私は、甚だ困窮していた。
 気軽に引き受けたは良いが、たった十個の事件を選ぶことの、何と困難なことか。
 ……亡霊の身の悲しさ、この万年貸切部屋での過去の出来事が記された帳面をめくることが、そもそも、出来ないのだ。
 まだまだ私以外にも“宿題”を抱えている者はいるのだからと呑気に構えていたのに、ふと気付いて周りを見回せば、私よりも後から“きり番りくえすと”とやらの語り手を務めることになっていた筈の沖田も、私より前に語り手を引き受けて難儀していた筈の土方も、はや、役目を終えて身軽になってしまっている。今や、“宿題”を背負っているのは、私ひとりになってしまったのだ。
 茶店に出入りするようになった頃から可愛がってもら……いや、こほん、世話になっている白牡丹殿の御希望なのだ。早く何とか報いなくては。
 しかし、焦ってみても、帳面をめくれないでは、どうにもならない。思い出せる出来事だけで選べばいいではないかという考え方もあろうが、やはりきちんと丹念に過去の出来事を総浚えして選ばねば、如何にも適当に選んだようで、白牡丹殿に申し訳ないではないか。
 新暦とやらでは既に今日から師走に入っているというのに……。
 茶店の部屋の片隅でうずくまって悶々としていると、土方が気付いて声をかけてくれた。
「何を部屋の隅でさめざめ泣いてやがるんだ」
 ……亡霊の身ゆえ涙は流せぬ。だが、土方には、私が本当に泣きたい気持ちでいる時にはそれが伝わるらしい。その証拠に、私が心底からは泣きたい気分でない時には、土方は決して「泣いている」とは言ってくれない。どんなに袖で目をぬぐってみせても、「泣き真似してやがる」としか言ってくれない。……まあ、そうそう甘えられては、土方とて困るだろうが。
 私は素直に、この茶店の去年の出来事帳をめくれなくて難儀していることを告げた。
「……そういうことは、さっさと白旗を揚げねえか」
 土方は小さく苦笑した。白旗を揚げるというのは、夷人の習わしで降参を意味する行為らしい。
「何で今迄黙ってたんだ。誰も気付かねえだろ。ひとりで出来ねえことはさっさと認めちまえと、里の“亡霊先生の御託宣”にもあるだろうが」
 私は、泣き笑いに近い表情に顔を引きつらせた。土方の言う「亡霊先生の御託宣」とは、里の某所で引くことの出来る神籤《みくじ》のような代物「亡霊先生、本日のお言葉」のことで、神籤ではなく私が吐きためてある言葉が出てくるように出来ている。その中には確かに、土方が口にしたような言葉も入っているのだが……
〈だって、誰かの手を借りたら、私の選択に色々と邪魔が入るじゃないですか〜〉
 ……そう。邪魔されたくない企てなら誰にも喋るな、という“託宣”だって、その中にはあるのだ。
 だが土方は、からっと一笑した。
「それもまた面白いじゃねえか。どうせ、邪魔されたって、自分が話題にしたいと思った事件は話題にする気だろ」
〈う……それはまあ……〉
「いっそ、皆に手伝わせて、選ばせまい話題にさせまいと当人達にじたばたさせたらどうだ? ……自分の首を絞める発言って気もするんだが、ひとりじゃなく皆に手伝わせりゃ、ひとりが邪魔しようとしても他の奴が更にそれを邪魔してくれるかもしれねえだろ」
 呵々と笑って、土方は、小箪笥の上に載っていた去年分のぶ厚い帳面を下ろしてくれた。そして、「止めてほしい所で止めろよ」と言いながら、ゆっくりと最初から頁をめくり始めた。
「土方さん、昼餉の支度が出来……何なさってるんです、古い帳面など持ち出して」
「亡霊の奴の手助けだよ」
「何の手助けですって?」
「きり番りくえすと話の題材探しだと。亡霊には逆立ちしたって帳面がめくれねえからな。伊東、おめェも手伝え」
「それはまあ、此奴に力添えをするに吝かではありませんが……しかし、他人の手を借りるとはな……めくってくれる者が自身に都合の悪い部分を飛ばそうとしたら、防ぐ手立てがないではないか」
〈私もそう申し上げたんですけどね……土方さんが、それも面白いだろうと〉
「面白い? 防げぬのがか?」
「こら伊東、ちっと頭を回して考えろ。何の為におめェに声をかけたと思ってんだ。おめェ、俺が自分に都合の悪ィ辺りを飛ばそうとしても許さねえだろう?」
 生身の私はぱちぱちと目をしばたき、そして苦笑した。
「……確かに」
「俺だって同じさ。だから、来る者拒まずで大勢の目を入れりャア、それだけ、ずるもやりにくくなる……おい、向こうの伊東君も、早くこっちへ来い。向こうの土方や有希殿が来たら仲間に入れてやれよ。内藤だのコンミン殿だのもな」
 ……斯くしてようやく、私の事件選びは始まったのであった。
 
「ところで、これって、順位は付けなくていいのか?」
 何処から伝わったものか、次から次から人がやってくる。内藤隼人殿に伊東倫明殿にズーグ・コンミン殿に……近藤有希殿に『幕末並行世界』の土方さん……万年貸切の六畳間は、あっという間に人で一杯になる。
「十大事件ってのは普通、一位から十位までの順位を付けるモンなんだが」
 内藤隼人殿は、この里の“ぱられるわーるど”とやらに棲む“もうひとりの”土方歳三だが、私の馴染んでいる土方とは微妙に気性が異なる。何と言うか……やや甘い、と言うのか……誤解を恐れず言うなら、土方よりも、ひとりで居続けることに耐性が乏しい、と言うのか。
「別に考えなくてもいいんじゃない? 順位付けしてくれってリクエストじゃないんでしょ?」
「……それもそうだな」
 内藤殿が苦笑している隣にいる女性は、伊東倫命殿。女性らしからぬ名前は、男が生まれると決め込んでいた祖父から押しつけられたものだという。我々が気軽にそんな呼び方は出来ないが、内藤殿は「リン」と呼ぶ。不老難死の“月石の民”とやらに“生まれ変わって”以来、内藤殿が後見役を務めているのだそうだ。
「取り敢えず、あらましページで面白そうな辺りを見ると……」
 その横から更にひょいと顔を出し、ごく自然に帳面を取り上げてめくり始めたのが、かつて内藤殿が“新人”だった頃の後見役を務めたというズーグ・コンミン殿。何でも、“生前”の倫命殿とも付き合いがあったらしく、これまた気軽に「リン」と呼んで憚らない。
「なになに、『百戦錬磨の(笑)コンミン先生』? 何の話だったかな。ああ、“機会があったら向こうの土方君を玩具にしていい券”を白牡丹殿から貰い損ねた辺りだね。あの時は確か……」
「ばっ、馬鹿馬鹿、そんなつまらねえ事件を選ぶんじゃねえぞ亡霊っっ。もっとでっけえ事件は幾らでもあるだろうがっっ」
 内藤殿が目許を赤くして遮る。……はて、その焦り方、あの時に何か内藤殿に都合の悪いことでもあっただろうか……
 が、思い出せない内に、コンミン殿は「確かにね」と苦笑してあっさり引き下がった。
「では、こちらの『さき嬢の大誤解』というのは? これは選ばなければ嘘だろう」
 聞くや否や飛び上がったのは、生身の私。
「い、いやそのっ、そっ、その事件は確か亡霊めにとっても都合が悪い話ではっ、なあ亡霊っ」
 同意を求められ、私はちょっと考え込んだ。……確かに、最後に痛い目に遭ったのは私ではある。
〈……そ、そうですねえ、最終的には……〉
「やめましょうやめましょう、余り微妙な話は若紫ちゃんにも良くないですしねっっ」
 向こうの私──この茶店では“三郎よりは上の弟”といった程度の気持ちで二郎と呼ばれているが──までもが一緒になって力説する。……「若紫ちゃん」というのは、二郎以外の者がそう呼んでいるのを聞かないが、近藤有希殿のことだ。
「ぬっ。だからと言って、お前が早蕨号に拉致された時の話は外せぬぞっ」
「えーと……でっ、ですからそういう微妙な話はですね兄上〜っっ」
「……さき嬢の大誤解事件は、私だって被害者なのだけれど」
 雲行きが怪しくなってきた生身の私と二郎との遣り取りに、コンミン殿が苦笑と共に割って入る。
「憑依させている間とはいえ、生身の伊東君から、しこたま蹴り回されたわけだし」
 私は、うっと喉を詰まらせた。
〈そ、その節は……〉
 そう、あの時は、コンミン殿の体をお借りしており、それで……
 生身の私も慌てて頭を下げる。
「中身が此奴だからと思う余り、つい失礼を……」
「ま、別に私自身の意識がある時に痛い思いをしたわけではないけれどね。じゃ、これは決定ということで。さーて、次は……」
 う……にっこり笑いながら、コンミン殿、容赦ない。皆、すっかり、その話運びに乗せられてしまっている。流石は……といったところだろうか。
 だが、その時、何やら考え込んでいた倫命殿が、小首をかしげながら口を開いた。
「……ねえ誠一郎さん」
「何だい、リン?」
「これって、亡霊先生が選ぶのが大前提なんだから、誠一郎さんが選んじゃ駄目なんじゃない?」
「よく言ったっ、リンっ!」
 内藤殿が嬉しそうに手を打つ。
 コンミン殿は目をしばたき、そして、ゆっくりと笑みを浮かべた。苦笑には違いないが、何だか随分と楽しそうな笑みであった。
「……うむむ、これは一本取られたね。じゃあ、今のは白紙に返して、去年の四月から順に眺めてゆくことにしようか」
「って、こんなに分厚いんだぜ、帳面。仮にひと月にひとつと決めたとしても、十二本は出てくるじゃねえか。最初から十本に絞るってのも無理な相談だろ。最初はとにかく片っ端から気になった事件を拾って書き留《と》めてみて、後でその中から選んだらどうだ?」
「ふうん、君もたまには建設的なことを言うね」
「何ッ、たまにはとは何だ、たまにはとはッ。まるでいつも俺が非建設的なことばかり言ってるみてェじゃねえかッ」
「はーい、そこまでっ。もー、仲がいいんだから、ふたり共っ」
 倫命殿が割って入る。
「じゃあ、あらましページから、主要な事件を……って、うわーっ、多いなー、あらましなのに……」
 ……はあ、こんな調子で、ちゃんと十件の事件を選べるのだろうか。少し不安になってくる私であった。
 
 夜中までにはどうにかこうにか、或る程度の絞り込みは出来た。
 人数が多い分、皆で手分けして帳面をめくったり書き留めたりしてくれるからだ。
 私はただ、あらまし頁を見せてもらって、気になった項目を告げるだけで良かった。そうすれば、周囲から「それは入れるな」だの「いや外せない」だのと賑やかな遣り取りが始まる。その間に誰かが帳面を繰ってその事件を探し出してくれ、そして更に他の者が書き留めてくれる。そして、ひと頻り騒ぎが終わった時には、事件がひとつ拾われている……という寸法であった。
 とは言うものの、あれも入れろこれも外すなと皆で騒ぎながら片端から拾い上げた事件が、な、ななじゅうはち……
 多過ぎる。
 幾ら何でも多過ぎる。
「おいおい、どうすンだ、こんなに選んで。ちゃんと十本に絞れるのか?」
 流石に呆れたか、内藤殿が苦笑と共に訊いてくる。私は、笑みが引き攣らないように気を付けながら、かぶりを振ってみせた。
〈いえ……あの膨大な帳面を前に途方に暮れていた頃を思えば、天と地との開き。随分と御の字ですよ〉
「そりゃあそうだが……」
「もう少し絞ってあげないと、亡霊先生が選ぶの大変だと思うけど」
 倫命殿は、あっけらかんとしているようにも見えるのだが、実は随分と心優しい娘御である。“生前”好い仲であった“誠一郎さん”とやらに雰囲気が似ているという理由で二郎に心惹かれているらしいのだが、私にも結構な心遣いを示してくれる。
「せめてこの半分に削らないと、洒落にならないと思う」
「じゃあ……今日は、泊まるか?」
「うん。明日また、見直してみましょ」
 妙齢の……でなくても娘御が泊まるとなると、むくつけき男共は布団を使えなくなる。……まあ、どの道この茶店には布団はひと組しかないので、土方と生身の私と二郎しかいなかった今迄は、皆で炬燵に潜り込んでそのまま潰れていたのだが。
 そうなると、あとは、『幕末並行世界』の……“向こうの”土方さんと有希殿の去就だが……
「ども、白牡丹です。えーと、ちょっと頭痛がしてきたもので、今日は失礼します。……というわけで、有希と歳三君も、ひと晩茶店で夜明かしと」
 ……おや、何処からか、天の声が降ってきた。
 ふふふふふ、この声さえ降ってくれば、こっちのもの。
 私は素早く、向こうの土方さんの後ろに飛んだ。……こういう時に彼がどういう言動に出るか、よーく知っているからだ。
「おいっ、俺は忙しいんだぞっ。ここで十大事件を選んでいる暇は……どわわっ、亡霊っ、くっつくんじゃねえっっ」
〈此処でひとりだけ抜けて帰るなんて、賢明とは言えませんねえ〜〉
 後ろからぺたっと背中にくっついて、耳許でくすくす笑ってみせる。
〈知りませんよ〜、あなたのいない間に、あなたに都合の悪い事件が選ばれても〜〉
「ううう……わ、わかったから耳許で囁くな耳許でっっ」
 ……はい、一丁上がり。
「おい、そこの仲良し、じゃれてねえで、早く来い。野郎共が何処で寝るか、相談しなきゃならねえんだから」
 炬燵の始末をしながら男同士固まっていた中から、内藤殿が笑いながら手招く。誰が仲良しだ、とぶつぶつ言いながら、向こうの土方さんも輪に加わる。
 有希殿は既に、寝袋とやらいう寝具を使おうとしたのを「有希殿に使われたら、我々が使う夜具がなくなるから」と土方に微苦笑混じりに制止され、倫命殿と一緒に素直に布団に潜り込んでいる……おや、ふたり共、早くも寝息をたて始めているようだ。何とも無防備なことだが、それだけ、この場に集《つど》っている男達が信用されているという証でもあろう。
「で、どうする」
「どうするって、布団を敷いたから、緩衝地帯も含めて畳三畳分は潰れてるぞ。家具を放り出すわけにも行かねえから、残りは二畳ってとこか」
「亡霊は場所を取らぬから除くとしても……男六人か……雑魚寝にしても、かなり厳しいですね」
 生身の私が苦笑する。結論はわかっているのだが自分の口から言うのは避けているのだなと、ぴんと来た。生身の私は、自分がその発言をすることが土方に対して無言の圧力になってしまうことを懸念しているのだ。
 ……まあ、つまり、生身の私も、私も、隙あらば土方とくっつこうと始終狙っているわけではないということだ。幾ら昔に比べて寛容になっているとはいえ、土方が男から言い寄られることを快くは思わぬのは、今も変わらないのだ。出来る限り長くその傍らにいたい我々には、余りに近付きたいという欲求の度が過ぎて当の土方から邪慳にされてしまっても困るという暗黙の了解がある。……土方に言わせれば、「おめェらがそういう気を遣えるようになったと見てるから、近くにいても構わんと思えるようになったんだ」ということらしいが。
「どうしても此処に寝るってんなら、ん、野郎同士抱き合って寝るしかねえな」
 内藤殿が苦笑いしながら応じた途端、向こうの土方さんと土方とが、まるで申し合わせたかのように寝袋に手を伸ばした。
「悪ィが、俺ァ厨房で寝るぜ」
「私もだ」
「おいおい、付き合い悪ィな、おめェら。生身の伊東にくっつかれるのが嫌なら、俺がふたり纏めて抱き締めてやるぞ」
「冗談は吉原だ。御免っ」
「何だそりゃ。俺が教えた“冗談はよし子さん”の応用編か?」
「あ、おふたり共、厨房は冷えますから、お風邪を召されませんように」
「なーに、向こうで抱き合って寝りゃ問題ねえさ」
「そ、それは……お互い蓑虫では、かなり難しいかと……」
「おい、真面目に取るなよ向こうの伊東。冗談に決まってるだろ。心配しなくても、あいつら、凍死したって抱き合ャアしねえから」
 両名が逃げ出すのは予想の範疇なので、誰も本気では止めない。……しかし、内藤殿の冗談は……どれもこれも、微妙に冗談に聞こえなかったところが怖いと言うか何と言うか。
「……謀ったね、土方君。少しでも人を減らして、ついでに邪魔者を蹴落とすと」
 黙って微笑んでいたコンミン殿が、穏やかな声で指摘する。
「何を人聞きの悪ィ。事実、二畳に六人じゃ、抱き合うしかねえだろ」
「でも、生身の伊東君と土方君とが抱き合うのは見たくなかったのだろう? ……ほら、図星だ。君はすぐ顔に出るね」
 ……コ、コンミン殿……いつもながら、際疾いことをずけずけと口にして少しも嫌らしさが漂わない物言いは、到底我々の及ぶところではない。
 しかし、言われた方は、そうも行かぬのであって。
 生身の私も、真っ赤になっている。
「コンミン殿……私は……そのようなことは……このような場では致しかねますから……」
「無論、生身の伊東君がそのようなはしたない真似をするとは思っていないよ。むしろ、そういう願ってもない状況になるほど躊躇してしまうのではないかな。今のは物の例えだよ。……それはさて置き、四人なら、寝袋ひとつと毛布と炬燵布団を組み合わせれば、何とかなるかな」
「何とかなるんじゃねえか……っても、抱き合うほどじゃねえが、どーしても誰かとくっつくぞ」
「ふむ。私はどちらの伊東君を抱き枕にしようかな」
「するなっっ! てめェは寝袋決定だっっ!」
 ……はあああ、まったく、倫命殿の言い種ではないが、内藤殿とコンミン殿は、実に仲が良い。
 私は、これまた暗黙の了解で厨房へ向かうと、寝袋で蓑虫になっているふたりの土方歳三の間に割り込むように身を落ち着け、小さなため息をついた。
 と、土方の方が身じろぎ、低い声をかけてきた。
「……どうした、亡霊。向こうの方が賑やかでいいだろうに」
〈私は……逆立ちしたところで、亡霊ですから。余りにも生き生きとした方々の側にいるのは、時として、却って、つらいのですよ〉
 確かに私は生者の生気を分けてもらって“生き長らえて”いる身ではあるのだが、それでも、余りに仲の良い面々の近くにいると、自分が所詮生身を持たぬ亡者でしかないことを嫌でも思い知らされ、何となく気鬱になってしまうのだ。
「面倒な奴だな。……そら、向こうの俺もまだ起きて聞き耳立ててるぞ。遊んでもらえ」
「誰が立ててるかっ。……ちっとだけなら、振り回してやっていいぞ」
〈……お気持ちは有難いのですが、蓑虫になっていては、振り回すのは無理ではないかと。あ、いえ、無理に出てくださらなくていいですから……ちょ、ちょっとだけ添い寝をさせていただければ〉
「うう……背中と背中なら許す」
「おいこら。それだと、俺がこいつと向かい合うことになるだろうが」
「何だよ。背中向けてりゃいいじゃねえか」
「無防備にこいつに背中を向けて眠れってのか。……まあいい。天井を向けば済む話だ」
〈有難うございます……おふたり共……〉
「この程度で一々めそめそするな、亡霊」
 ……土方は、私が本当に泣きたい気持ちでいる時には、ちゃんとわかってくれる。……今は、それ以上、何をか望まんや。
 
 翌日は、朝方あちらに戻られてしまった向こうの土方さんを除く面々が集った夜、つまりは早蕨と遠乗りに出掛けていた有希殿が戻ってこられて夕餉が済んでから、まず、十大事件の中にこの程度の出来事を入れるのは大袈裟ではないかという事件の検討から始まった。
 真っ先に槍玉に挙げられたのは、私が直接は関わっていない事件、そして、極めて私的な事件であった。
「こっちの『生身の私、危うく凍死事件』ってのは、おめェさんは実際には見てなくて、後から聞いただけだろ?」
〈え、ええ……〉
「じゃあ、あっさり外しておく方がいいんじゃねえか? 『生身の私、早蕨号と異世界へ落っこちる事件』もそうだが、自分が見てもねえ話は、語ってもリアリティがなくなるだけだぞ」
〈りあ……?〉
「真に迫って聞こえねえ、ってことだ。……あと、どう考えたって、この、『倫命殿から“ほっぺにちゅう”事件』だの『早蕨号に鴨鍋の件でがじがじされる事件』だの『有希殿に誘われて早蕨号で遠乗り事件』だの『内藤殿と“でえと”で土産は“かっぷ麺”事件』ってのは十大事件に入れるような話じゃねえだろ」
〈……でも、私にとっては十大事件に匹敵するんですよ。私が選ぶというのが大前提なんですから、私にとっての十大事件を入れたいと思うのは当然じゃありませんか〉
「選ぶのが“十大事件”じゃなくて“重大な事件”なら入れてもどうってこたァねえが、そもそも十本しか採れねえんだぞ。まず、それが大事件かどうかって考えた時にちょっとでも瑕疵《かし》のある気がする案件は落とすべきだ。片っ端から落としていって、落とし過ぎて足りなくなったら、落とした中からまた改めて、惜しかったなと思う事件を選んで拾えばいいんだよ」
 内藤殿の指摘は、なかなか容赦ない。……考えてみれば、内藤殿とて土方なのだ。説き伏せるには難敵であることは間違いない。
「……それより、逆の方がいいんじゃなのかなあ」
 内藤殿の斜向かいで腕組みをしていた倫命殿が、ちょっと首をかしげて異論を挟む。
「七十幾つもあるんでしょ。十になるまで落としてゆくより、この中でも特に絶対に落とせないっていう出来事を選ぶ方が、早く済むんじゃないの?」
「む……んむむむ、くそ、確かにその通りだ」
 内藤殿、ちらっと悔しそうな顔をしたが、すぐに苦笑いして相手の言を受け入れた。コンミン殿が、隣でくすっと笑う。
「素直だね」
「度量が広いと言ってくれ」
「自分で言うと価値が下がるよ」
 一方、倫命殿の隣に座っていた有希殿は、私の姿どころか“声”すら感じ取れないこともあって、少しく退屈していたらしい。厨房からひょいと顔を出した里長と暫く何やら顔を赤らめて話をしていたが、適度な運動の後の満腹で早くも眠気が射してきたらしく、「今日は早蕨ちゃんのお腹に潜り込むのもいいかなあ……」と呟いて、小さな欠伸を洩らした。さあて、それはどうか、ふた晩も続けて外泊させてもらえるものかどうか……と思った私の内心の声が聞こえたかのように都合良く、向こうの土方さんが座敷に姿を現わす。
「ふた晩も続けて外泊は駄目っ。今日は連れて帰るぞっ。……何だ、まだ何を選ぶか決まってねえのか、亡霊の奴」
〈まだって……あなたのいない所で全部決めてしまって良かったんですかね? 大体、それを阻止する為に昨夜此処へお泊まりになった筈なのに、朝が来たらつれなく帰ってしまわれて……〉
 相手に触れていない以上、私の愚痴は聞こえてはいないだろうが、向こうの土方さんは、半分むすっとした顔で座を見回し、有希殿と二郎との間に強引に割り込むように腰を下ろした。……あちらの世界でなら二郎の隣になるのは避けただろうが、この場で一番問題が少なく安全そうなのがそこだと、咄嗟に見て取ったに違いない。……何しろ、二郎の隣は生身の私だから隣にするのはもっと避けたいだろうし、有希殿の反対側の隣は倫命殿だからその間に座れば年若い女子《おなご》ふたりに挟まれることになり周囲の男どもの目が厳しくなってしまうし、倫命殿の隣は日頃から向こうの土方さんを玩具にしたがっているコンミン殿だし、その隣は内藤殿だし……更にその隣に人ひとり分の空きがあるのを、私がいるものと察してくれたようだし。
 ちなみに早蕨は、縁側に前肢を上げて座敷に半ば上がり込み、生身の私の横に精一杯首を伸ばしている。既に障子を開け放しでは寒い季節なので、如何に室内で炬燵を囲んでいるとは言えそんなことをされては迷惑と言えば迷惑なのだが……時々生身の私から偶然を装ってぎゅうとつねられてもその首を引っ込めずに頑張っているところを見ると、自分が引っ込むことで生身の私が土方の隣になってしまう、その邪魔をしているつもりなのであろうか。
「……しかし、絶対に落とせない、というのも難しいだろうな」
 私の傍らに座ってくれている土方が、半ばひとりごちるように呟く。
「亡霊。軸を決めろ」
〈軸?〉
「選ぶ時に、おめェが、何を一番重いと見て優先するかだ。……例えばだが、自分にとって重いと思う事件を優先するのか、茶店にとって重いと思う事件を優先するのか、それとも、俺達全員にとって重いと思う事件を優先するのか」
「……茶店にとって、というのと、我々全員にとって、というのとでは、例えばどのような違いがあるのでしょう」
 生身の私の隣に座っていた二郎が、控えめな態度で疑問を呈する。
「殆ど似ているようにも思えるのですが」
「茶店にとって、というのは、例えば、この一番最初に挙げられている『里の茶店、新装開店』という事件だな。俺達にとっても大事ではあるが、茶店そのものに関わる出来事だ。俺達全員にとって、というのは、例えば……『生身先生、幕並伊東さんに「二郎」と命名する』のような、茶店そのものには関わりがないが、茶店に出入りする殆どの者に影響を与えるような出来事だ。……わかるか、亡霊」
 成程。例を挙げられれば、そういうことかと理解出来る。
〈わかります。……そうですね……どうしても決めろということであれば……傍で見ていた者にとって面白いと思えたであろう事件を優先させたいですね〉
「傍で見ていた者?」
〈ええ〉
 私は、にこりと微笑んだ。
〈私のひとり語りを聴き取る時に、里長がいつも言っていますから。『読み手の視線を心の片隅で意識してほしい』と。……此処の茶店の出来事は、折々に傍から、誰であるかも知れぬ皆さんから見られているわけですから、その方々が「確かに大きな事件だった」と納得するような事件を優先させなくては〉
「……なら、そうしろ」
 土方は微苦笑を浮かべた。
「この抜き出した事件を、じっと、突き放して眺めてみろ。自ずと、選べるだろう。……選んでみろ」
 促されて、私は、書き付けを頭から見直した。
 土方の言う通りに突き放して眺めてみれば確かに、自ずと選べる気がしてくる。
 ……最初の頃の事件は、ほんの些細なものだと感じる。私にとっては思い出深く、落とし難い出来事であっても、他に、もっと、大きな事件は幾らでもある。
 また、たとえ大きな事件であっても、私が直接に目撃していない出来事を語っては、内藤殿が言う通り、真に迫った話ではなくなるだろう。
 そう感じながら流していた目が、つと、ある場所で留《と》まった。
 
 〔2002/07/29 おろおろしつつも見ーちゃった♪事件〕
 
 既に茶店の帳面を見慣れて久しいので、書き出しの頭に書き写されている“あらびあ数字”なる数やら斜めの棒やらが西暦とやらいう年と日付とを表わしていることは知っている。……この日付は、夏のものだ。
〈……これは、落とせないと思いますねぇ〉
 私が微笑むと、土方が眉をひそめた。
「ひとり勝手に呟かれても、向こうの三人にはわからん。……“力”なら幾らでも分けてやるから、皆に姿を見せて、落とせないと思う出来事を指し示してみろ」
 私は素直に従い、腰から引き抜いた扇を、自分が選んだ項目の上に軽く置いた。
 どれどれ、と覗いた面々が一様に首を捻る。……最初に選んだ時に私のその言葉を書き取ってくれた土方を除いては。
「何だこれ。省略し過ぎじゃねェか。何の事件だよ」
 内藤殿が顔をしかめると、土方が呟いた。
「……私としては正直、余り蒸し返してほしくはないが、まあ、お互いが眠りこけている間に何があったかは、『見ーちゃった』お前しか知らんのだから、知りたがる奴は多いだろう。誇張も嘘偽りもなく語るというなら、選んでも目をつぶってやる」
「……ももももしかして……いやいやいやーんっっっっ!」
 有希殿が突然、脱兎の勢いで部屋を飛び出していってしまう。……おかげで、場の者にも、この「省略し過ぎ」の出来事が何であるかは察せられたらしい。向こうの土方さんが、うーと獣のような低い唸り声をあげた。
「……こっちの俺の言う通りだ。亡霊がきちんと出任せなく喋るってぇことなら、これを選ばなきゃ嘘だろう」
 私はひょいと相手の後ろに回ると、ぺたっと貼り付き、耳許で宣言した。
〈はい、きちんと、あなたが朝方に踏み込んできて土方にあわや殴り掛かろうとして……というところまで洩れなく語りますから〉
「だああああっ、そんなとこは飛ばしていいっ」
「……しかし、この辺り、類似の事件が続くけれど、こちらは選ばなくていいのかな」
 如何にも話を切り替えてくれるかのように何気なく、コンミン殿が指で示す。
 
 〔2002/08/03 幕並土方さん、有希殿とひとつ布団で、二郎の「私の若紫ちゃん」発言事件〕
 
 ……コ……コンミン殿……。
 茶目っ気たっぷりなのだろうが、意地が悪いの半歩手前。たちまち向こうの土方さんと二郎が慌てふためき、選ばなくていい理由を口々に力説し始める。有希殿はまだ戻ってきていないが、戻ってきていれば再び遁走していたかもしれない。
 私は苦笑し、かぶりを振ると、二郎にも私の“声”が聞こえるように、片方の手をその肩に置いた。……土方と生身の私そして早蕨は、別段触れていなくとも私の“声”は聞こえている。月石の民の方々は、聞こうと意識すれば私の“声”も聞こえるとのこと。今この場にいる者の中で、触れておかなければ私の“声”が聞こえないのは、向こうの土方さんと二郎だけなのだ。
〈これは、ほぼ立て続けに起こった似たような出来事ですし、やめておきましょう。十件に足りなければ後で拾ってもいいですが、無理に選ばずとも、次に選びたい出来事と関わりがないわけでもない出来事ですから、間接的に触れることになりましょうし〉
「ふむ。次に選びたい出来事とは?」
 問われて、私は、手にした扇の先で黙って、その一行先に抜き出されている出来事を示した。
 
 〔2002/08/06 二郎、土方さんに縋り付いて一夜を明かし、夜明けに生身の私に殴り込まれる事件〕
 
「……うわ、修羅場じゃねえか。選ばれてもいいのか、伊東兄弟」
 言葉とは裏腹に、内藤殿の表情はにやにやと綻んでいる。
「え、ええと、それは兄上が良いと仰せなら……」
「……ふん。亡霊めが次に選びたい出来事と聞いた時点で、大方それだろうと思っていましたよ。好きにすれば良いこと」
 向こうの私が戸惑い気味に応じ、生身の私が動揺した風でもなく応じる。……早蕨が、ぶひひんと鼻を鳴らして笑う。もとより土方は苦笑と共に頷くだけ。当事者全てに文句がないというのだから、重畳である。
「しかし、あっちの世界から来てる俺が言うのも何だが、どうも、当人同士は真剣でも傍から見ると滑稽な出来事ばかり選ぼうとしてねぇか? それじゃ却って面白かねぇぞ」
「……ひとつぐらい、誰にとっても深刻な出来事を選んで、スパイスを利かせろってか? 生憎、こン中で、こいつ自身が落ち込まずに喋れる深刻な出来事なんざ、ひとつしかねェよ」
 内藤殿の笑みがかすかに苦いものに変わり、すらりと指が動く。
 
 〔2002/08/16 内藤殿に追い出された間に何が……凍り付いてしまった土方さんにおろおろ事件〕
 
 ……確かに。
〈でも……実際にどんな対話があったかは、追い払われてしまったので存じ上げませんけど〉
「かなり後になってからだが、大略は教えてやったろう。それに……お前の目から見てどう思ったかを喋ればいいだけだ」
 今度は土方が苦笑いする。……選ばれても仕方がない出来事だと思っているらしい。
〈……相わかりました。では、それも入れておきましょう〉
 私は頷き、次の事件を求めて目を滑らせた。
 
 〔2002/09/01 野点の会(幕並土方さんの頬っぺたを冷やす羽目に……)事件〕
 
 〔2002/09/03〜05 幕並土方さん、「ウチの伊東を泣かせたのはどいつだッ」と殴り込み事件〕
 
 〔2002/09/23〜25 さき嬢の大誤解事件〕
 
 これは落とせまい、と思える事件がこの年の九月に集中していることに驚く。基準に照らして拾わないことにしたとはいえ、私が行方を眩ましたのも、そんな私を土方と早蕨が異世界まで探しに来てくれたのも、生身の私が早蕨の秘密を知って連れ出してしまったのも、この月の出来事だ。……思うに、向こうの人々や同じ里の中でも別の作品世界の人々と出会って暫く経ち、互いの気心も少しずつ知れてきていた頃だったからこそ、色々と軋轢やら摩擦やらが起こり、波風が立ち、そして、雨降って地固まる、躍動の月になったのだろう。
 
 〔2002/10/07〜11 記憶喪失で戻ってきた生身の私が、向こうの土方さんにひと目惚れ♪事件〕
 
「げ。そ、そんなもん選ぶな亡霊っ」
「歳三、口出さないの! 亡霊先生が選ぶんだからねっ」
 いつの間にか元の位置へ戻ってきた有希殿が、すかさずぴしゃりと叱り付ける。が、向こうの土方さんも負けてはいない。
「あに偉そうに。さっき『いやいやいやーんっ』なんて悲鳴あげて逃げ出したのは誰だっけなっ」
「で、でも、口は出さなかったもんっっ」
 ……何とも微笑ましい、子供の口喧嘩
 仲の宜しいおふたりの騒ぎは丁重に無視しつつ、次のひとつを指す。
 
 〔2002/11/05 生身の私が“つうしょっと写真”とやらに激怒して踏み込んでくるも、向こうの土方さんに“耳ふー”で瞬殺事件〕
 
「どわああああああっ、立て続けに嫌がらせか亡霊っっっっっ!」
〈んー、別に嫌がらせではありませんけど、私が選べば、面白いと思うのは、この辺りになるかと……ええっと、残りはふたつ……でも、段々と選びづらくなってきますね〉
「……それじゃ、この辺で一旦、お開きにしませんか?」
 ため息をつく私に、倫命殿が提案してくれる。
「殆ど選び終えられてますし……此処まで来れば、あとは逆に、誰にも邪魔されずに選ばれてもいいと思いますけど」
「そうだね。我々も、今なら時間的に、のんびりと引き揚げられるしね。……ねえ、内藤君」
「へいへいコンミン先生、釘を刺されなくとも、俺も帰りますよーだ」
「当たり前だよ。でないと、今夜も伊東君達が迷惑するからね。何しろ君は、どうも寝相と手癖が悪いようだから」
「根も葉もねえことを涼しい面で吹くなっ」
「おや。今朝、向こうの伊東君を抱き枕にして困らせていたのは誰だっけね」
 ……迷惑するのは伊東君「達」ではなく、向こうの私だけかも……いや、生身の私も、出来れば土方とひとつ部屋にいられる方がいいに決まっているから、昨夜のような状態が続くのは望ましいことではあるまいが。
「ども、白牡丹です」
 ……おや。向こうの世界の天の声が。
「白牡丹、潰れかけているのですが、歳三君と有希だけ回収しておきます〜」
「え、私は」
 員数に入れてもらえなかった向こうの私が目を円くする。
「誰かの抱き枕になってください……」
「ええええっ」
「……ども、おやすみなさ〜い」
「んじゃ、姐さんもああ言ってるんだ、帰るぞ、有希」
「くすんくすん、皆さん、おやすみなさい〜」
 向こうの土方さんと有希殿に続いて、月石の民のお三方も茶店を後にする。
 残ったのは、土方と私と、生身の私と、向こうの私、そして早蕨。……だが、早蕨は、面々を見回すと、さっさと厩へ戻っていった。心配は要らぬな、と呟き残して。
 まあ、確かに、色々な意味で心配の要らぬ面々である。二郎を抱き枕にしそうな危険人物は皆引き揚げてしまっているし、その二郎が“兄上”か“母上”にすり寄って眠るのは間違いないし、そうなると生身の私はどちらに転んでも土方と心置きなく添い寝など出来よう筈もないし、無論、私が、生身の私と土方との間に割り込んで転がることは、言うまでもないし。
 もっとも、生身の私が本気で土方に寄り添おうと目論むなら、二郎の“拘束”を振りほどき私の“壁”を蹴散らしてでも寄り付こうとするだろう。
 だが、今の生身の私を見る限り、機会があれば乗じるのは吝かではないにせよ、万難を排してでもというほどの激しい執着までは持っていないようである。
 そもそも、ああいう激しい執着は、困難や障害に遭ってこそ燃え上がるものなのだ。土方の傍らにいたいという欲求を適度に満たしてもらえる今のような暮らしの中に在れば、亡霊となってからの私がそうであったように、相手を傷付けてでも想いを遂げようという物騒な欲求とは縁遠くなる筈である。大体が我々は、手荒な真似や無用の諍いを好まぬ性分なのだから。
 ……果たして翌朝、目が覚めたら背中から二郎に抱き付かれてしまっていた生身の私は、おかげで土方に寄り添えなかったではないかとぶつぶつ文句を言いながらも、別に八つ当たりするでもなく、二郎と一緒に朝餉の支度に立った。
 食事となれば、相伴出来ぬ私は用なしになる。先に引き揚げる旨を土方に言い置いておいて、私は、茶店の厩へ立ち寄った。
〈皆さんのおかげで事件も大体選び終えましたし……早蕨殿、あなたの意見も聞いてから、ぼちぼちと呟き始めてみますかね〉
〈昨夜あと残りふたつと言うておったような気がするが、もう決めたのか〉
〈まあ……何となく、ではありますけれど〉
〈既に選び終えたのなら、今更、俺に訊くこともなかろうに〉
 朝の秣を平らげ終えた早蕨は、飼葉桶から苦笑気味に顔を上げた。
〈それでも、あなたに全く聞かないというのでは、何だか気が引けますよ〉
〈おぬしは律儀だな。……そうだな、なるべくなら、広く浅く語ってやることだな。七十八の出来事と言っても、幾つかは、ひと連なりに起こった出来事だ。そこを、前後は別の出来事としたのだからと杓子定規に切り捨てたりなどせず、少しでも触れるようにしておいてやれ。そうすれば、複数と思っておった出来事がひとつに纏まることもあり、結果として、捨てねばならぬかと思うておった出来事を掬い上げることも適おう。……そもそも、どの出来事にも、それに関わった者の思いが絡んでいる。それをあっさり淡々と通り一遍に片付けられてしまえば、内心で不満に思う者もいよう。最初から、今回は広く浅く拾うのが眼目だと前面に押し出しておけば、では深くは掘り下げられぬなと誰もが理解してくれよう〉
〈……ごもっともで〉
 私は、苦笑いを浮かべた。
〈……まったくあなたは、土方の為になることしか考えていないと言いながら、結構我々にも気を遣うのですよねえ。ええ無論、助言には感謝致しますとも。では、ひと足先に宿所へ戻って、里長の呼び出しを待つことにしますよ〉
 
 だが、選びたい出来事をほぼ選び終えてしまうと、今度は、それをどう語れば良いのか、ということが難儀の種になった。
 これまでの、私が里長に呼び出されて色々と語ってきた物語とは、随分と勝手が違う。……いや、そもそもが、それぞれに直接の関連がない出来事を十個も拾ってしまったのでは、ひとつの物語にはなりようがない。早蕨の指摘した通り、広く浅く淡々と、それぞれの出来事を私の視点で紹介してゆくしか、ないのだろう。
 とは思うものの、なかなか、語り出せる気分にはならなかった。
 日々の出来事に追われていたというのもあるが、どうせ語るなら流石は亡霊先生と感心されるほど見事に語りたいという功名心が心の奥底に拭い難くあり、それが却って、そう出来る自信がない間は語り出せないという状況を作り出してしまったのだ。……まあ、平たく言えば、つまらぬ見栄である。
「……そう言えば、例の十大事件はどうなってるんだ?」
 と土方から尋ねられたのは、“大河どらま”とやらも終わってしまって久しい、夏の日の午後であった。
「あれだけ大騒ぎして、皆を巻き込んで選んだ筈だが……なに。まだ殆ど何も喋ってねえ? おいおい、時々“取材”と称して俺にも内緒で里のあちこちをふらふらしてた筈じゃねえか。今迄何やってたんだ」
 私は、羞恥で小さくなった。生身の私などは、私が語り出せずに愚図愚図していた間にも、九州下りの折の出来事や十代の頃の出来事など、折々に某かを語っていた。なのに私は、時々茶店で気の赴くままに放言するのみで、何も語り出していない。……まあ、私が本編に関わる出来事を語ればそれは殆どが先々の話の“ねたばれ”とやらになる、という事情もあるからなのだが、そのおそれの少ない“きり番りくえすと”までをもいつまでも抱え込んだままでいるのは、如何にも怠けていたようで、恰好が悪い。
「……おめェは、お喋りな墓石とまで言われた口数の多い亡霊じゃねェか。巧く喋ろうなんて、つまらん見栄を張るな。適当でも何でもいいから、とにかく喋り始めてみろ。……後で話を綺麗に整えるのは、里長の仕事だ。おめェの仕事じゃねえ。……しょうがねえな。伊東の奴ほどに喋った経験がねえ分、その辺の開き直りが足りなかったようだな」
 そうかもしれない。……土方が、生身の私がいない時に話を切り出してくれたのは、私の体面を慮ってに違いない。
「何をどう喋ったらいいかわからんなら、まずは取り敢えず、十の出来事を選ぶまでの擦った揉んだを喋ってみろ。選んだことを喋るのは、それからにして」
〈……そうしようとしていたのですよ。でも……話が無駄に長くなってしまっているような気がしてならず、気が引けて……何だか口が重くなってしまって……〉
「だから」
 土方は声を強めた。
「それは里長の心配することで、おめェの心配することじゃねえんだ。里長の奴も、おめェの話が面白いと思えば、少しぐらい長くなっても使ってくれるだろうし、だらだらしてつまらんと思えば、後で削るだろう。だが、おめェが喋り始めない内は、削る材料すらねえ。何でもいいから喋り倒して、後は里長に任せてしまえ。余計なことは考えるな」
〈……はい〉
 私が潮垂れた体《てい》でうつむくと、土方は苦笑した。
「おめェが無口になると、皆が心配する。……俺もだ。のべつ幕なしに耳許で喋られるのも困るが、黙りこくるのも、ほどほどにしろ」
 
「あーもう、いつもいつもいつもいつも、どうしてお前は、あんな、婦女子が怯えるような黒い虫の一匹や二匹や三匹に半べそで……」
 茶店の帳面がめくれないと頭を抱えたあの師走から間もなく二年にもなろうかという、霜月六日の夜。
 生身の私が、久々に訪ねてきている二郎相手に盛大な小言を並べている。……夕餉の後の片付けの段になって、ゴキカブリが三匹、洗い場や床に次々と出現しては飛び回ったのだ。ついこの間、二郎達が来るというならと厨房の大掃除をし、ゴキカブリ駆除用なる怪しげな白い煙まで焚いた筈なのだが、出る時は何をしても出る、ということなのだろう。
「い、一匹だけでも気が遠くなるものが三匹も出てきては……えぐえぐ……こ、こればっかりは、我が身のことでも如何ともし難く……ひっくひっく……」
「ああもう良い、死骸を片付けてくるから、いい加減でその手を離せっ……ええい、放せと言うにっ」
 ……多分、二郎にもわかっているだろうが、生身の私は心の何処かで、二郎にあれこれ小言を言うのを楽しみにしているところがある。いや、だから掃除の手を抜いたというわけでは決してないのだが、心の奥底の有りようが微妙に行動に反映され、そこはかとなく掃除の詰めが甘くなる……ということはあり得るかもしれぬ。
〈何だか、二郎のゴキカブリ嫌いがこちらで初めて騒動の元になった、納涼の会を思い出しますねぇ〉
「……そう言えば、あれは十大事件に選んでなかったな」
 こちらはようやく有希殿から解放された……と言うか内藤殿ひとりに任せた土方が、私の呟きを耳敏く聞き付けたらしく、軽く私を手招きして、囁いた。
「あれも結構な騒ぎだったと思うんだが、何で採らなかったんだ?」
〈うーん、何となく落としてしまったんですよ。ゴキカブリが出て騒動になる、という出来事はその後でも何度かありましたし、野点の会の話と、その後の二郎のあれこれとを語るには、繋ぎとしてゴキカブリの話は欠かせませんし、もしも納涼の会のことまで採り上げると、何だかゴキカブリのことばかり語る羽目になってしまう気がして……〉
 それだと、依頼主に申し訳ないですからね、と私は苦笑した。……そう、この“りくえすと”の主である白牡丹殿も、ゴキカブリは大の苦手。余りゴキカブリゴキカブリと連呼していては、読みづらくなってしまうだろう。
「……って、おめェ、さっきから何度『ゴキカブリ』って言葉を出してるンだ。白牡丹殿への嫌がらせか?」
〈ま、まさか〉
 ……そこ、戻って数えないように。
〈これでも一応、気は遣っておりますよ。平成とやらの御代では余り『ゴキカブリ』とは言わないそうで……ええ、ですから、ゴキブリとか油虫とかいう言葉は使わぬようにしております〉
「今使った。……てな餓鬼のような揚げ足取りはやめておくか」
 土方は、悪戯小僧のような表情を一瞬だけ浮かべた後で、すぐに大人の表情に戻って苦笑した。
〈あのう……土方さん、丁度その“きり番りくえすと”の話が出たところで、お願いがあるのですが……いえ、妙な願いではありませんので御心配なく〉
「俺に出来ることならな」
 些少用心深く応じた土方は、しかし、私からの頼み事を聞くと、「何だ、そんなことか」と、ごく気軽に頷いて快諾してくれた。
「だが、そう長くは保《も》つまい。じきに気付かれるぞ。その時に、ひと悶着は覚悟しておけよ」
〈……嫌みのひとつやふたつや三つや四つは言われるでしょう。でも……生身の私も、根は同じ私ですから、最後にはわかってくれると思います〉
「たとえわかってやれはしても、仲間外れは面白くはなかろうよ。……まあ、いい。せめて最初のひとつの間だけは、伊東に勘付かれんように努めよう」
 
 向こうの方々が引き揚げていった日から、私は、“それ”を始めた。
 生身の私が昼の賄いの支度の為に席を外した時を狙って、土方の手を借り、選んだ十の事柄に関わる過去の出来事帳を読み返し始めたのである。
 何故に生身の私がいない時かと言えば、それは……まあその、ささやかな独占欲と言うべきか。
 我々が済し崩しに茶店に居着くようになって久しいが、私にしてみれば、小さな不満が蓄積される毎日なのだ。宿所にいれば、生身の私とて他の者との関わりがあるから土方の居室に居座るわけにも行かず、したがって私が土方とふたり切りになれる機会もそれなりに多いのに、六畳ひと間の茶店にいては、殆ど始終、生身の私も一緒。しかも生身の私は生身を持っているから、土方と食事も共に摂れるし、囲碁将棋に時を費やすことも出来るし、時には庭で竹刀を合わせることまで出来る。だが、私は、それを傍で眺めていることしか出来ないのである。
 たまには、土方とふたり切り、同じ時に同じことをして過ごしたい。
 それが、私の“お願い”だったのだ。
 無論、土方の言う通り、余り長く隠しておけるとは思えない。所詮は、ひとつ屋根の下である。土方が「せめて最初のひとつの間だけは」勘付かれないように努める、と言ったのは、それ以降は下手に隠すつもりはないぞという意思表示と見て良い。いや……「仲間外れは面白くなかろう」と生身の私の心中を慮ってくれているだけに、むしろ、生身の私に悟られるように振る舞うつもりかもしれない。
 が、となれば最初のひとつだけは、掛値なし、土方とのみ、時を共有出来る筈だ。
 という訳で、選びに選んで選び出した最初の事件──二〇〇二年七月二十九日の「土方さんと有希殿がひとつ床に……おろおろしつつも、見〜ちゃいました♪」事件である。
〈ええ、あの時はですねえ、何と言っても、主殿が面白がりなもので、おふた方をひとつ布団に放り込まれてしまって……間違いなど起こりようもないと思われたからかもしれませんし、そもそもあの頃は、布団もひと組しかありませんでしたし〉
 今でこそ毛布だの寝袋だのも常備されているこの茶店だが、当時は、此処に泊まる者もまずいないということから、主殿が泊まるかもしれない時用に念の為と置かれていた布団ひと組しかなかったのである。
「……俺は、酔いが回って白河夜船だったから、抵抗のしようもなかったんだが」
 帳面をめくる土方の手は、微妙に煮え切らない。
「まあ……布団を掛けられても目が覚めなかったのは、相当に不覚だったな」
〈この部屋が比較的安心して休める場所だという思いが我々里の住人の誰しもにあるということは、割り引いてさしあげていいですよ。それでも、内藤殿のような、異様に接近に過敏な方もおいでですがね〉
「……奴の過敏は、また別の問題だろう」
〈そうですね。……では話を戻しまして……さてさて、ひとつ布団にくるまれてしまった土方さんと有希殿ですが、ぺぺんぺん♪〉
「口三味線は要らん、とっとと話を進めろっ」
〈はい、これは失礼しました。……えー、夜中に目を覚まされた時、有希殿から思いっ切り遠ざかられましたよね土方さん〉
「……ああ。朝起きてみたら、また、しがみつかれてたけどな」
 私は、扇を広げて口許を隠し、思わせ振りな流し目で土方を見た。
〈ど・う・し・て・だったと思います?〉
「……本気で喋る気あるのか、てめェ?」
〈怖くて喋れない、と言いたいところですが……白牡丹殿の“りくえすと”ですからねえ〉
「……あ・の・なあ」
 土方は、すうっと目を細めると、不意に恐ろしい早口で凄みを利かせた──但し小声で。
「俺が寄り付いたか有希殿が寄ってきたか互いに寄り合ったかのどれかしかあり得ねえンだから、勿体振らずにとっとと話せこのトンチキっ」
〈ト、トンチキ……風情のかけらもない罵り方ですね、まったく……〉
「罵り方に風情もヘチマもあるかっ。……とっとと喋らねェと、伊東が戻ってくるぞ」
〈そうなったら明日に回しますから大丈夫ですよ〉
 すまして言い返すと、土方は笑いよりも苦みの強い苦笑を浮かべた。
「……引き延ばせば引き延ばすほど、バレ易くなるぞ」
 わかっています、と応じようとした時、厨房の方で気配が動いた。もう昼餉の支度が済んだらしい。私は何食わぬ顔でひょいと障子を突き抜け、縁側へと逃げた。
「沢庵を糠床から上げておきましたよ……どうなさったんです、いきなり昔の帳面など持ち出して」
「ん? あいつらが来たンで、何となく懐かしくなってな」
 遣り取りを背中に、私は厩へと向かった。土方がどんな風に誤魔化すのか、そこからどんな会話になってゆくのか、聞きたいのは山々だったが、如何に気配を消してみたところで生身の私に悟られないという保証はない。立ち聞きをしようなどという色気を出さず速やかに遠ざかっておいた方が、この“秘密”の発覚も遅くなる筈だ。
 ……が、結論から言えば、そんな私の考えは甘かった。
 その日の夕刻、はや私は生身の私に衿首つかまれ、厩の裏に引っ張り込まれてしまったのであった。
「余り舐めてもらっては困るぞ、我が成れの果て」
 滅多な相手に見せぬ不穏な表情を隠そうともせず、生身の私は、私の目を睨み据えた。
〈舐めるも何も、私は亡霊ですから何も舐め……わわわ、冗談も通じないような生前だった覚えはありませんよっ〉
 いきなり衿許を絞め上げられて、私は目を白黒させた。生身の私に本気を出されたら、所詮しがない亡霊の身、逃れることなど出来はしない。
「土方の件が絡むと余裕も何もなくしていたことを忘れたわけではあるまい、成れの果てっ。土方と一緒にいるようだからと声をかけようとする度に、こそこそこそこそ、まるでゴキカブリのように逃げ出しおって……ひとつ屋根の下で、私のいない隙を狙って土方と何をしておるのだっ」
〈ゴ、ゴキカブリって……あなたまでその言葉を口走ってちゃ駄目ですよ、これは白牡丹殿への……あわわわ〉
「ほお。……そうか、読めたぞ亡霊。さては、私を除け者にして、貴様が選んだ、黴の生えたような十大事件とやらを土方と振り返ろうと目論んでいたのだなっっ! ええい、図星であろう、答えぬかっっっ!」
〈えぐ……〉
 返事をしようにも、物も言えぬほどぎゅうぎゅうと絞められていては……生身を持たぬ亡霊の身であっても、首を絞められていると思ってしまったが最後、生前のような息苦しい感覚にガッチリ囚われてしまうのだ……
「……おい、黴の生えたような、とは幾ら何でも各方面に失礼だろう」
 寄り付く気配すら見せずに不意に横合から割り込んできた土方の声に、生身の私がびくっとなる。私の衿を絞め上げていた手の力が緩み、私は急いで飛び離れた。……但し、土方が現われたとは逆の方向に。土方の方に逃げたのでは生身の私が却っていきり立ってしまうことを、そこは私も彼の成れの果てであるが故に、理屈抜きで承知しているのである。
「半日も経たん内に気付かれるとは、俺も焼きが回ったな」
「いえ……土方さんのことは何も……ただ、此奴の態度が妙なので、何かあるのではと疑ったまでのこと……」
「……業腹だろうが勘弁してやれ、伊東。そいつは、お前の成れの果てだ。自ずと、たまには、俺を独り占めしたいと思うこともあるだろうと、わかってやれるだろう。……お前は、俺と一緒に飯も食えるし、囲碁将棋も剣の稽古も出来る。だが、こいつには、お前がしているようなやり方で、俺とひとつ事を一緒にやることは出来ん。だからこいつは、せめて、お前が全く関わっていない最初のひとつの事件を振り返る間だけでも、お前抜きで俺と何かをしたいと思ったんだ」
 生身の私は、何と応じていいかわからない、という表情を見せ、黙りこくった。
 土方は、小さく肩をすくめた。
「……というのが、そいつの言い分だった。それを、もっともなことだなと認めてやったのは、俺だ。……俺もぐるだったんだから、そいつだけを責めるのは、よしてやれ」
「……最初からそうときちんと説明してくれていれば、それほど悋気も起こさず、文句も言わなかったものを」
 半ば吐き捨てるように、生身の私は呟く。土方は微苦笑した。
「そう言うな。隠し事だの秘め事だのは、どきどき、わくわくするものだ。悪いとわかっていても……という気持ちが却って心を弾ませることも、あるものだろう。……その昔、他の奴に知れない所で俺に散々嫌がらせを仕掛けてきたお前なら、その手の気持ちはよくよくわかるだろうと思っていたんだがな。違うか」
「……ず、狡いですよ、土方さん」
 生身の私は、目に見えて動揺する。
「あなたからそんな風に言われてしまっては、私は何も反論出来ない……此奴から同じことを言われれば、何をぬけぬけと、と腹も立つのに……」
「俺が狡いのは今に始まったことじゃあンめェ」
 土方は、偽悪的な笑みを浮かべた。
「ずうっと除け者にしようって相談じャアねえンだから、度量の広さを見せて譲歩してやれ」
「……相わかりました、では、今日の[#「今日の」に傍点]夕餉は、腕に縒りを掛けて、じっくり時を費やして拵えましょう」
 生身の私は、殊勝な表情で項垂れながら……の割には何だか度量が広いとは言えない譲歩であるような気がするのは、私の僻目だろうか。
 土方の笑みが深まり、企みありげな目が私の方に向く。
「だ、そうだ亡霊。お許しと猶予が出たぞ。……但し猶予は今日の[#「今日の」に傍点]晩飯までらしいからな、それまでに、きりきり吐き終えろよ」
〈うっ……〉
 事態を逆手に取っての狡獪な催促に、私は一瞬絶句した。……流石は土方と言うべきか、全き善意から私の味方をしてくれた、というわけでもなかったのだ。
〈ず、狡いですよ、土方さん……〉
「だから、俺が狡いのは今に始まったことじゃあンめェ。──そら、そうと決まったら時間が惜しい。戻るぞ」
〈……はい〉
 私は、生身の私に謝意──謝罪と感謝、両方の意──をこめた目礼を向けると、身を翻す土方の背中に付き従った。
 
〈ですからね〜、確かに、どちらかと言えば寄り付いたのは有希殿の方ですが……それを拒みもせずに抱き寄せたのは、土方さんの方だったんですよね〜〉
「……本当、だろうな」
〈勿論ですよ……ふふふふふふふふ、よく考えてみれば、本当のことを言う方が、あなたの色々と動揺なさるお姿が見られますものねえ♪〉
 どうしても吐かねばならないなら徹底的に楽しんでやろうと、私は既に、開き直っている。
「誰が今更……ふん、男にすり寄られれば眠っていても蹴飛ばしてやるが、女子供に寄り付かれて蹴飛ばせるか」
〈と仰せの割には、二郎にすり寄られても抱き寄せてましたね……とっととと、それは次の事件の話でしたっけ〉
「だからそれは……えい、誤解してもらっては困るが、向こうの伊東君は、いわば、女子供と変わらん……いや、そのことは伊東の奴も交えた後で説明するから、話を元に戻せっ」
 今更動揺しない、と言う割には土方、私への応対が何だか滅裂になっている。二郎のことを「女子供と変わらん」とはまた、ひと悶着が起きかねない発言ではないか。……が、まあ今は、突っ込むのはやめておこう。我々ふたりに残されている時は、そう長くはないのだ。
〈では、お望みのままに……途中で土方さんが目を開けておいでだったのを見たと前に申しましたけれど、あれは、目を覚ましたと言うよりは、夢の中から一時《いっとき》彷徨い出ていた感じでしたね。実際の前後関係をきちんと述べますと、まずは、有希殿が、どんな夢を御覧になっていたのか、小さく啜り泣きながら土方さんにしがみつかれまして、開いていた喉許に唇を押し付け……その直後に土方さんが目を開かれたので、あ、お目を覚まされたのかなと少々どきりとしたのですが、そうでもなさそうで……で、土方さんはと言えば、片手で有希殿を抱き寄せながら、反対側の手で息苦しそうに“しゃつ”を片肌脱がれた後で、また、ふうっと目を閉じてしまわれたわけですけれどね。……夢を見た覚えはないと、おっしゃっていましたよね?〉
「……ああ」
〈私にも確証はないのですが……私の目から見て、土方さんも、何か夢を御覧になっていたようでしたよ。里長曰く、実は人はひと晩に何度も色んな夢を見ているのだけれど、目覚める直前に見た夢以外は忘れてしまうことが多いのだそうです。お目覚めの直前に見ていた夢ではないので覚えていない、だけではないでしょうか〉
「……亡霊」
〈はい?〉
「話そうと思えば、ちゃんと、寄り道なしで真面目に話せるんじゃねえか。……じゃあ、手綱、締めるとするかな」
〈え〉
 それは一体どういう意味、と訊くより早く、土方の手が私の胸倉をぐいとつかんで引き寄せた。
〈わわわ、乱暴は……〉
「誰が乱暴すると言った。……このまま余計な寄り道をせず、伊東が晩飯を運んでくる前にひとつ目の事件を喋り切れたら、“ほっぺにちゅう”してやってもいいぞ」
 ……不覚にも、頭の中が一瞬で真っ白になった。
〈わわわ私は、そそそそんなつもりではなくて、ただその……その……〉
「……ふっ。この程度で動揺してくれるとはな」
 土方は意地の悪い笑みを浮かべると、私の衿許から手を離した。
「俺を動揺させて自分だけ楽しもうなんざ、十年早い。……さ、続きを聞こうか」
〈うう……何なら、“唇にちゅう”してさしあげましょうかっ〉
「そうやって無駄口を叩けば叩くほど、“ほっぺにちゅう”も遠ざかるんだがな」
〈……はい〉
 私は肩を落とした。所詮土方ゆえに亡者となった身、余程の覚悟がなければ彼の命に逆らうことは難しい。……と言うより、今は、素直に従う方が、逆らうよりも遙かに己の気持ちに添うのである。
〈……ふうっと目を閉ざされた直後でしたね、土方さんの方が、有希殿の喉許に思いっ切り口吸いの跡をお付けになったのは〉
 土方が、飲みかけていた茶を喉に絡ませて咽せる。……まぁ、この程度の仕返しはしておかないと。
「ごふごふごふっ……いや、話せと言ったのは俺だ、ごふごふっ、気に、するな、ごふっ」
〈そんなに慌てなくても大丈夫ですよ、土方さんの側からは、そのひとつ切りでしたから〉
「ごふ……数が少なければいいというものでもなかろう」
〈まあ、それはそうですが。……あの時に思いましたよ。有希殿は、奥手というお話でしたが、実は随分と、何と申しますか、激しい娘御であらせられるのだなあ、と〉
「……おい。お前のお喋りは、白牡丹殿を通じて有希殿の目にも触れるんだぞ」
〈ええ、ですから、言葉をきちんと選んでおりますよ〉
 私は小さく苦笑した。
〈亡者と成り果てた身とは言え、際疾く煽情的に語ることは幾らでも出来ます。それこそ、好色物の浮世草紙のようにもね。でも、それでは流石に差し障りがありますからねえ。……まあ、正直、淡々と語ろうとすれば幾らでも淡々と語れる程度の、他愛ない、普通の痣の付け合いでしたから、お互い、余り深刻に悩むことでもないですよ〉
「……普通のぉ? 普通、ほぼ初対面の男女が、ひとつ寝床で寝惚けて痣の付け合いなんぞしねえだろうが」
〈おや。寝惚けてとは言え有希殿に少しでも無体を働いた恰好になったこと、気になさっておいでなんですか?〉
「……いや……今更、気にしてどうなることでもねえし」
〈そうでしょうねえ、今やもう、それ以上のことまで──むぐむぐむぐぐ〜〉
 いきなりぎゅむっとつかむようにして口を塞がれ、私は、意味のない呻きを洩らす羽目になった。
「こ・の・じ・け・ん・に・は関係ねえだろっ。……どーした、“ほっぺにちゅう”は諦めるのか? 晩飯のいい匂いがしてきたぞ」
 ……またも手綱を締められてしまった。私はかぶりを振り、土方の手を振りほどいた。
〈此処まで語れば、もう語り終えたも同じですよ。だって、その後は、有希殿がふたつ目と三つ目の口吸い跡をお付けになった程度で、お互いによくお休みでしたから。で、朝方に、向こうの土方さんが、慌てた、と言うよりは、何処かバツの悪そうな様子でお見えになって……室内の光景を御覧になるや、ざーっと血の気の引く音がしたかと思うほど真っ青に〉
「……そりゃ、なるだろうな」
 土方は苦笑した。
「単に有希殿が俺に抱き付いていたというだけならまだしも、俺が片肌脱いでいたわけだし」
〈でも、流石に、カッとなって踏み込んでくるような真似はなさいませんでしたけどね。……なのに、あなたが挑発なさるから、あんなことに……〉
「あれは考えがあってやってたことなんだがな。……なのに、おめェが余計なことをするから、あんなことに……」
 土方は、私の口振りを真似ながら、帳面をめくった。
〈向こうの土方さんも、あそこまで凍り付かなくても良かったのですがねえ。所詮、私は亡霊でしかないのですから……生者の側が本気になれば、振りほどくのも身動きするのも簡単なのに……〉
「なに言いやがる。全然目に見えねえ相手から突然、がしっと、凍え付くような手で羽交い締めにされちまった奴の身にもなってみろ」
 確かに、当時まだ、向こうの土方さんは、私の“手”を、体の芯から凍てつくような冷たいものとして感じていた。余りの冷気に吃驚して咄嗟に身動きが出来なくなってしまったとしても、無理はなかったかもしれない。
〈ですが、あなたが殴られるのを拱手して見ていたい気には到底なれませんでしたから。……だって、あなたに抱き付いたのは、有希殿の方ですよ。なのに土方さんだけが殴られたら、私は怒りますよ〉
「……だからと、奴が有希殿を殴れるわけがなかろう。……大体なあ、おめェ以外が誰も見てねえ上に、そのおめェが何ひとつ喋りもしねえでいたあの状況下で、どうして奴が、俺が無体をしなかったなんて思えるものか」
〈うーん……そりゃあ、ああいう場合、あなたが手を出したと思われても、確かに仕方がないでしょうけど……そんなに信用出来なかったんですかねえ、根っこが同じ土方さんなのに、“自分”のことが〉
「……だから[#「だから」に傍点]信用出来なかったンだろ」
 土方はまたぞろ苦笑を洩らした。
「まァ、その点についてはもう、前に、俺が別の“きり番りくえすと”で喋ってることだが」
〈そうそう。そうなんですよねえ。だから正直、今更私が得々と語ることでもない気がしますよ、此処まで話しておいて言うのも何ですが……〉
「そう言うな」
 ぱたんと帳面を閉じながら、土方は小さく嘆息した。
「俺が寝ていた間のことは、寝ずの番をしていたお前にしか話せんことだろう。……話は終わりか?」
 私がそれに応じようとした時、厨房と部屋とを仕切る藍染の暖簾がひらりと動いて、生身の私が顔を出した。……両手に飯櫃を抱えて。
「お待たせしました、飯が炊けましたよ。今、膳をお持ちしますね」
 私は、一気にがっくりと体の力が抜けるのを覚えた。
 話を締め括る直前に姿を現わすなんて……悪気がありありなのか、それとも本当に偶然なのか……。
 土方も、小さな苦笑いを浮かべている。折良くと表現するには折の良過ぎるこの登場の仕方に、私同様、わざとなのか否かを量りかねているのだろう。
 生身の私はと言えば、我々の様子に気付かぬ筈もなかった筈だが、表情顔色ひとつ変えず、飯櫃を炬燵の脇に置いた。
「……配膳を終えて、箸を取るまでは、夕餉は始まりませんよ」
 呟くように言い置いて厨へ戻ってゆく生身の私の背を見やって、土方は、ふうと息をついた。
「おかしなもンだ……よくよく考えてみりゃ、あいつが邪魔をしてくれた方が、俺ァ、おめェの頬っぺたに“ちゅう”しなくて済むから有難ェ筈なんだが……何か、まだ大丈夫だってわかった途端に、ほっとしちまったな」
〈私は反対に、嗚呼、もう“ちゅう”などない方がいいやと、気が抜けてしまいましたよ……どう話を結ぼうとしていたかも、忘れてしまった〉
 どの道、話し終えたも同然でしたしね、と呟くと、私は、土方に一礼してから腰を上げた。そして、自ら、厨へ赴いた。生身の私に「もう終わりましたよ、お気遣いなく」と告げる為に。
 
 こんな調子で、土方や生身の私を相手にだらだらと喋り続けていたら、いつになっても話が終わらないのではあるまいか。
 つくづくと考えた私は、その夜、ひとりで宿所に舞い戻った。
「はい? 直接私に話す?」
〈ええ……試しに、そうしてみたいのです〉
「うーん……私はあくまで先生の語り置いたことを最終的に調える役で、対話相手としては余り好ましくないんですけど……」
 こちらがどうしても会いたいと願えば宿所からの“通路”を開いてくれることの多い里長は、里の中の何処とも知れぬ、人ふたりが転がればそれで一杯になってしまうほど狭い殺風景な部屋で文机……とは形が違うが用途はほぼ同じ……に向かいながら、渋い表情を見せた。
「第一、次は、生身先生が登場する事件でしょうに。置いてきて、良かったんですか」
〈……そこも少し、試しに変えてみたいんですよ〉
 私は、躊躇いながら告げた。このままの形で時系列の順に語ると、途中で息切れしてしまうのではないか……それよりも、選んだ十の事件は必ず何処かで繋がっているのだから、ふと語りたくなった箇所から語ってみて、その中で、時を遡って前の事件にも触れるという方法ではどうだろうか、と。
「……で、何処から喋ってみたいんでしょう?」
〈ええと……まずは、いで湯の話です。一番最後の〉
「はいはい、茶店の庭に、いで湯を掘ったアレですね……二〇〇三年三月十八日から二十五日まで……亡霊先生は二十四日の朝に御来訪、と」
 そう言えば、十件の中でこれだけが二〇〇三年の事件でしたね、と指摘されて、私は微苦笑した。
〈ひとつぐらいは、年が改まってからのものを選びたくて。……でも、あの時の騒動は、私にとっては掛値なしに、十の中に入れても構わないほどのものでした〉
「最初の、温泉を掘り当てるところは、先生は御覧になってないわけですけど……」
〈後から聞きましたけれど、里のあちこちから“便利屋”達が呼び寄せられていたとか〉
「んぎょ、誰ですか、選《え》りすぐりの錚々たるメンバーだったのに、“便利屋”なんて表現で括って教えたのは。……まあいいでしょう、そもそも、いで湯掘りや石積み作業などの諸々は、亡霊先生にとっては重要ではないでしょうから」
〈御配慮痛み入ります。……ええ、確かに、私が言及したいのは、あの無粋な、磨り硝子とやらの衝立ですよ。まったく、風情がなくて恰好が悪いと言ったら……〉
 あれは何でも、いで湯に浸かっている者が……もっと正確に言えば、いで湯で身を休める女人がむくつけき男共から覗かれてしまわないようにという趣旨で置いたらしい物だったのだが、庭の景観を損ねること甚だしく、そもそも厩から顔を出す早蕨号に対しては全くの無防備というところが大いなる問題で……
「……そうはおっしゃられましても、早蕨君の秘密を知っているのは、ごく一部の方々だけですからね。何も知らない有希ちゃん達が用心する筈もなく」
〈だからこそ、知っている者が配慮せずして、誰が配慮するんですかっ。……私が覗きに行こうとしたら寄って集《たか》って取り押さえられるのに、早蕨だけが土方の裸を見たい放題というのは断じて許せませんよ断じてっっ〉
「はははは……はぁ……そっちが御不満だったんですかい」
 里長は、殺風景な室内の中で唯一の彩りとなっている花柄の布が掛けられている文机の上に、へなと突っ伏した。
「でも、亡霊先生が取り押さえられたのは、有希ちゃんの入浴を覗きに行こうとしたからでは?」
〈ち、違いますよ、あの時は本っっ当に早蕨の所へ行こうとしていただけなんですよっ、それを土方と生身の私が何を誤解したのか……あ・の・で・す・ねえ、茶店の帳面には書かれてませんけど、その前にも私は、生身の私から猛然と組み伏せられてるんですよっ、『愚か者、お前はいつも、土方の裸なら会津で散々見たと自慢げに語っておったろうが』とか何とか妙な理屈を付けられてっ〉
「……それ、日頃の言動のせいで自業自得って気もしますけど。……まあ、『散々』かどうかは、作者の目から見て疑問ですけどね」
〈はあぁ……勿論、話を面白おかしくする誇張に決まってるじゃありませんか〉
「……でしたら、やっぱり自業自得ではないかという気が」
〈そ……そうかもしれませんね。でも、あそこまで言わなくても……いえ、今は、いで湯の衝立の話でした〉
 私は嘆息した。
〈大体、あれだけの員数が雁首揃えていながら、後からふらっと来た私が灌木の植え込みか何かを目隠しには出来ないのかと指摘するまで、誰ひとり、植え込みを目隠しに使おうと思い至らないなんて……そんな風だから、石積みで下らない口争いになったり、脱衣所を造ってみたら出入口がなかったり、などという恰好の悪いことになるんですよ〉
「えらく、先生らしからぬ刺々《とげとげ》しさですね。……多分、あの中にいたら、先生も一緒に、『恰好の悪い』方々のお仲間になれていたと思いますよ」
 里長は苦笑した。……諸々の騒動の最中《さなか》に立ち会えなかったのが面白くない、という私の本音を、多分、わかっているのだろう。
〈……ところで、どうなのでしょうか、今迄色々と試してきましたけれど〉
「どうなのでしょうか、とは?」
〈選び出す時の騒動を語ってみたり、選び出した騒動を土方や生身の私と振り返ろうとしてみたり、里長殿と遣り取りしてみたり……色々と試行錯誤してきたわけですが、そもそも、このような試行錯誤をそのまま写し取る形式での語りは、私に十大事件を振り返ってほしいという白牡丹殿の御希望に添える形なのでしょうか。なかなか“十大事件を振り返る”という本題に入らないという点で、かなり疑問なのですが〉
「うーん……確かに、既に、今の時点で、今迄執筆したキリリク話の中で一番長い、『死神』を抜いてるんですよね……しかも、『死神』と違って、筋らしい筋もないという……」
 ……それは、だらだら長いだけで纏まりもなく読むに堪えない代物になっている、ということを遠回しに言っているようなものだ。
 私は、ため息をついた。
〈……これまでの労苦を投げ捨てる、というのは、確かにつらいことです。でも、今ならまだ、別の道を選べる気がします〉
「……語り直されます?」
〈ええ。……ついでに申し上げれば、一番最後の形式が、最も、今回、白牡丹殿が希望されている趣旨に迫り易い気がします〉
「直接に私と遣り取りして、それを私が写し取るのがですか?」
 私は頷き、そう感じるに至った根拠を話した。
〈今回の話は、私ひとりが考え込みながら語ってゆく、最初の方でのやり方だと、なかなか話が進みません。十大事件を選ぶ時の諸々の出来事は、話全体の中であくまでもおまけに過ぎないのに、私が語り手になることで、私の内面にどんどん立ち入ってしまう〉
「……つまり、純粋な一人称形式は、その人の内面を照らし出したい話には向いているけれど、こういう、雑多な出来事を野次馬的に眺めたい話の時には向いていない、ということですね。特に、亡霊先生のような内省型のキャラクターに語り手を任せると、周囲の人々の気持ちまで色々と忖度してしまって、前置きでしかない筈の部分がどんどん長くなる……」
〈……それ[#「それ」に傍点]ですよ、もうひとつの理由は〉
 私は苦笑した。
〈他の誰かとの遣り取りで出来事を振り返る形式を選ぼうと思ったのは、私ひとりだとどうにも先へ進まないと気付いたのが原因なのですが……土方や生身の私が話し相手だと、里長殿のようには言葉を置き換えてくれません。……つまり、読み手に対して、私が使うより的確な言葉で私の言いたいことを伝えるには、夷人の言葉や、我々が生きた頃より後に使われるようになった言葉を駆使して、より、白牡丹殿をはじめとした、里長殿と同時代に生きておいでの読み手にとってわかり易い表現に置き換えてくれる話し相手を選ぶ方が好いのではないか、と思うのです〉
 里長殿であれば、我々の与り知らぬ事情まで御存じですから、適切に補足していただけるでしょうし、と付け足すと、里長は指で頭をぽりぽり掻いた。
「たとえ作者であっても、全てを見通すのは無理ですよ。……でも、お気持ちはわかりました。そこまでおっしゃるなら、規格外れですが、やってましょう。元々、茶店設定限定ネタのキリリク話である場合、自分の普通の小説では絶対に使わない、かなり砕けた執筆作法を取り入れてますしね。……ただ、キリリク“小説”の域を出るわけにも行かないので、茶店で時々やっているような純粋な対談形式は採れませんよ。あくまでも、亡霊先生が語り手となります。……暫くこちらで缶詰になりますが、構いませんか?」
 ……暫く土方に会えなくなるがそれでも良いか、という問に他ならぬ。
 私は、黙って頷いた。いつまでも荷を負ったままずるずると日を送り続けるより、此処で腰を据えて取り組み、荷を下ろして、心おきなく土方に会える身になる方が良い。
「……じゃあ、明日の朝、茶店で語り直しになった旨、報告しておきます。先生が暫く茶店に戻れないことも」
〈宜しくお願いします。……では明朝〉
 私は軽く頭を下げ、里長の部屋を退去して宿所に戻った。
 そして、明日からの仕切り直しの鋭気を養う為に……と言うか、今の対話ですっかり磨り減らしてしまった生気を手っ取り早く補給する為に、既に就寝している弟の三郎の部屋に入り込み、その傍らに潜り込んだのであった。……あ、いやその、この宿所では、茶店と同じで寿命云々は気にせず生気を分けてもらえるんだよと、里長から常々聞かされているので。
 
 ……済まぬ、三郎。きっと今宵は、凍えるような夜に果てた、愚かな兄の夢でも見ることであろう。

─ 以降、9,000番キリリク話へ(汗) ─



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