夜も遅くに昇った細い月が、里の茶店の厨房の窓まで回ってきている。
 上がり框《かまち》に腰を下ろして柱に背を預けた私は、その月が土間に落とす影を見るともなく眺めつつ、頻りに話し掛けてくる傍らの“私”の声を無言で聞いていた。
 話の中身はと言えば、ごく他愛ない日常の事共。有希さんが、とか、土方君が、とか、“向こう”での諸々の出来事を、如何にも楽しそうに話す。
 ……この私が……『まなざし』の世界に生きる伊東甲子太郎が決して得ることの出来なかった、温かい日常。
 相手は、その日常にどっぷりと浸っている。
 話を聞いていると、それが嫌でも伝わってくる。
(お前は、私の歩んできた修羅の道など知りはすまい)
 相手と自分とでは“世界”が異なるのだとわかっていても、私と同じ顔をしている相手の、抑えてはいるが嬉しそうな話し方に、気持ちがささくれ立つ。
「……あの……聞こえておいででしょうか、生身殿」
「聞こえている」
 何処か躊躇いがちな問に、私は苛立った。
「一々一々私が相槌を打たねばならんのか」
「いえ……そういうわけでは……」
 戸惑ったように、相手は口ごもる。わずかなため息をついて、目を伏せる。
 私に邪慳な口を利かれるのが、つらいのだろう。
 だが、私の方にも言い分はある。大体、この里……私達の棲む“千美生の里”の外の人間のくせに、この里の土方に懐きまくっているとはどういうことだ。縋り付いたり、寄り添って寝たり、好き放題しているではないか。それを見せつけられる度に、私がどれだけ嫉妬に胸き回され、腹立てていると思うのだ。
 私など、滅多なことでは、縋り付かせてもらえぬのに。
 無論、土方も土方だ。顔が同じなのに、何故私は駄目で、此奴は受け入れてしまうのだ。
 ……そう。土方は、この男を拒まない。縋り付いたからといって抱き締めたりまではしないが、私が縋り付く時のような困った顔も余りせず、微苦笑で許している。眠る時でも、ひとつ布に包《くる》まるのを厭うたりしない。あまつさえ、いつぞやなど、寄りかかる相手の体をしっかりと抱き寄せて眠っていた。
 ああああっ、思い出しただけで、目の前が真っ赤に染まるっ。
 ……だが、こうして、野点《のだて》の会果てて後、此奴と茶店の厨房にひと晩ふたりで過ごすことを肯じたのには、故がないわけではない。
 無論、切なげな目を私の横顔に向け続けていた白井匡輔君──不思議に、話し掛けてくることはなかったが──とふたり切りという状況を絶対に避けたかったというのも確かだが、此奴の──“向こうの私”の心優しさに絆《ほだ》されたというのも確かなのだ。
『幾ら初秋と言っても、そろそろ風が出てきましたよ。少し温かいものでも飲んで、お休みになったら如何でしょう』
 此奴は、茶を喫しただけで酒も食べ物も口にせず物思いに耽り続けていた私に、そっと声をかけてきた。いつもいつも私からは足蹴にされたり罵られたり絡まれたりと散々な目に遭っているというのに──最近では何でもない普段の時でも刺々したぞんざいな物言いで突き放されているというのに、その加害の主である私にまで細かな心遣いを向けてきた。私が土方への妄執に狂う内に失ってしまった、心根の素直さ、善良さ……それが、此奴には、まだまだ十二分に残っていた。
 ……いや、残っていた、という表現は非礼だろう。此奴がいつか私のようになるという保証はない。何しろ此奴は、元治元年の暮れに近藤勇が既にこの世を去っているという、目を剥くような“世界”に暮らしているのだ。
「あの……生身殿」
「何だ」
 此奴に限らないが、“向こう”の住人は、いや、最近では同じ里の住人でさえ、しばしば私を「生身」と呼ぶ。それは、この里に、私の成れの果て、つまり生身を持たぬ亡霊も、ふらふらしているからだ。ちゃんと「伊東」と呼んでくれるのは、もう、土方ぐらいのものだ。……土方がきちんと呼んでくれている限りは、他人が何と呼ぼうと抗議するつもりはないが。
 私自身は、里長によれば、“死の直前の時間軸から切り取られた”存在だ。今ひとつわからぬ言い回しだが、恐らく、もうすぐ死ぬべき時点から拾い上げられた身だ、という意味だろう。自身死んだ覚えはないが、もはや死ぬしかない身だと心の何処かで悟っているのは事実だ。その宙ぶらりんの状態のままにずっと生き続けているという境涯にはもう馴れて久しいが、それでもたまに、心の安定を欠いて土方に絡んだり泣き縋ったりしてしまう。迷惑をかけているとはわかっていても、荒れ乱れる心をどうすることも出来ないのだ。
「……以前、生身殿が、私にお問い掛けになったこと……なのですが……覚えておいででしょうか」
 私は、わずかに眉を上げた。
 以前──今日の野点の会の予行とて催された茶会の席で、私が此奴に問い掛けたこと。
 もし土方が、縋り付いたお前を抱き寄せて唇を重ねてきたら、何とする?
 忘れるわけがない。
 長い間、いつか訊いてやる、心の底を抉ってやると思い続けて、ようやく発した問だったのだ。
 あの時は、答を得ることは出来なかった。折角の野点の席で諍いになっては拙いと思ったのだろう内藤殿が、止めに入ったからだ。
 そして今日は……私の方が、問い直す気分になれなかった。
 だが、此奴はどうも、わざわざその問を蒸し返したいらしい。
「……答えられると言うのか」
「ええ。……私は、あるがままに、受け入れます」
 微笑と共に言われて、私は瞬時、返す言葉を忘れた。
「……私にとって、自分でもどうしてそう思えるのか不思議なのですが、土方殿は、母上のようなお方なのです」
「母上?」
 一見突拍子もない答に、しかし私は考え込んだ。
 此奴が見ているのは、今の土方だけだ。昔のつれなく冷たい土方を、此奴は知らぬ。
 そして、今の土方は、穏やかで温かく、度量が広い。この私でさえ邪慳には扱わぬほどに……
 ……母上のようだとは大袈裟だが、母親のようだ、と言い換えてみると、成程そうかもしれぬ、と感じられる時がないではない。
「そして私は、あの方の前では赤子です。私があの方を慕うのは、生身殿のような心持ちからではなく、赤子が無心に母親を慕うような、そんな心持ちからなのです」
 私は、短いため息をついた。
 そういう気持ちの相手に私が一々悋気を起こすのは、如何にも狭量であった。
 しかし、狭量だ、はいそれでは悋気は起こすまい、と気持ちを切り替えられるくらいなら、これまで、土方の周囲の人間達への凄まじい嫉妬に苦しみなどしてはいない……
「……生身殿が、羨ましく思えます」
「なに?」
 思いもかけぬ言葉に、私は、閉ざしかけていた目を見開いた。
「何となくなのですが……土方殿は、私とは親しくなり過ぎてはならぬと、御自分を抑えているように見受けられる。……何故にそのように気を遣った接し方をなさるのか、と見直すと、そこに、生身殿のお姿が垣間見える。……いえ、不満というわけではないのです。ただ……逆は、ない。それが、少しだけ、寂しく思える時があるのです」
 逆とはどういうことだ、とは、私は問わなかった。そのくらいのことは、自分で理解出来た。
 ……つまり、此奴は、土方が、此奴と接する時には私の気持ちに配慮しているが、私と接する時には此奴の気持ちを意識することはしていない、と見ているのだ。
「けれども、それは決して、生身殿と張り合いたいという気持ちにはつながらない。……何と申しますか、兄弟で母上を取り合っても仕方ない、母上は兄弟姉妹皆のものなのだから、という、そんな心持ちです」
「兄弟?」
「……生身殿には、御経験がありませんか」
 “向こうの私”は、わずかに照れたような笑みを浮かべた。
「弟や妹が母上に甘えているのを見ると、自分は我慢しなければ、と思いつつも寂しかったり……逆に、姉上が母上に甘えているのを見ると、滅多に甘えられぬ姉上が甘えておいでなのだから自分は我慢しなければ、と思いつつ、これまた寂しかったり……私が生身殿を羨む気持ちは、何処か、そんな心持ちに通じているところがあるのです」
 ……此奴にとっては、土方は、何処までも“母上”なのだな。
 そうと諒解出来ると、何やら、それまで心の底で依怙地に凝り固まっていたものが、するりとほどけてゆくような心地がした。
「……私は、鈴木の家を継いでからというもの、母上に甘えたことなどないぞ」
「あのう、私も、似たようなものなのですが」
 顔を見合わせた後で、互いに苦笑が洩れた。“世界”が異なるとはいえ、辿ってきた道がそれほど違うわけではない。ということは、此奴とて、幼くして父に代わって家督を継ぎ、借財に苦しめられ、挙句取り潰しに遭って故郷を逐われ、親戚の家に身を寄せねばならなくなる、という悲哀は十二分に味わっている筈だ。
「……心の奥底では、甘えたかったのだが、な」
「はい、それもまた、同じ」
 小声での呟きに、“向こうの私”はにこりと笑った。
「生身殿は、兄上がいればいいのに、と思ったことがありませんか。そうすれば、自分も、三郎達のように母上に甘えられるだろうに、と」
「それは……なかったな……」
 まだ窓から見える細身の月を見上げながら、私は応じた。
「こんな時に父上がいてくださればと心ひそかに思う時はあったが、そんなことを思うだに情けないと、心弱い自分を責めていたものだ」
「……お毅いのですね、生身殿は」
 何処か眩しいものを見るような表情で私を見ながら、彼は嘆息した。
「私は、まだまだ甘い……生身殿には遠く及ばない」
「……己が毅いなどとは、露ほども思わぬ」
 私は、低く呟いた。
「毅かったならば……愚かしい恋着に魂を呑み込まれることもなく、もっと冷徹に、国事に心身を尽くすことが出来ただろう」
 ……今の私は、あの時の[#「あの時の」に傍点]私だ。
 あの、寒気殊の外《ほか》厳しかった霜月居待の夜、近藤の休息所前で土方と別れ、酔いの身をのろのろと漂わせ、もはや土方の夢を見ることは二度とないと凍り付いた、あの瞬間の私。
 もっと他の瞬間から切り取られた私であれば、今少し、国のこと同志のこと肉親のこと馴れ親しんだ女のことなどにも思いを致すことが出来るだろう。けれども、如何せん、あの瞬間の私は、土方のことしか考えられなくなっていた。そのせいであろう、こうして里に棲むようになってからも、気が付くといつも、土方のことを考えている。他のことに思いを馳せていても、土方の気配を感じ取ったり、果てはその声が聞こえたような気がしただけでも、それまでの関心事を速やかに忘れ、彼の姿を探し始めてしまう。
 もっとも、その点、亡霊などはもっときっぱりしていて、常に「私は、土方さんの傍らにいたい一念で亡者となった身ですからね。他の諸々事はどうでもいいんですよ」などと笑顔で吐《ぬ》かして憚らぬ。
 私はまだ生きているから、そこまで思い切ることは出来ない。それ故に、時折、国事を忘れ果てた己に対して、忸怩たる思いを禁じ得ないのだが……
 などと思った時、突拍子もない悲鳴が耳許であがり、私は現実に引き戻された。
 いや……正確には、現実に引き戻された次の瞬間に、頭が真っ白になった。
 自分が一体どんな状況に置かれているのかが、わからなくなったのだ。
 ……ええと。
 抱き付かれて……いるのだな……
 抱き付いているのは……“向こうの私”で……
 この……右の頬に、みしっと押し付けられているのは……鼻と……
 私は突如、頬が熱くなるのを覚えた。こ、これは、抱き付かれているなどという生易しいものではなく、抱き締められていると言った方が適切な状態かもしれない。
「……ななな何を」
 うろたえ声をあげかけて、私は、月明かりに照らされた厨房の床をしゅるしゅると横切ってこちらへやってくる小さな影に気付いた。
 ……成程。
 此奴が私に抱き付くに至った元凶は、厨房には付きものの、この黒くて平べったい虫か。
 何とも嘆かわしい話だが、私と根っこが同じである筈の此奴は、このちっぽけなゴキカブリを大の苦手としているらしいのだ。
 私は、からくも抱擁からは無事だった左手で辺りを探ると、束ねた小枝が減って痩せてしまっている竹箒を手繰り寄せた。
 何事かを察知したか、すすすと動いていたゴキカブリが足を止め、辺りの“気”の流れを探るかのように頭の角をふらふらと揺らめかせる。
 そこへ目掛けて、私は竹箒を投げつけた。
 降りかかる脅威を素早く感知したらしいゴキカブリは、驚くほどの足で竹箒の落下をくぐり抜けた。
 だが、くぐり抜けたそこに、竹箒を投げつけるや否や引き抜いた扇を打ち下ろすべく身を屈めて待ち構えていた私がいたことまでは察し得なかったのが、そのゴキカブリの不幸であった。
 低い位置から手首を利かせて打ち下ろした扇の先に、確かな手応えが伝わる。
 ……竹箒の落下を避けようと全速力で突進したゴキカブリには、私の打ち込みを避ける為の方向転換までは出来なかったのだ。
 無残な死骸となった虫に心の中で両手を合わせておいてから、私は、扇を床に置いた。……これで、ゴキカブリを叩いて反故にする羽目になった扇は二本目。一本目は、納涼の会とやらで土方が此奴に仕掛けた悪戯のおかげで目の前に飛来した一匹を払い落とした時に、些か強く払い過ぎたらしく、駄目にした。まったく、勿体ないことである。
「……退治たぞ」
 いまだに私にひしと抱き付いて離れない相手に、私は、声をかけた。
「もう退治たと言っている。いい加減で離れぬか」
 頬に押し付けられていた顔が、やっと離れる。
「た、退治て……?」
 抱き付いていた腕を緩めながら恐る恐る辺りを見回した“向こうの私”は、ぴいっ、と情けない悲鳴をあげて再び私に抱き付いた。弾みで、彼奴の唇がまともに私の唇と激突する。恥ずかしい話だが、不意を衝かれて、よける暇《いとま》がなかった。私は、衝撃の余り危うく引っくり返りそうになったところを踏み止《とど》まると、相手の唇からのけぞり逃れた。
「な──ま、まだいるのか?」
「しっ、ししし死んでおります〜」
 返ってきた言葉に、私はあ然となった。
 此奴は、まさか、ゴキカブリの死骸にまで怯えるのか。
「えい情けないっ、お前はそれでも武家の男子《おのこ》かっ」
「ででででも兄上〜」
 ああああ、見たくないっ。半泣きでしがみつく“私”の、何と……
 何と……
 な、何と。目を閉ざして聞くと、三郎の声によく似ているではないか。
 ああ……今迄相手が“自分”だという気がしなかったばかりか、土方に縋り付いて寝惚けている声など聞くと無性に苛々させられたのは、そうか、この声が原因だったのか。
 そう思って聞くと、何やら、奇妙に懐かしい。
 親戚の家で怪談を聞かされ、まだ幼かった三郎がまともに怯え切って、夜通し私から離れようとしなかったことがある。作り話に過ぎないのだから怖がるなと叱りつける私に、『でも兄上〜』と涙目で縋り付いた……
 ……ちょ、ちょっと待て。
 な、何故此処で私が此奴から「兄上」と呼ばれねばならないのだ!?
 なまじ下手に知識があるが故に念兄だの念弟だのといった微妙な言葉が脳裡をよぎってしまって、私は、思いっ切り赤面した。
「ばっ、馬鹿者、誰が兄上だっ──お前は長男であろうがっ」
「ででででも母上〜、大蔵は兄上が欲しゅうございます〜」
 こっ、此奴、何を血迷っておるのだっ!
 まさか、幼い頃にそのようなことをほざいて母上を困らせていたのではあるまいなっっ!?
 ……にしても、「兄上」呼ばわりの次が「母上」呼ばわりとは。余程此奴は、この虫が苦手なものらしい。錯乱の余り幼児の昔に戻ってしまうほどに。
 私は、ため息をついた。
 誰にでも、苦手というものはあるものだ。
 それが、たまたま此奴にとっては、婦女子が怖がるような虫であった、というだけのことだ。
「心配はいらぬ。また出れば、私が追い払う」
 呟いて、私は、自由になっていた右手で相手の背《せな》をゆっくりと叩いてやった。そう、遠い昔、怯えて啜り泣く三郎にも、私は、相手が眠りに落ちるまで、そうしてやったのだ。
「……怖いなら、わざわざ見るでない。そのまま目を閉じて、眠ってしまえ」
「はい、兄上……」
 まだ錯乱から立ち直れていないのか、小さな声でそんな風に応じると、“向こうの私”は目を閉じ、私の肩に頬を埋《うず》めた。……相変わらず、しっかりと私の体に両腕を回したままで。

 いつしか寝入ってしまった相手の顔を月影の内にぼんやりと眺めながら、ほんの少しだけ、わかった気がした。
 土方が、この男に対して無防備になってしまう理由が。
 根っこも、姿形も、同じ。だが、私とは違い、本当に素直なのだ、この男は。
 その言動には、打算も目論見も何もない。少なくとも、この里に来る時のこの男は、私がこの男の今過ごしている時期──慶応元年──には既に抱え込むに至っていた昏い企みなどとは無縁で生きている。
 勿論、この先どうなるか、それは、私の知り得ることではない。
 もしかしたら、今の私のように、里ある限り永遠に、この時点のままで生き続けるのかもしれぬ。
 いや、やはりやがては、遅まきながらも私がかつて辿ったような道を選び、愚かな死を迎えるのかもしれぬ。
(だが……もし、なろうことなら)
 このまま、素直に生き切ってほしい。私が歩くことの出来なかった道を、誰にも愧じることなく歩き抜いてほしい。
(叶わぬ望みかもしれぬが……な)
 微苦笑と共に、私は、むにゃむにゃと何事か呟いて縋り直してくる相手を抱き寄せた。今宵だけは、此奴の“兄”でいてやろう。そう、心にひとりごちながら。

 だが……
 ああああ、その気紛れが一生の不覚。
 相手を抱き寄せて眠りに落ちたそのままの姿を、翌朝、こっ、事もあろうに土方に目撃されることになろうとはっっっ……。



Copyright (c) 2002 Mika Sadayuki
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