序 

 不意に感じた不穏な気配に、俺は、水桶に突っ込んでいた顔を上げた。
 それと同時、厩の入口に人影が差した。
 ……厩、と言っても、宿所のではない。この“千美生の里”の中の何処とも繋がっているという場所にある“里の茶店”の小さな厩だ。俺は今し方、主である土方を乗せてこの茶店へやってきたばかりで、暫くはのんびり休めるなと、まずはおとなしく喉の渇きを癒していたのだが。
「早蕨号……」
 めらり、と青白い焔《ほのお》を背負っているかのような立ち姿でそこに佇んでいたのは、伊東であった。
 ……ややこしい話で恐縮だが、この茶店には、今のところ、都合三名の“伊東甲子太郎”が出入りしている。
 一番俺に馴染みがあるのが、『まなざし』の作中で土方の傍らでの時を共に過ごした、伊東の亡霊である。土方の企みで命を奪われながら、それでもなお恋い慕う土方の側《そば》にいたくて亡者と化してこの世に残った……という、なかなか面白い奴だ。
 一番無害なのが、里の外の『幕末並行世界』とやらから時々……いや、最近かなり頻繁にやってくる、“向こうの”伊東である。無論、ちゃんと生身を持って生きている。一見善良過ぎて面白みに欠けるようでもあるが、構い方次第では滑稽人に“化ける”らしい、これまた面白い奴だ。
 そして、一番物騒……と目されているのが、今俺の目の前に現われた、“生前の生身の”伊東であった。
 亡霊の“生前”の伊東であるからして、当然、土方のことを恋い慕っている。が、亡霊ほどには達観もしていなければ、気楽でもない。肉の身を持っている以上、それ故の様々な欲望からも逃れ得ていない。
 だが、此奴の関心は、とにかく土方を中心にしている。一介の乗り馬に過ぎない俺に、こんなに不穏な気色《けしき》を剥き出しにして迫る理由はない筈だ。
 ……と、思った俺は、しかし、相手が続けて口にした或る名前に、その考えを改めた。成程、此奴が、こんな様子で俺の前に現われる筈だ。亡霊から聞いているから承知済みだが、その名の持ち主は、此奴にとっては、近藤の名と並ぶ激しい嫉妬の対象だ。
 今やってきたばかりの土方から聞いたとは考えにくいから、恐らく、昨日茶店から妙にふらふらになって戻ってきていた亡霊が、此奴の前で口を滑らせでもしたのであろう。
「悪いが、しばし付き合ってもらうぞ」
 低い声で宣言されて、俺は、ぶふと鼻を鳴らした。「承知した」と応じたつもりであった。「悪いが」と前置きする辺り、嫉妬に目も眩んで取るものも取り敢えず殴り込んできた、というわけではなさそうだと思ったからだ。
 とことこと自ら素直に厩を歩み出る俺に、伊東は毒気を抜かれたような表情を見せた。
 が、すぐに不穏な目に戻り、俺のたてがみをつかんだ。
 そのまま引っ張りでもする気か、と思ったが、手綱も鞍も鐙《あぶみ》も付いていない俺に跨る為の手がかりにしたいだけであったらしい。身軽と言うよりは器用に俺の背に身を持ち上げ、鮮やかに跨るが早いか、横腹に蹴りを入れてきた。
 いつもなら、土方以外の男は乗せないことにしている俺だ。跨られた時点で、容赦なく振り落としていただろう。
 しかし、今回は、素直に従った。
 これは面白くなりそうだ──と思ったからだ。
 亡霊ほどではないが、俺も、面白くなりそうなことは結構、好きなのである。
 茶店から飛び出してゆく俺達を見付けたらしい誰かが慌てたような声をあげていたが、俺も、そして伊東も、気にも留《と》めなかった。

 それが、俺が“生前の生身の”伊東と一歩踏み込んだ関わりを持つようになった始まりであった。


 壱  再びの 

 俺と“生前の生身の”伊東……えい、面倒なので、皆に倣《なら》って「生身の奴」と呼ぶことにする……との間で少しばかりの意思疎通が可能になってから、何日かが過ぎた。
 事情があって土方が俺を茶店の厩に残して帰ってしまった翌朝、生身の奴は再び俺を外へ連れ出した。
『訊きたいことは山ほどあるのだ』
 と言っていたから、また先日のように人気《ひとけ》のない所へ連れていって話をしようと思っているのだろう。
 無論、意思疎通と言っても、限られたものである。俺に出来るのは、此奴との取り決めに従って、此奴の問に「そうだ」か「違う」か「ひとことでは答えられない」を示す仕草を返すだけだ。……頷いたりかぶりを振ったりでは周りの者にもわかってしまうから、別の仕草であるが。
 今のところ、俺は、此奴から訊かれたことには素直に答えている。それが一番良いというのは、亡霊の奴と接してきた経験で、わかっている。根が同じ人間であれば、対処の仕方が大きく変わる筈はない。
 しかし、いみじくもその亡霊が言っていた。どんなに問を重ねて答を得ても、それを信じられずに疑ってしまえば、きりがないと。
 亡霊の場合は、その辺りは克服出来ているらしいが……
 ……少し前から、急に、木々の紅葉《こうよう》を隠す無粋な霧が出ていた。
 それと同じ頃から、体に当たる繁みや木の枝が増え始めた。
 次第に濃くなり増さる霧に、やがて、生身の奴は手綱を引いて俺を止め、背中から下りた。
「道を……失ったようだ」
 心なしか気弱な声音での呟きに、俺は、どうやら彼は知っていて此処へ来たわけではなく、俺を走らせている内に自身でも知らぬ場所へ迷い込んでしまったものらしいと悟った。
 なだらかにうねって見通しの良かった筈の山道が、いつの間にか、曲がりくねって見通しも悪いし木々や繁みが多過ぎるという、余り芳しくない道に変わっている。それに……何やら、近付いてはならぬ場所が近くにあるような気がしてならぬ。
「済まぬ。引き返せば良いのだろうが、引き返すべき道も見当たらなくなっている……」
 端麗な横顔に、抑え切れぬ焦りが窺える。俺は「気にするな」と応じるつもりで短く鼻を鳴らすと、辺りの空気を探った。
 ……かすかだが、戦場の臭《にお》いがする。
 かつて土方と共にくぐり抜けてきた、あの、血と汗と金気《かなけ》の臭気に似ている。違うのは、硝煙の臭いが混じっていないことか。
 霧は、どんどん濃くなる。
 下手に動かない方がいいぞ、と感じたが、生身の奴には自分の不注意で道に迷ったという負い目があるのだろう、俺の傍らを離れて、来《こ》し方《かた》へと、繁みを掻き分け始めた。
 よしておけ、と襟首にかみ付こうとした時、あッ、という小さな叫びを残して、不意に相手の姿が消えた。
 慌てて駆け寄りたい衝動をこらえて、俺は、奴が消えた繁みへそろそろと鼻を寄せ、ゆっくりと突っ込んでみた。……少し探った程度では、よくわからない。鼻を出し、今度は、右の前肢《まえあし》を突っ込んで地面を探ってみる。
 ……ない。
 ある所まで行くと、地面の感触がなくなってしまう。
 俺は思い切って、繁みの向こうへ首を伸ばしてみた。……繁みが切れている。その先は霧で見えないが、どうも、何かがある風ではない。
 ……崖なのか。
 前肢と頭とを活用して繁みを切り開いてみると、やはり、崖になっていた。生身の奴は、崖に気付かずに足を踏み外し、落ちてしまったものらしい。
 無事で……済むだろうか。余り深い崖でなければ良いが、事に依ると、大怪我……いや、最悪、落命しているかもしれぬ。
 崖下へ降りられそうな場所はないかと探し始めた時、不意に、霧が晴れ始めた。
 有難い。探し易くなる。
 改めて覗き込むと、かなり深い谷になっていた。……倒れて動かぬ人影が、小さく見える。肝が冷える思いを抑えてじっと目を凝らしてみたが、首や手足があり得べからざる方向に曲がっているという風ではない。しかし、遠目ではわからぬことが多過ぎる。……幸い、崖はすとんと垂直には切り落ちておらず、垂直には近いものの、坂になっている感じだ。所々に木も生えている。馬が下りてゆけぬほどの急峻ではないと見た。
 ……人として生きていた頃から、無茶は幾らでもやってきた俺だ。
 此処はひとつ、鵯越《ひよどりごえ》の逆《さか》落としの故事に倣って、一気に駆け下ってみるとしよう。
 俺は高らかに嘶《いなな》くと、思い切りよく、崖下へ向けて身を躍らせた。
 一度でも躓いたら、一巻の終わりだ。だが、こういう時は神憑《かみがか》り的な力が四肢に漲るものらしい。一瞬で足場を見極めながら、次の足場へ次の足場へと跳ぶように駆け下りてゆく。
 幸い、一度もひやりとするような場面なく、俺は、谷底へ四肢を下ろすことが出来た。
 緊張がどっと解けて危うく座り込んでしまいそうになったが、こんな所で腰を抜かすわけには行かぬ。仰向けに倒れている生身の奴の側《そば》へ寄り、しげしげと観察する。……息は、ある。浅くも早くもなく、しっかりとしている。血の臭いは……殆どない。途中の木々に引っかかりながら落ちてきたのか、着物があちこち裂けている。中には血がにじんでいる裂け目もあったが、鼻を寄せてみると、既に血は乾き始めていた。これなら、どの外傷も、かすり傷程度であろう。
 となると、問題は、骨折や打撲傷の有無である。
 まずは、何処か骨が折れてはいないかと、鼻先であちこち触ってみる。……よくわからぬ、ということは、深刻な骨折はないのであろうか。しかし、これだけ鼻先でつつかれてもいっかな目を覚まさぬという辺りが気にかかる。
 何処か……目には見えぬ部分に、良くないことが起こっているのではあるまいか……
「──したあれ、のい、さわらび?」
 突然、意味不明の言葉と妙に俺の名前に似た言葉とが、何処か聞き覚えのある若い声で耳に飛び込んできた。
 俺は顔を上げ、そこに、全身黒ずくめで目と両手の先以外を隠している小柄な人影が立っているのを見た。……こんなに近付かれるまで全く気配も感じなかったというのが恐ろしい。思わず身構えた俺の前で、だが、相手は、顔を覆っていた黒い覆面を背中へ脱ぎ捨てた。
「てい、ぐらいん、まあり、おびあ、のい?」
 ……それは、以前、行方知れずとなった亡霊の奴を捜して回った時に土方と共に足を踏み入れた“みであみるど”とかいう作品世界で出会った、白金色の髪の美少女であった。確か、そう、“ぐらいん”と呼ばれていた……
 彼女はすうっと息を吸うと、円《つぶ》らな青灰色の瞳でじっと、俺の目を見た。
〈……今度は天下御免手形を持っていないのね。私の声が聞こえる?〉
 不意に体の中に響いた“声”に面食らったが、こういう聞こえ方は亡霊の奴のお喋りで馴れている。目の前の少女が話しかけてきているのだとは、すぐに理解出来た。
 聞こえる、と、亡霊の奴に言葉を返す時のように伝えてみると、少女はにっこり微笑んだ。
〈ああ、大丈夫ね。良かった、あなたが動物で〉
 どういう意味だ、と思ったが、少女は今度は聞こえなかったのか、それとも聞こえていても答える必要を覚えなかったのか、それについては何も言わず、生身の伊東の傍らに片膝を落とした。
〈……崖から落ちたの?〉
 いや、落ちたのはこいつだけで、俺はそれを追って下りてきただけなんだが……
〈そう……乗り手を心配したのね。優しいお馬さん〉
 少女は小さく息をつくと、ほっそりとした指と掌を、伊東の肩に置いた。と、見る間もなく、かすかな光がその手から溢れ出し、そして、静かに消えた。
〈……大きな骨折や裂傷はなかったわ。小さな傷は治しておいたから、安心して〉
 事もなげに言われて、俺は目をしばたいた。治しておいた? 傷の手当をしてくれた、という意味だろうか。が、特に何をしたという風でもない。ただ、肩に片手を触れて、暫くそのままでいただけだ。もしかすると、光がぼわっと掌から溢れた、あれが何やら不思議な力で、その力で傷を癒したというのだろうか。
〈私達の陣に運んでも良いかしら。此処は敵陣にも近いから、下手に敵方に見付かったら、怪しい者としておかしな目に遭わないとも限らない〉
 ……俺が嗅いだ“戦の臭気”は、気のせいではなかったらしい。此処は、戦場なのだ。しかも、異世界の。
 この少女の仕えている主には、先般俺達がこの世界を訪れた時に会っている。決して善人とは言えぬが、悪党ではない。前回の例に照らしても、異世界から迷い込んだ俺達を粗略に扱うことは多分ないだろう。
 交々《こもごも》考えた後で「構わない」と告げると、少女は何処かへ向けて合図するように手を振った。たちまち、黒装束がふたり、別々の繁みから姿を見せる。……少女同様、出てくるまで全く気配を感じなかった。ううむ……俺の勘は鋭い方なのだが、それでも気配を悟れぬほどに、此奴らが忍びの技に長けているということか。
 俺のささやかな落ち込みにはお構いなく、黒装束ふたりは、手早くその辺の枝を落としたり削ったりして二本の長い棒を拵えると、少女が何処からか取り出した大きな黒い正方形の布をふたつに畳み、その四隅を、平行にした棒と棒との間を繋ぐように括り付けた。そして、倒れたままの伊東をその布の上に丁寧に寝かせ、前後にはみ出ている棒の端をそれぞれ両手に持ち、持ち上げた。……成程、布と棒で戸板のような物を拵えたというわけか。
 少女がごく自然に俺の端綱を取る。俺はおとなしく従った。……たとえ相手が夷人でも女子供には甘いよな、と土方が笑うのは無理もないと、我ながら思う。


 弐  帰還 

 まあな軍陣中の天幕に運び込まれた伊東の奴が目を覚ましたのは、翌日であった。
 だが、困ったことに、奴は……自分が何者であるかを思い出せなくなってしまっていた。
 崖から落ちた時に頭を強く打ったのではないか、というのが、少女ぐらいんの話であった。頭を強く打つと、色々なことが思い出せなくなることがあるのだそうだ。
 まあ……打ち所が悪ければそのままあの世行きだったわけだから、まだしも打ち所は良い方だったとも思うが。
 ともあれ、此処は戦場。いつ何時《なんどき》まあなの敵の兵が雪崩れ込んでこないとも限らぬ。現に、ぐらいんの仕えている、けえでる将軍……いや、この“みであみるど”では、将軍というのはいわゆる征夷大将軍のことではなく、戦の総大将を務めることが出来る位の呼び名らしいが……その将軍は、連日、多くの兵を率いて陣を打って出ている。戦況は……どちらが有利かなど、陣中奥深く身を潜めている俺きに判断が付こう筈もない。
 少女ぐらいんと、他に何名かの忍びらしき者が、主けえでる将軍から命じられて、俺達の世話に残っている。少女ぐらいんは、俺達を保護したその日の夜に里の茶店まで知らせに出掛けて、例の“天下御免手形”──以前土方が亡霊を捜して回った時に里長から持たされた、異なる作品世界にいる時にだけ様々な効力のある、便利な代物──を持って戻ってきてくれた。おかげで、生身の奴が目を覚ました時には、周りの者と言葉が通じずに苛々するということはなかったらしい。俺も、その生身の奴の近くにいる為か、土方との旅の折と同様、手形の恩恵を受けていた。
 ぐらいんは、男共には手も触れさせないでいる俺の面倒も見てくれる。……いや、彼女に面倒を見てもらいたくて男共を蹴散らしたわけではないのだが……結果としては、そうなるか。
「心配しないでね、早蕨さん。土方殿と、けえでる様とが、かしい殿をなるべく早めに元の世界へ戻らせようという方向で、色々遣り取りをなさっているから」
 かしい、というのは、生身の伊東のことだ。土方から耳で聞いてきた名前を旨く伝え切れず、結局、この世界にあるという似たような音の名前で呼んでいるらしい。もとより伊東の奴は自分の名前も思い出せないでいるからして、皆からそう呼ばれれば仮の名前として受け入れるしかない。
 自分が何者であるかわからぬ不安も手伝っているに違いないのだが、元が攘夷思想の持ち主だから仕方ないと言うか何と言うか、周りが皆“夷人”めいた容姿といでたちの者ばかりであるというだけで、事ある毎に苛立っている。最初に目を覚ました時など、私に触れるでないと大喝し、刀を抜いて些か狼藉をしたほどだ。ぐらいん達に図抜けた武の心得がなければ、それこそ殺傷沙汰になっていただろう。まあ、そういった騒動は流石にその時だけであったし、伊東自身が自分の立場を理解して、おとなしくはなったが……それでも、世話をしてくれる“夷人”達のことが、どうしても気に障るらしい。俺は同じ世界から来た生き物として出来るだけ近くにいてやろうと思い、他所に繋がれても歯で綱をほどいて伊東の奴の滞在している天幕の傍らへ行き、座り込んでいるのだが、中から聞こえてくる奴の受け答えは大抵、そこはかとなく荒れている。
 しかし、救いは、食べ物には不足がない様子であることだ。この世界は幸いにも、雑穀混じりながら米の飯が庶民の口にまで主食として届く世界だし、魚は山の中とて無理ながら、四つ足の肉ではなく鳥の肉を用意してくれるなど、向こうもちゃんと気を遣ってくれている。茶を喫することも可能だから、わずかながら苛立ちを紛らすことも出来る。おまけに、食い物をつまむのに、箸に似た二本の細長い棒で挟む。……亡霊捜しの旅をした時に土方が言っていたが、それまでの“りはあしあ世界”でも最後に立ち寄った“はんご国”、そしてこの“みであみるど世界”で箸に似た食器が出てきた時には、随分とホッとしたらしい。食事の際に自分の馴染んでいる道具が使えるというのは、心の安寧にとって存外大きいものなのだ。
 現に、この世界に迷い込んで四日目の朝に、伊東が俺に呟いたことには、
「夷人は物を喰らう時に四つ又の鉄串で肉を差して小刀で切り分け、それを無作法にも串刺しにしたまま口に運ぶと聞いていたのだが……見ていると、肉でも野菜でもきちんと箸で切り分けて器用に拾い上げている。……夷人も、少しは日の本の善きところに学んでおるのだな」
 ……いや、その。
 俺はこの世界へ来たのが二度目だから流石にわかるが……此処に住んでいるのは、おぬしの知っておる、俺達の世界の夷人ではないのだぞ。

 五日目の晩、鋭いほどに細身の月が沈んで半時ばかり過ぎた頃になって、少女ぐらいんが、俺の端綱を取りに来た。
「やっと、陣を抜け出せそうよ。待たせてしまって御免なさいね」
 星闇の中、ぐらいんの後ろには、身支度を調えた生身の伊東の姿もある。少女が促すと、彼は無言で頷き、俺の背に跨った。
「……里の茶店までは、そう長くはかからない筈です」
 俺の端綱を取って歩き出しながら、少女ぐらいんは低く囁くような声で言った。
「あともう少しの御辛抱をお願い致します、かしい殿」
 伊東の返事はない。少女のかすかなため息が、俺の耳には届いた。
(少しは愛想好くしてやれば良いものを)
 俺とて夷人は好かぬが、この数日、この少女は親身になって俺達の世話をしてくれたのだ。それなりの恩義があるではないか……。
 と思った俺は、ふと、己の轡《くつわ》に響く手綱の具合が変化したことに気付いた。この感じは……手綱の主が強く手綱を握り締めたらしい。
 俺は、苦笑いしたくなった。
 生身の奴とてこの少女に恩義は感じているのだな、と、それで何となく理解出来たからだ。
(肝心な相手には不器用な男だ)
 少女ぐらいんは、不意に涌きあがり辺りを包み込み始めた霧の中に恐れげもなく踏み込んでゆく。……俺達が知らず世界の境を踏み越えた時のような霧だ。してみると、この濃い霧を抜ければ、俺達の元来た茶店の近くへ戻れるに違いない。
 白い闇の中で鼻の先も見えなくなった時、急に伊東が手綱を引いた。
 俺が立ち止まると、俺を牽いていた少女も足を止めた。
「如何なさいましたか」
 少女が問うと、生身の奴がわずかに緊張したのが背中に伝わってきた。
「……ぐらいん殿」
「は、はい?」
 少女はやや戸惑ったように応じた。それはそうだろう。俺が天幕の傍らに張り付いて聞いていた限りでは、此奴がこちらの世界の者の名を口にして呼びかけたことはない。
「世話になった。……不愉快な思いを多々させてしまったことを詫びたい。……感謝している」
 多少くぐもって聞こえたが、言葉はハッキリとしていた。
 少女ぐらいんは、一瞬の沈黙の後に、言葉を返した。
「……かしい殿のお言葉、陣に戻ってから、皆に伝えます」
 落ち着いた、穏やかな声であった。

 霧が晴れると、そこはもう、見馴れた茶店近くの風景であった。
 背中の生身の奴が、ほっと安堵したような息をつく音が聞こえた。己が何者であるかを思い出せずとも、馴染んだ景色だとはわかるのであろう。
 やがて、星影の下に、茶店の建物が見えてきた。
 店先は煌々《こうこう》と明るい。いや、あの茶店の中は何処も彼処《かしこ》も、雪隠《せっちん》の果てまでもが、“えれきてる”のからくりとやらで、夜でも、篝火に照らされるより明るく照らされているのだ。
 まあ、厩の中だけは、灯火並の明るさしかない“えれきてる”にしてくれているが……。
 道に面して腰掛が並んでいる店の表を横目に、裏庭へと回る。
 懐かしい顔が、そこには、ずらりと並んで待っていた。
 土方は無論のこと、亡霊の奴もいたし、“向こうの”……『幕末並行世界』略して『幕並』の面々も顔を揃えている。……土方がふたりに、伊東がふたり……生身の奴は特に努力しなくても自分の亡霊が見えていた筈だから、自分と同じ顔の持ち主がふたりもいることに気付いているだろう。少女ぐらいんが茶店の主と土方とに挨拶をしている間、俺の背中から下りた伊東は、戸惑ったように、この“同じ顔が沢山”という面々を見比べていた。
 自分の世界へ戻ろうとする少女ぐらいんに、俺なりのやり方で別れを告げた後──
 改めて生身の奴に目を戻した俺は、おや、と首をかしげた。
 生身の奴の目が、ある一点で止まったままになっている。しかも、気のせいではなく、頬がほんのりと紅潮している。
 その視線の先にいたのは……
 土方だった。
 但し、向こうの[#「向こうの」に傍点]
「思ったよりも元気そうで、良かったな……あ、あんで俺を見つめるっ?」
 生身の奴に気軽に声をかけてきた『幕並』の土方だったが、生身の奴の熱のこもった凝視を受け、ぎょっとなったように身を引いた。よくは知らぬが、人並以上に、男から色恋沙汰を仕掛けられるのを苦手にしているらしい。
「ちっ、違うだろ〜っ、おめェが縁があるのは、こっちの俺だってば〜っっ!」
 焦りまくって隣の土方の方を指差すも、生身の伊東の奴は目もくれぬ。……恐らく、土方が洋装で待っていたのが原因であろう。夷人の恰好をした相手よりも、羽織袴の相手の方に自ずと目が向くというわけだ。
 それに気付いたらしい亡霊と土方が、腹を抱えて笑い出す。
 やれやれ、ひどい奴らだ。
 いや、斯《か》く言う俺も、人の身であれば腹を抱えて笑い出したい衝動に襲われたのだから、自分も含めて、である。
 しかし、生身の奴は至って真剣であった。
「あなたは一体……前世からの縁《えにし》さえ感じますが……私のことを御存じなのですか?」
「ちっ、ちが〜うっっ! おっ、俺じゃねえだっっ!」
 何処か思い詰めた顔でじりじりと迫る生身の伊東、ぷるぷるかぶりを振りながら後ずさる“向こうの”土方……
 ……ま、此処は俺が何か役に立つ局面でもなかろう。
 俺は、わざわざ『幕並』から来て俺達の帰還を待っていてくれた近藤有希殿の側《そば》へ寄ると、暫く振りに、ぎゅうっと首を抱かれて頬すりすりという、馬の身ゆえの特権を享受したのであった。


 参  まじないの餌 

 翌日、俺は、亡霊の奴を背中に、再び茶店へ赴いた。
 昨夜は、結局、生身の奴の記憶が戻る助けになるかもしれぬからと、『幕並』の土方だけが生身の奴と一緒にあのまま茶店に泊まり込んだ……筈だ。
〈どうだか。朝までひとつ臥所《ふしど》で一緒というのは無理だったと思いますよ。そこまでのこらえ性は、向こうの土方さんにはない。どんなに近付いても半間《はんげん》まで、保《も》って明け方まで、というのが私の予想ですね〉
 亡霊の奴は、気楽な口調で懐疑的だ。
〈根性なし、と言っているわけではなく、自分と関わりの薄い相手の為にまで辛抱はしない人だ、と言っているんですよ。もし、記憶をなくしたのが有希殿であれば、それはもう、こらえにこらえて添い寝でも何でも毎晩してやるでしょうけれど……おっと、こらえなければならない衝動は今回とは真反対か〉
 くっくっと笑う亡霊に、おぬし下品だぞ、と突っ込んでおいて、俺は、厩へ落ち着いた。亡霊の奴はふふっと意味ありげな笑いを残して部屋の方へ飛んでゆく。
 ……どうやら、亡霊の見立ては当たったらしい。『幕並』の土方が残っている様子はない。万年貸切部屋の中は静かで、厩から見える範囲では、生身の奴だけがひとり、ぼんやりと昼餉の箸を動かしている。
(まあ、時が至れば何とかなろう)
 茶店の主が用意してくれた水と飼葉に口を付けながら、俺は考えた。
(笑い転げていた土方とて、このままの状態が続くのは面白くなかろうし……)
 土方が笑っていられるのは、『幕並』の土方の側に全く以て同性の懸想を受け入れる素地がないからだ。
 だが、それでも、生身の奴が余り長い間“他所見”を続ければ、次第に面白くなくなってくるだろう。
 その兆候は既にある。土方は今日、朝の内から、最近には珍しく、羽織袴を身に纏って出ていった。恐らく既に此処へ立ち寄ったか、これから立ち寄るか。いずれにせよ、洋装を控えたということは、生身の奴から目を向けてもらおうという意図があるに違いない。
 今の[#「今の」に傍点]土方にとって、生身の奴は、想いを受け入れる気はなく独り占めする気もないが誰かに渡す気もない──という相手なのだ。狡いと言えば狡いし、我儘と言えば我儘なのだが……
 ……おっと。亡霊の奴が戻ってきた。
〈いやはや、実に法螺の吹き甲斐がある。何しろ、なあんにも覚えていない。簡単に騙されてくれる。丁度向こうの私が来ましたから、ちょっと面白いことになりそうですよ〉
 などと言って、にこにこしている。……此奴の悪癖は、起こった物事を関係者に針小棒大に告げ回り、立てずとも良い波風を立てて回ることだ。まあ、亡霊の身ゆえ、己がこの世に留まる為の“力”を効率よく得ることの出来る“適度な騒動のもたらす活気”を好むのは致し方ない部分もあるのだが。
〈あ、そうそう、土方、やはり来ていましたよ。いつになくお優しくて、ついつい妬けてしまいますねえ〉
〈……だったら、面白がってばかりいないで、少しは生身の奴が元の記憶を取り戻せるような手立てを考えてやればどうだ。このまま奴が向こうの土方に想いを募らせるようだと、何を仕出かすか知れぬぞ〉
〈まあ……そりゃ、生前の私ですからね〉
 亡霊はわずかに鼻白んだような表情で呟く。
〈頭を打って物を忘れたのなら、もう一度打ってみるというのもありますかね……〉
〈そういう手荒な真似は最後の手段にしておけ〉
〈わかってますよ。……しかし、微妙に気に入らないんですよねえ〉
 難しい顔で腕組みをしながら、亡霊は言った。
〈土方と同じ姿形ならいいというものではないのに、何故向こうの土方さんに気を向けるのか〉
〈……向こうの土方にぶんぶん振り回されて喜んでおるおぬしの言うことか?〉
〈むっ。それはそれ、これはこれですよっ〉
〈世間ではそういう態度を「己のことを棚に上げる」と言うのだがな。……まあいい、俺が指摘するのも何だが、生身の奴は、土方から邪慳にされていた期間が長い。接近を拒んで過剰な反応を見せる向こうの土方の方が、より強く己の記憶に訴えてくる相手に思えるのではないか?〉
〈……成程、一理ありますね〉
 亡霊はため息をついた。……念の為に言っておくが、そう見える仕草をした、ということだ。息の吸い吐きをしているわけではない。
〈向こうの土方さんが我々の魂に刻まれた相手とは違うのだということを、早く悟ってほしいものですが〉
〈ふむ。……相手が己が想いを懸けた土方ではないということに気付くことと、己が何者であるかを思い出すこととは、表裏一体のことかもしれぬぞ〉
〈……かもしれませんね。手立てについては、よく考えてみましょう。何かするとなったら、あなたも協力してくださいよ〉
〈……俺に出来ることならな〉
 その日は土方と亡霊を乗せて帰り、宿所の厩で寝た。長期戦になるか短期決戦になるかはわからぬが、眠れる時にはたっぷり寝ておくに限る。

 翌日、夜もかなり遅くになってから、打《ぶ》っ裂き羽織姿の土方が俺を牽き出しに来た。こんな時間から茶店に行くのか、と思ったが、どんなに遅くなってもなるべく毎日顔を出そうと考えているらしかった。
 茶店に着いて、夜分遅く失礼と主に挨拶しながら下馬した土方は、つと、半ばひとりごちるように言った。
「おめェは此処へ置いて、歩いて帰るかな、今夜は」
 ……何か、思うところがあるらしい。
 そのまま俺を牽いて裏庭に回った土方は、俺を厩に繋ぎに行くよりも先に、縁側に座り込んでいる生身の奴の所へ寄った。……隣には、流連《いつづけ》を決め込んでいるらしい向こうの伊東以外に、“ぱられるわあるど”の土方の姿がある。
 土方はそのふたりに目だけで挨拶すると、力なく自分を見やる生身の奴の前で足を止めた。
「よう、伊東、何を泣き腫らした目をしてんだよ」
 ……そこまで大袈裟ではないが、確かに、生身の奴の瞼は、赤らんで腫れぼったい。さっきまで涙をこぼしていたらしいことは、すぐに知れる。
 問われた生身の奴は、潮垂れた風情でうつむき、くぐもった声でぼそぼそと、何か呟いた。
「向こうの土方が来ねェ? そりゃ無理だ、余程の理由がねえと、来ねェだろうなあ」
 土方は、多少意地の悪い気分になってでもいるのか、はは、と笑ってそんなことをずけずけ口にした後で、不意に、ぐいと身を乗り出すようにして相手の顔を覗き込んだ。
「……俺じゃあ、不満か?」
 気の毒なことに、生身の奴は、それを聞くと、今にも泣き出しそうな目になった。
 それを見て流石に土方も後悔したのか、すぐに「冗談だって」と笑い、なだめるような優しい表情を見せた。
「おめェの浮気は初めてじゃねえもん。免疫は出来てるよ。……なァ、内藤」
 にやり、と意味ありげな笑いを向けられたのは、“ぱられるわあるど”の土方……紛らわしいので、以後は、現在名乗っているらしい内藤隼人という名の方で呼ぼう。同じ里に住む土方ながら、不老難死の“月石の民”とやらに生まれ変わって明治以降の時代をも生き続けているという、これまた微妙に『まなざし』の土方とは異なる土方歳三である。……何より大きな違いは、男色に対して『まなざし』の土方ほどには抵抗がないらしいところだ。おかげで、生身の奴に迫られて一線を踏み越えてしまった、という過去がある。あの時、土方は、生身の奴に対する己の気持ちに整理を付けられず、随分と悩んでいたものだ……。
 意味深な台詞と笑みを向けられた内藤の方は、涼しい顔で笑み返し、無言で受け流した。俺は口も手も出さねえからな、おめェが構ってやれよ、とでも言いたげな目が、興味深そうに土方に当てられていた。
 土方は、唇の端で小さく苦笑して、はらはらと涙をこぼし始めてしまった生身の奴に目を戻した。
「まあ、泣くのはよせ。あいつの呼び寄せ方なら簡単だ。よく効くおまじないがあってな……」
 子供のように悪戯っぽい笑みが、その目許に浮かぶ。
「今日は無理だが、明日の晩にはあいつが此処へ来るように、そのおまじないをかけておいてやるから。……さ、今日も、茶ァ飲んで、暫く喋って、帰るとするか。……ああ、向こうの伊東君、今日は私が持ってきた塩饅頭があるから厨房に茶請けを探しに行かなくてもいいぞ」
 言い置いて、土方は、思い出したように俺を牽いて厩へ向かった。
「……案の定だ。向こうの土方は、あれ以来、此処に顔も出してねえそうだ」
 ひとりごちるように、土方が呟く。傍《はた》から見ればひとりごとだが、土方は、俺には言葉が通じることを知っている。
「伊東の奴も、恋しい相手に会えねえままじゃ、いたずらに想いが募るばかりだ。何より、いつまでも俤《おもかげ》を追わせておくと、どんどん実像とずれて、修正が効かなくなる。……俺と向こうの土方は、根っこは同じで姿形は酷似してても、別の作品世界の人間だ。より長い時間実際に接してみれば、違いがそれだけ早く悟れる筈だ。それを伊東に身を以て納得させる為にも、一度、向こうの土方を呼び寄せる。頼むぞ早蕨」
 はて。
 いきなりそんなことを頼まれても困る。俺は、里の外へまでは出られぬのだが。
 しかし、昨日の亡霊と似たようなことを言うということは、今日一日厩に姿を見せなかった亡霊の奴と、何か話をしたのだろうか。
「……っても、何も特別なことはしなくていいぞ。ただ、この茶店に居続けるだけでいい。もし有希殿が来れば、遠乗りに行ってもいい。要は、いつも通りにしていればいい。……わかるな」
 有希殿の名前が出たことで、俺はやっと合点が行った。
 成程。俺が此処で無聊《ぶりょう》を託《かこ》っていると、『幕並』の里長に等しい白牡丹殿から知らせが行くらしく、有希殿が遊びに訪れることが多い。そして、有希殿が此処へ滞在していれば、ほぼ絶対確実に、向こうの土方が迎えにやってくる。
 つまり、土方は俺に、有希殿を迎えに来ずにはおれぬ向こうの土方を呼び寄せる為の、言い方は悪いが餌になってくれと言っているのだ。
 俺は、「承知した」と言葉で返せない代わりに、厩の敷き藁の上に座り込み、「これでいいか?」と問うように首をもたげ、相手を見上げた。
 土方はにっこりと笑うと、俺の頭をひとつぽんと叩くように撫でた後で、唇を軽く額に押し当ててくれた。……それは、俺には何より嬉しい、“報酬の前渡し”であった。


 肆  惑い 

 翌朝、ごそごそと起き出した俺は、まず首だけ出して厩の外を覗いた後で、自分で柵木を外し、外へ出た。
 生身の伊東が、縁側にぼんやりと腰を下ろし、不安そうな顔を庭に向けている、その姿を見てしまったからである。
 己を見失ってしまっている生身の奴のことが気にかかるのは、同じように──と言えるか否かはわからぬが──土方に懸想している身として、当然であった。
「ああ……今日もまた、不安な一日が始まる……」
 とことこと歩み寄る俺に気付いているのかいないのか、彼は、愁いに満ちた声でぽつりぽつり、何やらひとりごちている。
「昨夜は結局、あの方と同じ顔のおふた方は、連れ立ってお帰りになった……残ったのは、私と同じ顔のおひと方と、赤糟毛の若駒が一頭……あの方と同じお顔のお方は、あの方を呼び寄せるまじないをするとおっしゃっていたが、特段何もされていなかったような……一体、どんなまじないなのか……」
 茫々と呟いていた生身の奴は、俺がぶるると軽く鼻を鳴らすと、ぼんやりとした目を俺に向けた。
「……何だか、この赤糟毛、さっきから側へ来て、じっと私の言葉に耳を傾けているような素振りを見せているが……はは、まさか、私の言葉を理解しているとか……」
 その「まさか」だとも。
 俺は、右の耳だけを、ぐりっと回した。
 伊東は、目をしばたいた。
「……今、片耳だけ、ぐるりと動かしたか? 器用な馬だ」
 器用も何も……おぬしが頼んだことではないか。
 俺は、苦笑いしたい気分で裡に呟いた。
 そう──それは実は、つい先達《せんだっ》て此奴と取り交わした決まり事に従っての仕草であったのだ。肯定なら片耳を回し、否定なら両耳を回し、ひとことで答えられぬならまばたきを──という。
「……お前は、異世界にいる間、私の近くにずっといてくれたが、あの方と同じ顔の方の乗り馬だったのだな。あの時はさぞ、私に付いていて退屈したであろうな……」
 退屈など、まるでしてはおらぬよ。
 俺は今度は、両の耳を一遍にぐるりと回してみせた。
「……はて。今度は両耳を一度にぐりっと。何か、気になる音でもするのか?」
 違う、違う。
「……また、両耳をぐるり。……奇妙な耳の動かし方をするのだな、お前は。蝿や虻を逐っている……わけでもなさそうだし。何故お前は、そんなおかしな耳の動かし方をするのかな?」
 うーん……「はい」や「いいえ」で答えられぬような問をするでない。
 俺は、約束事の通りに、ぱちぱちとまばたいてみせた。
 ……しかし、この状況は、なかなか悪くない。俺の仕草を奇妙だと思ってくれることが、ひょっとしたら何か、此奴が己を取り戻す役に立つかもしれぬ。
「……目をしばたくぐらいで、反応なしか。……ふーむ。ということは、私の問いかけに返事をしているわけでも……」
 しているのだと言うに。
「……片耳をぐるり。待て待て。今、私が言葉を言い終えてはいないのに耳を動かしたぞ。私の言葉を最後まで聞いてからなら、もしかして、耳の動かし方が変わるかも……」
 生身の奴は、こほんとひとつ咳払いをすると、真剣な目で俺を正面から見直した。
「試みに問うが、私の言葉を理解しているのなら、教えてほしい。……片耳ぐるり。ええと……お前が耳を動かすのは、私の問いかけに返事をする為なのだろうか?」
 その通り。
「その片耳を動かすのは、『はい』の意思を示している?」
 そうだ。
「では、両耳を動かすのは、『いいえ』なのか?」
 そうだとも。他ならぬおぬしが、俺に、そうしてくれと頼んだのではないか。
 生身の奴は、ううむと唸って考え込んだ。
「……奇妙な馬だな、お前は……人の言葉がわかるとは……しかも返事まで……他の者とも、そうやって話をしているのか?」
 まさか。頷いたりかぶりを振ったりではなく、耳の動きとまばたきで意思疎通を図ろうとおぬしが思い付いたのは、傍の者の目に俺との遣り取りの中身が知れないようにしたかったから──であろう?
「……今度は両耳をぐるりと。私だけ? ……片耳」
 次々と即答する俺に、生身の奴は、些か混乱したようであった。
「何故、私だけと……? お前は、何か私と特別な縁《ゆかり》がある馬なのか……?」
「兄上〜、朝餉の支度が出来ましたよ〜」
 伊東の声と全く同じながら若干間延びした声が、にこやかに割り込んでくる。見れば、向こうの伊東が、箱膳を抱えて厨房から顔を出したところであった。
「そのままそちらへお持ちしましょうか、兄上?」
 伊東は黙って頷いた後で、ため息をついた。“弟”の、悪気はないにせよ邪魔が入ったおかげで、それ以上考えを巡らすことが出来なくなってしまったらしかった。
 まったく、折角、奴が己のことを思い出す良いきっかけになりそうだったのに。
 俺は軽い腹癒せに、縁側で生身の奴と向かい合うように座った向こうの伊東の膳から、主菜と思しき目刺しのひと連なりを丸ごと失敬してやった。

 昼餉が済んで暫くした時分になって、近藤有希殿がやってきた。
 ……土方の思惑通りに、事は運んでいるらしい。
「早蕨ちゅわ〜んっ!」
 馬が大好き、と言う有希殿は、いつもこんな風に、体じゅうを押しつけるようにして俺の首をぎゅっと抱き、頬ずりをしてくる。どうかすると、「ほっぺにちゅう」と言いながら、頬に唇を押し当ててくる。役得といえば役得なのだが、今まさにこれから美しく花開こうとしている年頃の娘から恥じらいもなくこんな真似をされると、仄かに伝わる胸の膨らみの感触といい、柔らかで滑らかな頬や唇の感触といい、かなり赤面ものである。……いや、有希殿の名誉の為に特に付け足しておくが、彼女がこのような大胆な振舞をするのは、俺のことを全き馬だと思っていればこそである。
「うちのおばちゃんから『有希、こちらの土方先生が早蕨ちゃんを厩に残しておいてくれたよ。早蕨ちゃんと遠乗りに行ってもいいってさ。おまじないに』ってことでしたが、『おまじない』って何でしょうね」
 んむ……まあ、それは、有希殿が気にしなくても良いことだ。
 俺は、有希殿が満足するまで十二分にあらちこちらと走ってやり、夕暮れの頃に茶店へ戻った。
 久し振りの遠乗りだったせいか、飼葉を腹一杯食うと、すぐに眠気がやってきた。
 厩で丸くなってうとうとし始めた俺の眠りは、だが、程なく、厩の中にいてさえもハッキリと聞き取れるほどの悲鳴にも似た絶叫によって破られた。
「おおおお俺はっ、男に抱き付かれて喜ぶ趣味もなければっ、袖を引かれて喜ぶ趣味もねえって、いつも言ってるだろうがっ、うちの伊東っ──どっ、どわあああっ、なっ、生身かーっっ!」
 ……土方の“おまじない”の霊験実にあらたかと言うべきか、結局、向こうの土方は随分と長い間、生身の伊東に抱き付かれたままだったそうだ。夜半近くになって厩にやってきた有希殿が「歳三、ずーっと振りほどけずに、冷汗だらだらで固まっちゃって……有希が助け船出さないと駄目みたい」と苦笑していた。有希殿がその後どう「助け船」を出したかは知れぬが、それから余り経たぬ内に向こうの土方は有希殿と連れ立って茶店を離れることが出来たようであるから、その「助け船」は功を奏したのではあろう。

 翌朝になると、生身の奴の様子は、前の日よりもなお悪くなっていた。
 折角“弟”が腕によりをかけて拵えてくれた朝餉にも殆ど箸を付けず、縁側に腰を下ろしてうつむいたまま身じろぎもせず。見るも哀れなほどの沈み込みようであった。
 俺も向こうの伊東も心配をして、始終その傍らに座り続けた。向こうの伊東は、最初は生身の奴の気を紛らそうとしてか色々と喋っていたが、生身の奴が全くと言って良いくらい無反応なものだから、遂には言葉をかけるのをやめ、黙って一緒にぼんやりと座り続けていた。
 が、昼時になれば、悩みの少ない者の腹は減る。自分の胃の腑がぐうとなったのを潮に向こうの伊東は厨房に立ち、俺だけがそこにとぐろを巻いて残った。
 それにしても、よくもまあ、そんなに長い間、微動だにせず座っていられるものだ。
 半ば呆れつつ、同じ姿勢に疲れてごそごそと体を動かしたところで、生身の伊東がやっと身動きして、顔を上げた。
 俺をぼんやりと見つめ、のろのろと口を開く。
「奇妙な馬……早蕨、という名だそうだな。……私の愚痴を、聞いてくれぬか?」
 ふむ。
 愚痴だろうがぼやきだろうが、己の考えていることを外に向かって言葉にしてみようとするのは、良い傾向だ。
 俺は黙って、右耳をぐるりと回した。
 生身の奴はそれを見ると、ぽつり、ぽつりと語り出した。
「……私は、どうしたのだろう……あれほど会いたかった筈のあの方なのに……もう放さないと縋り付いたのに……一夜明けて、目覚めたら、何処か、気持ちが、うつろだ……」
 ふむふむ。
「出会った時からずっと、『俺じゃない』と言い続けておいでで……昨日もまた、同じことをおっしゃった」
 まあ、それは言うだろうな。
「そのせい、ではないけれど……何かが、違う、という気がした。巧く言えぬが……私がああして抱き締めた時に、もっと違う反応が返ってこなくてはならぬのに、そうではなかった……ような」
 ふむ?
 相手に違和感を覚えたということか。
 それは悪くない。何かが違う、と自ら気付くことは、己の間違いに思い至る最短の道なのだ。
 では、相手が土方であればどんな反応が返っていたか……それは恐らく“まずは拒絶”であった筈だ。同性からの懸想に随分と寛容になった土方ではあるが、いきなり抱き付かれれば、余程の相手でない限りは払いのけようとしただろうし、それが無理な相手であれば、「よせ」だの「離せ」だのといった拒絶の言葉を連ねていたであろう。
「私は、何を待っていたのだろう……あの方に、何を求めていたのだろう……」
 わからない、と両手で顔を覆ってしまう生身に、俺は首を伸ばし、鼻面を寄せた。以前亡霊から聞いた限りでは、此奴が土方に求めていたのは……
「こ・ん・に・ち・はっ、生身先生」
 不意に届いた明るい声に、俺と伊東は顔を上げた。
 そこに立っていたのは、有希殿であった。早蕨ちゃん、と、いつものように首ぎゅうの頬すりすりをしてきた後で、お邪魔しても宜しいですか、と、やや形を改める。
「昨日は、有希が眠いと言い出して歳三を連れ帰ってしまって、失礼しました。有希が子供なので、子《ね》の刻にはいつも連れ帰ってもらうことになっているんです」
 恐らくは、記憶を失っている生身の奴に説明せねばと思ったのであろう、言わでものことをわざわざ口にして、彼女は、ぺこりと頭を下げた。
「うちの歳三ね、うなされてたみたいですよ。夜中に隣の部屋から『うおおおお、俺ぢゃねえってば〜』という雄叫びが聞こえてきましたから」
 くすくすっと笑った後で、再び真顔に戻る。
「有希も詳しいことは知りませんけど、歳三ね、子供の頃によっぽど嫌な目に遭ったらしくって、殿方に迫られたり触られたりするの、すっごく嫌いなんです。いつもならば『俺に触るんじゃねえっっ』とか言って振りほどくし、うちのはこちらの土方先生と違って血の気が多いので、下手すると抜き身振り回して追い払います」
 成程。
 俺は目を細め、しかし反面──と考えた。向こうの土方には、「いつもならば」とか「下手すると」と有希殿から言われてしまうほどに、その手の事例と実績がある、ということでもあるわけだ。
 こちらの土方の場合、そもそも、同性からそういった目をひそかに向けられることはあっても、実際に言い寄られたことは殆どなかった筈だ。一見優男風の容貌なのに、そういった想いを端《はな》から寄せ付けぬような雰囲気が漂っていたからだ。だからこそ、俺も、なかなか想いを告げるに至れなかったのだ……
「いつもなら足蹴にするとか投げを喰らわすとか、しそうな歳三が、昨日は大汗かきながら、拒まないように抑えているみたいに、有希には見えましたよ」
 ……ほうほう。「いつもなら」の事例がどんどん増えてゆくな。
 などと不謹慎なことを考えている俺とは対照的に、生身の奴は何処か神妙な表情で相手の言葉に耳を傾けている。
「記憶をなくされている伊東先生に、先生の心の中に住む人が自分ではないと幾ら言っても、言葉だけでは伝わらないから、触れさせてみた、のかもしれません。……有希は歳三に確かめてはいませんけど、いい加減長い付き合いなんで、お互い口に出さなくてもわかることが沢山あるんです」
 言い切った後で、有希殿は、ぱっと頬を赤らめた。
「こんなこと申し上げて、失礼だったでしょうか」
「いいえ」
 生身の伊東は、静かに微笑んだ。
「些か……思うことがないでもありません。……悪いのですが、暫く、ひとりにしておいていただけませんか」
「……では、早蕨ちゃんをお借りして、そこらを駆けてきましょう」
 言うや有希殿は、鞍も置かれていない俺の背中にぽんと跨り、「行こ、早蕨ちゃんっ」と宣《のたま》った。
 俺はゆっくり立ち上がると、小さく伸びをしてから、とことこ歩き出した。
 厨房から、向こうの伊東がひょいと顔を出す。
「あれっ、若紫ちゃん、お昼御飯は──」
「あ、お八つまでには帰ってちゃんと頂きますから、有希の分は残しておいてくださいねっ」
 明るく笑って、有希殿は、俺の腹を軽く蹴った。
 ぐう……俺だって昼飯はまだなのだが、まあ……出先で草でも食うか。


 伍  急転直下 

 短時間の遠乗りから戻ると、俺は、「後で綺麗綺麗にしてあげるからねっ」と言い残して厨房に駆け込んでゆく有希殿を見送り、勝手に厩へ戻った。
 ……生身の奴は、どうしただろう。
 ひとりにする、と言っても向こうの伊東や茶店の主がいたから、滅多なことにはなっておるまいが。
 気にはしながらもひとまず喉の渇きを癒していると、当の生身の奴が微妙に重い足取りでやってきて、入口の柱に背中を預けるようにして佇んだ。そして、暫くの間じっと黙って横目で俺を見ていたが、ひとつ息を洩らした後で、ぼそりと切り出した。
「……どれほど言葉を連ねてもろうても相手の言うておることが理解出来ぬというのは、虚しいものだな。……お前が外に出ている間、私を兄上と呼んで世話を焼きたがるおかしな男と、少しばかり、話をしたのだが……相手の語る言葉が、どうしても、己の身に迫らぬ……向こうが一所懸命に私がどんな人間であるかを説明してくれるのに、どうしても……思い出してやれぬ……」
 向こうも虚しかったであろうな、と呟いて、また暫時口を閉ざす。
「……いっそ、この身を再び異世界とやらの崖下に擲《なげう》てば、失われた己も戻るであろうか」
 馬鹿なことを吐《ぬ》かすでない。
 俺はぶりぶりと何度も両耳を回しまくった後で、ぶふるるるっ、と荒々しく鼻を鳴らした。激しい否定の意思が伝わったものか、生身の奴はちょっと驚いたような目を見せ、それから、小さく苦笑した。
「……己が何者であるかは思い出せずとも、周りが私に向けてくれる親しみや厚意は感じ取ることが出来る。記憶はなくても、感情はある。それまでをも失ってしまわなかったのは、有難いことだ」
 ふむ……感情、か。
 確かに、記憶を失ってさえも向こうの土方に“ひと目惚れ”してしまったのだから、彼の感情は、深い所で眠っている記憶としっかり繋がっているに違いない、とは思えるのだが。
 してみると、記憶を取り戻すきっかけになるのは、やはり、土方に対する恋情であろうか……
「……つまらぬ愚痴をこぼした。付き合わせて済まなんだな」
 生身の奴は柱から背中を離すと、何処か寂しげなひっそりとした微笑みを残し、再び茶店の縁側へと戻っていった。

 日が暮れて、まだ上弦の月になり切れぬ月が西の空に大きく傾く頃、『幕並』の土方がやってきた。
 ……うなされていたと言う割に、夜目遠目には元気そうに見える。生身の伊東から昨日のような振舞をされなかったことも良かったのであろう。が、決して後遺症を引きずっていないわけではないことは、暫くしてふらりと現われた亡霊が『幕並』の伊東を縁側から部屋の中へ連れ込もうとした時に、「あいつとふたりっきりにするなっ」と口走って一緒に部屋の中へ逃げ込んでしまった辺りでよくわかる。
 残された生身の伊東は、そのささやかな騒ぎに気を引かれた風もなく、若い月を眺めてぼんやりと座ったままであった。
 その有様を厩の出入口から首を出して眺めているところへ、食後の洗い物を終えたらしい有希殿が足取りも軽やかに寄ってきて、「あと小半時したら帰るから、それまで一緒にいようね」と潜り込んできた。……生身のことを心配していないわけではないのだろうが、そもそも彼女の一番の関心は、どうしたところで土方──俺や伊東が恋うている土方もだが、向こうの土方もだ──の上にある。生身の奴への感情的な思い入れは、ないに等しい。土方の身の上に何かあった場合に比べれば遙かに“冷たい”のは、当たり前であった。
「早蕨ちゃん、聞いてくれる? 歳三ったら、ほんっっとに、意地っ張りなんだから──」
 俺の足許に腰を下ろしながら早速始めたお喋りも、向こうの土方が屯所でああ言ったこうした……という話題が殆ど。……有希殿から憧れの目を向けられている筈の当の土方のみならず、俺も亡霊も、記憶を失う以前の生身の奴も、有希殿の真の意中の男は向こうの土方以外にあり得ないと見ているのだが、それは、彼女の普段のこういう言動で嫌でも悟られてしまうからである。
 まあ、今の有希殿自身にそうと告げれば、全力で否定するに違いないが。
 などと考えながら有希殿のお喋りを聞き流していた俺は、ふと、耳をぴくつかせた。
 此処からは見えない部屋の中で、土方の声がしたような気がしたのである。
 今、縁側に座っているのは、生身の伊東と、向こうの伊東と、向こうの土方。亡霊の姿は、ない。
「……あ、そろそろ帰る時間」
 と有希殿が腰を上げたのと、部屋の障子がからりと開いて土方が姿を現わしたのとは、ほぼ同時であった。
 早蕨ちゃん、また明日ね、という挨拶そっちのけで、俺は、首を伸ばした。向こうの伊東が突然、抱き付かんばかりに土方に縋り付いたのだ。
「ななな何だ向こうの伊東君、突然っ」
 土方は無論慌てたが、向こうの伊東が大の苦手としているゴキカブリでも出たかと思ったのか、すぐには振りほどこうとせず、辺りの床を見回すような仕草を見せた。
「油虫なぞは出ていないようだが……わわわ、だからいないと言うのに」
「いいえっ、そのっ、二日振りにお姿を見たのでつい嬉しくてっっ」
 ……ふらっと土方の後ろに現われた亡霊が、うぷぷぷと笑いをこらえているのを見て、俺は、ピンと来た。
 さては亡霊、さっき部屋にあ奴を連れ込んだ時に、こうするようにと頼んだな。
「何なんだ一体──でええっ、頬すりすりはやめろ、頬すりすりはっっっ……こ、こら亡霊、おめェまでっ。後ろから抱きつくのはよせ、後ろからは……みっっ、耳をかじるなあっっ!」
 やれやれ。
 亡霊の奴め、一体何を考えて……
 と思いかけた俺は、つと、生身の奴の様子が明らかに変わっていることに気付いた。
 切れ長の目尻が吊り上がり、色白の頬がどす黒く青ざめ……
「──なっ、何をしているのだお前らはっっ!」
 怒声と共に立ち上がろうとした生身の奴は、だが、突然、頭と胸を押さえて蹲《うずくま》った。
 拙い、と思わず俺が厩の柵木を鼻ではねのけた時、一方で笑い転げていた『幕並』の土方までもが、恐慌状態の土方をがしっと抱き締めた。
 きゃーっっ、いやいやいやーっっ、という有希殿の悲鳴があがる。向こうの土方に「そろそろ帰ろう」と言いに行ったところで、ある種異常なこの光景とまともにぶつかってしまったのであろう。くるりと踵《きびす》を返して一目散に厩へ駆け込んでくる有希殿を置き去りに放ってゆくわけにも行かず、俺は、騒ぎの側《そば》に寄るのを諦めた。
 その間にも、生身の奴は「貴様ら、いい加減で離れないかっ!」と怒鳴って再度立ち上がりかけ、ばったり前のめりに倒れてしまい──それを見た土方が流石に本気で焦って、強引に皆を振りほどいた。急いで生身の奴を抱き起こし、そのまま抱き付かれてのけぞりかけたものの、相手が何か呟いたのを聞いて、「布団布団っ、早く布団を敷けっ!」と怒号に近い指示を飛ばす。向こうの土方も伊東も普段は頭ごなしの指図を受けるような人間ではない筈だが、土方の剣幕に押されてか、すぐに部屋に飛び込んでいった。
 ……自分の受けた衝撃で手一杯、その大騒動にも気付かない有希殿は、はーあ、と大きなため息をついて座り込み、膝を抱えた。
「早蕨ちゃーん、今夜はお腹《なか》のとこで眠らせてー。うん、歳三が取り込み中で帰れそうにないの」
 早蕨ちゃんのお腹、あったかいから布団なしでも風邪ひかないしさ、と呟いた後で、また、はーあっ、と、ため息をつく。
 俺はぶふ、と小さく苦笑して四肢を折ると、有希殿の枕に横腹を貸してやった。
 有希殿は早速ぽふっ、と俺の横腹に頬を乗せると、またまた大きなため息を洩らした。
「変っ。ぜっったい変っっ」
 ぶちっ、と何かを引きちぎるような口調だ。
「こちらの土方先生がいくら素敵だからって……歳三まで抱き付くなんて、変〜っ」
「何が変だって?」
 不意に届いた声に、有希殿がびくっと顔を上げる。
 厩に足を踏み入れてきたのは、向こうの土方であった。部屋の中のことは、他の者に任せてきたらしい。
「ん? あんだよ、そのまなざしは」
「ギワクのまなざしっ」
 有希殿は、じとっと恨めしげな、それでいてわずかに怯えているような目で、相手を見上げた。
「とっ……歳三もついに、こちらの土方先生の、み、魅力に、とうとう、なんですか……?」
「──はあっ!?」
 一瞬面食らったような顔をした向こうの土方は、次の瞬間、身をふたつに折ってげらげらと笑い始めた。
「そ、そこで腹抱えて笑うわけっ?」
「そりゃおめェ……あのなァ、あんなの芝居に決まってるじゃねえか。生身の奴に悋気を起こさせて、記憶を取り戻させてやれねえかって、亡霊の入れ知恵でさ」
「……はあ」
「こっちの俺が、倒れた生身の看病に付きっ切りだ。多分元通りになったんじゃねえかと言ってる。俺もそう思うぜ。生身、こっちの俺の方ばかり見てるもんな」
「……ふーん……じゃあ、歳三はひと役買っただけ?」
「あったりめェだろ」
「そうなんだ……それにしちゃ思い切ったことを」
「ん」
 向こうの土方は、厩の中の暗さでもわかる程に頬を赤らめた。
「とてもじゃねェが、こっちの俺とは当分目を合わせられねえ」
「そうだろうねー、その返礼もありそうだし」
 けろけろけろっ、と有希殿は明るく笑った。生身の奴がもう大丈夫そうだと聞かされたことよりも、自分の親代わりである土方への疑念が解消された安堵の方が、随分と大きいように見えた。
「ま、一応、明日の朝まではこの騒ぎに付き合うが……おめェは此処で寝るか?」
「うん、早蕨ちゃんの傍なら歳三も安心でしょ」
「じャア俺は、厨房に“ぶらんけっと”とやらを抱えて潜り込むさ。伊東は、大方、縁側だろ」
「んー、じゃ、おやすみー」
「ああ、おやすみ」
 目の底まで温かく優しい微笑みを閃かせて、向こうの土方は、厩を出ていった。
 ……ああいう笑みを見ると、奴がどれほど有希殿を大切に思っているかは、よくわかる。
 随分と穏やかで寛大になった土方でも、滅多な相手には見せない笑みだから。
 俺は目を閉じると、「あー良かったー」と呟いて程なく健やかな寝息をたて始めた有希殿の温もりを横腹に、ひと時の眠りに就いた。


 結 

 翌日の昼過ぎになって、生身の伊東が、厩で秣を食っていた俺の所へやってきた。
「……世話になったな、早蕨号」
 些かぶっきら棒な口調であったが、すれすれの所で非礼の域には達していなかった。
「お前に世話を焼かれたのは私にとっては随分と不本意なことだが、記憶を失っている間は不本意だと思えなかったのだから、公平な目で見れば、お前に世話を焼かれることは私にとって不本意なことではないということになるのだろうな」
 ……何とも回りくどい表現を使う奴だな。
 目をしばたいていると、生身の奴は、苦い笑みを浮かべた。
「記憶を失っていても、かつての土方に似た相手には否応なく惹かれ、夷人めいた連中のことは不快に思うた。だが、お前のことは、厭わしく思うたり憎らしく感じたりしなかった。つまり、お前は、白紙の状態から接すれば、そういう相手なのだ。……単に、他の馬より変に賢い、奇妙な馬」
 だから、と、伊東は言葉を継ぐ。
「私はお前を、あの男だとは思わぬことにした。今のお前は只の変な馬で、あの男ではないのだから、私が四の五の文句を言うこともない。……只の馬相手に」
 ……素直でない物言いをする奴だな。
 俺は、ぶひんと軽く啼くと、再び飼葉桶に鼻を突っ込もうとした。
 そこへ、ぼさぼさぼさっ、と何かが落ちてきた。
 美味そうな金時人参が、およそ七、八本。
「ひとまず、礼だ。……只の馬へのな」
 呟いて一揖した生身の奴は、表情を見られるのを嫌うかのように、そのままくるりと素早く背を向けた。
 だが、俺の目には、一瞬なれど、その顔はしっかりと見えていた。
 ……両頬が、金時人参《こいつ》並に紅かったぞ。
 逃げるようにそそくさと足早に歩み去る相手の背中を見ながら、俺は、この思いがけない贈り物を平らげる為に、ぼりぼりと殊更に大きな音をたて始めたのであった。

 一度は失われた記憶をめでたく取り戻した、“生前の生身の”伊東。
 だが……俺への隔意だけは、結局、取り戻すことが出来なかったのだな。



Copyright (c) 2003 Mika Sadayuki
背景原画:「里の画廊」収録の「ひだまり」