その女は、いつも何処か遠くを見るような目をして、こんな事を言うのが常だった。
「うちは、男はんにとっては、間に合わせの女やからなぁ」
 その女に呼び出されて、その言葉を聞かずに終わったことがなかった。
 俺は、その女が、正直苦手だった。呼び出されることは苦行でさえあった。確かに男好きのする美女ではあるし、別に憎いとか嫌いだとかいうわけでもない。しかし、何となく誰か余り関わり合いになりたくない知り人に似ているようで落ち着かぬ心地を覚えることが多かったし、不用意に近付くのが躊躇われる女であることは間違いなかったし、出来ることならかなりの距離を置いておけるように願いたい女であった。
 だが、俺が芹沢先生の抱え込んでいる恋闇を知ったのは、他ならぬその女の言葉からだったのだ。
「……芹沢はんかて、そうや。最初、何でうちをそないに邪慳に扱うて避けはるんか、珍しい男はんもおるなぁ、女子《おなご》嫌いなんやろか、思とったら、好きな相手と、うちとが、何処とのぅ顔立ちが似とるんやと。何や、要は、うちに身代わりで手ぇ出しそうで怖いから、逃げ回っとったんやて」
 俺は、それを聞いた時、まじまじと相手の顔を見てしまい、そして、気付いたのだ。
 目の前の女を見ると、いつも漠然と、誰か知り人に似ているような気がしていた、その“誰か”が誰であるかに。
「……そやけど、芹沢はんは、他の男はんと違うて、正直やわ。今迄うちに色目使うて寄ってきはった男はんは、みーんな、嘘つきやった。うちが一番や、言うて、ほんまは間に合わせやのにな。なのに芹沢はんは、何や、正直過ぎて、無器用で、いじらしゅうて。……こないなこと言うたら、新見はんは怒りはるやろけど」
 新見はんは、芹沢先生大事のお人やもんなあ、と微笑まれても、俺は、言葉を返せなかった。
「どないしたん?」
「……いや」
「吃驚した? 何や、新見はんなら、うちに似とるいう女子はん、誰か知っとるかなぁ思うたのに」
「……知らん」
「故郷《くに》の人やないの?」
「だから、俺は知らん。俺に訊くな」
「いけずなこと言わはるなぁ」
 女は──芹沢先生と懇ろになって八木家に居着いてしまった菱屋の妾は、如何にも物優しげで無害そうなくせに奇妙に危なっかしい色香を漂わせた目許を綻ばせて、婉然と笑った。
「ま、ええわ。芹沢はんは、どうせ一生わへん恋やから、言うてはるし。……うちなら、芹沢はんから一緒に死んでくれ言われたら、いつでも喜んで死ねるのになぁ。初めてやもん、うちに向かって、あないな正直なお人は。そやけど、芹沢はん、ちぃともそないなこと言うてくれはらへん。世の中、巧いこと行かへんもんやなぁ」
「馬鹿か。芹沢先生がお前のような女にそんなことを言うものか」
 俺は、思い切り不機嫌な顔で言い返してやった。
「芹沢先生は、この国の為に身命を擲っても、たかが女ひとりに迷って命を捨てるような愚かなお人ではないぞ」
「新見はん、芹沢はんのこというたら、すぐにムキになりはって、ほんに面白いわぁ」
 腹が立つくらい柳に風の女は、ふわんと手を叩いて喜んだ。大体、こうして夜分、障子襖を開け放ってこそいるが芹沢先生がいない部屋にふたり切りで喋っているというのに、俺が指一本触れられないと見切っているのが無性に腹立たしい。
 俺は、ぷいと座を立った。
「──つまらん用で俺を一々呼び出すな。罷り間違って要らん勘繰りをされるのは、割に合わん」
「言いながら、来てくれはるから。心配せぇへんでも、芹沢はんは、新見はんのこと、ちゃんと信じてはるわ。そやから、うちも、気にならへんのどす」
「措け」
 それ以上に時を費やしたくなくて、俺は、殊更怒った振りをしながら縁側へ出た。
 一刻も早く、ひとりになりたかった。ひとりになって、今し方聞いたことを、自分の中で整理したかった。

 芹沢先生が──あの芹沢先生が、一生叶わぬなどと自ら口にするような恋をしているというのか。
 あの女──菱屋の妾だったお梅に何処か似ているという相手に。

 俄には信じられなかった。芹沢先生の恋とやらも、そして、お梅の顔を見て、その相手があの男──土方歳三ではないかと直感してしまった己の目も。

 だが……言われてみれば、そういうことかと腑に落ちる。
 前から、漠然とした不安はあったのだ。大坂《おおざか》吉田屋での一件を平山五郎から聞いた折に、何かが変だ、と強く感じていたから。
 平山の話によれば……己の意に添わなかった女ふたりに向かい、無礼千万、成敗の為に本来なら首を刎ねるべきところ女人ゆえ坊主頭にしてくれると言い放ち、脇差取って立ち上がろうとした芹沢先生を制したのは、同席していた土方だったという。
『あいや暫く、先生がお手を煩わすまでもないこと』
 言いざま、土方は、抜く手も見せぬ早業で己の脇差を抜き、手近に座していた女の肩をつかみ、芹沢先生には見えぬようにしながら一瞬の内に目で女に言い含めると、その髷を根元からぶっつりと切り捨てた。
 ……平山く、
『くそ、それはなぁ、俺が先にやろうと思ってたことだったんだ』
 この場で先生を上手に止められるのは、俺しかいない。そう思っていたから、適当なところで声をかける機を探っていた。だのに、土方の奴にまんまと先を越されてしまった。内心で慌てたがそんなところは見せられぬと悠然を装い、同じようにもう一方の女の髷を落としてみせたが、一瞬とはいえ明らかな出遅れになってしまった……。
 先生は妙に不機嫌そうな表情になったが、あくまで女共を坊主にすると言い張ることはなく、坊主は坊主でも尼削ぎで勘弁してやろうと呟き、腰を落ち着け直した。そして、もういい、帰れと、女共を追い払った。
 土方の他に同席していた永倉新八と斎藤一が女共を連れて出てゆくと、土方は、芹沢先生を振り返った。
『……芹沢先生、どうか、名を穢すような振舞はお控えくださるよう。あのような遊び女《め》風情にいつまでもこだわっては、先生の器を疑われましょう。そもそも、あの程度のこと、筆頭局長自らお手を下されるほどのことではありますまい』
 先生は、土方から真っ直ぐに見据えられると、何処かたじろいだように目を伏せた。そして、膳の上の盃を取り、一気に呷った。
 かちんと来た平山は、横から口を挟んだ。
『おい、筆頭局長に向かってその口の利き方は何だ』
『平山君、平山君も、芹沢先生とは我らより古い付き合いであれば、もっと先生を諫めては如何か。芹沢先生の信頼も厚く、親しく直言出来る仲であれば、我らよりもよく芹沢先生を』
『口幅ったい! 何を偉そうに、したり顔で──』
『平山』
 言い返そうとした平山を、芹沢先生は、低く鋭い声でびしりと遮ったという。
『俺の前で、つまらぬ口争いをするな。……土方もだ。……おぬしの口の利き方には、時折、他人《ひと》をいたずらに挑発する慇懃無礼なところがある。俺に色々言うのは構わんが、俺の周りの平山や新見相手には控えろ。無駄に敵を作るだけだ』
 土方は訝しげな目をして軽く眉をひそめたが、黙って一礼し、元の座に退いた……。
 だが、その顛末を聞かされた俺は、軽く眉をひそめるどころでは済まなかった。俄侍風情にそんな無礼な口の利き方をされたら、普段の芹沢先生なら、黙れと一喝したに違いない。愛用の鉄扇で打擲《ちょうちゃく》していたとて不思議ではない。なのに、諭すようなことを口にしたばかりか、『俺に色々言うのは構わん』とは、どういう了見なのだ。

 ……その時は、わからなかった。
 だが……

 そもそも、浪士組に加わり、京に上ってからというもの、先生は、何処か荒れた暮らしを自らに強いていた。明らかに過ごしている酒量、手当たり次第かとも疑う女遊び、そして事ある毎の粗暴狼藉……それは、昔からの先生を知る俺にとっては、妙に腑に落ちない、どう見ても何処かが狂っているような、そんな気がしてならない振舞であった。
 もっとも、この国難の最中《さなか》にありながら民人の困窮に付け込んで金を貯め込んでいるような商人共に金を吐き出させるのは、俺とて、心に愧じるところはない。だから、先生が、芹沢鴨の名を使って構わぬから好きにやれと言ってくれたことは、俺にとっては、先生が俺に全幅の信頼を寄せてくれたのだと思えて、誇らしいことだった。
 しかし、朝から酒を手放さず、一日中酔っているのが殆ど当たり前になったことは、流石に変だと思っていた。それは、平間重助も──芹沢先生と同郷の出で、俺よりも昔から芹沢先生と一緒にいる年嵩の男も、愁眉を隠さないところだった。
『あんな無茶飲みをするお人ではなかった筈なんだがなあ……』
 そうだ。己を壊すほどに酒量を過ごすなど、昔の先生には滅多になかったことなのだ。
 それなのに、上洛以来、先生は、まるで無理矢理己を壊そうとしているかのような振舞を見せるようになった。いや……それ以前に、京に近付くにつれ、段々と、酒量が増えていた。
 それが、もしも、あの土方歳三と出会ったことが原因なのであれば。

 ──冗談ではない。

 二刀を差して侍のような面をしているが、元はと言えば武士でも何でもない、多摩の薬売り、否、百姓上がりの男に過ぎないではないか。
 確かに、少しばかり生白く物優しげな、男の俺でもどうかすると目を惹かれてしまう容貌をしてはいるが、それだけのことではないか。
 いや、なまじ整った面相だけに余計、いつも自分ばかりが物のわかる切れ者だとでも言いたげな取りすました顔をしているのが小面憎い、いけ好かぬ似非侍ではないか。

 本当のことなのかどうか見極めなければならぬ、と感じた。
 だが、芹沢先生には、無論のこと、訊けなかった。元々、自身の色恋のことを軽々しく語ろうとせぬお人だ。今の無軌道な振舞が、却って訝しいほどなのだ。それがもし仮に、己の叶わぬ想いを紛らす為の乱行だとしたら、尚のこと、俺や平間達に真意を打ち明けてくれる筈もない。

 ……ならば、もう一方の側に、訊くしかない。

 問題は、もう一方の側が、芹沢先生のお気持ち──とやらが本当にあるとしたらの話だが──を知っていなければ、聞き出せる何物もありはしない、ということだった。
 そして、俺の見る限り、奴の側には、何かを知っているような風はなかった。芹沢先生に対する態度が特に変わっているとか、先生の名前を出した時の反応が訝しいとか、そういう気配は一切なかった。

 もどかしい思いを抱えつつも、俺は、しばし、その件を頭の片隅に追い遣っていた。日々、他に考えねばならぬことは、幾らでもあった。

     ※※※

 八月十一日……その日、芹沢先生の様子は、明らかに変だった。変……と言うのも変かもしれない。上洛前なら別段、変でも何でもなかったことだ。朝から……いやそう言えばその前の日の朝から、酒を一滴も口にしなかった。朝餉を終えてからの半日ばかり、何事かをじっと考えるような風情で縁側に座り続け、庭を見据えていた。そして、夕方近くなってから急に、幹部の親睦の為に寄合の席を設けるから前川邸の連中に声をかけてこいと、平間を使いに出した。
 それなのに、殆どの幹部が顔を揃えた祗園の宴席から、先生は、何と、盃に口を付ける前に抜け出してしまったのだ。
 どうも気分が勝れぬ、勘定は自分に回して構わぬから後の仕切りは頼んだ、と、俺と、次席局長の近藤勇とに言い残して。
 ……後で気付いたのだが、それは、土方が厠か何処かへ姿を消している間の出来事だった。
 芹沢先生と入れ違いのようにして戻ってきた土方は、暫くは特段の変わった様子もなく他の者と談じていたが、やがて、明日の朝も早いし少し疲れもあるからと、ひと足先に中座してしまった。……特に珍しいことでもない。奴は、普段から、それほど酒を飲もうとしない男だ。己が酒には余り強くないと弁えているのか、言動が乱れるほどに過ごすことは決してない。その涼しげな抑制振りは憎らしいほどで、こちらとしては、
「京洛のあちらこちらに大勢馴染みがおっては疲れもしような」
 などと、つい、愚にもつかぬ嫌みのひとつも出ようというものだった。
 土方は「恐れ入ります」と軽く一揖し、俺の精一杯の嫌みを、さらりとした微笑で受け流した。

 ……それが、俺が見た奴の笑顔の、最後となった。

 翌日の芹沢先生は、いつものように、朝から酒を口にしていた。
 ただ、同席する誰もが、先生の周囲に奇妙な影のように漂っているびりびりとした昏い嵐の予兆に多かれ少なかれ息を潜めていたのが、いつもとは異なるところだった。
 けれども、特段何かしら荒れた言動を見せるということもなく朝餉を済ませると、先生は、その辺りの隊士達を集め引き連れ、商家りに出掛けていった。……まあ、早い話が、金策だ。幾ら会津藩のお預かりだ何だと言ってみたところで、隊士が増えればそれだけ金も要る。頂くお手当だけではやってゆけないのが実情だ。この国難の時節柄、国の為に身命を擲とうともせず懐手で金を土蔵に唸らせているような商家から尽忠報国の士の為にその金を軍資金として吐き出させるのは、世の為、人の為、国の為というものだ。
 ……相撲興行なぞに手を貸してその分け前を頂くなど、まともな武士のやることではない。こういうところで、近藤だの土方だの、似非侍共のお里が知れるというものだ。
「新見はん、平間はんとお留守番? 男ふたりで足の爪なんか切ってむしって、何や辛気臭いわぁ。今日は壬生寺でお相撲やろ? 一緒に行かへん?」
「馬鹿か。どの面下げて、お前と行くか。ひとりで行け。大体、目と鼻の先に出掛けるのに供が要るような御身分か」
「言われへんでも、うちは行きますけど」
 今日は珍しく向こうから俺達の屯《たむろ》する一室へ訪ねてきたお梅は、ゆっくりと団扇を動かした。
「何でふたりとも、難しい顔してはるの。こないな近所でお相撲はんが見られるなんて、壬生浪も案外ええとこあるなぁいうて、この辺の人みんな、喜んどったのに。褒められるのは嫌なん?」
「……女子供は気楽なものだな。あんな、商人の真似事など、武士のすることではない」
「何や、しょうもない。そないつまらんこと言わはるのは、気位ばっかし高うて働きもせんと商人《あきんど》に集《たか》っとる蛆虫もどき[#「もどき」に傍点]のお侍はんだけやわ。うちから見たら、この辺の人にお世話になっとる御恩返しが何とか出来んかて一所懸命になっとる近藤はんの方がよっぽど立派なお侍はんに見えるわ。うちが商家におったせいやろけどなぁ」
 ……この女、はんなりした口調で、ずけずけと。
 しかし、この女からこんなことを言われると奇妙に腹が立たず、何となく苦笑いしたくなるのが訝しいことだった。普段は何かと腹立たしく思えてならない女なのに、遠慮も会釈もないことを言われる時には、不思議と腹立ちを覚えないのだ。それは平間も似たり寄ったりのようで、苦笑したきり、文句も返さずに首筋を掻いていた。
「ほな、うちひとりで行ってくるわ。うちが戻る前に芹沢はんが戻ってきたら、宜しゅう」
 ふらりとお梅が去ると、平間がぽつりと呟いた。
「……大丈夫かな」
「何が」
「いや……あの女は、いるだけで華があって、何かと目立つから。……前川邸にいる連中に、目を付けられなければいいが」
「馬鹿な。芹沢先生の女だと知れ渡っているんだぞ。……そんな命知らずはおるまい」
「幹部は弁えていようさ。むしろ、心配なのは、こっちに顔を見せたこともないような若い隊士連中だよ。……初めて会う若いもんには、あの女が芹沢先生のコレだなんてことはわかるまいて」
「……なら、あんたが付いていってくれ。俺は御免だ。……あの女は苦手なんだ」
「私だって苦手だよ」
 平間はまたぞろ苦笑した。
「新見さんの方が、あの女のあしらいが巧いじゃないか。……それに、新見さんなら、若い隊士にも睨みが利くだろ」
 それは確かだったので、俺は舌打ちしながら腰を上げた。
「……馬鹿者が近付かんように、それとなく見張っておけばいいんだろ」
「宜しくな」
「今度の飲み代《しろ》は持ってもらうからな」
「わかってるよ」
 気は進まなかったが、仕方がない。俺は身仕舞を済ませると、二刀を差し落とし、壬生寺へ出掛けた。門をくぐる所では仕方ないにせよ、境内にいるところを他の隊士共から見られて相撲見物に来たと思われるのは癪だったので、お梅の姿を見付けると、見失わない程度に離れた場所で建物の柱に軽く背中を預け、不機嫌顔で腕組みをして佇んだ。
 なのに、そういう時に限って、面倒というか苦手な相手に見付かるように出来ているらしい。
「あれっ、新見さん、いらっしゃってたんですか」
「声をかけてくだされば良かったのに──今からでも、何処かお席を用意しましょうか」
 ……藤堂平助も、沖田総司も、とにかく、近藤に付いてきた若い連中の屈託のなさは、苦手だった。……俺は、自分の睨みがまるで利かない、お梅だの藤堂だの沖田だのといった、他人に対して物怖じすることなくひょいと懐に入ってくるような連中が、大の苦手なのだ。
 ただ無遠慮であるなら、怒鳴りつければいいだけだ。だが、お梅も含めてこいつらに共通しているのは、まるで物怖じしないくせに決して無神経なわけではなく、為に他人から憎まれにくいというところだった。
 俺は飛び切りの不機嫌顔でかぶりを振った。
「席など要らん。別に男共の裸なぞ見に来たわけではない」
「じゃあ、誰を……って、野暮でしたか。失礼しました」
 妙に照れたような笑声を洩らして、藤堂はひょいと頭を下げた。そして、「何か用があったらいつでも声かけてくださいね、俺達、あの辺にいますから」と言い残し、沖田を促しながら存外あっさりと立ち去っていった。
 ……って、おい、「あの辺」というのが、どうしてお梅の近くなんだ。
 お梅の近くで楽しそうに立ち話を始めたふたりは、何故か時々俺に向かって笑顔で手を振りながら、物を知らない風情の男の観客や若い隊士達がたまに彼女に近寄ろうとすると、さりげなく間に入って追い払っていた。……俺は、俺が何の為に来ているのかを奴らに見透かされているような気がして気味が悪かったが、何処かでホッとしてもいた。下手に俺があれと同じことをやれば、芹沢先生の姿が見えないだけに、事情を知っている隊士共があらぬ勘繰りをしないとも限らない。お梅からなるべく離れた所にいようと此処に立っているのも、そういう類の誤解だけは勘弁してほしいからだ。
 結局、相撲の間じゅう、藤堂と沖田のふたりがお梅の近くでの“虫逐い”を続け、俺は、一体何をしに行ったのやら、単にそれを遠目で眺めるだけに終わった。
 しかし、お梅は、俺が来ていたことに気付いていたらしい。興行がはねると、そそくさと帰ろうとする俺を目敏く見付け、さらりと隣に寄り付いてきた。
「おおきに。新見はんが遠くから睨んではったから、悪い虫がちぃとも寄り付かへんかったわ」
「俺は何もしてはおらん。……離れろ。人が見る」
「うちは気にせぇへんのに。……ぱぁっと飲みに行かへん? 沖田はんと藤堂はんも一緒や。今日のお礼やから、うちの奢り」
「──冗談も大概にしろ」
 俺は覚えず顔を引き攣らせた。
 この俺が、女と飲みに行くかだと? 沖田や藤堂と一緒に? しかも女の奢りで飲むだと?
 何と馬鹿なことを言うのか、この女は。
「そんな恥ずかしい真似が出来るか」
「ほな、お勘定は表向き、新見はんがすればええやろ。……あのな、沖田はんと藤堂はんには、新見はんの奢りや、言うてあるんよ。芹沢先生の気に入りの女に近付く悪い虫を追っ払ってくれたお礼や、いうて」
「──おいっ。もう奴らにそんな話をしてるのかっ」
「そやないと、新見はん、来てくれはらへんやろ。……頭、使うたもん勝ちや」
 お梅は、ふふふと小声で笑った。……うう、こ、この、女狸めが。
「心配せぇへんでも、沖田はんと藤堂はんが一緒なら、変な噂も立たへんわ。藤堂はんが馴染みの、そないに目立たへんお店があるんやて。……馴染み、いうても、こないだが三回目や言うてはったけど。何や、えらい、そのお店に行こういうてこだわるんや。沖田はんも言うてはったけど、好きな娘《こ》でも、その店におるんかもしれへんなぁ」
 あ、余計なことやったわ、と呟くと、お梅は、少し離れた所で立ち話に興じていた沖田と藤堂を手招いた。
 ……くそ、何だって、こんなことになるんだ。
 思いながらも、俺は、お梅の奴を捨て置いて帰るのが憚られ、よりにもよって苦手な連中だらけの席に付き合う羽目になったのだった。

 何だかんだで夜半近くになって八木邸へ戻ると、邸内は何やら騒がしくざわついていた。
「新見さん、すぐに出掛けられるか」
 戻ってきた俺を見付けた平間が、小走りに駆け寄ってくる。
「芹沢先生はひと足お先に出掛けてしまわれた、もしも新見さんが戻ったら、すぐに後から来いと言われてるよ」
「なに。先生、今日は戻られていたのか?」
 普段の芹沢先生なら、金策へ出掛けた後は大抵そのまま何処かへ登楼してしまい、どんなに早くても夜半を回るまで戻ることはないのだが……
「日が暮れてからな。新見さんが戻るかと待っていたんだが、もう待てんからと、また大勢引き連れて出ていかれたよ。……どうやら、先生を怒らせた命知らずの店があったらしい」
 先生と近しい者で日中に先生に連れられていったのは平山と野口健司だけだったが、その彼らから平間が聞いた限りでは、葭屋町《よしやまち》の大和屋という生糸問屋、これが、主人の不在を言い立て、ならば主人が戻れば出すかと問われても言を左右に託して、金を一銭も出そうとしなかったらしい。
 で、どうあっても金を用立てさせずにはおれぬ、さもなければ……という次第になり、一旦引き上げた上で再び押し掛けることにしたというのである。
 確かに、そんな子供の言い訳をそのままに捨て置けば、示しが付かぬ。そういう噂は、あっと言う間に広まる。そんな理由で我々が引き下がると知れれば、以後、壬生浪士組に金子《きんす》を用立てる商家などなくなってしまうだろう。
 俺と平間は、急ぎ、葭屋町へ向かった。
 俺達が大和屋の近所へ辿り着いた時、辺りには、大勢の野次馬が出ていた。──否、大勢の野次馬共が、何処か慌てたような様子で走り去ろうとしていた。
「壬生浪の奴ら、火ぃかけよった──」
「こら火事になるわ──」
 駆け去る連中とすれ違った時に、そんな声が聞こえた。
 俺は、平間と顔を見合わせた。
「……店にか?」
「……さあ……それは……」
 幾ら何でも、付け火は重罪だ。まさか、と思ったが、言われてみれば、行く手の空が変に赤らんでいる気がしないでもない。
 果たして、俺達が駆け付けた時、辺りには、何やら物が燃えているらしき臭気が漂っていた。平山の奴が、俺達の姿を見たらしく、すぐに寄ってくる。一体どういうことになっているんだ、という問に、平山の答は簡単だった。
「土蔵を燃やしてる」
「土蔵?」
「向こうの話も聞かずに店を派手にぶち壊して、大事そうな物を片っ端から土蔵に放り込んで、最後に火を放り込んだ。……何しろ、先生が物凄い剣幕なんでな、誰も止められん」
 平山は、隻眼を引き攣らせ、かすかな苦笑いを見せた。
「……店自体に火をかけかねん勢いだったんだが、それは流石に拙い、下手に火を出したら町が丸焼けになる、と口走った奴がいて、まあそいつは即刻先生に殴り倒されたんだが、それでも、それで流石に思い止まったらしい。ただ、まだ気が済まんらしくて、若い連中にあちこち壊させて回ってる。……新見、今は先生に近付かん方が身の為だぞ。ああなったら、何がきっかけで先生の御不興を買うか」
「馬鹿か。飛び火したら、それこそ大火事になるんだぞ。よりによって壬生浪士組が付け火をしたとなったら、京都守護職のお預かりだなどと言っていられるものか。……先生を止められんなら、せめて、火が周りに広がらんように気を付けてくれ。そのくらいなら出来るだろうが」
「ああ、わかってる」
 平山はまた引き攣った笑みを浮かべると、そそくさと去っていった。
 俺は、芹沢先生の姿を探した。
 芹沢先生は、大和屋の土蔵の前で、三百の鉄扇を片手に、両足踏まえて佇んでいた。
 一々名前も覚えていないような隊士連中が後から後から木切れや板など燃えそうな物を運んできては土蔵に放り込んでいるのだが、少しでも手を休めようとする隊士がいれば大音声で怒鳴り付け、口答えでもしようものなら容赦なく鉄扇で殴り倒していた。
 近来にない荒れ方であることは、間違いない。
(確かに、こういう時には余り近付きたくないだろうな、付き合いの浅い奴は)
 思いながらも、自分の到着は知らせておかねばと歩み寄った俺は、人の気配に振り返った芹沢先生の目を見て、立ち竦んだ。
 ……平山が「近付かん方が身の為」とまで言った理由を、嫌でも悟った。
 近付かない方が……どころではなく、それ以上近付くことが出来なかった。狂気さえ潜む、余りの昏いまなざしに、冗談ではなく背筋が凍った。次の瞬間には斬り捨てられる、とまで覚悟した。そのくらい、先生の目は、破壊と殺傷の欲求に彩られていた。
 先生は……俺がこの場に出遅れたことを咎めているのだろうか。それとも、俺が夜半近くまでお梅と一緒に外へ出ていたことを知って……
 そんなことまで脳裡をよぎった時、先生が口を開いた。
「──此処は任せる」
「は……はい」
「火を絶やすな。此処にある全ての蔵が燃え落ちるまでだ」
 思いの外《ほか》に淡々とした口調でそれだけ言い置いて、先生は身を翻した。そして、残らず打ち壊せ、焼き尽くせ、と再び大音声をあげながら、場を離れていった。
 俺は、我知らずホッと息をつくと、額ににじみ出ていた汗を手の甲で拭った。
 それは、開け放たれた土蔵の入口から吹き出してくる熱風のせいなのか、それとも、先生の纏う狂気に肝を冷やしたせいなのか。
 ……わからなかった。

 如何なる理由があろうとも、商家に押し入って散々に打ち壊し、その土蔵に残らず火をかけて全焼させたとあっては、たとえ類焼はさせなかったとはいえ、流石に何らかのお咎めも会津藩からあるか……と内心で覚悟していたが、拍子抜けするほど、何もなかった。
 ……もしかしたら、何らかの処分は検討されていたのかもしれなかったが、八月十八日の政変騒ぎのせいで、会津藩も正直、それどころではなくなってしまったのかもしれない。
 しかし、そんな俺の懸念や思考のあれこれを知ってか知らずか、芹沢先生の荒れは、治まる気配を見せなかった。……態度や表情には何も荒れが窺えない時でも、その目に潜む嵐の気配が、常に周囲の者を脅《おびや》かして已まなかった。俺とて、決して例外ではなかった。従前と変わらぬ態度で芹沢先生と接しているのは、あのお梅ぐらいのものだった。
「あの土方でさえ、先生の前では最近おとなしいんだからな。前に比べて、先生に利く口も態度も随分と控えめになったし」
 一日《いちじつ》、平山がそんなことを言った時、俺は、何故だか、ぎくりとなった。
 芹沢先生と土方、ふたりの態度は、あの八月十一日の夜を境に、急変している。
 いや……まさかと思いつつもあの件[#「あの件」に傍点]を心に留めていた俺だからこそ、気付いたのだ。
 何も知らぬ者の目から見れば、芹沢先生の態度はいつもよりも虫の居所が頗る悪いだけだと思えただろうし、土方の態度は極めて節度ある折り目正しい副長のそれでしかなかっただろう。
 だが、俺の目から見れば、それは、“何かがあった”ことを窺わせるには充分過ぎる変化だった。
「……あんたもそう思うのか」
「平間だって思ってるさ。野口はどうだか知らんが。まあ、しかし、あのくらいで丁度いいだろ。前が慇懃無礼過ぎたんだからな」
 ……どうやら、平山は、芹沢先生の荒れと土方の態度に関連があるらしいことには気付いていないようだ。俺は、土方が芹沢先生に話をしに来る時の態度もだが、その時に限って芹沢先生の様子が微妙におかしいことにも気付いている。……土方の奴が控えめになった、と平山は言ったが、そう感じるのは、奴が決して芹沢先生の顔を直視しようとせず、殆どの局面で視線を伏せているからだ。しかし、その土方を見る先生の目は、押し殺されてはいるが明らかに、何かしらの激しい感情の揺らぎを秘めていた。それは、他の者に対する時には決して見られぬ、激しいながらも奇妙な寂寥に彩られた揺らぎであった。
 間違いない。
 何かただならぬ出来事が、このふたりの間に、あの夜──多分、あの宴席を抜け出した後で──起こったのだ。
 俺は、日々強まりゆく確信を抱えつつ、しかしそれを誰にも話すことが出来ず、次第に鬱屈を覚えるようになっていった。

     ※※※

 八月が終わろうとしていた。
 その夜、俺は、ひとりで島原に出向いていた。
 このところ、芹沢先生達と行動を共にするのは控えていた。平山達は感じていないようだったが、俺には、先生がとにかく機会さえあればひとりになりたがっているような気がして、ならなかったのだ。
 そう感じていたのは、ただ、俺だけではなく、野口の奴もであるらしかった。
「何だか、付いてくるなと無言で言われているような気がして、近付きづらくなって」
 などと洩らし、嘆息していたから。
 だが、俺も実を言えば、出来る限り、ひとりの時間を持ちたかった。だから、芹沢先生に付いてゆきづらい者同士で連んで登楼する、ということもしなかった。
 ……ひとりの時間、とは言っても、登楼してひとり辛気臭く酒を飲んで帰るなどということは出来ないから、お座なりにでも妓《おんな》を呼ぶことにはなるのだが。
 しかし、妓共の匂いも俺の心を浮き立たせることはまるでなく、くさくさした気分が募るばかりだった。ゆったりした口調で続けられる益体もない話を聞きながらただただ飲み続けていると、悪い酔いが回りそうだった。
 中にいるのが息苦しくなり、厠と告げて廊下へ出た俺は、仲居共が何処かそわそわした様子で囁き交わしているところへ出くわした。
「なぁ、土方はん、久し振りに来ぃはったよ」
「え、ほんま?」
「ほんまや。おひとりやて。うち、さっき、見たよ」
「羨まし。此処んとこ、ちぃとも姿見せてくれへんかったもんなぁ」
「すれ違うただけで、何や、得した気になるわぁ」
 ……土方が来ているのか。
 その名を聞いた時、不意に、企みが涌いた。
 まさに、千載一遇の好機ではないか。こちらもひとり。向こうもひとり。妓共を追い払ってしまえば、誰にも邪魔されることなく、余人の耳目を憚る話が、いや、それ以上の事とて出来るではないか。
 俺は仲居共に声をかけると、土方を呼ばせに遣った。そして、すぐに座敷へ戻り、妓共を退がらせた。だが、土方が来ると聞いた妓共は、何のかんのと理由を付けて──無論、俺に対して嫌みにならぬようにではあったが──退席を渋った。それでも、話が済んだらまた呼んでやるからとなだめると、「ほんま? きっとやで」と念押しをしてから、名残惜しげに出ていった。
(……そこに奴が残っていると確約は出来んが、な)
 俺の企みが功を奏せば、残れるわけがない。奴がこの場から尻尾を巻いて逃げ出す方に、百両賭けたっていい。
 仲居がもうひとり分の膳を調えてくれたところで、丁度良く土方が、脇差片手に姿を見せた。
「まあ、こっちへ入って飲め」
 声をかけると、俺は、殊更に酔った様子を見せながら、奴を手招いた。
 話をどう持っていくかの腹積もりは、既にあった。
「何か、用がおありなのですか、新見先生」
「まあいいから飲め」
「……それでは、失礼して」
 土方は、何処か仕方なくといった風情で腰を下ろすと、盃を手に取り、俺からの一献を受けた。あからさまに表面に出さぬように気を付けてはいるようだが、警戒している様子が窺える。……当然だろう。俺だって、こいつから一緒に飲みたいと言われれば、何の裏があるかと勘繰る。それと同じだ。
 だが、勘繰られていいのだ。
 どんなに勘繰ってみたところで、奴に俺の魂胆が読める筈はないのだから。
「随分と久々の御登楼らしいな。妓共が、君を此処へ呼ぶと言ったら出ていくのを嫌がったので手こずったぞ」
「はあ」
「仲居までもが皆そわそわしている。土方君は大層な艶福家だな。国許でも女共にさぞ騒がれただろう」
「はあ……度を超せば煩わしくもありますが……」
「はは、結構なことだ。色男の悩みは贅沢だな。──しかし」
 俺は盃の縁を舐めると、奴の顔を見据えた。
「やはり、男にもモテたか」
 盃を口に運びかけていた奴の手が、一瞬止まった。
「……さあ、それはどうでしょうか」
 否定も、肯定もしない。受け答えは慎重だった。
「ほう、そうかね。男でも惚れ惚れするような美男子とは、君のような男を言うのさ」
「生憎、私にはそのような趣味はありませんので」
「成程」
 思い通りの話運びに内心でほくそ笑みながら、俺は、狙いすましたひと言を叩き付けた。
「それで芹沢局長を袖にしたか」
 奴の白面に、サッと朱が射した。それまで少しずつ舐めるようにしていた盃を、思わずといった体《てい》で一気に空ける。
 俺は含み笑った。
「やはりな」
 呟くと、土方は物凄い目で俺を睨み付けた。……こいつがこんな目で俺を見るのは、初めてだ。否、誰に対しても、簡単にこんな表情を見せる男ではない。好悪は割に顔に出る奴だと思うが、それよりも激しい感情、愛憎を剥き出しにすることは、まずないと言っていい。
 何故かしら、昏い悦びが蠢いた。
「まあ、そう睨むな。飲め」
 銚子を取って差し付けると、奴はおとなしく空盃を差し出した。が、動揺を押し殺そうとしているのがありありと伝わってくるような表情で、俺は、再びの含み笑いを抑え切れなかった。
「道理で、あの日以来芹沢先生がお荒れになっている筈だ。……祗園で宴会のあった日だよ。芹沢先生と君が、示し合わせたかのように早々に抜けてしまったあの宴会の」
「……そんな話をする為に、私を呼びつけたのですか」
 低く押し殺された声に、不快感が仄見えた。
 俺は盃を空けると、唇を緩めた。
「そう……半分はな」
「半分? では残りの半分は何です」
 問うのか。
 いいとも……教えてやろうではないか。
 俺は一層唇を歪めると、左手の空盃を差し出した。
 奴は、自分が手にしていた盃を膳に置き、右手で銚子の鉉《つる》を手に取ると、ごくわずかに身を傾けて俺の盃を満たそうとした。
 ──それ[#「それ」に傍点]こそが、俺がこの企みを思い付いた時から待っていた刹那だった。
 相手の手が無防備に俺の手許に近付けられる、その刹那こそが。
 伸ばされた手首をつかみざま引きずり込み、鳩尾に拳を叩き込む。無論、手加減はしていた。気を失われてしまっては、何の意味もありはしない。失神させる必要などなかった。ほんの何瞬かの間だけ奴の動きを封じられれば、それで良かった。
 息を詰まらせて硬直した相手の唇、そこに己の唇を素早く押し当て、音がするほど思い切り吸ってやる。
 ……奴に惚れたわけではない。気の迷いを起こしたわけでもない。そんなものでは全くなく、ただただ、この男を、一生拭い去れぬ屈辱の汚泥にまみれさせてやりたかった。あの芹沢先生をあんな風に変えてしまったこの男を、もはやそんな報復をしようとも考えられないであろう先生の代わりに、したたかに踏みにじってやりたかった。
 奴は、口を吸われた初っ端こそ仰天して身動きも取れなかったらしかったが、不意に激しくもがき、俺を突きのけ、凄まじい形相で脇差をつかみ取るや一気に抜き放った。
 俺は、弾《はじ》けるような高笑いで応じた。
「それ[#「それ」に傍点]が、残りの半分だよ、土方君」
「なに……?」
「物に動じぬ冷静沈着さが看板の君が、そうやって度を失い、屈辱に顔引き歪ませておる様が、見たかったのだよ。ああ愉快なる哉、いい酒の肴になった。もう戻っても構わんぞ」
 奴は、真っ赤になったかと思った次の瞬間、真っ青になった。……屈辱と憤怒で激しく引き攣り歪んでいるくせに、醜く崩れようとはしない、美男子とは成程こういう男のことを言うのだろうとひそかな感嘆さえ覚えるような表情だった。
 今にも斬りかかってくるかと思われたが、それでもこの場で無粋な刃傷沙汰に及ぶわけには行かぬという頭が回ったか、奴は、抜いた脇差を鞘に収めようとした。だが、手許が激しく震え、切っ先がなかなか鞘に収まらなかった。
「手が震えているよ、土方君」
 殊更に指摘してやると、奴は、また無言で俺を見据えた。押し殺された殺意が、抑え切れずににじみ出ていた。
「安心したまえ。このことは口外せん。俺にも、君と同じくその道の趣味などないからな。酒の上の戯《ざ》れだ」
 ……そう、あくまでこれは、酔いの所業なのだ。
 悪意に満ちた戯《たわむ》れかかりなのだ。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 俺はわざと下品に聞こえるだろう笑いを発すると、とっとと出ていけと言わんばかりに、ひらひらと手を振った。奴の傷口に粗塩を擦り込んでやる、そんな気分だった。
 奴は、だが、もう、顔を歪ませはしなかった。ひと言の罵声も、洩らさなかった。
 もっとも、煮え滾るような憤りで内心が大荒れに荒れていることは、その凄まじい底光りを湛えた目を見れば明らかだった。
「……失礼、します」
 呻くような声で呟き、席を立つ。
 身を翻して一歩を踏み出す時にわずかに足許がふらついたが、その後は存外にしっかりとした足取りで、奴は、座敷を出ていった。
 ……正直、もう少し取り乱すかと思っていたが、何処までも小面憎い男だ。
 奴の足音が聞こえなくなると、俺は、その場でごろりと仰向けに引っくり返った。
 素面なら到底出来なかったであろうあの口吸いにも、未だに、然したる抵抗は覚えなかった。それどころか、もしもあのまま更に踏みにじっていたら奴はどうしていただろう、などと埒もない夢想に耽ろうとする己がいた。
(……ふん。馬鹿げている)
 俺は、唇を小さく歪めると、静かに舐め、そして、目を閉じた。

 九月も、初旬を過ぎた。
 珍しく外に出ることなく八木邸での酒席となった夜、芹沢先生は、お梅を酌婦のように同席させた。
 ……まあ、女がいるといないとでは、席の華やぎが違う。俺が変に絡まれるのでなければ、華があるのは結構なことだった。
 話題は、他愛もない日常の種々《くさぐさ》に始まり、程なく近藤どもへの陰口へ向かった。……少し前なら俺もその中で何の引っかかりもなく話していたのだが、芹沢先生が土方にひそかに懸想しているらしいと知った今では、迂闊に奴らの悪口に同調するのも憚られる。俺は、やや煮え切らぬ相槌を打ちながら、芹沢先生の沈黙の意味を慮り、話題を別の方向に持っていこうとした。
「もうよせ、あんな連中の話をしたところで、酒が不味くなるだけだ。それより、この間、馴染みになったと言ってた、ほら、あれ、何という女だ……」
「おう、お栄か。あれはいい女だぞ」
「ええ? おい、確か、そりゃ原田の馴染みだった女じゃないか」
「馬鹿、目を付けてたのは俺が先だ。取り返したまでのことだ」
 ……平間と平山の遣り取りに、俺は内心で舌打ちした。話をそらしたつもりが、少しもそれていない。原田左之助は、永倉や藤堂と同じ、近藤の道場の食客だった男だ。平山の新しい女が原田の女を横取りしたのものだと知らなかった俺が迂闊だった。……前ならそういう話はきちんと押さえていたのだが、そう言えば此処十日ばかり俺はひとりで八木邸に残ることが多く、芹沢先生に付いていってしまう平山達と言葉を交わすことが減っていたのだ。
「大体、惚れるのに先も後もあるか。より女に惚れさせた方が勝ちなんだ。そもそも痛快だろう、連中の女を横取りしてやる方が」
「おいおい、まさか、他の連中の女にも手を出す気か? 身が幾つあっても足りまい」
 呆れたように平間がたしなめると、平山はふんと鼻先で笑った。
「なに、気に入らん奴からだけ横取りしてやればいいのさ。……幾ら気に入らん奴でも、数が多い上に特に馴染みを作ってない奴は、どうしようもないがな」
「ははぁ、そりゃ土方のことか?」
「他に誰がいる。……くそ、あんなに方々でモテる奴でなければ、的も絞れるんだがな。……この間も、たまたま島原で鉢合わせして、奴が呼んでいた妓をそいつは俺が呼ぼうとした妓だぞと難癖付けてやったら、ではどうぞ、私には幾らでも代わりはおりますので、と涼しい面で吐かしやがった。くそ、腹の立つ。少しは嫌そうな顔のひとつもしてみろ」
「うーん、そりゃ無理だろう。あの男、滅多なことでは動じんから」
 俺の中で、奇妙な衝動の虫がざわざわと蠢いた。
 気が付いた時には、言葉がするりと口を衝いていた。
「そうでもないぞ。……自分ばかりが切れ者だと言わんばかりの面をしているが、あんな男でも、あの生白いお美しいお顔を屈辱に引き歪ませることはある」
「え、見たことあるのか?」
「ある。……あれは、なかなかの見ものだったな」
 昏い衝動に動かされてそこまで語った時、俺は、芹沢先生の視線に気付いた。
 冷たい、というほどの視線ではなかったが、盃を口に運ぶ手を止めて、じっと、俺の顔を、観察でもするかのような目で見据えていた。
 ……俺は我に返り、頭から冷水を浴びた心地に陥った。
 よりによって、一番拙い話題を、一番拙い場で口にしてしまった。
 もしも今先生から「土方と何があった」と訊かれてしまったら、この場で咄嗟にもっともらしい話を考え付けるかどうか……
 だが、先生は、俺が恐れた問を発することはなかった。
「……誰であろうと、あの男は、自分のそんな姿を見られた相手を生かしてはおくまいよ」
 黄泉から吹き付けてくる風にも似た呟きが、俺の首筋を撫でた。淡々とした呟きには何の感情も窺えなかったが、だからこそ却って、うそ寒く不気味に響いた。
 俺は、反射的に笑い飛ばした。笑い飛ばさなければ、死神の呪いに囚われてしまいそうな気がした。
「なぁに、奴はそんな度胸など持ち合わせていませんよ、芹沢先生。大体、頭に血を上らせて抜刀したくせに、俺に斬りかかる勇気もなく、ぶるぶる震えながら刀を収めて逃げ帰ったんですから。そんな腰抜けに、何ほどのことが出来るものか」
 芹沢先生はゆっくりとまじろいだが、俺の言葉には何も反論しなかった。そして、お梅に新たな酒を注がせると、ひと息に飲み干した後で、ぼそりと低く呟いた。
「……この話は、これまでだ。……平山」
「は」
「奴らと張り合う気持ちはわからんでもないが、どうせ張り合うなら、日頃の働きで張り合え。女きの取り合いで張り合っていても、奴らに陰で笑われるだけだ」
「は、はあ」
「下らん争いを仕掛けて、見苦しい真似をするな。……奴らに馬鹿にされたくなかったらな」
 先生は、何処までも淡々とした声でそう締め括ると、再び傍らのお梅に空盃を差し出した。

 翌日の午後、俺は、芹沢先生の名代として隊士共を引き連れ、精力的に三軒の商家を回り、何処でも首尾良く金を吐き出させて、意気揚々と八木邸へ戻った。
 離れに戻る隊士共とは別に母屋の方へ行こうとして、つと、足を止める。
 母屋から出てこようとしている、ひとりの男。
 土方だった。
 ひとりで何をしに来ていたのか、二刀も差さず、羽織も纏っていない。
 伏し目がちになりながら草履に足を入れようとしているその姿を見た時、俺は、不意に、胴震いを覚えた。
 訳のわからない、何とも表現し難い震えだった。
 相手が恐ろしいというわけではない。
 ただ、強いて言葉にするなら、こちらの胸の奥を不規則に素手でゆっくりと掻き回されるような、そんな、快とも不快ともつかぬ奇妙な思いが、身の裡にじわりと涌き上がってきたのだ。
 土方は、俺に気付くと、一瞬だけ、動きを止めた。……が、特段表情を変えるでもなく、そつのない会釈を残して、俺の横をすいと抜けた。
 すり抜けざま、低い声が耳に刺さった。
「強請集りも、ほどほどに。会津中将のお耳にも、達しておりますよ」
 そつのない会釈とは裏腹の言葉に、俺はカッとなって振り返った。
「強請集り? この国難に当たり何ひとつ働こうともせず己の利得のみに汲々としている商人共に、せめて国の為に日々働く我らの軍資金を出させることの、何が悪い」
「……出させるなら、それなりのやり方というものもありましょう。やくざ紛いの強請集りと紙一重の脅し三昧では、折角頂いた新選組の名が穢れる」
 土方も、肩越しに振り返った。
 ……恐ろしく顔色が悪かった。
 頭に血が上っていた俺でさえもがハッと見直してしまい、何処か体を壊しているのかと訝しく感じたほどに、その顔には生気が乏しかった。……否、その目だけは、凄まじい底光りを湛えていた。それは、あの夜この男が座敷を出ていく直前に見せていたのと同じ、冷たい憎悪のまなざしであった。
「……失礼。まだ、日のある内にせねばならぬ事共もありますので」
 だが、一瞬後には奴の両眼からその憎悪の光は消え、半眼の奥に隠れた。そして、再びそつのない一礼を残し、足音ひとつたてずに往来へと出ていった。
 俺は何処か茫とした心地を覚えながらその背中を見送っていたが、ふと、視線を感じて振り返った。
 お梅が、廊下に佇んでいた。
 いつになく青ざめこわばった表情で、俺を、見ていた。──その顔は何処か、奇妙なほどに、あの夜の土方の青ざめこわばった表情に、似ていた。

 呼び出されたわけでもないのに俺の方からお梅を訪ねたのは、初めてだった。
 ……何かを話したいなどと思ったわけではない。ただ、この女の顔が見たかったのだ。
「来ぃはる、思うてたわ」
 姿を現わした俺を見て、お梅は、何処か寂しげに笑った。
「うちは……いっつも、間に合わせの女やもん。……新見はんも、気が付いて、しもうたんやなぁ」
 どういうことだ、とは訊かなかった。言葉にされなくても、わかるような気がすることはある。
「うち……お相撲の日に初めて、土方はん、近くで見たんやわ。……そんで、わかってしもた。芹沢はんが、誰に恋してはるんか」
 問わず語りに、女は言った。
「新見はん……うちが訊いた時には、もう、知ってはったんやろ?」
「……知らん」
 俺は、低く呟いた。
「お前の話を聞いた時に、土方かもしれんと思っただけだ。……知っていたわけではない」
「いつ、知らはったん?」
「……知らん。……俺は、本当のことは何ひとつ、誰からも、聞かされておらん」
 それが口惜しいのだと気付いたのは、そうと口にした瞬間だった。
 俺は、何ひとつ知らされていない。
 芹沢先生からも、土方からも。
 それが、何故か、無性に、ただ無性に、口惜しかった。
「……うちもな、悔しいけど、入れへん」
 お梅は、ぽつりと呟いた。
「哀しいけど、土方はんには敵わへん。……うちに出来るのは、もう、芹沢はんと一緒に死ぬることだけや。……それだけは、土方はんには、絶対出来へん。それだけが、うちの勝ち」
「……馬鹿」
 俺は、吐き捨てようとして失敗した声で、応じた。
「幾ら生白い面をしていても、奴は男だ。見てくれに騙されるな。奴は、男だ。奴の骨の髄は、間違いなく男だ。男が、女に敵うものか。……土方などより、お前の方が、余程」
 その先の言葉を、俺は、危うく飲み込んだ。芹沢先生を差し置いて、俺がそれを言ってはならなかった。
 お梅は、はんなりと微笑んだ。
「……新見はんも、芹沢はんと一緒やなぁ。難しい顔してはるけど、優しお人や。うちみたいな女に、気ぃ遣ってくれはる」
「なに?」
「自分で気が付いてはるんやろ? ……忘れられへんのやろ、土方はんの、ほんまの顔が。そやから、代わりに、うちに逢いに、来ぃはったんやろ」
 俺は、落雷に遭ったような心地に立ち竦んだ。
 言われてみれば、確かにそうだという気がした。あの夜以来……俺は、一度も、何処へも、登楼していない。あの夜とて、そのまま遊ぶ気にもなれず、結局、妓共の苦情を歯牙にもかけず捨て置き、八木邸へ戻った。
 それが……奴の「ほんまの顔」が忘れられなくなったせいだというのか。
 そんな馬鹿な話があっていいのか。俺が……この俺が、あんな、似非侍の薬売り風情に、己の心を囚われるなど。
「……好きになってしもたら、男も女も関係あらへんよ」
 崩れ落ちるように腰を下ろした俺に、お梅は、淡々と告げた。
「新見はんは、多分、芹沢はんみたいな、土方はんに惚れてしもたいうんとは違うんやろなぁ、思う。そやけど、何や、何処へ行ってええんか、すっかりわからんようなって、途方に暮れてはる子供はんみたいな顔してはる」
 そっと膝に置かれた手を、俺は、静かに払った。
「……お前は、芹沢先生の女だ。つまらん同情で俺に構うな」
「同情なんか、してへん」
「それでも、構うな。……俺は、お前をあの男の代わりだなどとは思わん。お前は、お前だ」
「……おおきに」
 お梅は、哀しげな目をした。
「あんなぁ、うち、死神や、言われてきた女なんよ。何でか、わかる?」
 俺は暫く相手の顔を見つめたが、黙ってかぶりを振った。
「……うちに触れた男はんが、みーんな、おかしな亡くなり方しぃはるから。……うちから惚れて、仲良うなった男はんは大丈夫なんや。そやけど、うちが嫌うとったり、何とも思てへん男はんが、うちに何や無理に無体なことしぃはったらな、その内、おかしな亡くなり方しぃはるんや。ぽっくり病で倒れたり、喧嘩沙汰に巻き込まれたり、川に落ちて流されたり。……首括りはった人もおったわ。別に、何や、うちがした、いうわけでもないんやけど。……うちにしてみたら、そっちが勝手に手ぇ出しといて、死神扱いはないやろ、思うんやけど」
 ふふふと少しだけ笑った後で、お梅は、じっと、俺の目を見た。
「……土方はんを見た時な、わかってしもた。この人、うちとおんなじや。この人には、無体に触れたら、あかんのや。そないなことしたら最後、命取られる。……芹沢はんは、うちだけやのうて、土方はんにも、多分、もう、触れてしもたんやろなぁ。何や、そないな気がしてならへん。……土方はんにはな、惚れてもええけど、無体に触れたらあかん」
 俺は、ゆっくりと、笑いの形に唇を歪めた。
「……もう、遅い」
 お梅は、ちょっと吃驚したように目を見開いたが、ふっと寂しげな表情を浮かべて頷いた。
「……やっぱり、そやったの。……そやな、そやないと、土方はん、あないな目、せぇへんわな」
 俺は、耳の底に、芹沢先生の言葉を甦らせていた。
『誰であろうと、あの男は、自分のそんな姿を見られた相手を生かしてはおくまいよ』
 ……わかっていた。だからあの時、笑い飛ばそうとした。
 だが、笑い飛ばしたからとて、呪いが消えるわけではない。
 俺はもう、自分から触れてしまったのだ。
 死神の唇に。

     ※※※

 翌日の午後、俺は、芹沢先生達が島原へ出掛けたのを見計らって、ひとり祗園へと足を向けた。
 先生達と全くの逆方向へ向かったのは、奇妙な思いに衝き動かされてのことだった。
 昨日、土方とすれ違った時、奴はわざわざ俺に、俺の行動が会津中将の耳に入っている、と告げた。
 それは、奴一流の仄めかしではないのか。いずれそれなりの沙汰があるぞ、しっかり首を洗っておけという。
 だとしたら、奴が待っているのは恐らく、俺が誰にも──殊に、芹沢先生達に──助けを求められぬような状況に置かれる“好機”が訪れることだ。
 ならば……その“好機”を、俺の方から拵えてやろうではないか。
 俺は、いつ死神の呪いが我が身に落ち掛かってくるかと日々びくびくするのは嫌だった。
 そんな見苦しいことになるくらいなら、いっそ、一日でも早く、すっきりと片が付いてしまう方がいい。
 ……祗園へ行くことは、わざわざ言い置いてやった。俺の予想が正しいならば、土方の奴は、必ず何らかの行動を俺に対して起こす筈だ。
 無論、本当にお前はそれでいいのか、奴の呪いの軛《くびき》に繋がれて徒死しても構わぬのか、と己に問わぬでもない。だが、いずれ近い内に死神の手に捕らわれることは避けられぬ、とハッキリ悟ってしまったら、じたばたするのは却ってみっともない、無駄に足掻いても奴を喜ばせるだけではないかという気にしかなれぬのだ。
 何度かひとりで来たことがある山緒の仲居は、芸妓は呼ばなくていい、料理も酒も運ばせる必要はない、夜までには俺を訪ねて人が来る筈だから来る者があれば知らせなくていいし詮索もせずに通せ、と告げると、へえ、と何処か戸惑ったように応じた。……俺からそんな“清らかな”要求をされたことなどないのだから、当然だろう。俺は、座敷を素で借りるだけでも然るべき払いはするという意思を示す為に幾許かの金子を握らせると、幸いにも空いていた、この店で一番気に入りの小さな座敷へ通った。
 二階にあるその座敷の窓からは、遠目にではあるし他の建物の合間にでしかないが、鴨川の流れが見えるのだ。
 俺は、誰の目もないのをいいことに、腰高の窓枠に腰掛け、欄《おばしま》にぼんやりと凭れながら、きらきらと光る水面《みなも》を眺めた。
 ……死に時も死に方も選べぬなら、せめて死に場所ぐらい、己で選びたい。
 だから、俺は、此処へ来たのだ。
 俺の読みが正しいならば、土方は、誰が近くの島原へ知らせに走るかわからぬ屯所に連れ戻そうとはせず、此処で全てを終わらせようとするに違いない。
 俺のいる座敷へ、刺客を踏み込ませるか。
 それとも、局長から副長に降格させた時のように些細な非違を論い、詰め腹でも切らせようとするか。
 ……会津中将云々と持ち出した辺りから考えて、恐らく後者か。いずれにしても、脇差の世話になることは間違いない。研ぎに出す時間まではなかったが、せめてもと、今朝、自分で磨き上げてある。
 そこまで考えたところで、俺はふと、小さな自嘲の笑いを洩らした。
(……成程、今にして、芹沢先生のお気持ちがわかる)
 俺とて水戸の浪士、それなりの志も、国の行く末を思う気持ちも、あった筈だ。だのに、今の俺と来たら、あの男のことばかり考えている。お梅も昨晩指摘した通り、惚れたわけではない筈なのに、いつの間にか、あの男のことしか考えられなくなっている。あの男はどうするだろう、こうするだろう、ああするだろう……ということばかりに思いが向かう。他のことを考えようとしても、気が付くと、あの男のことに思案が戻っている。
 あの男に取り憑かれた、と表現するより他に、相応しい言葉が見付からない。
(先生は、とうに、この域に達していたのだ……)
 それなのに、俺を含めて周囲の者の殆どに、長い間、己の懸想を悟らせなかった。到底、死神の呪いにさっさと身を任せようとしている俺などの及ぶところではない……。
 次第に外が夕景に移りゆく頃になっても、しかし、目立った動きはなかった。
 俺の考え過ぎであったのだろうかという疑いが、流石に兆し始めた。
(来るなら、早く来い……待ち草臥れてしまうだろうが)
 俺は、唇に親指を当てた。そして、ゆっくりとなぞるようにその指を動かしながら、あの夜の、奴の唇の感触を思い返した。……まじないというわけでもないが、そうやって卑しい思いに耽っていれば、奴が俺の不埒な思いに感応し、あの時のように殺意を漲らせて動き出してくれそうな気がしたのだ。
 ……果たして、そうし始めて程なく、往来に、見覚えのある連中の姿が現われた。気付かぬ風を装いつつ、横目で確認する。……近藤に沖田、藤堂はわかった。他にも何人かいたが、夕闇が迫っているせいもあり、よくは知れない。いずれにせよ、俺ひとり始末するのに、局長自らが何とも大層な人数を引き連れてきたものだ。俺を討ち取るにはそれだけの人数が要ると思ってのことだろうか。
 ……だが、肝心の土方の姿は、見えない。……奴が来ていれば、俺にはわかる。わからないということは、奴は、此処へは来ていない。
 あくまでも、己は表に出ず、裏から糸を引こうというのか。それとも、よもや、追い詰められた俺が最期のひと太刀とばかりに、口外しないと約したあのことを他の者の前で暴露するのではないかと恐れてでもいるのか。
 一番後ろの方から来た誰かが、二階の窓に腰掛けている俺の姿を見付けたらしく、そっと指差す。……驚いた。野口の奴まで来ているのか。
(……ふん、猪口才な)
 野口を無理に引き込むことで、お前の味方はもういないのだぞ、同志からも見捨てられたのだぞと思わせ、俺に打撃を与えようという魂胆だろう。如何にも土方が考えそうな小細工だ。
 何でもかんでも土方の魂胆だと思ってしまう己の短絡的な思考の度し難さはわかっていたが、それでも俺は、その思考から距離を置こうとは思わなかった。普段の沈着さも冷静さも打ち捨てて激情と憎悪を剥き出しにした土方の“素顔”に心を囚われてしまっている俺に、今更、偏らぬ物の見方など出来よう筈もない。
 連中は、しかし、店に踏み込んでくる気配もなく、狭い往来で邪魔にならぬようにという配慮か、何人かずつに固まって、付近のあちこちの軒下に入り込んでいった。
(……何の真似だ?)
 考えようとして、俺は、やめた。
 奴らは来た。そして、俺がいることを確かめてから辺りに散った。であれば、もう、奴らの意図を考える必要などない。何故すぐに踏み込んでこないかは知れぬが、俺を害する気があるなら、俺がこのまま此処に居座っていれば、いつまでも待つわけには行かぬ奴らの方が痺れを切らして踏み込んでくる。
 俺は、残照の輝きを映す鴨川の流れをこれが最後と目に焼き付けると、腰を上げ、窓の障子を閉ざした。
 座敷の入口の方を向いて端座し、目の前に己の脇差を横たえる。
 目を閉じると、何処か他の座敷で早くも始まっている音曲が聞こえてきた。普段なら容易く心を動かされたかもしれぬその妙《たえ》なる調べや唄も、だが、今の俺にとっては耳を傾ける気にもなれぬ単なる音でしかなく、ひとくさり終わるまで遂に、俺の気持ちを揺さぶることはなかった。
(……このまま、二度と俺の前に姿を見せぬままに全てを終わらせるつもりか、土方)
 あの見栄坊なら、俺は新見のことなど歯牙にも掛けていないぞと周囲に対しても己自身に対しても殊更に示そうとする為に、敢えて姿を見せるのではないか……と心ひそかに思っていたのだが、その読みは外れたのだろうか。
 二度とあの生白い面を見ることもない、と思うと、今更ながら、かすかな悔いが生まれた。あの時……あの時、もっと徹底的に踏みにじっておけば、そうすれば、もっと別の“素顔”も見られたかもしれぬ。
(……愚かなり、新見錦。死に際の悔いまで、奴に取り憑かれるか)
 自嘲に唇を歪めた時、おとなしいとは世辞にも言えぬ複数の足音が近付くのが聞こえ、やがて、この部屋の外で止まる気配がした。
「御免」
 声と共に唐紙の引き開けられる音がした。
 俺は、ゆっくりと目を開いた。
 最初に目に入ったのは、近藤の厳つい顔。俺がこんな風にたったひとりで待っているとは思っていなかったのか、戸惑ったような色が仄見える。その傍らにそれぞれ、沖田、藤堂。……沖田の方は特段の感情も見せぬ淡々とした表情をしているが、藤堂の方は、微妙な気まずさを秘めた表情で俺から視線を外す。……この間このふたりと飲む羽目になった折に気付いたが、似たような屈託のなさを持っているとはいえ、沖田よりも藤堂の方が、感情に素直なところがある。藤堂としては、つい先日“奢ってもらった”ばかりの相手を害するのは、流石に気が引けるということらしい。一方の沖田が同じ気持ちでいるかどうかはわからぬが、普段から、この男の剣には殆ど迷いがない。たとえ気の引ける思いを持っていたとしても、相手を斬ることが避け得ぬことであると受け止めた瞬間に、全ての感情は断ち切れるだろう。
 他には、俺の次席にいる副長、山南敬助。永倉、原田……斎藤までいる。……何とまあ、俺ひとり片付けるのに、これだけの錚々たる面々を揃えてよこしたのか、土方は。
(どうあっても、生かしてはおけぬということか)
 その余りの徹底振りに笑い出したくなったが、そこはこらえ、俺は、近藤に目を戻した。
「……座敷に上がるに二刀差しのままでとは、皆、無粋なことだな」
「生憎だが、我ら、遊びに来たわけではない」
「承知している。……で? 膾《なます》にするのか。それとも、詰め腹でも切らせるのか」
 薄笑みを浮かべて問うと、奴らの中にざわっとした風が起こった。気の短い原田など、手を掛けていた鯉口を切りそうになった。
 だが、近藤は流石に目立った動揺も見せず、唇を引き結ぶと、俺の正面に片膝を落とした。
「新見副長、その様子では何やら察するところもあるようながら、それではと何も告げず知らせずで事を成すわけには参らぬ故、ひと通りの申し渡しはさせてもらう」
「物堅いことだな」
「京都残留以来の同志である貴公にこのような沙汰を告げねばならぬのは決して喜ぶことではないが、局長としては、貴公のこれまでの数々の非行を黙認放置し続けることも出来ぬ。──卒爾ながら、今この場で、腹を召されよ。本来ならば奉行所にも引き渡すべきところ、会津中将の格別のお計らいである」
 ……詰め腹か。
 俺は、笑みを深めた。
「……試みに問うが、非行とは何だ? よもや、昼間から遊興に耽り、商家に押し借りだの粗暴狼藉だのと、そんな理由を並べ立てるのではあるまいな。もしもそうであれば、俺よりも先に咎めねばならぬ御仁がいるのではないかと返すが、どうだ?」
「これは、二局長命令である」
 近藤の答は決して答ではなかったが、俺をしばし黙らせるに充分な威力を持っていた。
 二局長命令?
 二……ということは、こいつらの独断専行ではないのか。
 筆頭局長である芹沢先生も同意の上だというのか。
「……証拠は」
 流石に声が潰れた。近藤は、ハッタリで口から出任せを言える男ではない。それが、毫も揺るがぬ口調と表情で言い切るということは……
 近藤は、無言で懐から書状を取り出し、俺の目の前に広げて見せた。
 その紙の上にあったのは、紛れもない芹沢先生の筆跡で記された、俺に切腹を命じる文言と、署名だった。近藤の筆跡は、ほんの付け足しに過ぎないとでも言うように、芹沢先生の署名の脇に添えられている署名のみであった。
 ……土方の差し金だ。
 冷たく痺れた脳裡で、そんな思いが渦を巻いた。奴は、何をされたら俺が一番応えるかを、ちゃんと、承知していたのだ。此処に来た面々の中に野口を混ぜたことなど、ささやかなおまけでしかない。
「……見せてもらおう。……心配は無用、破り捨てたりなどはせん。……ただ、この目で確《しか》と見たいだけだ」
 乾き切った声で求めると、近藤はわずかに目を細めたが、無言でその書状を畳の上に置き、俺の前へと滑らせた。
 取り上げて、俺は、じっと、その筆跡に目を据えた。
 芹沢先生は、一体どんな思いで、これを認《したた》めたのだろう。筆運びには、乱れたところはない。かといって、勢いがあるわけでもない。何処か淡々と、何でもない日常の書き付けのように綴られた文字。
 ……土方は、どんな風に迫って、これを先生に書かせたのだろう。よもや、奴が此処に来ていないのは……来ていないのではなく……芹沢先生と時を過ごしていて、来ることが出来ないでいるのか……
 碌でもない妄想に走りかける思考を、俺は、苦笑いで抑え込んだ。そこまで思うのは、幾ら何でも下種の勘繰りというものだ。土方はともかく、芹沢先生をそんな下らぬ妄想の具にするのは余りに無礼だ。先生が、そんな下劣な条件と引換に、これを書いた筈がない。……もしも、先生が本気で心の底から土方の奴に惚れ抜いているなら、仮に奴がそんな交換条件を持ち出してきたとしても、奴にそんな真似をさせたくはないからと、首を横に振るだろう。先生は、そういうお人だ。
 であれば、先生は、本当に、奴への恋闇に迷った末に、俺を見捨てると決めたのか。もしかしたら、先日俺が口を滑らせたあの夜のことを土方が全て先生に訴え出て、先生はそれに激怒したのか。
 ……いや……それは、百万歩譲ってみても、あり得ない。奴が、あのことを他人に話すわけがない。
 絶対に、ない。
 俺は、下命書を畳に戻すと、近藤の方へ押しやった。幾ら穴の開くほど文字面を眺めてみたところで、真相を知ることは不可能だ。
「……野口。介錯しろ」
 いっそそっけないほどの口調で、俺は言った。此処へやってきた面々の中の一番後ろに何となく隠れるようにして座っていた野口の奴が、びくっとしたように顔を上げる。構わず、俺は続けた。
「それから、芹沢先生に伝えろ。新見は口を閉ざしたまま逝きました、とな」
 ……芹沢先生から土方に伝わるかどうかは、わからない。伝わらないと考える方が、当然かもしれない。それでも俺は、そう言い遺さずにはおれなかった。
「何をもたもたしてる。さっさと来い」
 渋々だろうが嫌々だろうが何だろうが、此処へ来た以上、只の見物人で終われると思うな。覚悟を決めろ。俺は内心でそう付け足すと、懐から財布を取り出し、下命書の傍らに置いた。
「此処の払いは、これをそのまま渡してもらおう。……迷惑料込みだ。畳替えも要るだろうからな」
 近藤は、やや意外そうな顔をしたが、短く「承知した」とだけ応じた。俺がそんな配慮をするとは思っていなかったのだろう。だが、俺にしてみれば、自らの懐から払いを遺してゆくのは当然だった。此処は、俺の気に入りだった座敷なのだ。此処で死にたいという我儘を通すなら、それなりの配慮はするものではないか。
 おっかなびっくり俺の左手に立った野口を、俺は、横目で見上げた。──顔面蒼白だった。見れば、手も震えていた。
「何だ、お前、介錯は初めてか」
「……はい」
「そうか」
 俺は苦笑した。つまり、失敗されるおそれもあるということだ。
 おい、しくじるなよ、と口にしそうになったが、却って重荷になるかと思い直し、何も言わずにおく。
 ……まあ、いい。しくじられても、みっともなく痛みに暴れ回ることだけはすまい。そのくらいの意地を死に際に振り絞れなければ、武士ではない。まして、百姓の倅の前などで取り乱したり泣き喚いたりなど、絶対に出来るものか。
 袵《おくみ》に手を掛け、引き開けた。
 目の前の脇差に手を伸ばした。
 ……土方の高笑いは、聞こえなかった。
 だが、芹沢先生の声は、聞こえた気がした。
『誰であろうと、あの男は、自分のそんな姿を見られた相手を生かしてはおくまいよ』
 ……だとしたら先生、先生もいずれ俺の跡を追うことになると、自身でわかっているのか?
 わかっているからこそ、この俺を、地獄への先触れとして、先に、逝けと?
 俺は、今一度、周囲を見渡した。
 ……どんなに見渡してみたところで、土方は、いない。
 奴が此処に来ていれば、せめてもの一矢を報いてやれた。あの一件を死に際のひと太刀で暴露されるのではないかと内心びくつきながら見守っていたに違いないあの薬売りに、俺がそんな見苦しい真似をするような武士ではないと見せつけながら腹を捌いてやれた。
 いや……
 もう、この期に及んで、そんなもっともらしい理屈は要らぬ。
 今一度、見たかったのだ、俺は。
 あの、己の激情を剥き出しにしてさえも、まだなお美しさを保っていた、あの、憎悪に燃える死神の姿を。
 もう二度と生きてこの目であの死神を見ることが叶わぬなら、一度でいい、亡者と化して、奴のあの憎しみの目を浴びたい。
 何処までも堕してしまった心よと己を嗤いつつ、静かに鯉口を切る。
 もしもそうすることでのみ奴を呼び寄せることが叶うというなら、そして、あの憎悪に燃えるまなざしを見ることが叶うというなら、決して口外せぬと約したあのことでさえ、この場で全て……
 ……そこまで愚かしい思いがよぎったその時、俺は、はたと思い至った。
 奴が此処にいないのは、奴の意思ではないかもしれない。
 芹沢先生が、奴を止めたのかもしれない。
 もし、そうだとしたら、奴がこの場にいないのは、芹沢先生が俺だけに伝わるように投げ掛けてくれた、最後の配慮だ。俺が万が一にも、奴の姿を見たことで何か見苦しい真似をしてしまわぬようにという。
 ……そうだ。先生は、俺を見捨て果てたわけではなかったのだ。奴への恋闇に迷ってはいても、その恋闇ゆえに古くからの同志である俺を捨て去って顧みる気もないというわけではなかったのだ。
 ほんの少しだけ、救われた気がした。
(これで、全ての呪いが終わる)
 今度は俺が、あの死神に呪いをかけてやる。己が大切に思う全てを失い、全てに裏切られ、孤独の内に惨めな死を迎えるようにと。
 ……もしも俺ひとりの力で叶うことであるならば。
 無理であれば……是非に及ばず。
 俺は、目の前に雁首並べて俺の死を今や遅しと待っている連中を見据えながら、脇差の鞘を払った。
 わかるまい。貴様らには、一生。
 俺と芹沢先生との間にあった肝胆相照らす深い繋がりも、俺と奴の──土方歳三との間にあった、短いながらも激しく濃密な繋がりも。



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