その日の夜、伊東さんと永倉さん、そして斎藤さんは、屯所に戻ってこなかった。
 慶応三年が明けた早々、まさに正月一日の夜から。
 三人が午後から連れ立って島原へ出掛けたことは知っている。けれども、一緒に行った他の人達は門限までに帰ってきたのに、伊東さん達だけは、帰ってこなかったのだ。
 それは、新選組では、軽い出来事ではない。事前の届けなく門限を破るのは、厳罰の対象だ。内々の取り決めとはいえ、幹部隊士であれば、理由がどうあれ切腹。幹部には様々な特権が認められているのだから、より厳しい決まりに従うことで範を示さねば、下の者は不満に思うではないか、というのが、副長の……土方さんのいつもの言い分だ。
「沖田君、ちょっといいか」
 翌朝になっても、その翌朝になっても伊東さん達が戻る気配がないとなると、流石に屯所内ではもう、寄ると触るとこの流連《いつづけ》の話だ。その話題は、本当に土方さんが──近藤先生が、と言う者は、少なくとも私の耳にした範囲ではひとりもいなかった──大幹部三人を一気に切腹させるのか、というところへ行くのが常だった。
 そして、外で一緒に晩飯を食おう、正月三が日でも俺が行けば開けてくれる馴染みの店があるから、と声をかけてきた藤堂さんの話もやっぱりそこへ行ってしまい、遂にはこんな事まで言い出した。
「沖田君、俺は、もし土方さんが伊東先生に腹を切らせるなんて言ったら、あの人と差し違えるからな」
「……そうなれば、私は藤堂さんと差し違えることになるなあ」
 努めて穏やかに返すと、藤堂さんは困ったように笑った。
「沖田君と差し違えるなんて、無理だよ。俺の方だけ斬られちまう」
 苦笑気味に言った後で、藤堂さんは、行儀悪く箸を銜《くわ》えて器用に上下に動かしながら、両手を頭の後ろで組み、遠い目をした。
「……昔の土方さん、大好きだったんだけどな。こっちに来てから、すっかり変わっちまって」
「変わってないよ、あの人は」
「変わったさ。昔の土方さんなら……あの時だって……」
「……山南さんのこと?」
 先回りして口にすると、藤堂さんはハッと私を気遣うような表情になった。
「……御免。この話題、嫌だよな。悪かった」
「嫌じゃない」
 私は小さく笑んだ。
「こんな出来事が起これば、誰だって思い出すと思うよ。……思い出さない方が、どうかしている」
 今回とは少し重みが違うと思うけれど、二年前の二月に山南さんが下命を受けて切腹したのも、土方さんがいる限り新選組には留まれないという書簡を大津からよこしたことが、局を脱するは許さずという掟に触れたと見做されたからだ。破れば切腹という掟に触れる行為を幹部隊士が……というその共通点だけで藤堂さんが山南さんのことを思い出してしまうのは、むしろ当然だった。
「……俺、実際にはその場にいなかったから」
 藤堂さんは、銜えていた箸を再び手に取り直し、申し訳程度に芋の煮付けをつついた。
「後から聞いた話でしか、判断出来ねえけど……山南先生が亡くなった後、近藤先生は随分ぎ込んでたのに、土方さんは平然としてたって」
 昔の土方さんなら、本当に心ならずも死なせたんなら泣いてたよな、例えば柴さんの葬儀の時みたいにさ、と、藤堂さんは言った。……柴さんというのは、会津藩士で、池田屋事件の直後から、不逞浪士の残党狩りに大わらわだった新選組に応援として臨時に所属していた人だ。残党狩りの為に新選組の隊士達と東山の料亭明保野へ出向いた時に長州の不逞浪士と思って槍で突いた相手が運悪く歴とした土佐藩士で、しかもその相手が自らの士道を立てる為に翌日自刃してしまったことから、会津藩と土佐藩との間の問題にならぬようにという配慮もあって、事件の翌々日に腹を捌いた。罪のない者が罰されることはないと事を甘く見過ぎていた、もっと自分達が力を尽くしていれば死なせずに済んだかもしれぬ有為の士を可惜死に追いやってしまったと、土方さんは随分と悔やんでいたものだ。……確かに、柴さんの葬儀に参列した土方さんは棺に取り縋って声あげて泣いたそうだ、という話を耳にした者であれば、山南さんが切腹した後の土方さんの態度は如何にも冷たく見えただろう。普段と変わりなく……いや、屯所の移転を進める為に普段よりも一層、休む間も惜しむように動き回っていた姿を見れば。
 けれども……
「……平然としていたとは、思えないけど」
「どうして」
「だって、あの頃の土方さんは、忙しくし過ぎてたもの。いつもなら監察任せにするような些細なことも全て自分ひとりで抱え込んで、西本願寺との交渉だの何だのと朝から晩まで目まぐるしく動き回ってた。……昔から、思い出すのもつらいことがある時には、あの人は、他のことに必死で打ち込むみたいだよ。傍から見ると危なっかしいくらいに」
 藤堂さんには言えないけれど、芹沢さん達を闇討ちした後もそうだった。あの頃の土方さんは、花街《かがい》に通うことに打ち込んでいた。仕事を疎かにすることはなかったものの、ひと頃は、よくそこまで金と身が保《も》つものだと周囲が苦笑するほどに、あちこちへ出向いていた。
「……もっとも、こんな事を言う私も、土方さんの態度には、最初、何て冷たいんだろうって騙されたけどね」
 くす、と笑うと、藤堂さんは何と応じていいか困ったような顔をしたが、やがて、嘆息のように呟いた。
「……君みたいに土方さんを信じられたらなあ」
 君の言うことが本当だとしても、と、続ける。
「本当は内心死なせたくなかったとしても、そんな山南先生でさえ死なせた土方さんだ。伊東先生ならなおのこと、喜んで死なせるかもしれねえ」
 それは流石に、私にも、簡単には否定出来なかった。土方さんが伊東さんのことを嫌っているらしいことは、見ていれば誰にでもわかる。それこそ、大義名分さえあれば喜んで処断するだろうと周囲に思われても仕方ないくらいに。
 ……そして、今回、大義名分は揃っている。無断で門限に遅れた幹部は理由の如何に拘らず切腹、という内規があるのだから。
「でも、藤堂さん、もしも……」
 言いかけて、私は躊躇った。今ふと気付いたことを口にしていいものか、咄嗟に迷った。
「もしも?」
「……いや、此処で私達が土方さんの気持ちをあれこれ推し量って話してても、余り実りはないかなあ。どうするつもりでいるのか、帰ったら土方さんに訊きに行ってみるよ」
 結局私は、口にしかけた「もしも」の先を飲み込んだ。私が気付いたことには気付いていないかもしれない藤堂さんに、今無理に気付かせることはないと思った。
(……もしも今回土方さんが三人への処分を寛大に済ませたとしたら、それもまた藤堂さんにとっては、不満に思う原因になってしまうと思うのだけど)
 何故、伊東さん達の時には許せたものを、山南さんの時には切腹させたのか、と。

 私が訪ねてゆくと、火鉢を抱えるように座っていた土方さんは、案の定来たかという目でちらりと私を見たが、すぐにその目をそらした。
 ……私が何故やってきたかも、察したのだろう。
 私はその正面に座りながら、やや控えめに声をかけた。
「土方さん……どうなさるんですか?」
 何を、は口にしなかった。土方さんなら、敢えて言わなくても、通じる筈だから。
 だけど、土方さんは、
「どうなさるって、何をだ」
 と、言わでものことを訊き返してきた。……余り、好い前触れではない。土方さんがこういう返し方をする時は、十の内八は、機嫌が悪い時なのだ。私は小さく息をつき、今度は、
「……処断、なさるんですか」
 誰を、を口にせずに訊いた。
 土方さんの目が、私を窺うように、ちらと動いた。
「咎めなしというわけには行かんな」
 ごくそっけなく呟いた後で、そっぽを向く。
「近藤先生が流石にお怒りだ」
 それは私も知っている。けれど……私が知りたいのは、土方さんが今回のことをどう処理するつもりなのか、ということなのだ。何故なら……近藤先生のお気持ちがどうであれ、土方さんは、自身が善しと考えた方向へ先生を説得してしまうだろうから。
 土方さんには、それが出来る。……山南さんの時に、そうだったように。
「……土方さんは?」
 近藤先生ではなく土方さんの考えていることを訊きたいのだ、と思いながら発した問に返ってきたのは、しかし、思いもかけない答であった。
「呆れてるよ」
「……え?」
 私は思わず顔を上げた。決まり事を蔑ろにされたら、普段の土方さんなら腹を立てそうなものなのに。
「最初の晩は腹が立って仕様がなかったがね。とっくに怒るなんて通り越して呆れ返ってるよ。どうせ切腹なら、一日が二日、二日が三日でも同じだと思ってるのかね」
 大胆な奴らさ、と低く笑う土方さんの横顔を、私は、じっと見つめた。
 ……そして、悟った。土方さんは、既に、三人をどう扱うかの腹を決めてしまっている。そして、その結論は誰の反対に遭っても動かすつもりはない。つまり、土方さんにとっては、この事件は、もう解決済──終わってしまった出来事なのだ。だから、他人事のように笑えるのだ。
「悪いが総司、山崎君を呼んできてもらえんか」
「……はい」
 私は、素直に腰を上げた。これ以上此処にいても、私の知りたいことについては何も話してもらえないことはわかっていた。
 監察部屋へ顔を出して山崎さんに声をかけた後、組長部屋へ戻ると、原田さんと話していた藤堂さんがすぐに、何か訊きたそうな顔で私の方を見た。私は少し曖昧に笑うと、その座へ加わった。
「どうだった」
「うん……結論は聞かせてもらえなかったけど、結論は出してるんだなってことは、話していてわかった」
「そうか……」
 藤堂さんは渋面で考え込み、そして、私の目を見た。
「沖田君は、どう感じた」
「私?」
「土方さんの言葉や表情からさ。伊東先生達を、掟通り扱うのか、そうでないのか」
「私の感じたことを話しても、土方さんの出した結論が変わるわけではないと思うけれど……」
「いや、あのなあ」
 苦笑気味に声を挟んできたのは、原田さんだった。
「それでも、俺達は聞きたいんだよ。永倉さん達がどうなるかって、何も情報がなくても此処でぼそぼそ見通しを話し合っちまうほどに気を揉んでんだ。だから、少しでも見通しにつながる情報が欲しいんだよ。まあ、藤堂君は伊東先生が一番気になるみてえだが」
「いや、俺だって永倉さんと斎藤君のことは心配してるさ、ただ──」
「ムキになるなって。わかってるわかってる」
 原田さんは軽く笑うと、再び私を見た。
「お前の勘は、俺達なんかよりずっと鋭い。土方先生との付き合いも俺達より長いから、俺達が気付かないような微妙なことにだって気付けるだろう。何も、安心させてくれって言ってるわけじゃねえ。ただ、お前がどう感じたかを聞かせてくれって言ってるだけさ」
「……正直、わからないんです。だから、訊かれても困る」
 私は、困惑混じりに呟いた。
「咎めなしというわけにはいかない、とは明言されたけど、それ以上のことは……切腹は当たり前だと間接的に言ってるようにも……そう思わせておいて別の処罰を考えているようにも……どうとでも思える態度でしたから」
「切腹……って言ったのか」
「……伊東さん達がそう思っているだろうな、という言い方で、土方さんがそう思っているとは取れなかったけど」
 藤堂さんを無用に刺激しないようにと思いながら、言葉を探す。
「ただ、それを否定する言葉は出なかったから……土方さんがどう思っているかは」
 わからない、とかぶりを振ると、藤堂さんはため息をついた。
「沖田君にも悟らせねえなんて、ひでえなあ……」
 私は苦笑いした。どうして、皆は私のことをそう買い被るのだろう。
「そうかなあ。こんな時、私に簡単に悟られるようでは、皆に悟られてしまうと思うけど」
「いや、沖田君なら気付けるって、誰もが思ってるさ」
「そうそう。だから歳の奴は、今一番、総司に考えを見抜かれねえようにって用心してる筈さ。そんな所にのこのこ訪ねていっても、そう簡単に尻尾を出すもんかね」
 少しだけ離れた場所で脇差の手入れをしていた井上さんが、穏やかに声を投げてくる。
「さ、若人さん達、今考えたって仕方ねえことで額集めてねえで、さっさと布団に潜りな。結論さえ出せば、歳の奴の動きは早え。それは昔から変わらねえな。明日の朝には何かの動きがあるさ。寝坊したら見逃しちまうよ」
 ……私よりも井上さんの方が余程いつも土方さんの気持ちを理解していると、私は思うのだけど。どうして、皆はそれに気付かないのだろうか。

 翌朝になっても、流連の三人は戻らなかった。
 朝五ツ頃になって、私は、近藤先生に呼び出された。
「島原へ、連中を迎えに行ってこい」
 不機嫌を隠し切れない顔で、近藤先生は、私に命じた。傍らには、土方さんが、他人に内心を窺わせない無表情で座っている。
(……あの時とは、違うな)
 何となく、私は思った。山南さんを連れ戻しに行ってこいと命じた時は、近藤先生は、こんな不機嫌そうな顔ではなかった。そして、土方さんは、近藤先生の言葉に、総司ひとりで行かせるなんてとんでもないと強硬に反対した……
「迎えに、で宜しいのですね」
 捕縛ではないのかと確認するつもりで言うと、近藤先生はむんずりと頷いた。
「……おめェひとりで行ってこい」
「承知致しました」
 捕縛目的ではないのは、有難かった。ただ、山南さんの時の例があるから、軽い処分で済むとは断定出来なかったが。
 近藤先生の居室を出て組長部屋へ戻ると、藤堂さんが急ぎ寄ってきた。
「近藤せんせ──局長は何と?」
 堅苦しい肩書の方で言い直したのは、すぐ後ろに付いてきた三木さんを憚ったのだろう。私は笑顔にも暗い顔にもならぬよう気を付けながら、伊東さん達を島原へ迎えに行ってくるように命じられただけだ、と告げた。
「迎えに……じゃあ俺達も」
「いや。私ひとりで行けと仰せだったから」
 二刀を差し落としながら淡々と断わると、藤堂さんよりも、横の三木さんが青ざめた。……山南さんの時のことを思い出し、血を分けた実の兄である伊東さんが同じ運命に陥るのではと思ってしまったに違いない。あの時も、私ひとりが迎えに行き、連れ戻された山南さんは掟通り切腹と相成った。今度も──と短絡的に結び付けてしまったとしても、それは仕方のないことだ。
「勝手に付いていくのは……」
「よしてください三木さん。迎えに行くだけなんですから」
 私はかぶりを振り、巡察の時に身に纏う黒羽織に袖を通した。
「近藤先生は、迎えに行ってこい、と仰せになっただけですから」
「だから私が勝手に付いていくだけで──」
「三木さん、総司の奴を困らせねえでやっておくれな」
 井上さんが苦笑気味に割って入る。
「迎えに行ってこいと言われただけだってことは、つまり、連れて戻れとまでは命じられてねえよと言ってるわけなんだから。伊東さんだって、戻らなきゃなと思えば迎えに応じるだろうし、そうでなけりゃ戻らねえだけだ。だから心配するこたァねえ。伊東さんは、戻るか戻らねえかを選べるんだよ」
 そう言った後で、ちょっと照れたように笑う。
「……俺の読み違いだったら済まねえな。これ以上は言うめえ」
 私は、井上さんの“読み”をこそ聞きたいと思ったが、無言で頭を下げ、部屋を出た。聞こうと聞くまいと、今は、私が動かなければ何も先へ進まない。私が、伊東さん達を迎えに行かない限りは。

 正月だというのに初日から三日三晩も流連を決め込まれた島原角屋の仲居達は、私がひとりで姿を見せ、伊東さん達を迎えに来た旨を告げると、安心したようなそうでないような複雑な表情をわずかに覗かせた。
 若い仲居が奥へ知らせに行ってくれるのを見送った私は、残っていた中で一番年嵩の仲居に軽く頭を下げた。
「新年早々、御迷惑をおかけしました」
 年嵩の仲居はそつなく微笑んで「そないなこと」と言ってくれたが、内心は知れない。彼女達にしてみれば、正月は休めるのが当たり前なのに、伊東さん達の為に思いもよらず呼び出され、もてなしを強いられたのだ。きちんと対価さえ払えば良いというものではない。人の気持ちは、銭金だけでは縛れない。
 ……もっとも、予想していたほどには迷惑そうな様子でもなかったし、何処か残念そうな様子が仄見えた人もいたから、伊東さん達も滞在中に結構気は遣っていたのだろう。
 やがて戻ってきた若い仲居に案内され、私は、伊東さん達が滞在しているという一室に向かった。
 流石に朝から遊興というわけでもないのか、部屋からは、ごく普通の話し声が聞こえてくるだけで、女性の嬌声も笑声もない。……それもその筈、辿り着いた部屋には、遅い朝餉を認《したた》めている最中の伊東さんと永倉さん、そして斎藤さんしかいなかった。
 私が敷居の手前に控えると、一番上座にいた伊東さんが顔を上げて、一瞬だが、私の後ろを透かし見るような鋭い目を見せた。だが、文字通り一瞬で、その鋭さは、穏やかな笑みの中に消えた。
「……君を迎えによこすとは土方さんも意地の悪い。先例を思い出せということですか」
 私はひとつだけまじろいだ。局長の御下命で迎えに来た、ということは伝えてもらった筈だ。なのに伊東さんは、近藤先生が迎えを出したとは全く思っていない。伊東さんの目は、何処までも、私の後ろに土方さんの影しか見ていないのだ。
 私も、多分それは正しいだろう、と思う。近藤先生がお命じになる時に土方さんが全く口を挟まなかったのは、今回の場合、それが全く自分の考えに沿っていたからに違いない。
「お戻りいただけますか」
「無論。申し開きは、局長副長の前ですることに致しましょう。宜しいですか、御両人」
 永倉さんも斎藤さんも、嫌な顔ひとつせずに承知の答を返した。……そっと気遣うような目を、ほんの一瞬私に向けた後で。

 屯所に戻ると、驚いたことに、腕組みをした土方さんが玄関の前で、まるで待ち構えるように立っていた。そして、こちらの挨拶も許さぬほど即座に、尋問までの仮の処分だと言って、伊東さんには自室での、永倉さんと斎藤さんにはそれぞれ別の小部屋での蟄居を命じた。
「それは、局長の御下命ですか」
「当然」
「……副長が御自らお出迎えの上で仰せくださるとは、有難いこと」
 伊東さんは、皮肉とも虚勢とも違う不思議な笑みを浮かべると、一揖して土方さんの傍らをすり抜けた。
 永倉さんと斎藤さんも、無言で頭を下げ、同じように土方さんの横を抜ける。
 私も黙って会釈し、その後に続こうとした。
「総司、待て」
 低い声で呼び止められたのは、その時だった。振り返ると、土方さんが、ちらっと私の方を振り返った。
「話がある。付いてこい。近藤先生には言ってある」
 否も応もなかった。私は急いで、さっさと歩き出してしまった土方さんの跡を追った。
 土方さんが足を向けたのは、厩だった。
 薄暗がりの中でも主が来たとわかったのか、土方さんの乗り馬になっている青毛の牝馬射干玉《ぬばたま》号が、ひん、と短く嬉しそうな啼き声を洩らす。土方さんは、当たり前のように、飼葉桶に秣を足してやり始めた。
「……あいつら、何か言ったか」
 ぶっきらぼうな口調で、いきなり問われる。
 私は、ゆっくりと目をしばたいた。
「……伊東さん達ですか」
 念の為に尋ねると、土方さんは「ああ」とあっさり頷いた。私は少し考え、それから、伊東さんが開口一番口にした言葉を告げた。秣をもぐもぐと頬張る射干玉の首筋を軽く叩くように撫でていた土方さんは、それを聞くと、唇をぐいとへの字に歪め、ふんと鼻を鳴らした。
「おめェ相手にそんな嫌みなことを言いやがったのは伊東の野郎だな。可愛げのねえ奴だ」
 その言葉は、伊東さんの言い種を非難してはいたが、伊東さんの発言それ自体を否定するものではなかった。
「……やっぱり、土方さんだったんですね」
 思わず呟くと、即座に、「何が」という問が返ってきた。
「私を迎えに行かせるようにって、近藤先生におっしゃったのが」
 土方さんは、私の顔を見ると、ちょっと迷うような目もしたが、驚くほど素直に「ああ」と頷いた。
 その素直な返答を聞いた私の胸に、ふと、思いが湧いた。
(……もしかしたら……今なら)
 今なら……あの時[#「あの時」に傍点]のことでも教えてくれるかもしれない。
 私に対して率直に何かを話したいと思っているらしい、今なら。
 意を決して、私は、土方さんの目を直視した。
「山南さんの時もですね」
 土方さんは、ぱちりとひとつまじろぐと、わずかにその目を伏せた。
 そして、黙って、頷いた。
「やっぱり……そうだったんですか……」
 私は呟き、そして、にこっと笑ってみせた。
「多分、そうじゃないかなって、思ってたんです。あの時は気付かなかったけど、何日かして、ふっと、思ったんです。でも、今訊いてもきっと土方さんは何も言ってくれないって思ったから、ずっと黙ってたんです。……御免なさい。土方さんだって平気だったわけじゃなかったのに、何もわからずにあんな非難がましい目で見たり、口利かなかったりして」
「馬鹿」
 土方さんは、何処か憮然とした表情で、ぷいとそっぽを向いた。
「おめェが謝ってどうすんだ」
「だって、土方さんが、近藤先生が私を行かせたようにしたかったのは、山南さんの気持ちを考えたからでしょう」
 あの日の山南さんの姿を思い出しながら、私は、静かに言葉を継いだ。
「山南さんは、私に、誰が君を迎えによこしたのか、って訊かれました。私が、それは近藤先生ですって答えたら、土方君じゃないんだね、って……土方さんは私ひとりで行くのに大反対したけど、近藤先生が、いいからお前ひとりで行ってこいっておっしゃったんです、って言ったら、そうか、それならいいんだ、それなら私は近藤先生の為にも君と戻る、と、にっこりなさって、ひどく吹っ切れたように、おっしゃったんです──もし君を来させたのが土方君だったら、私は彼ばかりでなく、それを許した近藤先生をも恨まなくてはならなかったよ、って」
 射干玉の目ばかり覗き込んでいた土方さんの横顔が、わずかに揺らぐ。
「だから、後になって思ったんです。土方さんは、山南さんがそう思うとわかってたんじゃないか、それで、山南さんに近藤先生まで恨ませたくなくて、わざとあんなに反対してみせたんじゃなかったか、って」
 土方さんは一瞬何か言いたそうな表情をよぎらせたが、すぐにまた、射干玉との睨めっこに戻った。
 違う、とも、そうだ、とも言わないのは、土方さんの場合、肯定だった。相手の言葉を素直に認めたくないけれど否定すると嘘になるという時、土方さんは不機嫌顔で黙りこくる。色々“悪知恵”を働かせることも多々あるくせに、近しい人間から真剣に正面切って迫られると、存外、嘘がつけないのだ。
 そしてそれは、山南さんが昔、私に、笑いながら教えてくれたことだった……。
「……いえ、私は、きっとそうだ、って思うことにしたんです。そう思ったら、土方さんのことも、許せる気がして、自分の中で、やっと、気持ちの区切りをつけることが出来たんです。何だかそれまでは、私の中では、山南さんが死に切れていないような、そんな感じだったけど……」
「……それで、手紙の日付が違ってたのか」
 土方さんがぼそりと洩らした言葉に、私はまじろぎ、それから、ちょっと笑った。
「御覧になってたんですか」
 土方さんが言った「手紙」とは、多分、一昨年の三月、江戸へ下向する土方さんに託した、佐藤彦五郎さん宛の書簡のことだろう。私はその中で、いずれ知らせずには済ませられない山南さんの死に簡単に触れ、その日を、実際の二月二十三日ではなく「廿六日」と記したのだ。
「つまらない感傷かもしれないけど、私の中では、いまだに、山南さんの命日はその日です……でも、土方さんも変なこと覚えてくれてたんだなあ」
「……事もあろうにおめェがうっかり間違えるとは思えなかったからだよ」
 そっぽを向いたままで土方さんは応じたが、ひと呼吸置いてから、私の方に向き直った。
「あのな、総司……おめェには、今回、嫌な使いをさせちまって、悪かった。俺の腹は、伊東が嫌みにもおめェに言った通り、あいつらの肝を少しぐらいは冷やさせておけ、ってことだったんだ。最初っから教えといたら、おめェが安心した様子で迎えに行っちまって、あいつらを自ずと安心させちまう、って思って」
 土方さんは、バツが悪そうな小さな笑みを浮かべた後で、続けた。
「実を言うとな、今回は謹慎処分にしようって、もう、近藤先生と話して決めてんだ」
「え……」
 私は、目をしばたいた。
 謹慎処分ということは……三人とも一命は留め置くということ?
「本当ですか!?」
 思わずあげた声は、如何にも嬉しそうに響いてしまった。一瞬後、恥ずかしさに顔が赤らんだが、土方さんは別段咎める色もなく、笑みを深めた。
「ああ。昨日も言ったが、咎めなしってわけにゃ行かねえから謹慎にはする……今回連中に腹ァ切らせりゃ、局中真っぷたつの大戦《おおいくさ》になりかねんからな。……近藤先生は永倉君に責任を取らせたかったみてえだが、筋が通らねえって思い留まらせたよ」
 近藤先生が、永倉さんに……ということは、何年も前のあの、永倉さん達の起こした建白書提出事件が、近藤先生にはまだ痼となって残っているのだろうか……
「俺の勘じゃ首謀者は伊東だ。首謀者ひとりに責任取らせるってんならともかく、そうでねえ奴ひとりに罪をおっかぶせるのはいただけねえ……まあ、どの道、誰かひとりに全ての責めを負わせるのは俺のやり方じゃねえけどな」
「……それが伊東さんでも、なんですね」
 くすっと笑って、私は茶々を入れた。土方さんは大真面目な顔で頷いた。──私の冗談口を承知の上で、わざと武張った顔をしてみせているのだ。
「俺は、基本的には、例外は認めん性格《たち》さ」
 言って、土方さんは、射干玉の傍らに寄り添う仔馬の頭を撫でた。足袋助、というふざけた名前は、後肢の先だけが足袋を履いたように白いこの青毛の仔馬を見た土方さんが付けたものだ。父親は、はっきりとはわからない。射干玉が孕んでいることが発覚したその頃に彼女の隣にいた、近藤先生の乗り馬の白天竜《はくてんりゅう》号ではないか、と怪しまれてはいるけれど、牡馬は他にも厩にいないわけではない。
「さて、そろそろ尋問に行くか……三人も、待ちくたびれてるだろうからな」
 土方さんは軽く伸びをすると、ひとつ大きな肩の荷を下ろした人のように、ほっと頬を緩めた。

 厩から組長部屋に戻った私は、その部屋の前で土方さんと別れる姿を目撃されたこともあって、たちまち皆に取り囲まれてしまった。
「沖田君、土方さんと何を話してたんだ?」
 藤堂さんからせっかちに訊かれると、苦笑するしかなかった。土方さんは特段口止めしなかったけれど、実際に尋問が終わって処分が言い渡される前に、私の口から「実はね」と喋ってしまうわけには行かない。たとえどんなに私が「此処だけの話だけど」と念押しして話したところで、聞いてしまったら、藤堂さんや三木さんは、監察部屋で同様に伊東さんの身を案じてやきもきしている篠原さんや服部さん達に、「いや実は此処だけの話にしておいてほしいんですが」と話してしまうに違いない。咎めるわけではなくて、それが人情だと思う。
 だけど、私が此処で口をつぐんでいれば、「此処だけの話」が不用意に広まってしまうことは避けられる。どの道、今日の内には三人に処分が下る筈だ。井上さんの言い分じゃないけれど、土方さんは、採るべき策さえ決めてしまえば迅速に行動する人なのだ。
「何って……迎えに行った時に三人がどんな様子だったかを訊かれたんだけど」
「それだけだったのかい?」
「あとは……そうだなあ、御苦労だった、ゆっくり休んでろ、余計な心配はしなくていい、って」
 土方さんが私に三人の処分の軽重を仄めかすならこう言うかもしれないな、と思う言葉を付け足しておく。藤堂さん達は、それを聞くと戸惑ったような顔を互いに見合わせ、そしてまた私を見た。
「……心配……するなってか?」
「うん。そう言ってた」
「……それ以上、何か?」
「何も。それだけだったよ」
 淡々とかぶりを振ると、私は、黒羽織を脱いだ。……土方さんよりも私の方が“身内”に嘘をつくのは巧いだろうなと、自分では思う。

 三人への処分が公にされたのは、その日の昼過ぎだった。
 伊東さんが近藤先生の部屋で、斎藤さんが土方さんの部屋で、そして永倉さんが最初に蟄居を命じられた三畳間でそのまま、それぞれ六日間の謹慎。無論、本来であれば切腹申し付くるところ今回に限り特段の配慮を以て一命留め置く、との言葉付きでだ。
「結局、幹部は許されるのか」
 という囁きもあったが、山南さんの先例の重みはまだ結構局中には残っていたし、隊規の“恣意的な運用”を声高に咎めるのではと懸念された篠原さん達“親伊東派”も、何しろそのおかげで伊東さんが切腹を免れたようなものだから表立っては声をあげられなかったらしく、結局、上層部への不平不満が局中で大きな流れになることはなかった。また一方では、本当は永倉さんだけ切腹にしようと考えていた近藤先生を土方さんが「腹を切らせるなら三人ともでなければならない、やったことが同じなのにひとりにだけ責めを負わせるのでは筋が通らない」と諫めて三人とも謹慎処分にさせたそうだ、という話がいつの間にか広がり、むしろ局中には不満どころか安堵したような空気が漂いさえしたのだった。
「……まったく、誰がそんな余計なことを喋りやがったのかな」
 「反省の色、多なり」という名目で伊東さんと斎藤さんがひと足早く謹慎明けとなった六日の夜、私が訪ねてゆくと、土方さんは思い切り苦い顔をしていた。そういう噂が広まっているということを、誰かが耳に入れたらしい。
「余計なことですか?」
「当たり前《めぇ》だ」
 土方さんは、にこにこしている私を怖い顔で睨んだ。私が誰かに喋ったのが噂の広まる発端になったことなど、先刻お見通しというわけだ。……まあ、土方さんの目から見れば、私にしか喋らなかった筈のことが局中に噂で広まっているとなれば、自ずと“下手人”が誰だかなんてわかってしまうだろうけれど。
「処分を下す近藤先生のお心は公平ではないのかって、隊士達が思っちまうじゃねえか」
「でも、土方さんならそれを諫めることが出来ると同時にわかれば、みんな安心しますよ。結局土方さんの意見通りの処分になったんですから、近藤先生が土方さんの諫言を謙虚に受け止めて受け入れる度量をお持ちだということだってわかるわけですし」
「……ったく、屁理屈、捏ねやがって」
 土方さんはぶつぶつと小声で応じたが、それ以上文句を言おうとはしなかった。
「お許しを頂けて有難うございます。では、私はこれで」
「……何だよ、大事そうに風呂敷包みなんて抱えてくるから、何か見せてえ物でもあるのかと思ってたのに」
「あ、これは今から、立ち寄り先で開けるものですから」
「外出か? おい、今から出たら門限に引っかかるぞ」
「大丈夫です。組長部屋の御近所さんですから」
 私はくすっと笑うと、怪訝そうな土方さんを残して、部屋を辞した。
 廊下の寒さにちょっと身を縮め、青竹色に染められた縮緬の風呂敷包みを抱え直す。……と言っても、両掌で支えられる程度の包みだ。中身だって、重いものではない。
 土方さんの部屋からは小さな部屋三つ隔てた所にある目指す部屋の障子は、閉ざされていた。けれども、ぼんやりとした灯りが障子紙越しに柔らかく洩れていて、確かな人の気配が感じられた。私は廊下に片膝を落とすと、控えめに声をかけた。
「伊東さん、お邪魔しても宜しいですか。沖田です」
 一瞬の間があって、穏やかな声が返ってきた。
「……どうぞ。構いませんよ」
「失礼します」
 障子を引き開けると、書見台と向かい合っていた伊東さんが、少し訝しげな目を向けてきた。謹慎明けということで既に湯を使い、髭もちゃんと当たって、身嗜みを整えている。ただ、普段の水際立った姿を見馴れているせいか、くすんだ色の褞袍《どてら》を着込んで背中をわずかに屈め、長火鉢の上に乗せた鉄瓶に片手を伸ばしてかざしている姿が、妙に微笑ましく思えた。
「伊東さん、甘いものは、余りお好きではないですか」
「そうですねえ……甘味処に飛び込むほどではありませんが、嫌いではありませんよ」
「そうですか。良かった。……こちら、朝の巡察中に見付けたので、夕方に買いに行ってきたんです。如何ですか」
 言って、私は、風呂敷をそっと開いた。
「……ほう、鶯餅ですか」
「初音にはまだ少し早いですけれど」
 どうぞ、と勧めると、伊東さんは微苦笑のような表情を浮かべた。
「熱いお茶が欲しいですね。湯も沸いたところですし、飲んでいきますか」
「有難うございます。良ければ、私が入れますが」
「いえ、客人に茶を出させるわけには行きませんよ」
 青黄粉をまぶされた求肥に包まれた粒餡の餅は、これが餅かと思うほど柔らかい。気の置けない人との席ではないから手づかみというわけにも行かず、黒文字で切り分けて口へ運ぶ。
「……鶯重ねですね」
 ひとつ食べ終えた伊東さんが、微笑と共に呟く。
「え?」
「今着ているものも、地色が鶯茶ですから」
「そうでしたか。済みません、よくわかりませんでした」
「夜は物の色が違って見えますからね」
 気を損ねた風もなく笑い、伊東さんは湯飲みを手にした。
「……湯が熱過ぎましたかね。少し渋く出てしまった」
「甘い物には、このぐらいが丁度いいですよ」
「それもそうですね」
 頷いて、また伊東さんは湯飲みを口に運ぶ。私はふたつ目の鶯餅を食べ終えると、黒文字を懐紙に包んだ。
「……伊東さん、句作はなさいますか?」
 湯飲みを手にしながら問うと、伊東さんは、脈絡のない唐突な問だと思ったのか、「句ですか?」と怪訝そうな表情になった。
「いや、生憎私は、歌の方しか……まあ、全く解さないというわけでもありませんが……」
「では、こんなのはどうでしょう──鶯や、はたきの音もつい止《や》める」
 ぱちぱちと切れ長の目をしばたいた伊東さんは、ひどく戸惑ったような顔で黙り込んだ。
 私はくすくす笑いを洩らすと、論評を促した。
「どう感じられます? 酷評でも構いませんから、正直におっしゃってくださいね」
「ええ……そうですね……」
 伊東さんは困ったような目をしたが、ぽつり、ぽつりと、
「素直というか……素直過ぎるというか……」
 と、言葉を選び始めた。
「……わかり易くはありますね」
 作ったのが私だと思い込んでいるのだろう、何処か遠慮がちだった。
「わかり易い、ですか? うーん、褒め言葉なんでしょうか」
「巧いと感じさせるような技巧は余り窺えませんね……でも……」
 伊東さんはそこでやっと褒めてもいい点を見付けたのか、ほっとしたように言葉を継いだ。
「何だか、つい微笑ましくなってしまう」
「そうですか……」
 私は、またくすっと笑った。
「ああ良かった、伊東さんもそう思われるんですね」
「も?」
「私も、可愛いなあ、微笑ましいなあと思ってしまうんです。でも、そう言うと、そんなこと言うのはお前だけだ、って作った御本人から一蹴されるんですよ。有難うございます、これで、強力な後ろ盾が出来ました」
 何食わぬ顔で自分の作ではないことを示唆すると、伊東さんはますます困惑の色を深めた。
「……君の句ではないのですか?」
「まさか。私にはそんな風流な趣味はないです。豊玉宗匠が上洛前に捻られた佳句のひとつですよ」
 くすくすと笑いながら、私は、湯飲みに口を付けた。
 伊東さんの表情が、困惑から不意に無表情に移り、そして、わずかに揺らいだ。だが、やがてその表情は、かすかな苦笑へと落ち着いた。
「……土方さんの句でしたか」
「鶯尽くしということで」
「成程」
 伊東さんの苦笑から“苦”が減じる。何故私が土方さんの話題を持ち出したのか、自身で納得出来たせいかもしれない。
 ……私は、随分と以前から、勝手な勘でしかないけれど、何となく、
(伊東さんは、土方さんに好意を寄せているんだな)
 と感じている。
 でも、土方さんが伊東さんを何故か毛嫌いして寄せ付けていないことも、知っている。
 たとえ色恋でなくとも、好きで好きでたまらない人から徹底的に嫌われる気持ちは、どれほど切ないだろうか。
 頻繁にならないように気を付けながらも、時々こうして伊東さんの部屋に来てしまうのは、そんな伊東さんを見ていると、土方さんの不利にならない程度で土方さんのことを話してさしあげたいなと思ってしまうからだ。
 けれども、それをあからさまに口や態度に出すことは出来ない。伊東さんはこの件に関しては周囲に自分の気持ちを悟られまいとしているように見えるし、誰かに知られることを恐れてさえいるようにも思える。そこへ私が伊東さんの内心を悟っているような言動を不用意に見せてしまったら、伊東さんは、私に対して過度に警戒するようになるか、身の置き所のない気分になってしまうかのどちらかだろう。
「……鶯の心なきかな、手を止めて耳をすまさば、はたと止みける……」
 そろりと呟いた伊東さんは、わずかに頬を赤らめてかぶりを振った。
「いや、まるで駄目ですね……書き留めるまでもない、拙い歌だ」
 伊東さんが“心ない鶯”に誰を重ね合わせたかは、何となく察せられた。私は黙って微笑むと、お茶の残りを飲み干し、辞去を告げた。
「──沖田君」
 腰を上げたところで、不意に、伊東さんが声をかけてきた。
「はい」
「餅がまだ、沢山残っていますよ。頂いても構わないのですか」
「どうぞ。良ければ、弟さんと御一緒に。……三木さん、とても心配しておいででしたよ。私がお迎えに参上する時でも、勝手に付いていくのは構わないだろうと随分頑張られて」
 伊東さんは、困ったように苦笑いした。
「三郎……いや、愚弟が迷惑をかけたようですね。申し訳ない」
「いいえ、私は何も、迷惑など」
 かぶりを振り、会釈と共に廊下へ出ると、再び伊東さんが呼びかけてきた。
「沖田君」
「はい」
「今日は……見舞を有難う」
「いえ、大したものではないですから、お礼なんて。私の方こそ、美味しいお茶を有難うございました」
「とんでもない。……これから部屋に戻るのですか」
「ええ。三木さんに声をかけておきましょうか?」
 それを聞くと伊東さんは、ごくかすかに、悪戯小僧めいた笑みを浮かべた。
「いえ……折角の頂き物ですから、独り占めして味わうことにします。豊玉宗匠の佳句を思い返しながら。……愚弟への埋め合わせは、またの機会にして」
「じゃあ、三木さんには黙っておきますね」
 笑いながら、私は、障子を閉ざした。
 歩き出そうとした時、さっき後にしてきた副長部屋の方から、立て続けのくしゃみが聞こえてきた。
(……これだけ離れていれば、私達の話が聞こえた筈もないのになあ)
 火鉢に向かって「誰か噂してやがるな」と背中を丸めつつひとりごちているに違いない土方さんの姿が思い浮かび、頬が緩んだ。
『くしゃみばかりして洟まで啜っているのに、こじらせない内に早く休めと言っても、誰かが噂してるだけだと言い張って、絶対に弱音を吐かないのだよ。こういう時は、仕方ないから皆で容赦なく叩きのめして、無理にでも寝かせるように努力しないとな。協力してくれるかい?』
 まだ上洛前、江戸の試衛館道場にいた時分、土方さんとの稽古でいつになく厳しい攻めを仕掛けた山南さんが、その直後に稽古場の片隅に私を呼び、そう囁いて笑ったことを思い出す。
 ……山南さんもまた、土方さんのことをよく理解していた人だった。その最期の時に当たって土方さんの立ち会いを拒んだことも、自分を切腹に追いやった土方さんに対する隔意ゆえだと殆どの人は思っているようだけれど、私は、土方さんにつらい思いをさせたくないと考えた山南さんの心遣いではなかったかと思っている。土方さんは結構、見栄っ張り……と言って悪ければ、意地っ張りな人だ。もし山南さんの切腹の場に立ち会っていれば、たとえ内心で泣きたくても、他人の目がある手前、新選組の副長として、冷たく見届けただろう。
 きっと山南さんは、自分が死を迎えるその席でまで土方さんが意地を張らなくていいようにと、配慮したのだ。
 私は今でも、そう思っている。無論、勝手な想像に過ぎないけれど。
(……そうだ)
 今度の山南さんの月命日には、鶯餅を持って、光縁寺へお参りに行こう。そして山南さんに、今回の事件の顛末と、その時のみんなのことを話してさしあげよう。
 その頃には、鶯も、初音を聞かせてくれるだろうか。
 それとも、まだ時に非ずと声もたてずにいるだろうか。

 見事な谷渡りが聞けるようになるのは、毎年、山南さんの祥月命日の頃だ。



Copyright (c) 2003 Mika Sadayuki
背景素材:「十五夜」さま(キリ番リクエストによる頂き物;加工品につき当ページからの持出厳禁)