その日、フォーリア魔道学院
《まどうがくいん》の見習生
《みならいせい》フィル少年の身辺は、朝から慌
《あわ》ただしかった。
昨日
《きのう》まで彼と一緒に魔道師
《まどうし》ギルドの受付に座っていた学院の先輩が、学院に併設されている魔法大学の方の雑用に呼ばれ、居
《い》なくなってしまったのである。
他者に魔道を教える資格を魔道師ギルドから認められた魔道士
《まどうし》、すなわち魔道師
[#「師」に傍点]になる、という目的の為
《ため》に幼少時から寄宿生活を送る見習生だけが学ぶ学院とは異なり、大学は、広く一般向けに簡易魔法の講義も実施している。その分、学生の数も遙
《はる》かに多いから、それだけ人手が必要なのだ。
(仕方ないけど……誰も来ないといいなあ……)
しかし、そう思っている時に限って人が来るもので、午前中は、町の住人が魔法の薬品を買いに来ることが続いた。先輩とふたりで対応していた時でも、客の要望に対応し切れず右往左往することがあったのに、ひとりになってしまったら全く仕事が回らなくなるのではないか……と恐れていたフィル少年であったが、彼の不慣れな対応に難癖
《なんくせ》を付けてくるような客は幸いにしておらず、どうにか無難
《ぶなん》に販売をこなすことが出来た。
客が途切れた昼過ぎになってようやく、奥で簡単な昼食を摂
《と》り、ほっと息をつく。
「グレン先輩、戻ってこないんだろうなあ……」
先輩とふたりで受付をしていた時には、交代で食事を摂り、合間に魔道書を読み進めることも出来たのだが……何かと気忙
《きぜわ》しい今は、そんな気分にもなれない。
ただ、今は仕方ないのだ、とフィル少年は思っていた。
そもそも、魔道師の資格を持たない年少の見習生がギルドの受付を任されていること自体、異常事態なのである。
通常であれば、最低でも初級魔道師、大抵は中級以上の魔道師が受付に座るものだ。しかし、このデーナ王国の都
《みやこ》フォーリアの魔道師ギルドに籍
《せき》を置いていた初級魔道師十人は全て、この一か月ほどの間
《あいだ》に、背中に羽のある魔物だか化物だかに攫
《さら》われてしまった。中級魔道師七人の内の四人も、得体
《えたい》の知れぬ魔物―─らしき何か
[#「何か」に傍点]―─に相次いで攫われている。また、魔道学院の見習生たちの中にも、攫われてしまった者は何人も居る。
フィル自身も、数日前の夕方にギルドの使いで外に出た時、上空から不意に舞い降
《お》りてきた黒っぽい影に、通りを歩いていた男性が拉致
《らち》されるところを目撃していた。その時にその辺りを歩いていたのはその男性とフィルだけだったから、かなり危ういところだったのだ。
(……あんな羽の生えた魔物、お伽噺
《とぎばなし》の中にしか出てこないと思ってた……デーナの王様も攫われたって噂
《うわさ》だし……)
とはいえ、只今
《ただいま》現在の自分は、ギルドから与えられた役目を果たすだけで精一杯で、落ち着いて考えを巡らすゆとりも乏しい。
「午後からは少し暇
《ひま》になるといいなあ……」
溜
《た》め息と共に独
《ひと》りごちたフィルは、ふと振り返ってみて、部屋の入口から見えるギルドの戸口辺りに誰かが立っていることに気付いた。
「……なりそうもないや」
何となく苦笑
《にがわら》いし、席を立つ。
受付まで出ていくと、戸口を入ったすぐの所に、背の高い魔道師が佇
《たたず》んでいた。
何処
《どこ》から来たのか、黒髪に切れ長の目、僅
《わず》かに黄みがかった淡クリーム色の肌……デーナ王国の辺りでは余り見ない、所謂
《いわゆる》“旧大陸東方系”と呼ばれる顔立ちだ。草色の飾り布を巻き込んだ白ターバンを頭に巻き、旅装用らしきマントを羽織
《はお》っている。その色が黒ということには驚かされるが―─黒は、自らが黒魔道を得手
《えて》としていることを周囲に隠す気がない魔道士が身に着ける色である―─肩に掛かっているケープは確かに魔道師のものだし、しかも、色の濃さからすると既に中級魔道師だ。二十歳
《はたち》そこそこにしか見えないのだが、見掛け通りの年齢ではないのだろうか。
その魔道師は、出てきたフィルを見るとやや意外そうな顔をしたが、見習の子供だからと馬鹿にしたような風
《ふう》もなく、ギルド員であることを示すステップを淀
《よど》みない動きで踏
《ふ》み、最後に、決められた角度で一礼した。
フィルは、知らず胸が高鳴るのを感じた。
魔道師ギルド員が、自身の所属外のギルドを訪れた際
《さい》に行う挨拶
《あいさつ》。
無論、知識として学び、練習もしていたけれど、実際に他所
《よそ》のギルドから来た魔道師の挨拶は初めて見たのである。
(……凄いや……)
足を巧
《うま》く動かしてゆかないとバランスを崩
《くず》してしまう複雑なステップを、ごく何でもないようにこなせるのだから、若く見えても旅慣れているのだろう。
フィルは、受付の机の上に重ねられていた本の中から二番目のものを抜き取り、カウンターの上で開
《ひら》いた。そして、一番下にあった本を抜き出して一番上に置くと、綺麗
《きれい》に揃
《そろ》え直した。座っていても出来るよう、答礼は割に簡単だ。しかし、抜き取る本や置く位置などを間違えたら、相手をギルド員として扱うのを拒絶するという意味になってしまう。間違えないように、と手に汗を掻
《か》きながら手順通りに本を扱い終えると、相手の魔道師は微
《かす》かに表情を緩
《ゆる》め、口を開
《ひら》いた。
「初めまして。パルモーンから来た、タンジェという者だが……」
声は低めだが、くぐもった感じや濁
《にご》りなどはない。ギルドでの初
《はつ》名乗りに於
《お》いては必ず所属ギルドの所在地を付
《ふ》す決まりになっているから、タンジェと名乗ったこの魔道師は、ランガズム大陸北部にある町パルモーンの魔道師ギルド員、ということだ。
(……随分
《ずいぶん》と遠くから来られたんだなあ……)
ランガズム大陸では最も南にあるデーナ王国から見れば、パルモーンなど地の果てという感覚になる。
「老師方
《ろうしがた》はお出掛けか?」
「はい。大学の講義で皆さんお留守
《るす》です。私は学院の見習生フィルと申します。お見知りおきください」
緊張しながらも答えて名乗り、一礼すると、相手は「そうか……」と呟
《つぶや》き、ごく僅かに首をかしげた。
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