西の方《かた》に海を望む町であった。
 一行《いっこう》が砂漠から再び緑す地へ出た時、季節は緩やかに春に近付いていた。冬草の中に延びる街道を辿り、その終着点が、その町、フォーリアであった。
「フォーリアは割に新しい町で」
 シフォロンが問わず語りに語る。
「今ランガズム大陸にある四つの大きな王国の中では一番歴史の浅いデーナ王国の城下町だから、そうだね、確か今から三十年ほど前に今のような感じになったのかな。だから、多分、今でも、建国した王様が治めていらっしゃるんだよ」
 とまれ、波打つ海の見える町というのは、コニット以来であった。内海なのか、その波はやや穏やかには見えたが、海には違いない。潮の香りがした。
 一行が泊まることにした“宝船”という宿の二階の露台からも、海を望むことが出来た。その露台に飛び出した元王女ロココ・リナが、懐かしいわ、と何度も口にして喜ぶ。ログナーが理由を問うと、彼女は、
「だって、アルリナでも、お城のあたしの部屋から、海が見えてたんだもの」
 と答えた。
「ただ、アルリナだったら、東側が海なの。入り江の中に大きな船が来て……あら、そう言えば此処の海、港ってないの?」
「……本当だ。船の姿が全然見えないな」
「出払ってるのかしら。ま、海が見えるってだけでもあたしは嬉しいから別にいいけど」
 そう言いながら、彼女は、露台の手摺りに両手を突いて伸び上がった。
「うーん、いい香り! ねえ、そう思わない、タンジェ?」
「……思わないな」
 ぽつりと、声が返った。
 ロココは驚いたように振り返り、露台の隅で壁に凭れて腕組みしている長身の黒魔道師をまじまじと眺めた。
「どうして? あんただって、海の見える町で育ったんでしょ? パルモーンに居たって言ってたじゃない」
「だからだ」
 タンジェは呟くように答える。
「俺にとって、あの町は死んだ町だ」
「? 何よ、それ」
「俺を見捨て、俺が見捨てた町だ……だから、死んだ町だ。それを思い出させるような臭《にお》いは……」
「わかんないわよ、そんなこと言われたって」
「わからなくていい」
 タンジェは、ひんやりとした笑みを片頬に滑らせると、仲間たちの視線に背を向け、場から去っていった。
「……どういうことなんでしょう」
 メルカナートの呟きは、他の者の心を代弁していた。
「町を見捨てたっていうのはわかる気がしますけど、町が見捨てるっていうのは……?」
「居られなくなっちゃったとか」
「かな……だけど、余り詮索すると、彼は怒るだろうな」
「詮索されるのが嫌いだからね」
 仲間たちは頷き合い、海に目を戻した。

 部屋にも、潮の香りが染み付いていた。
 タンジェは疲れたように椅子に腰を落とすと、ぼんやり宙を見た。
(ギルドに……行かないとな……)
 思ってはみるが、腰が上がらない。理由は……わかっている。海を望むこの町に入ったことで、彼は、自分が何ゆえ旅に出たかを思い出し、徒労感に襲われていたのだ。
(此処でも、もし……だとしたら俺の旅は……)
 いきなりのノックと共に扉が開《ひら》き、タンジェはビクッと肩を揺らした。ロココ・リナだった。
「ねえね、魔法大学があるんだって、この町! みんな行くって言ってるわよ、行かない?」
「……ああ……」
 どの道、魔道師ギルドにも顔出しせねばならない。彼はようやく腰を上げると、部屋を出た。ロココの興味深そうな視線には気付いたが、反応するのも億劫なので、気付かぬ振りで無視する。
 町中にも、潮の香りが流れていた。
 フォーリアは若く活気のある町だと聞いていたが、そういう感じは見受けられなかった。寧ろ、人気《ひとけ》の少ない、妙にうらさみしい雰囲気が、大通りを漂っている。潮風とその空気とが、青年黒魔道師に嫌でも故郷を思い出させた。
(パルモーン……俺が見捨て、俺を見捨てた……もう誰も居ない町……)
「どうしたの、タンジェ?」
 アクラの声で我に返ると、仲間たちが怪訝そうに自分の方を振り返っていた。どうやら自分は、知らず道の真ん中で立ち止まってしまっていたらしい。彼は微苦笑未満の表情を閃かせ、仲間たちとの距離を埋めた。
 魔法大学の構内には、巡ってきた春を謳うように、色取り取りの花が咲き乱れていた。メルカナートは嘆声を洩らしたが、ふと奇妙なことに気付いた。
「あれ……おかしいな……」
「何が?」
「この植物たち、北の方にしか育たないのとか、海辺には見られないのとか、此処にあっては変なものまでごっちゃに生えてるんです。花も、今の時期に咲く筈のないものが開花してます」
「そうなの?」
「例えば、このレイアは夏の暑い盛りに咲く花ですし、そこのオパルミナは冬の最も厳しい頃に花を付ける木です。あそこの灌木《かんぼく》、ハンムドなどは、先日砂漠で生えているのを見ましたよね? ──どうなってるんでしょう、此処は」
 彼は頻りに首を捻り、花々を見比べてはまた首を捻る。
「タンジェ、何か知りませんか? これはどう見ても魔法か何かみたいなんですが」
 問い掛けられて、ぼんやりしていたタンジェはハッとしたように頭《こうべ》を巡らした。
「……何が?」
 仲間たちは呆れた。
「なーにー? ぜーんぜん聞いてなかったのぉー?」
「……済まん」
 ロココが挑発するような口調で責めたにも拘らず、妙にすんなりと、タンジェは謝る。ロココは面食らったように目をしばたかせたが、やがて肩を竦めた。
「変な奴。どうかしてるわ、あんた」
「……」
「ま、いいわ。メルカナートが言ったのは、この一帯の植物が変だってこと。何かの魔法か、って訊いてるの」
「あんまり突拍子もない草木がごちゃごちゃになって生えているものですから。花も、咲く季節が区々《まちまち》なのに、こうして一緒に咲いていますし」
 メルカナートが補足する。
「ああ……そのことか」
 何となくホッとした様子で、タンジェは呟いた。
「近付いて、手で触れてみればわかる。そこは、色分類で言えば緑の魔道による植物園みたいな場所だ」
「手で触れて?」
 言われて、そろそろと手を近付けてみたメルカナートは、途中で吃驚《びっくり》したようにその手を止めた。
「──これは! このレイアの周囲だけ、空気の温度が高い!」
 榛《はしばみ》色の美しい瞳が、感動にキラキラと輝く。
「じゃあこっちは──ああ! やっぱり! オパルミナの周りはひんやり冷たくて、寒いほどだ! 全部、こんな感じなんですか?」
「簡単に言えば、植物の周囲の大気の状態、寒暖乾湿を調節しているわけだ。日照時間も調節するらしいが、俺はこういう方面の魔道は得意じゃないから、余り詳しいことは教えられない」
「それだけで充分です、有難う」
「礼を言われるほどのことじゃない」
 タンジェは微かに笑んだが、すぐにまた何処か遠い表情に戻った。仲間たちは、こっそり顔を見合わせた。
「変。タンジェ、絶対、変」
 ロココが呟く。
 受付へいつも通りに受講手続をしに行く七人と別れ、別行動を取ったタンジェは、構内にある魔道師ギルドに足を向けた。
 ギルド内には、人っ子ひとり見当たらず、閑散としていた。受付に当たるべきカウンターの向こうにも、誰も居ない。奥に声を掛けようかと迷っていると、人の気配に気付いたのか、まだ見習魔道士らしい少年が姿を見せた。タンジェは決まり通りにステップを踏み、決まり通りの答礼を受けてから、口を開いた。
「初めまして。パルモーンから来た、タンジェという者だが……老師方はお出掛けか?」
「はい。大学の講義で皆さんお留守です。私は学院の見習生フィルと申します。お見知りおきください」
 まだ十二、三歳と思《おぼ》しき少年は、丁寧に一礼した。声も変わっていない。遠来の魔道師を迎えるのは初めてなのか、あどけない顔が緊張と興奮で紅潮している。
(俺にも、こんな頃があったな)
 タンジェは、ふっと思い出の中に落ち込みそうになった意識を慌てて引き上げた。
「そうか……しかし、講義とはいえ老師方が皆御不在とは、驚いたな」
「フォーリアの魔道師ギルドは、今、極端な人手不足なんです」
 フィル少年は、済まなそうに答える。
「人手不足?」
「はい。今この町を悩ませている事件は、魔道士・魔道師たちの上にも例外なく降り掛かってまして、極度に魔道師が減ってしまったんです」
「事件……魔道師が減ってるって? それはどうして」
 タンジェが細い目を一層細めて訊くと、少年は俯き、そこでようやくハッと気付いたように奥の椅子をタンジェに勧めた。
「済みません、立たせっ放しにしてしまって……」
「構わない」
 タンジェの微笑に、少年はパッと赤くなる。
 椅子に腰を落ち着けると、タンジェは改めて口を開いた。
「さっきの話だけど」
「はい。事件というのは、一か月ぐらい前から起きているんです。羽のある魔物だか化物だかが、次々と町の人を無差別に攫ってゆくんです」
「羽のある……」
「はい。……実は、大きな声では言えないんですが、デーナの王様も、三日ぐらい前に、その魔物に攫われてしまったそうです……」
「それは大変だな……しかし、魔道師がそんなに易々《やすやす》と魔物なんかに攫われるものなのか?」
「流石に、上級魔道師が攫われたという話はまだ聞きませんけど……」
 少年はタンジェを見て口籠もる。タンジェは苦笑いを浮かべた。
「……成程、俺みたいな中級まりまでが攫われている、と」
 魔法大学では、上級以上の魔道師にしか講義資格はない。しかし、講義以外の雑用などは、中級以下の魔道師の役目だ。その雑用をする魔道師が減ってしまったので、普段そういうことをしなくても良い上級以上の魔道師が雑用までせねばならず、それでギルドに皺寄せが来て、本来その役目に当たることのない魔道学院の見習生までもが駆り出される事態となっているのだろう。
「その魔物というのは、姿を見た者は居るのか?」
「いえ、いつもあっと言う間のことで、詳しい姿形までは誰も……でも、空を飛んで去るんだから、羽があるのは確かです。実は私も見ました……夕暮れ時に、町の人を攫って飛んでゆく姿を、数日前に」
 フィル少年は身震いした。
「みんな言ってます。今度は自分の番かもしれない、って……出歩く人も減りました。みんな家に籠もりがちで……大学に来てる人などは、大学に泊まり込んだりしています」
 それで町に人が少なかったのか、とタンジェは内心で納得した。
「……羽ある魔物か……」
 顎に指を添えて考え込む。少年は何に気付いたのか、「あ、少々お待ちください」と立ち上がり、やがてカップにお茶を淹れて戻ってきた。
「どうぞ、老師」
「有難う」
 出されたお茶を啜りながらタンジェがなおも色々考え込んでいると、「あのう……」と少年が声を掛けてきた。
「あの、老師は、今、お幾つなんですか?」
「俺?」
 タンジェは目を上げ、ゆっくりしばたくと、カップを置いた。
「俺は、二十二だ。いや……そろそろ二十三になっているかな……」
「二十二? そんなにお若くて中級魔道師なんですね……尊敬してしまいます」
 フィル少年が憧れのまなざしを向けてくる。
「尊敬……とんでもないよ」
「いえ、本当です。私は見習として学院に入ってそろそろ十年目なんですけど、余り出来のいい生徒じゃないんです」
「君は幾つ?」
「はい、十二です。もうすぐ十三になります」
「どのくらいまで進んだんだい」
「まだ鷹の課程の五段階目なんです。同期生は、早い者はもう七段階目まで進んでます……」
 少年は肩を落とす。
「何だ、そこそこじゃないか」
 タンジェは微笑した。
「俺だって君ぐらいの時にはその程度だったさ」
 但し、黒魔道だけなら既に中級魔道師並みだったがな、と内心でだけ呟き、再びカップを手にする。
「でも……お幾つの時に学院に入られたんですか?」
「俺は魔道学院で学んだんじゃないよ。私塾で勉強したんだ」
「そうなんですか……あの、魔道師の免状はいつ?」
「十九の時に」
 フィル少年は、ぼうっとなったような表情を見せた。
「凄いなあ……やっぱり尊敬してしまいます」
「いや、まだまださ」
 苦笑しつつお茶を啜るタンジェに、少年はかぶりを振り、嘆息する。
「そんなことありませんよ。私もしっかり勉強して、早くツトラ・タグ老師のような立派な魔道師になりたいなって思ってるんですけど……」
 ガチャン!
 フィル少年は吃驚して言葉を切った。
 カップが床で砕け散り、中身が飛び散っていた。目の前に座る青年魔道師の顔色が変わっていた。カップを落としてしまったことにも気付かないのか、その目が食い入るように少年を見つめている。
 唇が開き、罅《ひび》割れた声がそこから洩れた。
「ツトラ・タグを……知ってるのか?」
 言葉が震えていた。



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