慶応三年三月十三日、余りにもあっさりと、分離は認められた。
 その余りの呆気なさに、私は、突き放されたような揺らぎを覚えた。
 無論、新選組からの分離は喫緊の課題であった。これ以上新選組の中にいては、我々の勤皇の志が死んでしまう。
 ……まるっきり、篠原さんの台詞だが。
 しかし、冷静な目で見て、いずれは分離を認めてもらえるであろうとは、わかっていた。第一、土方が私の残留を望んでいる筈がない。なのにあれほど頑強に反対し続けていたのは、ただ、脱退を認めないという掟があった為だ。その掟を掻いくぐれる口実さえ見付けてくれば分離を認めるに吝かではない、それが、年明けにようやく聞き出すことが出来た、土方の言い分であった。だから、武家伝奏を通じて御陵衛士を拝命という“恰好”を調えて談判に臨んだ時点で、相手の答は決まっていたようなものだったのだ。
(これでまんまと、私を追い出せるというわけか……)
 恐らく、土方は内心で快哉を叫んでいるだろう。これでもう伊東の顔も見ずに済む、声も聞かずに済む、と。
 だが私の方は、円満な分離を喜ばねばならないのに、何処か喜び切れないでいる。分離の目的のひとつが土方から離れることである筈なのに、もしかしたら二度と土方に会えなくなるかもしれぬという思いに襲われては、立ちすくんでいる。
 余りにもあっさりと認められたせいか、却って気持ちの整理が付かぬ……
 
 分離が決まった三日後、招かれて、局長副長と酒を酌み交わした。
 その時の土方の顔は、随分と穏やかに見えた。ぴりぴりとした色が薄れ、余裕さえ仄見えた。きっと、もう今後は伊東の奴に悩まされることもないのだと、思っていたのだろう。
 ……許せない。
 自室に戻り、酔いの回った頭で、私は考えた。
 絶対に許せない。私がこれほど悩み苦しみ、抑え難い想いをねじ切るようにして離れてゆこうとしているのに、彼は何の悩みも苦しみも覚えることなく、これ幸いと私のことを忘れるのだ。
 そうは、させるものか。
 
 ……酔いの考えに過ぎぬとて翌朝には醒めたが、燻りは、残った。
 
 分離があっさり過ぎるほどあっさりと認められた為に、新選組を離れた後の宿所の手配が間に合わず、離隊までに更に何日かの猶予が生まれた。
 私は幾度も、土方の夢を見た。眠る時ばかりでなく、覚めていても、白昼夢を見た。何処までも冷たくつれない彼をねじ伏せ抱き締め奪う夢ばかり、見た。
 ……私は敢えて、生身の土方と行き合わぬように努めた。今彼の姿を見れば、夢の中身を現実にしたい欲望が抑え切れなくなると、わかっていたから。
 そう、まだ、正気は残っていた。他ならぬ私自身が分離を望んだのだ。自らの狂気に怯え、今の内に彼から離れねば完全に正気を失ってしまうという危機感に駆られて。
 
 そして、とうとう、その日がやってきた。
 三月、二十日
 目覚めた時から私は、物狂おしさに揺れていた。夢見はある意味で最悪だった。今迄見たこともないほどの狂態に陥れた相手が、最後の最後まで、私の名ではなく、別の男の名を口走り続けた。いつもと変わらぬ結末も、それまでの昏い悦びが余りに深く激しかったが故に、一層痛かった。
 このまま、会わずに、出てゆかねばならぬ。
 そんな理性の叫びが、奇妙に遠い。
 狂気の足音が、すぐそこまで迫っている気がする。
 私は、別段読みたくもない書を書見台に広げ、淡々とした手つきでめくり始めた。何か他事にかまけていないと、狂気とまともに向かい合ってしまう気がした。
 障子を開け放したままの居室の前を、何人かが連れ立って通りがかる。私と共に新選組を離れる者達だ。その中に混じっていた弟の三郎が、思い出したように立ち止まり、室内で端座している私に声を掛けた。
「兄上、もう御挨拶は済まされたんですか?」
「挨拶?」
「幹部連中にですよ。私は今、一応挨拶ぐらいはしておかないとなと思って、さっさと済ませてきましたよ」
 挨拶……
 確かに、そのくらいはしなければ、礼儀に悖《もと》る。
 二年半の間、世話には、なったのだ。
 私は、曖昧に笑った。
「……そうだな。今から、回っておくか」
 それじゃ、と屈託なく笑って去る三郎の足音が聞こえなくなってから、私は、書を閉じた。
 そして、わずかに躊躇《ためら》いながらも、立ち上がった。
 
「何が楽なもんか!」
 局長はじめ他の幹部達の所を回り、最後に土方の居室の近くまでやってきた私は、耳に飛び込んできたそんな声に、つと足を止めた。
「憎めばいい、で逃げられて、何が楽なもんか!」
 それは、私と行を共にするひとり、藤堂平助君の声であった。
「俺は、あん時此処にいなかったんだ! どうして山南先生が死ななきゃならなくなったのか、その詳しい経緯《いきさつ》なんて知らねえんだ! 誰に訊いてみても、はっきりした答は返ってこねえ、みんな話したがらねえ──ただわかるのは、山南先生が土方さんがいる限り戻りたくねえって帰隊を拒む手紙を近藤先生に届けたのが、脱退を企てたって見做されたんだ、ってことばっかりだ──それ以上のことは何もわからねえ──詳しいこともわからねえのに、掟で仕方なかったんだ、憎みたけりゃ憎めって言われたって、ああそうかいって納得出来るもんか!!」
 ……成程
 藤堂君は総長山南敬助と親しかった。その山南が、自分が江戸へ下向して不在にしている間に、自分には何も知らされることなく処断された。その死に対して本能的に納得出来ないものが残っているが故に、土方を問い詰めに来ているわけか。
 だが、土方は決して話すまい。
 私の名誉を守りたいからではなく、藤堂君が敬愛していた山南の名誉を守りたいが為に。
 果たして、土方の答はそっけなかった。
「詳しいことも何も、それが全てだ」
 ……だが、
「話したがらないわけではなく……それ以上何もないから、話せんだけだ」
 付け足された言葉に混じった極めてわずかな間《ま》が、私に、土方の心中にある何らかの葛藤を知らしめた。
(何を、迷っている……)
「嘘だ! 土方さんは何か隠してる──土方さんは、昔も今も、きっちり筋を通したがる人だ──それなのに、山南先生のことは、憎めばいい、憎めば楽だろう、だから憎めって、答を曖昧に済ませてばっかりじゃねえか! 深く突っ込まれたら都合の悪ィことがあるから、色々考えずに憎んでくれって、そう言われてる気がして仕様がねえ──だから俺は、もう今日を限りに出ていくんだから、最後にどうしても、土方さんの口から、そいつを聞きたくって、訊いてるんだ!!」
「さっきも言った通りだ。君が思いたいように思えばいい」
「俺がどう思いたいかじゃねえ! それじゃ、憎みたけりゃ憎めってのと同じだ!! どうして、隠そうとするんだ!!」
「……藤堂君」
 土方の声が、ふと、かすかな揺らぎを帯びる。
「私がもし何か隠しているとしても、それは、妥当な理由あってのことだ。……君には話せん」
 私は、ぴくりと肩を震わせた。
 もし何か隠しているとしても──だと。
 君には話せない──だと。
 隠していることがある、と言っているも同然ではないか。
 ……そうか。
 土方は、本当は、ぶちまけてしまいたいのだ。
 何もかも。
 だが、堪《こら》えているのだ。下手に打ち明ければ、知られたくない秘密まで曝してしまうからと。
 しかし、藤堂君が食い下がったら、土方の気持ちはぐらつくだろう。いや、現にぐらつきかけている。話し方が覿面《てきめん》慎重になっている。曝してはならぬことまで曝すまいと、用心するような口調だ。
「やっぱり──隠してることがあるんだ── 一体何を隠してるんだ──私情交じりの処断をしたってことじゃねえ──そう思いたけりゃ思えって言う以上、隠してるのはそんなことなんかじゃねえ── 一体どんな妥当な理由があって、俺には[#「俺には」に傍点]話せねえってんだ!?」
「……隠していると思い込むのも勝手だが、仮に私が君に」
 私は、開け放たれたままの障子の側に歩み寄った。
 喋らせるわけにはゆかない。
 すっ、とわずかに身を見せるようにすると、「隠し事とやらを話したとしたら、君は」と口にしかけた土方は、言葉を呑み込むような表情を垣間見せた。



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