「うわ──」
 眩い光に、誰もが思わず目を閉じる。
 ごうっ──
 風の音とも波濤の砕ける音ともつかぬ音が、耳を殴った。
 体がいきなり水の中に引き込まれたような息苦しさに、皆々が襲われる。
 だが、それは本当に何秒かの間のことで、その息苦しさが唐突に消えた時、彼らの足下には、魔法の船の甲板の感触があった。
「……船……」
「船、無事だったの……?」
 辺りを見回すが、金色の海竜の姿は何処にもない。……それどころか、すぐ近くに海岸が、そして、月明かりに照らされた石造りらしき建物が見える。
「あれが、白い女神像の祠?」
「あのお屋敷で一番偉い神様? ……だと思うけど、その神様が『祠まで送り届けよう』って言ってくれたんだから、そうじゃないの?」
「……まだ夜だけど、行ってみる?」
「危なくないかな。座礁したりしない?」
 皆々が決めかねている内に、船の方は勝手に島へ向けて動き出した。そして、そこだけ遠浅になっている砂浜へ、半ば乗り上げるようにして停まった。
 一行は恐る恐る縄梯子を下ろし、足許に気を付けながら上陸した。
 祠には、三十分足らずで辿り着けた。草に覆われた道は消滅しているも同然だったが、青い女神像の祠を探した時に比べれば、目的地が見えているだけ遙かに楽な道程であった。
 古びた扉を慎重に動かして開くと、不思議に澱みのない空気が彼らを迎えた。中には、夜目にも白い像が端然と佇んでおり、ログナーが点した杖先の明かりの先に、埃ひとつ被っていないように見える純白の姿が浮かび上がった。あでやかで、何処か威圧的でさえある美しさに輝く女神像であった。
「……ホント、古びてないのねー」
 ロココ・リナが呟く横で、メルカナートは、胴乱から、採取してきたアンゼリカの花を取り出した。
 女神像へ歩み寄って片膝を落とし、その足許へ花を供える。
 他の七人も女神像の前に跪き、それぞれに目を閉ざし、祈りを捧げた。
〈道は、開かれん──〉
 他の女神像に祈った時と同じように、耳ではなく胸の裡に直接響く“声”が聞こえた。
 今迄は、そこで終わりだった。
 だが今度は、その“声”に続き、別の穏やかな“声”が届いた。
〈……道は、今、開かれました〉
 その言葉に驚いて目を開いた八人は、己《おの》が目を疑った。
 眼前に聳えていた筈の純白の女神像の姿が消え、その代わりに、光り輝く一本道が──三、四人は並んで進めるほどの幅を持つ道が延びていたのである。
 周囲を囲むのは、祠の壁ではなく、星空の只中としか表現しようのない不思議な空間。
〈さあ、こちらへ〉
 促す“声”は、光る道の先から届いてくるように思えた。
 八人は立ち上がり、引き込まれるように歩き出した。足下には確かに、何かしらの床のような──強いて言うなら、柔らかな絨毯が敷かれているかのような感触がある。眩い光に覆われて、本当にそうなのかどうかを確かめることは出来なかったが。
 どのくらい、光の道を歩いただろう。
 行く手、ひときわ明るく輝いている中心に、女性の姿が見えた。
 光を纏い佇んでいるその女性の容姿は、幻の花を捧げてきた三体の女神像によく似ていた。……いや、もっと正確に言えば、それぞれの女神像の美しさを全て集めたような雰囲気を醸し出していた。穏やかな優しさも、透き通るような儚さも、そして毅然とした厳かさも、皆、彼女の裡にあった。
「ようこそ──新たなる勇者たち」
 今迄とは異なり、肉声のように聞こえる言葉が、一行の耳に届く。
「我が名はエルシア。あなた達の訪れを待っていました」
「エルシア……って……えっ、確か……」
 ロココ・リナが目をしばたく。
「えーっ!? も、もしかして“金色《こんじき》の女神”様!?」
「自身でそう名乗ったことはありませんが、人間世界でそのように呼ばれていることは知っています。あなた達が、光世界に住むシルバ族のことを“光の神々”と呼んでいることも」
 光そのものを衣として身に纏っているかのような白衣の女性は、静かに微笑んだ。女神、と自ら名乗らずとも、その姿には確かに“女神”としか言いようのない何か[#「何か」に傍点]があった。
「そして、こうして道が開いたということは、あなた達が既に“光の神々”と出会い、その心に適った、という証なのです」
「……あの神々のお屋敷で聞こえてきた声のこと?」
「そうです」
「でも、誰の姿も見えなかったわ。綺麗な場所で、アンゼリカの花も咲いたけど」
「光世界に住む者が、人間世界に住む者に強いて姿を見せることは、まずありません。……私のように妖精族の血を併せ引く者は、こうして比較的|容易《たやす》くあなた達の前に姿を見せることが叶うのですが」
「……おかしくないか」
 懐疑的な呟きを洩らしたのは、皆の一番後ろで斜めに身を引くように佇んでいたタンジェであった。
「おかしい……って?」
 聞き咎めたらしいクニンガンが振り仰ぐと、タンジェは目を細めた。
「さっきの、花が咲いた場所は、光世界じゃなかった。所謂“光の神々”とやらが光世界の住人……光族《ひかりぞく》だという話は俺も聞いたことはあるが、だとしたら、光世界でない場所に居るのはおかしい」
「あそこが、光世界……じゃなかったって、どうしてわかったの?」
「光世界も闇世界も、物質界じゃない。歩く足の下に物質の感触があって、草木が肉眼に見えて、花を摘むことさえ出来ていた時点で、そこはもう光世界では有り得ない。……ただ、全き人間世界だったという自信もない。何より、たった十分か十五分かの滞在だった筈なのに、船に戻った時、月がかなり西に傾いていた。余りに時間が早く経ち過ぎている。光世界や妖精世界では時間の流れが緩やかだということを考えると、一番しっくり来るのは、あれが妖精世界だった、ということだ」
 そこまで話したところで、タンジェは気が差したように口を噤んだ。クニンガンが「御免、言われてる意味がよくわからないんだ……」と言いたそうな目で髭を垂らしていることに気付いたのだろう。
「確かに、世界の理《ことわり》を知る者には、奇異に思われたことでしょう」
 エルシアは、体を斜《はす》にして疑わしげな表情を浮かべているタンジェに、穏やかなまなざしを当てた。
「けれども、世界の境が曖昧となり重なり合う領域が、この世界には幾つも存在します。あなた達が金色の海竜たちに導かれて赴いたのは、そういった領域のひとつなのです」
「世界が……重なり合う領域?」
「最後の道を開いたアンゼリカの花は、光世界と妖精世界そして人間世界の重なり合う領域に咲く花です。そして、アンゼリカの姿を目にし、手に取ることが出来るのは、その領域に辿り着くことの出来た者だけ」
「……その理屈が本当なら、アンゼリカってのは、人間世界では存在出来ない花、ということにならないか?」
「いいえ。全ての世界が重なる領域で手に出来る物は、人間世界でも存在し得ます。アンゼリカについて言えば、これまで株そのものを持ち出そうとした者がひとりも居なかっただけです」
「……だとよ。良かったな、メルカナート」
 ぶっきら棒に言ったタンジェは、僅かに体の向きを変え、先程までよりは女神と正対するような姿勢になった。
「だが、あんたが本当に“金色《こんじき》の女神”……“|光の妖精姫《ブライト・フェアリー・プリンセス》”なのかどうか、俺には疑問だな」
「そのように疑うのは悪いことではありません」
 エルシアは頷いた。
「危ぶむ理由をお話しなさい。私に答えることが許される問であれば、答えましょう」
「……俺の知ってる限り、光世界に住む“光の妖精|《き》”は、自ら世界の境を越えることは出来ない。人の世に姿を見せることがあるとすれば、それは、人間世界に住む誰かから魔道の儀式によって召喚された時だけだ。……此処が奇妙な場所だというのはわかる。人間世界では有り得ないだろうというのも。だが、足下の道は、確かに物質として存在するように感じられる。ということは、光世界でも有り得ない。光世界を出ることが出来ない筈の、そして召喚もされていない筈の光の妖精|《き》エルシアが、光世界ではない筈のこの場所に居ることが出来るのは、おかしくないか。それとも──俺の知識が間違ってるだけなのか」
「間違ってはいません、闇と魔に深く愛されし人の子よ」
 エルシアの声は、穏やかそのものであった。
「ただ、この世界には、その余《よ》の領域があります。先程話した“世界が重なり合う領域”もそうですが、一番わかり易いのは、全ての世界に遍在《へんざい》する夢世界です。あなた達の魂が夢世界へと彷徨《さまよ》い出る時、我々光世界に住む者は、同じ世界で相会うことが叶います」
「……だが、今、俺たちは、夢を見ているわけじゃない」
「今回は、あなた達が、三つの女神像全てに幻の花を供えて祈るという定められた手続を踏んだことで、人間世界と光世界とを繋ぐ“道”が開き、あなた達の立つ世界と、私の立つ世界とが、一時的に重なり合ったのです。……ただ、私の説明で納得出来なければ、それは是非もないこと。私がエルシアであることが信じられないのでしたら、信じぬままに耳を傾け、その言葉を疑う、それで良いのです」
 タンジェは僅かに言葉を選ぼうとするような表情を見せたが、すぐにかぶりを振った。
「……いや、俺がまだまだ無知だった、と思うだけだ」
 本当は、タンジェには最初から、相手が“金色《こんじき》の女神”以外の何ものでもないことはわかっていた。……否、それは、正確には、“わかっていた”のではなかった。自分が手にしている杖《スタッフ》の以前の持ち主がかつて同じようにこの女神と邂逅した時の記憶が、相手の姿を目《ま》の当たりにした瞬間、杖から流れ込んできたのだった。
 けれども、それは所詮“他人の記憶”に過ぎない──自身の知識と照らし合わせて不審を口にしたのは、そんな、反発にも似た感情の動きからだった。……しかし相手は、そんな彼の心の動きも恐らく全て見抜いていながら、丁寧に答を返し、彼の感情を否定することなく、信じられなければそれで良いのだと受け止めてくれた。それを何処までも頑なに「信じられない」と突っ撥ねるのは、流石に狭量だろう。
「で、その重なり合った世界で俺たちと言葉を交わそうとするのは、何が目的だ?」
「あなた達は、邪悪なるバドマを封じ込める為に“光の神々”の助力を求めました。……遙か昔、三人の魔道士たちがそうしたように」
「……三人?」
 思わず呟いたのは、今度は、シフォロンであった。
「四人ではないのですか?」
 今迄に見聞きしてきた伝説では確か、バドマに立ち向かった魔道士は四人居たことになっているのだが……?



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