私が副長の居室に呼ばれたのは、慶応三年明けて正月三日の夜であった。
 その日、屯所内は、朝からざわついていた。いや……不穏な気配さえ、漂っていた。
 何故なら、何と正月早々、島原角屋へ繰り出した幹部三名……伊東参謀と、組長である永倉さん及び斎藤君が、当夜の門限破りどころか無断外泊を続けていたからである。
 門限に遅れることは、新選組に於いては、厳罰の対象である。殊に役付きの者の場合、違背すれば切腹という内々の取り決めがあった。下の者に厳しく上の者に甘くしたのでは、下の者に示しが付かぬ、という理由からである。下の者に掟を守らせる為にはまず幹部が掟を守らねばならない、それが、局の規律に目を光らせている副長土方先生のお考えであった。
 私は、無断外泊を続けている伊東参謀達は切腹は免れないだろうと見ている。副長は、平士に酷《むご》く役付きに温《ぬる》いという処置を嫌う厳しいお方だ。幹部であっても法令を曲げることは許されないのだということを局中に知らしめる為にも、処分は断行されるに違いなかった。
「もし、伊東さんに腹を切らせるなどという話になったら……」
「そげんことは絶対にさせんっ。……してでも」
「しかし……のは流石に」
「それでも、万やむを得ぬ時は……しかなかっ。それで伊東さんに……てもらうと」
 私が書類の下調べに没頭している……ように見せている同じ監察部屋の一番奥で、声を潜めながらも息巻いているのは、私と同じ諸士調役《しょししらべやく》監察の任に在る三人……篠原さん、服部さん、新井さん。局内では局長副長よりも伊東参謀と親しい人達だ。
 ……彼らよりも手前で他の監察達が別の話をしているせいもあるが、肝心な部分は流石に声も低く聞き取れない。だが、どうも、助命嘆願だの何だのを通り越した、かなり物騒なことを考えているらしい。
 このままでは、局を割っての争いが起こる……。
 副長から呼び出されたのは、私がそんなことを考えていた時であった。

「早速だが」
 私が障子を閉ざして向き直り畏まると、火鉢で手焙りをしていた副長は、前置きも何もなく突然に切り出した。
「篠原君、服部君、新井君」
 今し方まで一緒の部屋にいた三人の名を出され、どんな様子かね、と問われて、私は思わず目をしばたいた。自分がさっきまで巡らしていた考えを副長に見透かされたような気が、一瞬、したのである。
 ……しかし、考えてみれば、私でさえ危惧の目で見ていた三名である。副長が注意を向けていない筈がない。私は気を取り直すと、言葉を選びながら答えた。
「かなり心配している様子です……言動が余り穏やかでないのが気になります」
「どう穏やかでない」
「……それは……」
「伊東君達を切腹させるという仕儀にでもなったら、局長副長の首を取って伊東君に頭《かしら》に立ってもらおう」
 その言葉は、漫然と聞いていれば聞き流してしまったかもしれぬほどに淡々とした語調で発された。けれども、その中身は、余りに直截つ過激であった。私は一瞬絶句し、不覚にもうろたえた。
「……そ、そこまであからさまな表現では……」
「だが、事実だろう」
 断定は出来ないが、否定も出来なかった。肝心の言葉が聞こえずとも、話の流れから、彼らが何を言っていたかぐらい察しは付く。私は躊躇いながらも「はい」と応じた。副長は軽く頷くと、「他の隊士達はどうだ」と重ねて問うた。私は、伊東参謀と近い者は大同であること、そして、永倉さんの二番組及び斎藤君の三番組に所属する隊士達も不安げに落ち着かない様子である旨を返答した。隊内の空気に耳目を向けることは、既に私にとっては習い性となっている。調べておけと言い含められておらずとも訊かれて即答出来るのは、だからであった。
 そして副長は、そんな私をよく御存じだ。
 けれど、こういう状況で仮に私が答えられなかったとしても、咎めたりはなさらない。では少し調べてもらいたい、とお命じになるだけだ。副長が私を咎めるのは、滅多にはないが、命じておいたことが果たされていなかった時だけだ。
 副長は再び軽く頷くと、何を思うのか、暫く無言で、火鉢の炭を転がしていた。
「山崎君」
 静かに火箸を置いた副長に真っすぐ見つめられて、私は、些かどきりとした。この方は時々、相対《あいたい》する者が戸惑うほどに、相手の目を捉えて放さないことがある。この方のそういう時の目は、いつもはさして大きく見えないにも拘らず、恐ろしくぱっちりとして……こんな表現をするのはどうかとも思うのだが、何処か蠱惑《こわく》の色を帯びて見える。男色の嗜好は持ち合わせない私でさえ、妙にどぎまぎしてしまうほどに。
 無論副長にも、私の知る限り、そういう嗜好はない。端整な唇を衝いて出たのは、色気のかけらもない問いかけであった。
「君は、私がどうすると思う」
 私は目をしばたいた。どうすると思う……と言われても、何を、なのだろう。そこまで口になさらないということは、副長は、私が当然その“何を”を了知しているものと思っておいでの筈だ。
 どう返事をすべきなのかと迷っていると、副長は、ごくわずかな笑みを目許に浮かべて言葉を足した。
「遠慮するな。私の腹はとうに決まっている。君がどう答えたところで私がそれに左右されることはないし、当たっていようと外れていようと君に対して含むこともない。答えたまえ」
 ……ああ。
 私は、己の鈍さに苦笑したい気分に陥り、うつむいた。此処へ来た時に受けた副長の質問の流れから、当然察して然るべきだった。副長は、自身が今度の事件の始末をどうするつもりでいるかを当ててみろ、と仰せだったのだ。
(副長は……どんな答を期待しておいでなのだろう)
 私の答には左右されぬとおっしゃるからには、私の考えを参考にしたいと思われているわけではないだろう。だとしたら、副長の意図は、奈辺にあるのか……
 ……いや、副長の意図を、今の私が考える必要はない。
 今は、ただ、与えられた問に対して、思うところを正直に述べれば充分なのだ。副長が期待しておいでなのは、私の答の中身ではない。私が答えることだ。
 私は顔を上げ、副長の目を見つめ返した。
「……此処へ呼ばれるまでは、副長は恐らく三人共に切腹させるおつもりだろうと思っておりました」
 そう。副長は、相手が幹部だからと法の執行を曲げるお方ではない。それは、かつて山南総長の脱盟行為を許さなかったことでも容易に知れている。
 しかし……
「ほう」
 迷った挙句に切り出した答は、どうやら、副長の興味を惹いたらしかった。すっと細められた目が、私の言葉を吟味しているようであった。
「では、此処へ呼ばれた今は、違うのかね」
「はい……三人共に命は留め置かれるおつもりなのではないかと」
「何故」
「副長は、私に、隊内の様子をお尋ねになりました。それだけではなく、もしお三方を切腹ということにすればどういう騒ぎが起こるかも見抜いていらっしゃいました。……副長は、隊規も勿論大切になさるお方ですが、それが隊を維持するに却って害となると判断された時には、隊の維持の方を優先なさるお方です」
 副長は、ぱちりと一度、まじろいだ。
「断言してくれるものだな」
 私は、穏やかに返した。
「先例がありますから」
「うん?」
 そう、実は先例があるのだ。厳格な副長が、法令の遵守よりも隊の維持を優先して、処分を軽くした例が。
「三年前に、永倉さん達が局長を批判する建白書を会津に提出した時のことです」
 私の言葉を聞くと、副長は苦笑を洩らした。
「あの頃は、法令は今ほど厳しくなかったよ」
「しかし、本来なら切腹に価する罪とお考えになっていたのではないかと」
 局長への批判は、新選組への批判。隊の統制を考える副長のお立場から見れば、許せる筈もない。悪い先例を作らぬ為にも、当然、“首謀者”である永倉さんをはじめ建白書に名を連ねた面々は、隊の統制を乱した廉で切腹を免れぬもの……と思われないでもなかった。だが、永倉さんも含め、誰ひとり死を命じられることはなく、謹慎で済んだ。
 ……もっとも、その処分後、処分された隊士のひとりが腹を捌《さば》いて死んでいるが、私の知る限り、副長が後から彼だけに死を命じたというわけではない。もっとも、そういう噂は局内に拭い難く流れていたし、副長はひとことも弁明なさらなかったから、真偽はわからないが。
 いずれにせよ、あの時の副長は、有能且つ最古参の隊士を一挙に死なせては、局内の動揺が大き過ぎる上に長い目で見れば隊にとっては痛手になる、と判断されたに違いない。少なくとも私は、そう思ってきたのである。
「山崎君」
 半ば抗議するかのような口調で私の名を口にした副長は、しかし私の言葉を否定せず、代わりに、ちょっと困ったような顔で、いよいよ苦笑した。
「参ったな……。君にも見透かされたか」
 私は驚いた。副長がそんな風に率直に一種の“負け”をお認めになるのは、私の前ではなかったことだ。と言うより、今迄、そんな機会には恵まれなかったと言うべきか。そもそも副長が「私がどうすると思う?」などと私にお尋ねになること自体、初めてではなかったか。
 しかし……
「……にも[#「にも」に傍点]、とおっしゃいますと?」
 にも、ということは、私の他にも、副長のお考えを「見透か」した者がいるということになる。副長が法に厳しいことは、隊内では夙に知れ渡っている。近藤局長も今度の件ではいたく御立腹とのお話、万が一にも副長が処断を躊躇うことはないだろう、というのが、大方の目である筈だ。私でさえ、こうして呼び出されて副長から隊内の現況を問われなければ、副長の真意には思い至れなかった。それを、私より先に「見透か」した者がいるというのだろうか……。
「多分、伊東君も見透かしているだろう、という意味さ」
 副長は、存外あっさりとした口調で答えた。
 ……成程。副長は、伊東参謀が、自分達三人に腹を切らせることなど出来ないと承知の上で、敢えて門限破りと無断外泊をしているのだ、と言いたいのか。
「悔しくもあるが、時には現実という奴を重視せねばならんのは確かだ。理想……例外なき法令の適用に拠って成り立つべき鉄の規律集団新選組という理想を曲げてでも、だ。理想にこだわる余りに、その理想を実現するに必要な新選組そのものの存続が危うくなるのでは、本末転倒もいいところだからな」
 考えてみれば、全くその通りであった。副長は確かに規律に厳しいお方だが、それ以上に、融通無碍《ゆうずうむげ》なのだ。規律に囚われ過ぎることはない。その言動の底には“新選組をより良く維持し続けるには”という一本の筋が、常に通っておいでなのだ。
 それにしても……
 もし最初からそれと見抜いて敢えて法令に反してみせたというのが本当であれば、伊東参謀ほどに土方副長の本質を見ておいでの方は、他にいないのではあるまいか……土方副長とは決して仲が良いとは言い難いお方だが……。
 などと思っていると、副長が不意に、「ところで山崎君」と言葉をかけてきた。
「ちょっと訊きたいのだが、何故、私が誰かひとりに責任を取らせるとは考えなかったのかね」
 私は、わずかに頬を緩めた。
「副長は、筋の通らないことを嫌うお方です。軽重はどうあれ、法令に背いたという点で同罪、とお考えなのではないかと……切腹させるにしろそうでないにしろ三人共に、と考えたのは、だからです」
 副長は黙って頷くと、かすかに笑った。
 それは、我が意を得たり、という笑みであった。
 その笑みを見た時に、私は、副長が私に何を求めておいでなのか、何となくわかったような気がした。
 今の副長には、余りに理解者が少ない。隊士達から憎まれ嫌われるような役回りを引き受けて憚らない故に仕方がないと、恐らく御自身では思われているだろう。けれども……不遜な言い方が許されるなら、副長は、御自身のことを理解していてほしい人間のひとりとして、私を選ばれたのだ。
 副長にとって、只の部下ではなく、腹心の部下として在ること──。
 私には荷が勝ち過ぎる役と思わないでもなかったが……正直、自分が副長の信頼を得ているらしいと思うと、嬉しかった。

 流連《いつづけ》騒動の余波も冷め切らぬ睦月十七日の宵の口、私は、いつものように監察部屋で書類と向かい合っていた。
 その日は、午後から段々に雲が出てきて、冷え始めていた。温かいものが恋しいというわけか、四つ足の肉を鍋で煮ている者がいるらしい臭いが、何処からか、この部屋の辺りまで漂っていた。
「まったく、嗅ぐに堪えん……」
 篠原さんが、ぼやいている。あの流連騒ぎの時に過激な考えに流れていたとは思えない、おっとりとした物言いである。まあ、あの流連騒動では結局誰も死を命じられることなく短期の謹慎処分で済んだのだから、過激な企てを実行に移す隙もなかっただけ、ではあろうが。
 土方副長の御判断が的確であったればこそである。
 余談ながら、あの騒ぎの後には、永倉さんひとりを切腹処分にしようとした局長を副長が「犯した罪が同じなのにひとりに責めを負わせるのは筋が通らない」と言って抑えたそうだ、という噂が、隊士達の間で流れた。そのことをお耳に入れた時、副長は苦い顔をされていた。口には決して出されないが、副長にしてみれば、近藤局長が悪者になるような噂は、たとえ事実であっても流れてほしくないのであろう。
 しかし、たまには良いのではないか、と私は思う。副長が筋の通らぬことを嫌うお方だ、というのは、むしろ隊士達には知れていた方がいいという気がするのだ……。
「冷えが応えるとなれば、暖を取らねばなるまいさ……我々も暖を取りに行くか」
「おいおい、獣肉食いは御免だぞ」
「はは、肉は肉でも、もっと別の肉があろうて」
「あー成程……内からではなく外から優しゅう暖めてもらおうというわけか。では遅うならぬように、今から早速出掛けるとしようか」
 ……おやおや、篠原さん達、いつの間にか、島原に繰り出す相談を始めてしまった。まあ局長も副長も今日は休息所へ行かれたようだし、伊東参謀の九州出張も明日午後の予定だし、私ひとりが残されても特に問題はなかろうが……
 ちなみに私は、こういう時には付き合いが悪い。馴染みの敵娼《あいかた》の所へ行くならひとりが気楽でいい、と思う性質《たち》なのだ。この部屋の同輩もそうと承知してくれているので、無理に誘われることもない。出てゆく面々を会釈で見送って、私はひとり、目の前の書類に戻った。
 だが、幾らも経たぬ内に、私の仕事は中断された。
 監察部屋に訪ねてきた者がいたからである。
 それは、先般副長室での謹慎が明けた、斎藤君であった。
「山崎さん──頼みがある。副長の所へすぐに行ってもらえまいか。ひょっとしたら、副長のお命に関わることが起こるかもしれない。今すぐ、所用を装って壬生へ行ってほしい」
「……え?」
 障子を閉ざしざまに両手を突かれてそんなことを言われ、私は戸惑った。いつも淡々として見える斎藤君の必死の面持ちにも戸惑ったが、それ以上に、何故斎藤君が[#「斎藤君が」に傍点]突然このようなことを言ってくるのかと戸惑ったのだ。
 斎藤君は、副長とは、微妙に気まずい仲である筈だ。理由は確《しか》とは知れないものの、一昨年副長の江戸下向に同行して以降のようだから、往復の道中または江戸滞在中に何かあったのだな、と見ていたのだが……
「お命に関わるとは……そもそも何故そんなことに……」
「理由は言えない」
 斎藤君は、低い声で、半ば呻くように応じた。
「本当は私が急用を装って訪ねることになっていた。けれど、どうしても動けなくなった」
「……なっていた、ということは、副長から、そうしてくれと頼まれていたということですか」
 斎藤君は黙って頷いた。
 ……根拠のない直感でしかないぞという警戒心は拭い難く残っていたが、その必死のまなざしを見てしまっては、嘘とは思いにくい。
「とにかく、お願いする──副長のお命にも関わることだ。頼めるのは、山崎さんしかいない」
 もう一度頭を下げると、斎藤君は慌ただしく立ち上がり、恐ろしく素早く、且つ静かに出ていった。余程急ぎの用が出来たのか、私から追及されるのを避けたいのか、それとも……今此処へ出入りしたことを他の者に知られたくないのか。
 私は、己の息の吸い吐きをそれぞれ五回数えた後で、廊下へ出てみた。
「あ、申し訳ない、待たせてしまって──いや、寒いとどうにも、出が悪くて困る」
「ははは、柔肌に暖めてもらえば出も良くなろうて」
 少し離れた辺りから、斎藤君の声が聞こえてくる。笑い声の方は……さっき出ていった、篠原さん新井さん達だ。
 ……成程。急に島原行きに誘われて、断わり切れなかったということらしい。
 島原行きを副長の命にも関わるという壬生訪問より優先させるという神経が今ひとつ不思議だったが、あの切羽詰まった様子からすると、あの短時間では語り切れない深い事情が潜んでいるのかもしれなかった。
 私は急いで書類を片付け仕舞い込むと、丁度幸いにも通りがかった沖田君を捕まえ、急用で暫く部屋を空けるので宜しくと頭を下げた。
 厩へ回り、残っている中で一番足の速い黒鹿毛を選んで牽き出し、飛び乗る。
 本来、たとえ組長格の人間からの頼みであっても、私には動く義理はない。監察は副長直属の役、斎藤君には、監察に命令出来る権限はないのだ。けれども、「副長のお命に関わることが起こるかも」と言われては……
(縦《よし》んば斎藤君の言葉が虚言であっても、それはそれで構わない)
 嘘か真《まこと》かと遅疑逡巡する内に本当に副長のお命が奪われてしまったら、悔やんでも悔やみ切れない。それよりは、何故そんな嘘を信じたと副長にお叱りを受ける方が遙かに良いではないか。
 私は、島原へ向かう途上の篠原さん達を追い抜く道を採らず、少しばかり遠回りをした。斎藤君が、私の所を訪れていたことを篠原さん達には言わず、厠に行っていた風に装った以上、この依頼を知られたくない相手に篠原さん達が入っているのは恐らく間違いない。万が一にもこの“急用”を悟られないよう、用心しておく方がいいだろう。
 月明かりは、ないに等しい。空は既に厚い雲に覆われていて、星もわずかにしか覗いていない。そんな夜道を馬で飛ばすのは危険といえば危険なのだが、今はそんなことは言っていられない。第一、乗り手に迷いがあっては、馬も走ってはくれない。腰に挟んだ灯りと道々の灯籠だけを頼りに、私は馬を急がせ、壬生への道をひた走った。
 間もなく副長の休息所、という辺りで、私は、前方からちらちらとやってくる灯りに気付いた。引っ掛けてしまわぬようにと思いつつも、足は緩めさせずにその傍らを駆け抜ける。
(……伊東参謀?)
 自分がすれ違った相手の意外さに、少し驚く。伊東参謀がこんな刻限にこんな場所を歩く方だという認識は、私にはない。思わず振り返ってしまったが、向こうが私だと気付いたかどうかは知れない。だが、うつむきがちなその姿からすると多分、物思いに耽っておいでで、すれ違ったのが私だとは気付いていないだろうとは思う。
 いずれにせよ、今は、副長の御無事を確かめることが一の大事だ。その他の様々な不審は、後で落ち着いてから考えれば良い。
 私は、非礼を承知で、騎馬のまま敷地内へ飛び込んだ。
 そのまま庭へ回ってみたが、建物からは、一見、灯りが洩れていなかった。
 しかし、庭木には紛れもなく、副長の乗り馬である青毛の牝馬、射干玉《ぬばたま》号がつながれていた。
 私はその場に黒鹿毛を乗り捨てると、急いで表へ回った。──揃えられている履物は、草履が一足だけ。此処には今、副長しかいないのだろうか。土足で何者かが上がり込んだような形跡もない。不審に思いながらも、何かしら急き立てられるような心持ちで、私は、式台を上がった。そう大きくはない建物の中だ。全ての部屋を覗いて回るのに、それほど時間はかからない筈だ。
 手前から見てゆくか、先に奥へ回るか。
(奥へ回れ)
 ……自慢にもならないが、こういう風に閃きが落ちてきた時には、私は、己の直感を信じる。それに……人が何かを行う時、それが他人の目を憚るものであればあるほど、奥に籠もるものだ。
 私は差料の鯉口を切ると、真っすぐ、奥の間へと向かった。
 奥の間の唐紙は閉ざされていた。用心深く寄り付き、耳をそばだてると、確かに人の気配があった。声こそないが、ため息や息遣いが……それも、何処となく穏やかならざる息遣いが聞こえた。
 私は思い切って、唐紙を引き開けた。
 中は、仄明るかった。
 そして──
 私が見たのは、室内に座す土方副長の、思いもかけぬお姿であった。
 いつもきっちりと束ねておいでの漆の黒髪は、乱れた散らし髪。お顔の色は殆ど土気色に近い白。驚愕に凍り付き見開かれた目など、ついぞ見たことはない。
 だが何より私が愕然としてしまったのは、その両手首が、後ろで縛られていたことであった。
 御自身で出来ることではない。
 間違いなく、何者かが、副長に危害を加えようとしていたのだ。
 斎藤君の言葉は、嘘ではなかったのだ。
 私は、その場に片膝を落とした。
「……御無事でしたか、副長」
 いきなり唐紙を開けた非礼を詫びるより先に、安堵が言葉になった。
 副長は、私の言葉で些か我に返ったようであった。見開いていた目を細め、探るような視線を私の顔に注ぐ。私はすぐにその視線の意味を理解した。何故、突然やってきた私が、無事か否かを開口一番に案じたのか、それを副長は訝られたに違いない。
「斎藤君から頼まれて……参りました」
 もしも斎藤君が副長から今夜の訪問を依頼されていたというのが事実であれば、その返答だけで、副長には何かが通じる筈であった。
 副長は、果たして表情を動かし、まじろいだ。
 だが、流石に用心深いお方であった。
「……どういうことだね、山崎君」
 私の口からきちんとした説明を聞くまでは迂闊な返事はならぬ──という思いが、かすれ声ではあったが、その言葉には窺えた。
 私は「はい……」と静かに頭《こうべ》を垂れた。
「私は、詳しい事情は存じませんが……斎藤君から、ひょっとしたら副長のお命にも関わることが起こるかもしれないから、すぐにこちらへ所用を装って行ってほしいと……それで、急ぎ駆けつけた次第です」
 副長はそれを聞くと、ある程度のことは私に話してもいいと判断したらしく、ぽつりと呟いた。
「……私は、斎藤君に、そうやって来るようにと頼んでいた」
「それは斎藤君も」
 私は頷いた。
「けれど斎藤君は、自分がどうしても動けなくなったから……と」
「動けなくなった……?」
「はい……そう言って、私に、ただ、急いで副長の所へ行ってくれまいか、と……訳は話せないが、とにかく、ひょっとしたら副長のお命にも関わることが起こるかもしれないのだ、と」
「……で、斎藤君はどうした」
「そう頼んだ直後、篠原さん達と外出しています。斎藤君が私の所へ来る少し前でしたか、篠原さん達が、島原にでも繰り出すかと言い始めて部屋を出ていきましたから、恐らく、急に誘われて断わり切れなかったのではないかと思います」
 副長は、小さく息をついた。そして、何を考えているのか、暫く無言であった。
 が、程なく再び嘆息した後で微苦笑し、私に目を当てた。
「山崎君」
「はい……」
「済まんが、こいつをほどいてくれんか。……どうにもほどけなくてな、困っていたんだよ」
 私は戸惑った。この方でも、誰かに助けを求めることがあるのか……という戸惑いだった。
 ……勿論、この状況下では無理はない。けれども、まさか副長の側から口に出して頼まれるとは、私は予想だにしなかったのだ。
 敷居を越えて部屋に入り、失礼します、と後ろに回る。……襷で縛ったらしい。かなり何度も回されていて、これでは手首を曲げることすら難しい筈だ。しかも、結び目が、どうにも指の届かぬ所にある。此処まで周到に縛ることが出来ているのだから、縛られる時に副長が抵抗していたとは思いにくい。複数の者が押さえ付けたのか……それとも、副長がお休みのところを狙ったのか。
 拘束から解き放たれると、副長は、手首を回すようにしてほぐしながら、ところで山崎君、と私に再び声をかけてきた。
「此処へ来る途中、誰かに会ったか」
「……はい、こちらへ着く少し前の路上で、伊東参謀の姿を見かけました」
「何か話したか」
「いえ、すれ違っただけです。夜ですし、私の方は馬を走らせていましたから……あちらが私だと気付かれたかどうか」
「ふん……」
 副長は、御自身の周囲を見回し、何か落ちていないかと探すようであったが、すぐに小さく舌打ちした。何をお探しなのかは知れないものの、目当ての物が見付からなかったらしいことはわかった。
「……こんな為体を見られておいて、何があったか隠すのも何だな」
「いえ……立ち入ったことは……」
 私は急いでかぶりを振った。
「副長が御無事ならば、それで私には充分です」
 それは本音ではあったが、本音の全てではなかった。
 私は……誰が一体副長をこのような目に遭わせたのかを、知りたかった。
 けれども、この方に対して、詮索がましい態度は御法度である。この方は、部下からあれこれとうるさく詮索されることを非常に嫌う。……それでも何かを聞き出したいと思う際には、むしろ……我ながら狡いとは思うが、知りたくない、知る必要はない、と控え目にしている方が余程効果的なのである。
 果たして、副長は苦笑してかぶりを振った。
「私が嫌なのさ。たとえ詮索されずとも、色々と揣摩臆測されるのがね」
 ……そう。副長は、不思議なことに、私に対しては時折、うるさく訊かれるのも嫌だが黙って勝手にあれこれ想像を逞しくされるのも嫌だ、という、誠に矛盾した態度をお見せになるのである。
 それは、傍から見れば、紛れもなく我儘である。構われるとうるさがるが無視されると機嫌が悪くなる、頑是ない子供のようなものである。
 蓋《けだし》し、適度に先回りをしつつも先走り過ぎたりせずに任務をこなす、という私の仕事のやり方が、その我儘を助長しているに違いない。だが、私にとっては、それは、心ひそかに嬉しい我儘であった。いつもいつもであれば閉口もしようが、たまにこんな風に不器用な甘え方をされると、微笑ましく受け入れてしまいたくなるのであった。
 ……我ながら、どうかしているとは思う。他の者に対しては、そんな寛大な気持ちなどかけらも持てないのだから。
「無論、君になら知っておいてもらっても構うまいと判断するからこそだが」
 私の沈黙を戸惑いと取ったのか、副長は、私にとって何より嬉しい言葉を添えてくださった。このお方から信頼されているのだ、と実感出来ることほど嬉しいことは、私にはない。
 だが、そんな私のささやかな喜びは、次の瞬間、凍り付いた。
 刀の下げ緒をほどいて髪を束ね始めた副長の、その、露わになった喉頸《のどくび》
 そこには……禍々しいほどに、くっきりと……痣が……太い輪となって纏わりついていたのである。
 五指、いや十指の跡まで、はっきりと見えた。
「どうした、山崎君。私の首に、何か付いているかね」
 ごくかすかな含み笑いさえ窺える声で、副長がお尋ねになる。……私の動揺など、とうに伝わっているのだ。
「副長……」
「構わん。言ってくれ。どうなっている」
 正視に堪えぬ無残な痣に、私は、耐え切れなくなって目を伏せた。
「……痣が」
 そう返すのが、やっとだった。
 だが副長はあっさり、
「首を力一杯絞められたような?」
 と、重ねて問う。……どうなっているか察してはいるが、自分の目で見ることが出来ないが故に、私の目を通して確認したいのだろう。
 私は気を奮い立たせると、目を上げ、痣の状態を見直した。
「……はい。一見して、そうとわかります」
「だろうな」
 副長は、唇を歪めるようにして笑った。
「もう駄目だ、このまま死ぬしかない、と観念したくらいだったからな。……山崎君、君が此処へ来る途中ですれ違ったという男が、これ[#「これ」に傍点]の仕手だよ」
「伊東参謀が……ですか……!?」
 思わず発した声は、非礼にも、疑わしい、という響きを帯びてしまった。然《さ》しも副長のお言葉に信を置く私でさえも、まさか、という思いが先に立ってしまったのだ。伊東参謀は温厚なお人である。とても、こんな、人の両手を縛り上げておいて首を絞める、などという無体な所業をする方には見えない……
「信じられんだろうがね。だが事実だ。あの男は私に……」
 副長は、私の返してしまった非礼な反応を気にした様子もなく淡々と応じたが、続く言葉で言い淀んだ。
「……その、ちょっと特別な感情を持っていてね。おかげで今迄何度、口ではとても言えんような目に遭わされたことか」
 何とも表現し難い淀みではあったが、私には、その“ちょっと特別な感情”が一体何であるかは、すんなりと飲み込めた。
 ついこの間、思ったばかりであったから。
 日頃仲が決して良いとは言えない相手であるにも拘らず、伊東参謀は土方副長の本質をよく見ておいでなのだな……と。
 それが、もし、一方的な恋着から土方副長を見つめ続けていた、その結果だとしたら……
 だが私はそのことは口にせず、敢えて別のことを尋ねた。副長が言葉にするのを躊躇った以上、深くは触れられたくない話題であることは、容易に察せられたから。
「……斎藤君は知っているわけですね、それでは……」
「ああ」
 副長は、束ね終えた髪に指櫛を通しながら、苦笑いを浮かべた。
「行きがかり上、よく私とあの男とのそういう場面に出くわしているからね。……もっとも、伊東君の方は、私と斎藤君とが気まずくなっていると思っているだろうが」
 ……成程。どうやら斎藤君は、副長にとっては、ひそかな味方……言うなれば、伊東参謀との手合に於ける隠し駒……というわけらしい。
「……私も、原因は存じませんが、そうだと思っておりました。多分、皆そう思っているでしょう。……ですから、頼まれた時には、正直なところ戸惑いました」
「だが君は来てくれた」
 副長は、清々しい微笑を見せた。
「だから私は君を信用して打ち明けた。君のような味方なら、増えた方がいい」
「……決して、口外は致しません」
 また一段、この方は私に対する信頼の度を深めてくださったのだ……という思いが胸に迫り、私は、深く頭《こうべ》を垂れていた。
「もし私でお役に立てることがありましたら、何なりと」
「そうだな」
 副長は、無残な圧搾痕の残る喉に手をやりながら、何処か物思うように呟いた。
「今迄と変わりなく振る舞ってくれ。誰に対しても──伊東君に対してもだ。君は今日、斎藤君から何も頼まれはしなかったし、私の休息所を急用で訪ねはしたが、伊東君とすれ違った覚えもないし、ましてや私が一見して何か危害を加えられたような様子でいたなど、知りもしない。君が来た時には、私は身仕舞をして屯所へ帰ろうとしているところだった──当座は、それでいい」
 ……つまり、私がこの件に関して副長の味方であることは伊東参謀やその周辺には知らせるな、ということであろうか。味方の存在を敵に示さないで隠しておくということは……自分にはこんなに味方がいるぞと敵を牽制して身を守るよりも、自分にはひとりも味方がいないぞと見せかけて敵の油断を誘おう……という御存念があるのだろう。
 副長がそのおつもりであるなら、私はそれに従い、今迄通りに伊東参謀とも親しめに接するだけだ。……もっとも、私が過度にならぬよう気を付けながらも伊東参謀と親しくしている理由の何割かに、彼が新選組にとっては潜在的に不穏分子であるという用心があるのは事実だが……。
 思いを巡らしていた私は、副長が不意に腰を上げ、やや荒々しく袂を捌いて歩き出すのを見て、我に返った。慌てて自分も立ち上がり、その背中に声をかける。
「副長、表でお待ちください。灯りを御用意致します」
 月も星も厚い雲に覆われている闇夜、如何に夜目の利く副長でも、灯りなしでの騎行は危ない。私は室内の火の始末を済ませると、龕灯《がんどう》を探し出し、表へと急いだ。

 轡《くつわ》を並べて千本通へ出た所で、副長が、訝しげに辺りの様子を探るような動きを見せた。
「今、人の声がしなかったか」
「いえ……私には何も」
「……そうか」
 副長にも確証はなかったのだろう、特に強硬にこだわるでもなく、静かに自身の乗り馬を進め始めた。
 が、幾らも行かない内に、また副長は馬を停めた。
「……血の臭いがしないか」
「……します」
「火を下げたまえ」
 命じられた通りに龕灯を下に向けた後で、私は風向きを見た。……この季節にしては珍しい、南寄りの風。ということは、今かすかに鼻先をかすめている鉄気《かなけ》の錆びたようなこの臭いは、行く手から流れてきたことになる……
 ……行く手を見直した私は、辻灯籠のものらしき灯りとは極端に違う、不自然なほど低い位置にぽつんと小さく灯っている光に気付いた。
 提灯の灯りだ、と気付いた時、まるで私の内心の声が聞こえたかのように、副長が言った。
「あの高さは、地面だ。しかも、ずっと動いていない」
 ……私よりもずっと早くから気付いておいでだったのだ。
「では……?」
「持ち主がいない、ということだろう」
「……斬られたのでしょうか」
 血の臭いのことを思い起こしながら呟くと、副長は低く笑った。
「だとしたら、余程器用な落とし方をしたと見える」
 暗に「違う」と言われたのだな、とはわかった。聞く者によっては「馬鹿にしているのか」と腹を立てるかもしれない言い方だ。けれども、私には全く気にならなかった。副長は、私を馬鹿にしているわけではない。むしろ、いつ自分の考えていることに気付いてくれるかと楽しみにしておいでなのだ。
「……では、落としたのではなく、置かれたものだと?」
「恐らくはな」
 短く応じた後、副長はやや暫く無言であったが、やがて何事かを思い決めたような顔で私を振り返った。
「山崎君。君が持ってきていた提灯に火を移して貸してもらえんか」
「はい……」
 何故かなどとは問わず、私は言われた通りにした。
「有難う。……済まないが、このまま道を一本《たが》えて先に帰ってくれないか。このまま君と一緒に進んでは、君に頼んだことを自ら台なしにしてしまう」
 その言葉で私は、副長がおひとりで進もうとしている先に誰がいるのか……いや、誰がいると副長が見ておいでなのかを悟った。
「ですが副長、おひとりでは……」
「射干玉がいる」
 私の懸念をごく簡単に一蹴して、副長は、射干玉号を歩かせ始めた。
 ……言い付けには従わねばならない。
 私はやむなく、少し引き返した所で道を折れ、通りをひとつ違《たが》えて屯所方面へ向かった。
 だが……
 気になって仕方がなかった。
 副長は、いざとなれば射干玉号がいるから切り抜けられる、とおっしゃったが、相手は仮にも北辰一刀流の道場主だったほどの遣い手である。……いや、副長の技量を侮るわけでは決してない。けれども……不安なのだ。
 あの、凄まじいまでの圧搾の痣が、どうしても、脳裡から消えない。
 明らかな殺意がなければ、あそこまでの痣にはならない筈だ……
 私は遂に心を決めた。
 お叱りを受けても構わない。副長をおひとりには出来ない。私でも、楯になることぐらいは出来る。
 馬で近付いては蹄の音で知れ易くなると、私は、馬を道端に残して千本通へと路地を走った。
 何処だろう。
 あの灯りの遠さからするとこの辺りか、と思う辺りへ向かってみるが、特に争いの物音は聞こえてこない。
 ……いや。
 人声《ひとごえ》が……聞こえる。
 私は足を止め、耳をそばだてた。
「……たのですか? 私をあなたと間違えて、斬り掛けてきたのですが」
 それは、紛れもなく、伊東参謀の声であった。
「……そうと承知で、斬ったのですか。先生は、無闇に刀を抜かれぬ方だと思っておりましたが」
 低く押し殺したような、土方副長のお声も聞こえる。
 私はそろそろと歩を運び、声のする方へと近付いていった。
「私は土方ではない、と言って争いを避けなかったのか、ですか?」
「……相手が、新選組の者なら誰でも良いと思うなら、避けられますまいな」
「いえ、私が名乗ると、斬りかかろうかどうしようかと躊躇していましたよ」
「……なのに、斬ったのですか」
「だから、斬ったのです」
「だから?」
「新選組の誰か、ではなく、あなたを殺そうとしていると、それでわかったから」
 私は、思わず歩みを止めていた。
 伊東参謀の言葉を聞く内に、奇妙な心地に陥ったのだ。
 伊東参謀は、副長を絞殺しようとしたのではなかったか。それが仮に……私の臆測に過ぎないが……恋着の果ての狂気であったとしても、副長に殺意を持っていたことは間違いない筈だ。
 なのに……この遣り取りを聞いていると、まるで……
「それが長州の者であろうと、薩摩の者であろうと、土佐の者であろうと、あなたの命を狙っているとわかれば、この手で討ち果たす。それだけのことです」
 ……まるで、どころか、まさに、副長の命を何が何でも護りたいのだと言っているも同然ではないか。
 それは、副長も同じように感じたらしい。
「……私を今し方危うく縊《くび》り殺そうとなさった伊東先生のおっしゃる言葉としては、大いなる矛盾を孕んでおいでですな」
 だが、伊東参謀の返答は、打てば響くようなものであった。
「いいえ。少しも、矛盾はない」
「……私の命は先生だけのものだ、とでも?」
「いいえ。……もしあのまま、あなたをこの手で砕いていたら……私は、明けの烏《からす》の声を聞きながら、自ら腹を捌いていた。あなたの命を奪った者を討ち果たす為に」
 私は、息を呑んだ。
 あくまでも穏やかな声なのに、何と深く思い詰めた言葉を吐くのだろうか、このお人は……
 副長も、咄嗟には何とも返せなかったようで、暫く沈黙が続いた。
「……先生と心中《しんじゅう》など、御免ですよ」
「御心配なく」
 衣擦れの音までが、鋭敏になっている耳には届く。
「私は、もう、あなたの命を脅《おびや》かすことはしません」
「なに……?」
「気付いてしまったのですよ。あの、最後の最後の刹那に。あなたのいなくなってしまったこの世など、一瞬たりとも住みたくないのだと。だから、あなたを死なせかねない挙に私が出ることは、この先、二度とない。そして、もしもあなたが私より先に息絶えるようなことがあったなら、私は、躊躇うことなく腹を切る」
 冴え冴えとした月光が、ひと時、厚い雲を割った。
 私は、不意に洩れそうになった嗚咽を、口を覆って必死にこらえた。
 どう……どうしたのだろう。
 何故私は……こんなに、伊東参謀の言葉に、心を揺さぶられているのだろう。
 いつもは、それほどには感じない。畏き辺りや政事のことを熱っぽく語られても、殆ど感銘を受けることはない。
 なのに、何故、今の言葉には。
 心の奥が熱く震え、不覚にも涙がこぼれた。
「……失礼します。一応、然るべき所に届け出るくらいはしておかねばなりませんから」
 伊東参謀の足音が近くなり……遠くなり……そして、聞こえなくなった。
 私は、後ろも見ずに、元来た道を駆け戻った。馬を飛ばして副長よりも先に屯所に戻っておかねばならない、と知恵を働かせるだけの頭は残っていた。
 だが、馬上に戻ってからも、私の胸の裡には、伊東参謀の言葉が焼き付いたままだった。
 どうにも、離れてゆかなかった。
 副長のいなくなってしまったこの世になど、一瞬たりとも住みたくない……
 もし副長が自分より先に息絶えるようなことがあったなら、迷わず跡を追う……
 そのふたつの言葉が、私の中で、ぐるぐると渦を巻いていた。
 ……共感、なのか。
 屯所に戻り、沖田君が番をしてくれていた監察部屋に落ち着く頃になってやっと、私の中に、己の感情を説明出来る言葉が落ちてきた。共感……いや、共感という言葉では少し激しさが足りない気がする。この私が涙をこぼしてしまったほどに激しいあの感情を説明するのに、共感という言葉では弱過ぎる……
 けれども、他に、巧い言葉が見付からなかった。
 私は、別段、伊東参謀のように、土方副長に懸想しているわけではない。けれども、副長のお役に立ちたい、この方の為ならどんなことでも……という思いは、副長が最初に私に[#「私に」に傍点]かけてくれたお言葉以来、常に抱《いだ》いている。
『兵は西国にもいる。──それは、君を見ていれば、私にはわかる。無論、局長にもだ。そもそも、そうでなければ、局長が、こちらでも隊士を募ったりなどさせるわけがない』
 当時、兵は東国に限る、というのが近藤局長の口癖であった。そして一日《いちじつ》、西国出身の私を前に置いていながらその言葉を口にされたことがあった。無論私への当てこすりでも何でもないし悪気もないのだとは理解していたから顔色ひとつ動かしはしなかったが、それでも少しく胸に燻るものを覚えたのは確かである。だが、そんな私を、副長は後から御自身の居室へ呼び、前置きも何もなくそうおっしゃったのだ。
 それまでは、任務に関わることでしか言葉をかけていただいたことはなかった。それは監察としての私との遣り取りに過ぎず、要は、相手が私ではない他の監察であっても良かったわけである。けれども、その時のお言葉は、紛れもなく、ひとりの監察に対してのものではなく、私に[#「私に」に傍点]対してのものであった。
 この方は、私を[#「私を」に傍点]御覧になってくださっている。いや、そればかりか、局長の言葉に気落ちすることのないようにと、心に懸けてくださっている。
 そのことが、私には何故か、この上もなく嬉しく有難く思われたのだ。
 ……相手が土方副長であったからそう思えたのか、それとも別の相手から言われたのであってもそう思えたのか、それは私にはわからない。
 いや、わからなくてもいい……と思う。私にとって大切なのは、その時に私が、命に代えてもこの方のお役にこそ立ちたいと強く感じた、ということなのだから。
 それほどまでに深く感じ、そのお役に立てるなら命を投げ出しても惜しくないと心を傾けてきた相手がこの世からいなくなってしまったら……生ける屍と化すであろう私の為すことは、ひとつしかない。
 その一点に於いて同じであるなら、土方副長に対する伊東参謀の懸想と私の傾倒との間に、一体どれほどの差があろうか。
 たとえ他のあらゆる点で相容れなくとも、ただその一点さえ相通ずるのであれば、私は、伊東参謀の想いを我が事のように理解出来る気がする……
 ……つと、馬の短い嘶《いなな》きが聞こえた。
 あれは、射干玉号の嘶きか。
 私は、寒気を厭わず、部屋の障子を開けてみた。
 たちまち、冷たい風が、折角少しは温まっていた室内に吹き込んできた。
 だが、その風が、愛馬を労《ねぎら》っているらしい副長のお声を、かすかながら私の耳に届けてくれた。
 確かに今、副長は御無事で此処にお戻りになったのだ。
 それを確信出来ることの、何と喜ばしいことか。
 私は静かに障子を閉ざすと、外出前に向かい合っていた書類を文箱から取り出し、文机の前に腰を下ろした。次に己が副長の為に真っ先に出来ることは、その書類に目を通し終え、内容について報告を差し上げることであったから。



Copyright (c) 2003 Mika Sadayuki
背景素材:「◇†◇ Moon drop ◇†◇」さま