卓《テーブル》にひとりで居た先客の男は、僕の声に顔を上げた。
 その瞬間、僕は、この卓《テーブル》を選んだことを後悔した。
 男は、黒いマントとローブを身に纏っていたのだ。フードは被っていないが、そのローブは紛れもなく魔道士達が着る物であった。そして、黒いローブを纏う者と言えば、邪悪な闇や魔の力を使う黒魔道士に違いないのだ。よく見れば、彼の傍らには翼を持つ三日月を象ったような装飾の杖《スタッフ》が立て掛けられている。何故迂闊にも、近付いてしまう前に気付かなかったのだろう。この卓《テーブル》は空《あ》いていたのではなく、避けられていたのだ。
 相手は、薄暗い中でも僕の顔色の変化に気付いたのだろう。笑みを浮かべた。驚いたことに、それは、ほんの少し寂しそうな微笑みだった。
「どうぞ、吟遊詩人さん。後ろの方々も、嫌でなければ」
 意外に穏やかな声が返ってきて、僕は戸惑った。それは仲間たちも同様だったらしく、僕の隣に居た巨漢の戦士ラダが、こっそり後ろに目配せをした。
「別に、取って食ったりはしない。……いや、ひょっとしたら、食われるのは私の方かな」
 黒ローブの青年は肩を竦めて苦笑いした。それだけで僕は、後ろに居るフィリアの顔を思い浮かべることが出来た。彼女は光の神の神官なのだ。邪悪な黒魔道士など、その存在すら許していない筈だ。
「何故お前のような──」
 果たして、ずいっとばかりに彼女が踏み出してくる。拙《まず》い、と僕が青くなった時、
「待ってくださいフィリア! その方は魔道師です! 魔道師ギルドから魔術を教える資格を貰った、歴《れっき》とした魔道の先生なんです!」
 魔道士であるケルクが、声を上げてフィリアの袖を引いた。
「魔道師?」
 フィリアの疑わしげな目を、黒ローブの青年は穏やかに受け止めた。僕はその時になってようやく、相手の肩にケープのような布が掛かっていることに気付いた。ローブやマントと同じ、黒だ。店内が余り明るくないこともあって、今迄(いままで)見落としていたのだ。
「驚きました……光栄です。わたしもギルドには出入《でい》りしていますが、黒いケープの魔道師にお会いしたのは初めてです」
 ケルクは恭しく頭を下げる。魔道師は微かに笑った。
「どういうことなんだい?」
 ラダが問い掛けると、ケルクは青白い頬を珍しく紅潮させて答えた。
「魔道師には階級があります。勿論その知識と力の度合に拠るものですが……階級が上がってゆく毎にその証たるケープの色はどんどん濃くなり、遂には漆黒となるのですよ」
「じゃあ、この兄さんは一等上の魔道師なのかい?」
「ええ、超特級魔道師。五百年にひとり出るか出ないかと言われる、幻の階級です」
 へええ、と素直なラダが感心する。
「それならどうして黒のローブなんか着てるの? 黒のローブは邪悪な黒魔道士どもの好んで着る色よ」
 まだ疑わしげなフィリアの言葉に、魔道師は静かな口調で逆に問を発した。
「黒魔道がどういう魔道だか知っているか」
「何ですって!?」
 フィリアがサッと頬に血を上らせて今にも怒鳴り出そうとするのを、魔道師は、すっと右手を挙げて制した。
「まあ、座って食事をしながらでも話は出来る。どうやら神官殿は空腹の御様子、腹が減っては何とやらと巷間《こうかん》の諺《ことわざ》にもある」
 丁度その時、フィリアの胃袋が盛大に鳴った。僕らはつい噴き出した。フィリアは顔を真っ赤にして荒々しく椅子を引き、魔道師の正面に、殆ど挑むように座る。僕らもそれぞれに椅子を選び、腰を下ろした。



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