夜《よ》が明けた。
 アゾレス町長の許で一夜を過ごしたシフォロン達が朝食の席に着くと、町長は何故か深々と彼らに頭を下げた。
「皆様これから、ヴィルシャナ島に向かわれるのですか」
「ええ。仲間も先に島に渡っていますし、なるべく早めに合流しようと思います」
「……その、お仲間の方《かた》なのですが……」
 町長は少し言い淀んだ。
「実は……昨夜、町の入口に詰めていた番人たちの話ですが、その……襲撃してきた、ひとつ目の化物どもを、一匹残らず倒して……去っていかれたとか」
「──え?」
 シフォロンは目を見開いた。
「タンジェが──昨夜!?」
「はい、その後《ご》は、化物はもう一匹も現われないようです。……我々アゾレスの住人が非礼な振舞をしてしまったにも拘らず、化物を退治してくださったとは、改めて心から感謝申し上げます。どうぞ宜しくお伝えください」
 シフォロン達は顔を見合わせた。タンジェが別行動を取ったのは夕方だった筈だが、それからすぐに隣の島へ渡ったわけではなかったのだろうか。
「……隣の島へ移動する前に、化物が島に入り込んできたのに気付いて、退治しようとしたのかな」
 町の外へ向かいながらのアクラの呟きに、「それしか考えられまい」とイスファムがかぶりを振る。
「止むを得ぬ仕儀とは言え、独りで立ち向かうとは、危険な真似をしたものだ」
「ひとつ目の化物と関わり合いになるのは御免だなんて言ってたくせに、相変わらず素直じゃないわよねー」
 ロココ・リナの相槌に、シフォロンは苦笑いを浮かべた。
「いや、まあ……実は、その『独りで』という辺りが、私には少し引っ掛かるんだけどね」
「引っ掛かる?」
「うん。……私たちは今迄、色々奴ら[#「奴ら」に傍点]と関わり合いになることがあった。けれど、少なくとも、独りで太刀打ち出来るような相手じゃなかった……と思うんだ」
「でも、タンジェはフォーリアで、“死”の呪文を使って独りで一匹やっつけたよね。もう、そのくらいの力は持ってるってことじゃないの?」
 アクラが小首をかしげる。
「それに……この間も、塔ひとつ丸ごと燃やすほどの術を駆使してた。……わたし達もそうだけど、この旅の間に、それなりには強くなってきてるってだけじゃないのかな?」
「……ああ、それはあるかもしれない。もしそうだとしたら、私たちにも、ひとつ目の化物一族に対する勝機はあるということだろう」
 シフォロンは再度苦笑したが、内心ではまだ疑念を引き摺っていた。町長は「化物ども[#「ども」に傍点]」と語っていたのだから、化物は複数居たということになる。如何にタンジェの力量が上がっているとしても、それを独りで一匹残らず退治して立ち去ったというのは尋常ではない気がする。
「……気になることがあるのなら、隣の島へ移動する前に、当の番人たちから昨夜の話を聞いておけば良いのではないかね、シフォロン」
 それまで黙っていたログナーが、ぽんと口を挟む。シフォロンは目をしばたいた。それもそうだ。伝聞に過ぎない話を元にあれこれ考え込むよりも、実際に目《ま》の当たりにした人間に色々く方が良いに決まっている。
 普段番人たちが詰めているという町外れの祠へと足を向けた一行《いっこう》は、途中、町の人々が思い思いにベンチに腰掛けて休息している広場を通《とお》った。……当面は危機が去ったという認識なのか、昨日のように敵意を向けてくる者は居ない。ただ、一行を見て気まずげに目を逸らす男たちも幾許かは存在する。シフォロン達は、敢えて誰かに目を留《と》めるということもなく、ごく淡々とした足取りで、綺麗に敷かれた石畳の上を歩いた。
 だが、広場の外れまで来た所で、メルカナートが急に足を止めた。
「どうした」
「あれは──何の木だろう」
 半ば独りごつように呟き、歩を転じる。──その足の向く先には、広場の片隅で枝を広げている一本の灌木があった。近付いて、懐から取り出した眼鏡を掛けてその枝振りや葉の艶を仔細に観察したメルカナートは、僅かに困惑した顔でかぶりを振った。
「マンダにも似ているけど、違う……何だろう……」
「ヤズウの木です」
 不意に横合から掛けられた女声に驚いたメルカナートは、傍らに目を遣り、ハッとなった。そこに佇んでいたのは、直ぐな黒髪を肩の辺りに垂らした、清楚な雰囲気の娘であった。その瞳は透き通るように青く、何処か儚げにも見えた。
(ああ──ナタニアの青だ)
 メルカナートは危うくその瞳に見とれたかけたが、すぐに我に返り、眼鏡を外して仕舞いながら小首をかしげた。
「ヤズウの木……初めて聞く名前ですが、この島にしか生えていないんですか?」
「ええ、そうらしいと聞いています。昔は島のあちらこちらに沢山生えていたそうですが、今では、もう、この一本だけになってしまいました」
「そうなんですか……」
「毎年、金色の実を、ひとつだけ付けるんです。今年も、そろそろ実の生る季節かしら……」
 娘は穏やかに、しかしメルカナートの真剣なまなざしが気になるのか、僅かに頬を染めながら言葉の糸を紡ぐ。
「島に沢山生えていた頃は、それぞれの木に生る実がいつの間にか消えてなくなっていたので、神々のお屋敷での宴に供えられているに違いない、とも言われていたほど綺麗な実ですの」
「神々のお屋敷?」
「あ、はい、南の海の底の何処かにあると、昔から言われているんです。ごく稀にですけれど、神々のお屋敷で月夜の宴に迷い込むことの出来た人が居て、そういった人たちが、絵にも描けないほど美しいお屋敷だった、という話を残されてるんですよ。特に、泉の畔に咲くお花がとっても美しいんだそうです。一体どんなお花なのかしら」
「……きっと、あなたのように美しい花に違いありません」
 真顔で呟くメルカナートに、娘は吃驚したような顔になり、次いで耳まで真っ赤になった。
「まあ……からかわないでください、旅のお方。いけないことを仰いますのね」
「いけないこと?」
 メルカナートは目をしばたいた。
「あ、あの、何か僕が失礼なことを? 申し訳ありません」
「え……いいえ、そ、そういうわけでは……」
 娘はいよいよ赤くなったが、気を取り直したようにヤズウの木に目を戻した。
「……お花の話ですけれど、一番最近では、と言っても百年以上も前ですけれど、南の海で遭難した植物学者さんが神々のお屋敷に流れ着いて、そこで、白銀色《しろがねいろ》の美しいお花が咲き乱れる宴に遭遇された、というお話があります。アンジェリカ、でしたかしら、そんな感じの名前が書き残されていますの」
 聞くや、メルカナートはガバッと身を乗り出し、娘の顔を覗き込んでいた。
「そっ──その方《かた》の体験が、この島で何かに書き残されて伝えられているんですか!?」
「え、ええ、多分、アリウスさんでしたら……」
 娘は、ドキッとしたような表情で身を引きながら、それでも答は返してくれた。
「この町で長年古代語と古代文字を研究されているアリウスさんという方でしたら、もっと色々と御存じだと思います。この島に伝わる古文書も沢山お持ちですし……町長さまのお屋敷のお隣にお住まいです」
「有難うございます! 後で伺ってみます!」
 メルカナートは勢い良く頭を下げた。思い掛けずアンゼリカの消息を聞けた喜びと相俟って、ナタニア色の瞳を持つ娘が天の使いのように思えた。

 町外れの祠には、人の背丈の倍ほどもある女神像が祀られていた。
 その全身は優しい緑色に輝いており、気品に満ちた美しさが、見る者の心を不思議に和ませる。
「綺麗だろう? この女神様は、二千年以上前、神々によってこの地に遣わされた、という言い伝えがあってね」
 祠の番人は、何処か誇らしげに語る。
「以来、此処に祠を建ててお守りする為に、アゾレスの町が大きく広がったんだそうだ。……まあ、今はもう町の人間しかお参りに来ないけど、五百年くらい前までは大陸から巡礼も来ていたっていうよ。何でも、他にあと二体、何処かしらに女神像があるとかでね」
「行き来が途絶えた町だ、と大陸では聞いていました」
 シフォロンが相槌を打つと、初老の番人頭は苦笑いを浮かべた。
「俺たちの方では、時々漁師が大陸へ渡って、珍しい物を買ってきたりしているよ。ただ、向こうから来る船は絶えて久しい。何でも、島に近付こうとすると難破しちまう船が多かったって話だが、そりゃその船に邪《よこしま》な連中が乗ってたからに違いない、と俺たちは思ってる」
「ああ……」
 シフォロンも苦い笑みを浮かべた。
「言い伝えのお話は、町長さんの所で伺いました。邪悪な存在を寄せ付けない強い結界が、この島をずっと護っていたそうですね」
「……あんたらには悪いことをしたよ」
 番人頭は、体を縮めるようにして、半白髪の頭を下げた。
「俺たちの方も、まさか、結界が解ける日が来るなんて思いもしてなかったから。……あの黒魔道士も、俺たちがあれだけの仕打ちをしたのに、あの化物どもを退治してくれてな。おかげで、町の人間も今朝からまた普段通りに浜や森に出掛けられるようになった。今更だけど、感謝してるよ」
「……その、退治したというのは、一体、どんな風にだったんですか?」
 シフォロンが問い掛けると、番人頭は溜め息をついた。
「化物どもが、俺たちを馬鹿にして結界の外で挑発してたところへ、バリバリーッと雷みたいな網が広がって、化物どもが叩き落とされて……何が起きたのかと吃驚してたら、あの黒魔道士が戻ってきて、何か呪文を唱えて、こう……」
 番人は、右手の人差し指と中指を揃え、ひょいひょいと縦横斜めに動かす。
「……こんな感じで、化物どもに指を突き付けてね。そしたら、化物どもがパタッと動かなくなって、そのまんま跡形もなく消えちまった。何だか恐ろしげな魔法を使って消し去ったんだな、ってことはわかったけど、頭ひとつ下げただけで、何も言わずに立ち去ってったし。……どうして咄嗟に礼のひとつも言えなかったかなあって、後から流石に申し訳なくなったよ」
「……夜だったんですか?」
「ああ。夜中にはなってなかったけど、普通ならみんな寝静まるかなって頃合だったと思う」
「そうでしたか……」
 シフォロンは僅かに考え込んだが、程なく笑顔で相手に頭を下げた。
「皆さんのお気持ちは、彼に伝えておきます。……先に、隣の島に渡っておくと言っていましたから」
「そうしておいてくれな。……おい、ティール、今日の花はまだなのか?」
 番人頭が、通りがかった別の若い番人に声を掛ける。問われた方は、「済みません」と頭を下げ、「今マールが摘みに行ってますから」と付け足した。番人頭は、鼻で息をつきながら「まったく、最近の若いモンは女神様への敬意が足りないよ」と独りごち、それからシフォロンに目を戻した。
「俺が此処でお役目に就いてから五十年近くになるが、女神様には、花をお供えするのが決まりなんだ。本当は何か特別な花がいいらしいんだが、何の花がいいのかわからなくなっちまってるし……だから今では、島でその日に一番綺麗に咲いたと思える花を摘んできて、お供えするようにしてるんだよ」
 シフォロンは改めて女神像を見上げた。……何故か不思議に懐かしい、そんな気持ちを覚えながら。



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