「うーっ、さむっ」
 誰に言うともなく呟いて、あたしは、いつの間にか緩んできていたマフラーを巻き直した。
 日中はそこそこ暖かかったんだけど、夕方になって急に冷え込んできたみたい。……明日は雨か、ひょっとしたら雪でも降るかもしれないな、と感じる。
「ねえ、母さん、寒くない?」
「うん……」
 隣に立つ母さんたら、思いっ切り生返事。あたしの声なんか、聞いちゃいない。
 視線は、土曜の夕方の街の賑わいを流れ行く人波の上を泳いでて。
 胸にはしっかりと、昨日までの売れ残りの分際で妙に高かった、高級そーな生ショコラの詰め合わせなんか抱き締めちゃって。
 ……普段なら頼んだって財布から出してくれそうもない値段だったことを思い出す。こんなとこで持ち出すのも何だけど、ウチの生活は決して楽じゃない。それこそ、今日のお昼の外食が、何か月振りかの贅沢だったくらいに。
 母さん、白石牡丹《しろいし ぼたん》は、いわゆる未婚の母。最初の何年かは実家に助けてもらってたみたいだけど、その後は、実際ど女手ひとつであたし、有希《ゆき》を此処まで育ててくれた。そのことは、感謝してもし切れない。だってその時、母さんはまだ十六。高校生だった。妊娠がわかって、それにびびった相手──ちゃあんと妻子もある大層御立派な社会人だったらしいけど、母さんは相手のことを絶対悪く言わない──に逃げられた時点で、堕ろしてしまうっていう選択だって出来たのだ。なのに、高校を退学してあたしを産み育てる道を選択した。そして、あたしが生まれて何年かして手がかからなくなるとすぐに仕事を見付けてきて、高校中退の安い給料に文句も言わずに働き始めた。
 どうやって遣り繰りしたのか、小学校の給食費も、毎月りなく持たせてくれた。……よくよく思い出してみれば、あの頃は、三食の中でお昼の給食が一番豪華だったっけなあ……。
 そして現在、あたしは、母さんがあたしを産んだ齢になってる。高校にも行かせてもらって、結構楽しい高校ライフをエンジョイ中。……彼氏のひとりもいないで何が楽しい高校ライフよ、って母さんは笑うけど、別に、いなくても困らないもん。変な男に引っかかるより、彼氏いない歴十七年の方が、百倍はマシ。
 そう。あたしは、変な男に引っかかるのだけは御免なの。
 ……うん、勿論母さんが変な……と言うより卑怯で無責任な男……なんて母さんは絶対言わないけど、女子高校生ひとり妊娠させといて認知もせずに逃げちゃうよーな男は卑怯で無責任だとあたしは思う……に引っかからなかったら、あたしはこの世に生まれていないわけで、複雑なんだけど……あたしにもその卑怯な無責任男の血が流れてるって思うだけで身震いしちゃうのは事実。
 ……でもね。ホント言うと、母さんがまた変な男に引っかかっちゃうことの方が、あたしには、自分が変な男に引っかかるより百倍も嫌だし、心配なの。
 母さんはまだまだ女盛り。あたしを育てるので一所懸命で、あんまり自分のことには構ってないけど……苦労した割にひねても尖ってもいないからか、飾り気もないのに職場の男性陣の受けはいいみたいだし、娘のあたしが言うのも何だけど、ぽーっと頬っぺた染めてる時なんか、妙に可愛いし。
 ……そ。まさに今みたいな時の母さんは、ぽわーっとして見えて、変に可愛いの。
 現に、お呼びじゃないから視線を返したりはしないけど、道行く男連中が、時には明らかに彼女連れの男までもが、ちらちらっと、母さんとあたしに気を惹かれたような目を向けてゆくのがわかる。このデパートの正面玄関前は待ち合わせ場所にされやすい角地、他にも沢山の女の人が立ってるんだけどなあ。
 もっとも、母さんが一見して人待ち中、しかもラッピングからして一日遅れのバレンタインチョコレートだとバレバレのおっきな包みを抱き締めてるせいか、実際に声をかけてくる間抜けは流石にいなかった。
(……ま、かけてきたら、向こう脛に蹴り入れてやるけどね)
 あたしは、道を隔てて向かいにある、ぼろっちいビルの壁の時計を見やった。……針は、そろそろ六時を指そうとしてる。流石に一時間近く前からずーっと吹き晒しのデパート玄関前に立ってると、風が身に応える。だって、今は二月の半ば、寒さが一番厳しい季節なんだもん。
「……あのさ〜、言いにくいけど、絶対されてるよ〜」
 ぼそーっと、小さな声で呟いてみる。
 母さんが待ってるのは、今日のお昼御飯を食べた目の前のぼろっちいビルのエレベータで出会った、うーんと、多分三十半ばぐらいじゃないかなという外見の男の人。勿論、会ったのは初めてで、しかも、名前すら聞いてない。
 それなのに、どうして母さんがこんな風になっちゃったかと言うと……
 そもそも、あたし達三人の乗り込んだそのぼろっちいビルの透け透けエレベータが、降りてく途中で事故って止まっちゃったのが全ての始まり。で、母さんったら、高所恐怖症なものだから、偶然居合わせたその男の人に半べそでしがみついちゃったの。でも、その男の人は、ちょっと困ったなあ、という顔はしてたけど、別に母さんのみっともない無躾さに怒ったりもしなかったし、とっても落ち着いてた。
 ……うん、感じは悪くない人だったの。
 色薄とはいえサングラスをかけてたのは気に入らなかったけど……まあその……色々あって、母さんだけじゃなくあたしもその人には迷惑かけちゃったから、あんまり強いこと言えないのよね……。それに、多分、その人が落ち着いてたから、あたしも普段通りでいられたんだと、後になって思うし。パニックになっちゃった母さんとふたりだけで閉じ込められてたら、あたしもちょっと不安になってたかもしれない。
 でも、ねえ。
 たったそれだけよ。それだけ。
 なのに、エレベータが無事動き出したら、その男の人、いきなり『宜しければ後で食事でも。お礼がしたいので』なんて言い出して。世話になったのはどう考えてもあたし達の方なのに、『あなた方の気付かない所で俺はあなた方に助けられている』なーんて訳のわかんないこと言って、ひとり勝手に『今夕六時、前にあるデパートの正面玄関で』って言い残して、いなくなっちゃうし。
 ……そう。いなくなったのだ。
 あたし達を先に出してくれた後で、エレベータの扉を閉めちゃって、えっ、と思った時にはもう、エレベータは上に動き出してて……そのまま、二度とその男の人は、姿を現わさなかったのだ。
 だから、ビルの管理会社から事情を訊かれた時、あたしも母さんも、あの男の人のことは言わなかった。言わなくていいよ、って母さんが囁いたのもあるけど、ごたごたしたくないから逃げたんだろうな、って、あたしも思ってたから。
 で、色々訊かれた後で、特段怪我もなく無事だったとは言え御迷惑をおかけしました、と、白封筒なんか渡されちゃって──当然、口止め料込みだろーな、って思ったけど、ま、その辺は目くじら立てずにおこう──通用口から目立たないように放免されたんだけど。
 それからが大変だった。
 母さんたら、デパートに飛び込んで、いきなり地下の洋菓子売り場へ。いつもは結構即断即決のくせに、ショーケースの前で散々色々あれにしようかこれにしようかと迷った挙句、お高い生ショコラの詰め合わせを買って、贈り物ですかと訊かれて『はいっ、バレンタインのラッピングでお願いしますっ』って思いっ切り頼んじゃうし……それから今度は一転漬物売り場へ走って、これまたお高い無添加無着色の何たらかんたら産とかいう偉そうな沢庵なんか買い込んじゃうし……
 え。何で沢庵なんか買うのかって?
 それはあたしも母さんに訊いたの。普段ウチの家じゃこんな高級な沢庵なんて食べたりしないじゃない、やめようよ、勿体ないよ、って。そしたら母さん、『だって、土方さんは美味しい沢庵が好物なんだもんっ』……
 あ、あたしはその答に、本っっ当に、呆れ返った。
 母さんったら、夕食の誘いを受けた名前も知らないその男の人が、自分の大好きな歴史上の人物によく似ているからって、のぼせ上がっちゃってるわけ!?
 あ・の・ねえ〜っっ、大体、幾ら母さんが大大大好きな歴史上の人物……土方歳三だっけ? に顔が似てるからって、本人じゃないんだからねっ。──母さんは『絶対、土方さん本人に間違いないわっ』なんて断言して、ぽーっとしてるけど、じょーしき的に考えて、たとえ、若くして戦死(っていつも母さんが言ってるから、そのくらいは知ってる)とされてるけど実は死んでませんでした、ってことだったとしても、百三十年以上前の人間が生きてるわけがないでしょ?
 で、有希の結論。かーさーん、騙されてるよぉ〜。
 ……ううん、正確に言わなきゃ、相手の男の人が気の毒かな。相手の男の人は、なあんにも言ってない。自分が土方歳三だなんて、ひとっことも。むしろ、母さんが『土方さん?』て口走ったら、母さんの口の前に指を立てて、違うよ、って言いたそうに黙ってかぶりを振ったもの。
 でも、母さんに言わせると、あのかぶりの振り方は、「違うよ、人違いだよ」ではなくて、「その名前は此処で口にしないでほしい、また後でゆっくり話をしましょう」なんだって。
 挙句の果てには『うーん、有希にはまだわかんないかなあ、異性と付き合ったことがないから、殿方の出す微妙〜なシグナルまでは』とまで言い出すしっ。
 あーもう、ぜーっっったい、母さん、ひとり勝手に騙されてる〜っっ!
 ……とは言え、照れ臭そうにはしゃぎながらチョコレートを物色して、一時間近く前から待ち合わせ場所に立っちゃって、往来の中に待ち人の姿を求めてる母さんを見ると、大きな声では言い出せなかった。何て言うのかなあ……こんなに男の人相手にウキウキドキドキしてる母さんを見るのは初めてで、言いづらかったし……それにきっと、言ってみたところで、「土方さんになら騙されてもいいの」と一蹴されそうな気がするの。
 あたしに出来ることは、母さんの脇にしっかりくっついて、妙なことが起こらないようにそれとなく見守ることぐらい。
 ……野暮もいいとこだけど。

 あと五分を切ったなあ、という頃から、牡丹母さんは、そわそわ……ううん、不安そうな心細そうな顔になってきた。
 やっぱり、“じょーしき”ってゆーのが、幾ら浮かれてても、頭の片隅に戻ってきたんだと思う。
 周りの待ち合わせさん達に立て続けに待ち人さんが現われた、っていうのも影響してるかもしれない。
 思い止《とど》まらせるなら、今がチャンスだ。相手だって『宜しければ』って言ったんだし。あたし達が約束の時間にこの場所にいなければ、都合が付かなかったんだろうなって解釈して、それで終わり。お互い名乗り合ってもいないんだから、後腐れもなーんにもなし。めでたしめでたし。
 ……なんだけど。
 少ーしずつ萎《しお》れた様子になる母さんが痛々しくて、「馬鹿っ。早く来なさいよっ」なんて思ってしまうのが、あたしの情けないところ……。
「こんばんは」
 聞き覚えのある声がしたのは、あたしがそんなことを思ってしまった、まさにその瞬間だった。
 声の方を見直した目に、確かにあのエレベータの中で一緒だった男の人の姿が映る。……改めて見ると、目の高さは、意外にあたしとそんなに違わない。あたしは母さんより二センチだけ高くて一六〇センチちょいだから、この人は一六五……六……七センチぐらいなのかな。相変わらずサングラスかけたまんまなのが、ちょっと気に入らないけど。
「もしかして、随分お待たせしてしまいましたか」
「いっ、いいえっ、全然っっ。今来たばかりですぅっ」
 ……かーさーん、声が裏返ってるよぉ〜。
「ああああのっ、これっ、つっ、つまらない物ですがっ」
 びゅむっ、と音がしたんじゃないかというくらいの勢いで、母さん、抱えていたチョコレートの大きな箱にデパートのポリ袋に入ったままの沢庵を乗せて、相手に差し出した。
「御迷惑をおかけしてしまって御免なさいっ、ほんの気持ちですっっ」
「あ、いや、それは……わかりました、有難う」
 相手の男の人は、流石に面食らったような顔で一瞬受け取りを拒もうとするような素振りを見せたが、思い直したように受け取って、かすかな苦笑いを見せた。母さんの瞬発力と押しの勢いに負けた、ってとこかも。受け取りを拒ませない勢いとタイミングっていうのは、確かに、ある。母さん、普段は結構のんびりしてるけど、此処一番の瞬発力とダッシュ力は、なかなかのものなのよね。
「余り長いこと寒い場所に立っているのも何です、移動しましょう。……和食、洋食、もしくはそれ以外……どれがお好きですか」
 低過ぎないけど低くて濁りのない声で尋ねた後、その人は、ちょっと照れたような笑みを口許に閃かせた。
「……もっとも、普段余り外食しないんで、あんまり沢山の店は知らなくて……御希望に添えなかったら申し訳ないんですが」
 それって、高い店は駄目ってこと?
 ちょっと意地悪く考えたけど、流石にそれは口にしなかった。目の前の相手には、そういうケチ臭さは少しも感じられなかったから。
 ……うん。悔しいけど、粗探しをしようと思って眺められないのだ。目の前に現われるまでは、母さんに変な近付き方をしたら蹴りを入れてやるからっ、なんて内心思ってたのに……いざ目の前にこの人が立って話を始めると、ふっと引き寄せられそうになってしまう。
(駄目駄目駄目っ、有希っ。目を隠してるような相手は信用しちゃ駄目っっ)
 顔を隠して物を言う奴は信用出来ない。匿名電話での罵倒とか、インターネットで名前と顔を隠して撒き散らす誹謗中傷とか、青いかもしれないけど、あたしはそういうのが大っっ嫌いなのだ。それと同じ理屈で、サングラスで目を隠してる人も、信用出来ない。相手に目の表情を読ませず、自分だけが相手の目を読もうなんて、狡いと思うから。
「あ、でも、言えるだけの希望はおっしゃってみてください。その方が、お互いにとって一番いい店を選べるから……俺の知ってる範囲で、なんですが」
「じゃあ、美味しい白ワインの飲めるお店にしてください」
 すかさず、あたしは言った。
「母さんは白ワインが好きなんです。でも普段はあんまり高いワインは買えないから」
「ゆ、有希っっ、ななな何てこと言うのあんたわっっ」
「折角御馳走してくださるって言ってるのに、遠慮しちゃ駄目よ」
 真っ赤になってうろたえる母さんに、あたしは、しれっとした顔で言った。
「別段、下心なんてない人に見えるし。下心ありありの相手に奢ってもらうのはすっごく危ないけど、そうじゃないなら、遠慮する方が損よ」
 あたしは、「見えるし」と「そうじゃないなら」に思いっ切り力を込めた。あたしなりに、「変な下心あったらただじゃ置かないからねっ」と、相手に釘を刺したのだ。
「ゆゆゆ有希いっっ! 何て失礼なこと言うのよっ、あんたわ〜っっっ!!」
「いや、お構いなく。そのくらい言ってもらった方が気持ちがいい」
 相手の男の人は、鼻白んだ風もなく、くすりと笑った。内心引きつってるのに無理してる笑いじゃなくて、本当にその方が気持ちがいいんだって思ってることが自然に伝わってくるような笑い。……うう、悔しいけど、この“口撃”は、あたしの負けみたい。
「それなら、ちょっと此処からは遠いんですが、前に行った時に美味しいワインが出てきた店に行ってみましょう。……あいにく俺は余り酒には強くないんで、余り何杯もは付き合えませんが……」
 ……ふーん、お酒には弱いのか。頭の片隅にメモっておこう。使えるかどうかは、わかんないけど……誰にだって弱点はあるんだから。
 なんて思った瞬間、歩き出した相手が、つと立ち止まって振り返った。
 何故だかドキッとした。「お嬢ちゃんの考えてることなんかお見通しだぜ」と言われそうな気がして。
 でも、錯覚だったみたい。相手の口から出たのは、全然別の言葉だったから。
「名乗り遅れましたが、俺は、内藤と言います。……咄嗟のこととはいえ、名乗りもせずに食事に誘って、失礼なことをしたと反省してます」
 ……あ……そお、なの。
 非礼だったって、思ってたたんだ……
(そうよね……そもそも……あんな短い時間で、悠長に名乗り合ってからお誘い、なんて、きっと無理だったわよね……)
 ぼんやりと考えかけて、はっと自分にかぶりを振る。ぶるぶるぶるっ。駄目駄目、有希っ。心を許しちゃ駄目っ。母さんがのぼせちゃってる分、あたしがしっかりしてなきゃ駄目じゃないっ。
 なのに、娘の心、母知らず。
「な、内藤さん……ああああの、でしたらもしかして、下のお名前はハヤトさんですか?」
 か……母さんったら〜っっ!
 失礼なのはどっちよ〜。いきなりそんなこと訊く?
 大体何で、そーゆー発想になるのよ。
 内心呆れたあたしは、だけど、相手の答に驚いた。
「……ええ。その通りですが」
 ええええっ!?
 まさか……あたしが知らなかっただけで、母さん、この人のこと知ってたとか?
 でも、母さん、ぽーっとなっちゃって「素敵……嵌まり過ぎですぅ……」なんて口走って。……知ってたわけじゃない感じ。
「……おかげで時々、土方歳三のファンだという方から妙に偶像視されて、困惑させられるんですよ」
 つと、問わず語りに、相手の人が呟いて苦笑した。
「この顔と名前でなかったら、もっと色々、暮らし易かったのですが。……かろうじて目は隠しても、偽名を使うのは性に合わないものだから、つい、きちんと名乗ってしまう」
「ご、御免なさいっ、あ、あたし、のぼせ上がってしまって──」
 母さん、ぺこりと急いで頭を下げた。内藤ナントカは、ちょっと微笑むと、気にするなと言うように黙ってかぶりを振った。
 ……あたしは、イマイチ、よくわかんなかった。顔のことはわかる。あたしだって、母さんが歴史雑誌から切り抜いて写真立てに飾ってる写真を見てるから、こうしてまじまじ眺めると、よく似てるなーとはわかるもの。でも、名前は別に、土方でも歳三でもない。何で、名前のおかげで偶像視されちゃうわけ?
 もっとも、母さんが「嵌まり過ぎ」と口走るってことは、多分、内藤ナントカという名前も、土方歳三に縁《ゆかり》の名前なんだろうな……という察しぐらいは付くけど。
 ……それにしても。
 ふーん……色薄のサングラスをかけてるのは、土方歳三のファンに騒がれると困るから、だったのか。
(真っ黒なグラサンで完全に目を隠してるわけじゃないんだし……許してあげようかな……)
 ……はっ、ぶるぶる。いけないいけない。あたしがしっかりしてなきゃ駄目なんだからっ。
 人気のある男性アイドルに似てるのをいいことに女をたぶらかす悪い奴だって、世の中にはいるんだからっっ。
 再び先に立って歩き始める相手の背中を殊更に睨みつけておいて、あたしは、ぽーっとしっ放しの母さんの腕を取り、歩き出した。

 内藤が選んだのは、イタリアンレストラン……らしい店だった。
 下の方が色んなお店で上の方がマンションになってるビルの1階にあって、ちょっぴり上品だけど庶民的な雰囲気で、適当に静かで適当に賑やか。店内はちょっと暗いかなーとも思うけど、柱やひとつひとつのテーブルにアンティークなランプが掛けられたり置かれたりしてるから、その効果も考えての暗さなんだとはわかる。お店自体は広過ぎないけど、テーブルとテーブルとの間隔が比較的ゆったり取られている。
 歩き始めて間なしに内藤某が携帯で一本予約を入れてくれていたおかげで、あたし達は、何人かの席待ちのお客さんを横目に、既にテーブルクロスも掛けられて三人分のセッティングの終わっている奥の予約席に案内してもらえた。ぽっぽー、と突然古臭い音がしたので吃驚して見上げると、あたし達の案内された席のすぐ側の壁に、小ぶりな鳩時計が掲げられていた。……普通歩く距離じゃないよね、と思うくらい歩かされたなーとは思ってたけど、もう、三十分も経ってたわけか。
「……うんと歩かせてしまったから、おなかが空《す》いているんじゃありませんか」
 ぎ、ぎくっ。この人、時々、あたしの考えてることを読み取ってるんじゃないかと思ってしまうようなことを言う。
「だけど、空腹は最高の調味料だと俺は思ってます。だからつい、腹を減らす為にも、外食先へは歩いてしまう。……音《ね》を上げられるようなら途中ででも車を拾おうかと思っていたんですが……白石さん達は、なかなか健脚だ。きっと、普段からよく歩いているんでしょうね」
 ……褒めてるの? それ。
 そりゃ母さんもあたしも、交通費が勿体なくて余り乗り物に乗らないようにしてるから、歩き慣れてはいるけれど。聞きようによっては、乗り物に乗れないほど貧乏しているんですねえって言ってるようなものだと思う。
 でも、内藤某は嫌みを言っている風では全然ないから……素直に褒め言葉と取っておこうかな。
 そこへ丁度、水とメニューとが運ばれてきた。……水の入ったグラスにテーブルランプの灯が柔らかく反射して、とっても綺麗。使い込まれた風情の木の板に挟まれたメニューも、お店の全体の雰囲気にとっても合ってる。
「此処は、割に量も食べられるし、味もいい。……メニューは一応コース順にまとめられて並んでるが、コース通りに頼まなきゃなんて堅苦しい決まりはないから、安心して、どんな料理でもお好きな物を、お好きなだけ」
 と、内藤某、メニューを開いてあたし達の方へ見せてくれる。……前菜、スープ類、パスタ各種、リゾット、魚料理に肉料理……安過ぎはしないけど高いと驚くほどじゃない、懐に優しそうな値段が並んでる……うっ、つい値段に目が行っちゃうのが我ながら悲しい。……あ、ケーキも結構色々あるみたい……って、うう、デザート類にもすぐ目が行っちゃう〜。
 自慢じゃないけど、あたしは普段あんまり外食なんてしないから、店によってはメニューを見ても何の料理だかわかんないことがある。でも、此処の手書きメニュー(正確には、手書き原稿のコピーで作ってあるんだけど)は、料理名の下に一応の簡単な説明書きが付いてて、主にどんな食材が使われているかも明記されてて。デザート類に到っては、店の人が自分で写したらしいデザート集合写真まで貼ってあり、手前が何々・奥が何々・左が……と紹介してあった。おまけに、メニューとは別に「迷った時にはこれ:御注文数に見る当店で人気の料理ベストテン」という紙まで挟んであるから、みんなに愛されている人気筋の料理までわかる。これなら、初めて来店した人でも、イタリア料理の知識がなーんにもない人でも、どんな料理なら自分の口に合いそうか大体見当が付くし、デザートだって名前だけで選ぶ時ほど悩まずに済む筈だ。すっごく些細なことなんだけど、とっても有難かった。
 でも、中身がわかればわかったで、あれがいい、いやこれがいい、でもあっちもいい……と頭を悩ませてしまう。幾ら「好きな物を好きなだけ」と言われても、ちょっとは遠慮しなくちゃ……という思いが、何処かにあるのだ。それは母さんも同じだったみたいで、ワインは早々に選んでしまったけれど、料理がなかなか決まらない。うーんうーんと小さく唸っては、メニューを何度もめくって見比べてる。
「……あのう」
 コホン、と咳払いをして、内藤某が声を挟む。
「迷うようなら、まずは前菜から何か一品選びませんか。その後に頼む物は、後からゆっくり考えればいい」
 えっ。それって、追加でどんどん料理を頼んでもオッケー、ってこと?
「え、えーっと、それじゃ、幾つかの料理を頼んで三人で少しずつ分ける、っていうのは、いけませんか?」
 思い切って訊いてみたら、内藤某、あっさり笑った。
「ああ、そうか、その方が、色んな物を沢山食べられるか。いいな、その方が楽しそうだ」
 ううう……太っ腹だー、この人……。
 みんなで色々頼んで少しずつ、っていうのは、意外にお金を使うのだ。集団の勢いで、あれもこれもそれもっ、と、ついつい沢山頼んでしまうから。
「それなら、取り敢えず、迷った料理は全部頼んでみることにしませんか」
「えっ、い、いいんですか?」
「はは……大丈夫、俺も空腹ですから」
 んーむ、さりげなく気を遣ってくれているのか、それとも本当に自分もたらふく食べたいのか、そこのところは今ひとつわかんないけど……ええい、それじゃ遠慮なく頼んじゃおうっ。
 察し良くお店の人がやってきて、注文を取ってゆく。白ワイン二種類を一本ずつに、料理十種類以上……特に何も言わないけど、沢山食べる客だなー、と呆れてるかも。
「ワイングラスは幾つお持ち致しましょうか」
「三つお願いします」
 いつもの癖でつい反射的に言っちゃって、あたしは内心った。あたしの答を聞いた途端、内藤某がぴくっと唇を引き結んだのが見えちゃったのだ。勿論、未成年は飲んじゃいけないとは、あたしだって知ってる。でも、いつも、ちょこっとだけ、母さんの白ワインを貰ってて……それでつい言っちゃったんだけど、うう、何か小言言われるかも……
「いや、四つお願いします。違う銘柄の味が混ざるのは、俺も嫌なんで」
 ……え。
 ど……どういう意味?
「そちらのお嬢さんは、飲み物は?」
 内藤某、何でもないような顔で訊いてくる。あたしはうろたえながらも、何とか無難な答を返した。
「え……ええっと……あ、あたしは水でいいです」
「そうか。それじゃ、ひとまずはそれだけで。──持ってくる順にはこだわらないから、出来たものから随時。デザート類は、また改めて頼みます」
「かしこまりました」
 お店の人が注文を復唱し、メニューを引き取って離れてゆくと、内藤某は黙ってサングラスを外し、胸ポケットに仕舞った。
「……未成年の飲酒は、あんまり感心はしないな」
 ううっ。やっぱり。
 別々のワインの味が混ざるのは嫌だから四つ、と素早く訂正したのは、お店の人に、あたしが飲もうとしてるとは思わせないようにする為だったみたい。
「……済みません」
 小さくなって謝ると、内藤某は軽く肩をすくめた。
「まあいい。目をつぶろう。……但し、舐めるだけならな」
「はい、済みませんっ」
 謝る声とタイミングが、母さんと揃っちゃった。内藤某は、くす、と笑って、また肩をすくめた。……サングラス外しちゃうと、ホント、優しい穏やかな目をしてる。かけない方が、絶対、いいのに……
「……お嬢さんは、思ってることがすぐ顔に出るタイプだな」
 不意に、内藤某が、あたしに向けてそんなことを言った。
「サングラスなんてかけない方がいいのに、何でかけてるんだろう、と思ったろう?」
「……だって、隠してない方が、絶対、いいもの」
 しぶしぶ認めると、内藤某は目を細めた。……う。ほんのちょっと穏やかさが薄れただけで、相手の心の奥に切り込むような厳しい目になるんだ、この人。
「目を隠すような奴は信用出来ない、とも思っていたろう」
 ぎ、ぎくっ。
「……同じことを言う奴が、すぐ身近にいるんでね。顔や目を隠して物を言うような輩《やから》は信用出来ない、と。だから、お嬢さんの言いたいことはわからんでもない。俺だって、基本的には、そうだと思うしな。……だが、少しだけ頭の片隅に置いておいてもらえないかな。俺は違うが、世の中には、例えば、目が弱いから仕方なくサングラスで日光を遮っている人間もいる。お嬢さんのように思い込んでいたら、そんな人間まで一律に“色眼鏡”で見てしまうことになりかねない。……ひと目で相手を見抜くなんてのは、百年以上生きてても難しいもんだ。人を見る時には、見てくれも大事な要素だが、それだけに囚われないように、せめて相手の言動を見てから判断した方がいい」
 言ってることは説教……みたいなんだけど。奇妙に、説教臭くない。何だか、半分以上述懐、って感じがして、押し付けがましさがなかったから、すんなり聞けてしまった。
 そこへ丁度ワインボトルとグラスが、そして間なしに最初の料理が届いた。洋梨とチーズのアンティパスト(前菜)と、トマトのブルスケッタ……だったかな。スライスしたバゲットにトマトが乗ってるガーリックトースト、っていう感じの説明だったから、トマト味の好きな身として頼んでみたんだけど。くううっ、美味しそうっっ。しかも、内藤某が「三人前をひと皿で」と頼んでくれたせいか、皿には六つ乗っかってる。これなら、次の料理が来るまでに、三人でつまんでも間が持ちそう。
 母さんが選んだのは、イタリアのヴェネト地方の白ワイン。長い名前……何とかかんとか・スペリオーレ、というのと、そこそこ短い……ピノ・グリージョ? と。母さんはいつも「辛口できりっとしたのが好き」って言ってるから、きっとどちらも、母さんの好みに合った銘柄なんだろう。あたしは所詮舐める程度なんで、母さんほどには味がわかんないんだけど。
 内藤某、母さんのグラスに長い名前のワインの方を注《つ》いだ後で、小言を言った割に、あたしにもちゃんと、でも母さんのよりは少なめに、注《つ》いでくれた。……一旦「目をつぶろう」と言った以上はそれ以上言わない……つもりなのかも。
「今日は本当に有難う。色々と。……おふたりの健康を祈って、乾杯」
 乾杯、と唱和した声は、丁度のテーブルにどやどやっとやってきた計六人の若い男女の一団の声高な喋り声に掻き消されてしまった。……内藤某の後ろにあったその大き目のテーブルも予約席らしくて、支度がしてあったんだけど……うわっ、此処まで臭《にお》いが漂ってくるほど酒臭い人がいる。ちょっと、そんなに酔っ払ってから来て、料理の味がわかるの? って感じ。
「此処、すっげえ一杯食えるからいいんだよなー」
「何でも好きなモン頼めよー! じゃんじゃん、取っちゃっていいからさー!」
「きゃー、みょーちゃん、太っ腹ーっっ」
「あ、ねーねー、これこれこれ! これ好きなのアタシーっっ! これ頼んでいーいー?」
 ……うう。うるさいなあっ。折角の料理が不味くなっちゃうじゃない。あんたら、この店の雰囲気から浮いてるわよっ。
 普段余り不快さを顔に出さない母さんでさえ、少ーし顔を曇らせてる。内藤某は……うっわ〜、す、すっごく不機嫌そうな顔になってる。後ろのテーブルの連中のことを不愉快に思ってるのが、あからさまに伝わってくる。……あたしに向かって「思ってることがすぐ顔に出るタイプ」なんて言ったけど、言った御本人にもそのケがあると思うなあ。
 が、内藤某、目を閉ざしてひとつ深呼吸をした後で、また元の穏やかな顔に戻った。
 そこへ、次の料理が到着した。クワトロ……えーっと、メニューが手許からなくなっちゃったんで正確な名前はわかんないけど、四種類のチーズのリゾットだ。これは母さんが頼んだもの。それから、あたしの頼んだ、カポナータの温泉卵添え。野菜の煮込みに温泉卵を混ぜました、って書かれていたから、何となく食べ易そうだと思って頼んだんだけど……んー、なかなか、いい感じ。内藤某が取り分けようとしたけれど、余り何でもかんでも相手にやってもらうのは不本意だから、という暗黙の了解で押し止《とど》め、リゾットは母さんが、カポナータはあたしが、それぞれ取り分けた。
 内藤某は律義にも母さんとあたしとそれぞれに礼を言った後で、料理に手を付けた。
「せっせと食べないと、次の料理でテーブルが溢れてしまう」
 くすっと笑って、そんなことを言う。確かに、料理自体の皿と取り皿とで、テーブルはもう一杯。なのに、料理はまだ半分も来ていない。内藤某本人はパスタらしき物二種類と魚料理とを頼んでいたけど、それらは未着。周囲の客に腹を立てている暇があったら、どんどん食べちゃわなきゃ。
 ……とは、思うものの、やっぱり隣の席の連中、うるさ過ぎる。内藤某の声は意外によく通るから、聞き取れなくて困る、ということはないけれど……嫌でも周囲に聞かせるほど声が大きいくせに話す中身が至極薄っぺら、っていうのは、結構、癇に障るのだ。
 なんて考えてたら、隣にも、最初の料理が来たみたい。これで少しは静かになってくれると有難いんだけど……
「えー、これ、誰が頼んだんだ?」
「お前じゃねーの?」
「頼んでねーよー」
「あたしも知らなーい。みょーちゃんはー?」
「いーじゃんいーじゃん、貰っちゃえばー。間違ってても、店が悪いんだしさー」
 あたしは、かっちん、と来てしまった。
 ちょっと待ちなさいよっ。誰も頼んだ覚えがないなら、明らかに、他所のテーブルの料理が間違って来ちゃったってことでしょ。他所のテーブルではその料理を頼んだ人が待ってるのよっ。その場で「頼んでない」と言って、正しいテーブルに配膳し直してもらうのが普通じゃないの?
 ふざけるなーっ、と叫びたいのをこらえて“みょーちゃん”とか呼ばれてる一番声の大きな男を睨みつけると、ばっちり、視線が合ってしまった。
「──何だよぉ、女ぁ! ガン飛ばしやがってえ!」
 居丈高な台詞と共に立ち上がった相手に、あたしも席を蹴って立ち上がった。ふん。此処でびびったりなんかするもんか。こういう時に声を荒らげて威嚇してくる奴ほど肝っ玉は小さいと、相場が決まってる。乱暴な真似をしてくるようなら正当防衛で股ぐら蹴り上げてやるから、覚悟しなっ。
「疚しいことをしてるから、ガン飛ばされたと思っただけでしょ」
 ふっ。ストレス解消、言いたいこと言っちゃえっ。今更、我慢してやることはない。
「お店の人が間違えたんだからいいや、じゃないわよ。知らずに食べたって言うんならまだしも、間違いだって知ってたのに指摘もせずに食べちゃったら、立派に犯罪成立よ。感謝してほしいわね、犯罪者になる前にあたしに止めてもらえたんだから」
「──ふざけんなあっ!」
 酔っ払って赤くなってる上に更に顔を真っ赤にした相手が、つかみかからんばかりにしてこっちにやってこようとした、その時。
 そいつに背を向けて座っていた内藤某が、表情ひとつ変えないままで、右手をひょいと翻した。
 いつの間に手にしていたのか、ワイングラスから、まだ殆ど口をつけていない白ワインが、後ろに目があるんじゃないかと疑うくらい正確に、相手の顔面に飛び散る。
 相手は、みっともない悲鳴をあげて目を覆った。……うわー。目に入っちゃったみたい。
「失礼。手が滑った」
 何事もなかったかのようにグラスをテーブルに戻してから、内藤某は、振り返りもせずに謝った……いや、謝った、にしては誠意のかけらもない口調だけど。
「──な、何しやがるっ!」
「何も。手が滑っただけだ」
 う。これほど白々しい返し方も凄い。あからさまなほど、相手に喧嘩を売らせようとしている感じ。
「この野郎!」
 相手は、完全にぶち切れたらしく、見境なしに内藤某につかみかかった……
 と、見えた一瞬後、相手は派手によろけて、勝手に転んでしまった。単に尻餅を突いた程度なのに、きゃあ、と、連れの女達が大袈裟な声をあげる。……ええっと。あたしには、内藤某が、つかみかかろうとした相手の手を軽く払いのけた、という風にしか見えなかったんだけど……そんなに強い力で払ったのかしら。
「そんなに喧嘩を売りたいなら、まず『表へ出ろ』から始めろ。店の中で暴れたら、店や他の客に迷惑だろう」
 恐ろしく穏やかな声で、内藤某は告げた。
 そして、ゆっくりと立ち上がり、よたよたしながら立ち上がった相手の方に向き直った。
 瞬間、連れの女達がざわめいた。……きゃあ、いい男ーっ、という声、ひそひそ声にしては大き過ぎるのよね。あたしに聞こえたんだから、連れにも聞こえてるよー、絶対。
 ……でも確かに、いい男だというのは認めざるを得ない。
 “みょーちゃん”とやらより背は低いけれど、ずっと均整の取れた体つき。ぎすぎす・ごつごつしていない、ちょっと優雅なほどの身のこなし。一見優男風なんだけど、こうなってみると、そこはかとない凄みもあって。……見るからに、喧嘩れの度合は、相手より百倍は上だ。
「どうする。表へ出るのか、出ないのか。俺はどちらでも構わんが」
「ば……馬鹿に……しやがって……」
「馬鹿をそれ以上馬鹿にしようもないがな」
 う、うっわー。内藤某、優しげな顔で容赦ないことを言う。騒ぎに気付いたお店の人が飛んできてなだめようとしたけど、内藤某、それを穏やかに押し止《とど》めた。
「心配御無用。これ以上店に迷惑をかけるつもりはありません。床も、後で自分で拭いておきますから。……それより、料理、間違ってそちらに届けられているようですよ」
「す、済みません、申し訳ありませんでした」
 何だかお店の人の方が恐縮しちゃって、何度も謝る。……うーむ、何と言うか、その気にさえなれば、ごく自然に場を仕切ってしまえるタイプらしい。
 一連の遣り取りを見ていれば嫌でもわかる力量差に、連れの男女達は、喧嘩するには相手が悪過ぎると悟ったらしい。「ねー、みょーちゃーん、もう料理来るよー、食べようよー」とか「いいじゃなーい、ムカツイても一時《いっとき》一時ぃー」とか「馬鹿、ヤバイよ、よせよー」とか頻りに言って、止めようとし始めた。でも、止められると却って後には退《ひ》けなくなるのか、それとも連れの女連中が内藤某を「いい男」と褒めたのが聞こえちゃったのか、“みょーちゃん”は依怙地だった。
「──うっせえ、表に出んだよっ!」
「なら、どうぞお先に」
 喚く相手に、内藤某、すまして応じた。
「安心しろ。酔って足許も覚束ない相手を後ろから殴り倒すような真似はせん。そうしなければならんほどの相手でもない。どうしても喧嘩を売りたいと言うのなら、先に外へ出ろ。そうすれば、買ってやる」
 ……ちょっと、含みのある言葉。そうしなきゃならないほどの相手なら、酔ってふらついてるところを後ろから殴り倒すような真似でもする、ってことかな。お前はそこまでしなくても殴り倒せる相手だ、って言ってるようなものだから、相手には充分な侮辱だけど。
「あ、あのう、無理にお買いにならなくても」
 母さんが、ちょっと不安そうに引き止めた。内藤某が勝つには決まってるけど、でもどうも逆恨みしそうな相手だから後々面倒になっても、と心配になったみたい。
「元はと言えばウチの有希が買おうとしていたようなものですし……」
「かーさーん、それ、言い過ぎっ」
「黙んなさいっ。大体あんたがあんなのに本気で腹立てるからっ。世の中にはねー、本当に腹を立てなきゃならない相手がもっと沢山いるのっ。あんなの一々相手にしてたら、人生勿体ないでしょっ」
「……まったくだ」
 内藤某、苦笑いしてる。母さんも、言う時は結構きついこと言うのだ。……ただねー、此処で言っちゃうと、相手をもっと怒らせるだけだと思うんだけど……
「おふたり共、どうぞ御心配なく。これ[#「これ」に傍点]を病院まで送ったら、すぐに戻ってきますから」
 げっ。
 な、なんちゅーことを、さりげなく。
 微笑みながらのその台詞、相手を病院送りにする、って宣言したも同然。
 これには、流石に、連れの男女達がびびったみたい。止め方が本気になった。それまでは自分達は座ったまんまで声をかけていたのが、まだ性懲りもなく意気がっている“みょーちゃん”と内藤某との間に割り込んで無理矢理引き離し、「済みませんっ、こいつが酔ってましてっ」とか何とか、へこへこして。酔ってることを理由にするなんて最低だけど、一応体を張って止めようとするのはそれなりに友達甲斐はあるってことだから、大目に見てやろうかとも思う。……いや、大目に見てやらないと、内藤某、本気で相手を病院送りにしちゃいそうだから。
「……酒を飲んで楽しむのは自由だが、周囲の客に迷惑をかけるような大騒ぎは、こういう静かな雰囲気の店では控えてほしいものだな」
「はっ、はいっっ、失礼しましたっっ」
 内藤某は、まだぶつぶつ言ってる相手が連れ達からずりずりと席に戻されてしまうと、別に何もなかったかのような顔で、丁度戻ってきたお店の人から自然に雑巾を取っちゃって、床に撒いた白ワインをさっさと自分で拭き始めた。そして、「どうもお騒がせしました」と軽く頭を下げて雑巾を返すと、あたし達に「手を洗ってきますから」と言い残し、席を離れた。
 あたしは何となくホッとして、はあっ、と息をついた。
「……は〜、寿命が縮んだ〜」
「って、有希っ、母さんはあんたの方によっぽどはらはらさせられたわよっ。内藤さんがいなかったら、あんた暴れてたでしょっ」
「うーん、まあ……そおとも言う」
「内藤さんに謝りなさいよ。内藤さん、あんたじゃなくて自分の方に恨みつらみが向くように仕向けてくれたんだからっ」
 んんん……そ、そうだったのかなあ……?
 そりゃまあ確かにあたしは見るからに十代の小娘で、相手は倍近く生きてるらしい大人の男だから、下手にあたしが股ぐら蹴飛ばしてたら、連れの前で恥をかかされた、って逆恨みされてたかもしれないけど。
 でも、何だか、内藤某、ああいうトラブルを結構楽しんでた気がするんだけど。相手がずるずる引き離されていった時、ほんのちょっと、残念そうな目をしたような……
 隣の連中は、流石にさっきの一件で懲りたのか、こそこそ声を落として喋りながら、お互いに気まずそうに料理をつついてる。……居心地悪いだろうけど、自業自得なんだから、あたしには同情する気はない。程なく内藤某が戻ってくると、ますます気まずくなったのか、連中、目を伏せて黙りこくってしまった。……もっとも、女三人は、目を伏せながらも、「いい男」が気になるみたいで、ちらちらっと窺ってるけど。
 でも、内藤某は、もはや後ろには一切関心がないといった風情で、丁度運ばれてきた白菜と塩鮭のペンネを取り分け始めたのだった。

 その後、隣の連中は早々にいなくなり、周囲の客も何度か入れ替わった。けど、あたし達の頼んだ料理は十品以上あって、中には手の込んだ料理もあったらしくて全て出揃うまでに時間がかかったし、それに色々と会話も弾んだから、結局、オーダーストップ前のラストオーダーでデザートを頼む、というほど長居してしまった。
 白ワインも、主に母さんとあたしとで、フルボトル二本、綺麗に空《から》にした。残っているのは、手許のグラスの中の分だけ。
 前菜のみならず肉料理も魚料理もとっても美味しかったし、あたし達が好き勝手に選んだのとは明白に違う系統の料理を内藤某が頼んでくれていたおかげで、色んな種類の料理をたらふく食べられたし……うーん、もう、おなか一杯……デザート、入らないかも……。
「……なんて言って、どかんと大きなアイスクリーム頼んじゃって、この子は」
「だって、美味しそうだったんだもん」
「女の子は甘い物は別腹、ですか」
 内藤某、くすりと笑う。……面倒を見ている、という身寄りのない女の子が、きっと、そんな風に言ってるのね。あたしよりもずっと年上らしいけど、機嫌が斜めの時や怒った時に言うことが、あたしと似てるんだって。うーん、それって、腹が立つような、立たないような。
 ……ただ、あたしにも、そして多分母さんにもはっきりとわかったのは、内藤某がその女の子をとても大切に思っている、ということ。惚れたとか腫れたとかではないけれど、他の男が周囲をちょこまかするとやっぱり心配、というのが言葉の端々から窺えて……父親か兄の気分、なのかなあ。
 ちなみに、内藤某はデザートまでは頼まなかった。その代わり、グレープフルーツジュースを頼んでた。……酔い覚ましに、なんだって。効き目があるかどうかは知らないけれど。
 入るかどうか心配だった「どかんと大きな」アマレッティのアイスクリームも結局ぺろりと平らげて、母さんがちょっとだけ残したティラミスまで食べちゃって……
 残っていた白ワインを飲み干して、それで、あたしの食事は終わった。
 ほんと、自分でもよく食べられたなあと思う。それだけ美味しかった、ということなんだけど。
 もしこれを全部自分が払うとなると……うううう、想像したくないほどの金額になっちゃってるんじゃ……
 でも、内藤某は嫌な顔ひとつせず、あたし達が席を立つ前につとさりげなく席を離れて先に勘定を済ませてしまい、幾らかかったとも何とも一切口にしなかった。
 今にも雪が降りそうなくらい寒い外へ出てから、母さんとあたしは、御馳走してもらったお礼を言った。幾ら『危ないところを助けてもらったから』と言われても、詳しい話は『知れば、却って白石さん方に身の危険が降りかからないとも限らない』と教えてもらえなかったから、あたし達にはピンと来なかったし……もし本当に母さんとあたしが内藤某の「危ないところ」を助けていたのだとしても、こんなに沢山奢ってもらっていいようなことをしたという自覚もない。ともあれ御馳走になったのだから、お礼を言うのは当然だった。
「いいえ、俺の方こそ、色々頂いてしまって」
 内藤某は、わずかに、はにかんだような笑みを浮かべた。そして、差し支えなければ途中まで送る、と言った。
「本来なら、こんな夜遅くに若い女性をふたりきりで帰すのは心苦しいんですが……今日会ったばかりの方のお住まいまで行ってしまうのはもっと気が引けるので、お望みなら最寄駅、拙ければ乗車駅まで。……申し訳ないが」
 ……節度を守る方を優先したい、ということなんだろう。
 家まで送ってもらえないのが何だか寂しい気がするのが、自分でも意外だけど……
 結局、あたし達の利用する路線の駅が此処からそんなに遠くない場所にあるとわかったので、そこまで送ってもらうことにした。降りる駅まで、というのは逆にこちらが申し訳なかったし、それにあたし達の住んでるアパートは駅から割に近い。途中の道も明るいから心配いらない、と母さんが言ったら、内藤某、かすかにだけど、安堵したような目をした。ああ、本気で心配してくれてたんだな、って、それでわかった。
 この人は、きっと、母さんが騙されたいと望んでも、騙してくれない人なんだろうなあ……なんてことを、ぼんやり思う。
(……こういう人なら、母さんとお付き合いしてくれたって、いいんだけど)
 でも、世の中、そう巧くは行かないもの、ってことも、残念だけどわかってる。会話を交わしていて気付いたけれど、この人……何処となく、他人と親しくなり過ぎてはいけない、と自制しているところが窺えて。それが何故なのかはよくわかんなかったけど、そんなに簡単には他人に明かせない事情があるみたい……というのは、あたしにも何となく感じ取れていた。
 つまり……普通に暮らしてる人とは絶対に深いお付き合いが出来ない、何処か、普通の人とは違う世界に住んでいる人。
 とっても惹き寄せられてしまうけど、でも、近付き過ぎてはいけない人。
 それが、この何時間かをこの人と過ごしていて、あたし、有希が出した結論。
 ……そして、多分、母さんも。
 駅に着くまでは、あたしばかりが、内藤某と喋ってた。母さんは、何だか寂しそうな顔で、黙々とあたしの隣を歩いてた。
 だけど、駅に着いて、切符を買って、改札の手前まで来た時。
 それまでじっと黙りこくっていた母さん、思い切ったように内藤某の方を振り返った。
「あの──また、お会い出来ますか」
 あたしは吃驚した。母さんの方から男の人にそんなことを言うことがあるなんて、思ってなかったから。
 内藤某は、ゆっくりとまじろいで、穏やかに母さんを見つめた。
「……御縁があれば、また何処かで会えるでしょう。縁がある相手とは、これっきり二度と会うものか、と心に決めていてさえも、また、会ってしまうものです。……百七十年近く、ずっと、そうだった」
 ……え?
 聞き間違い、かなあ……?
 すっごくすっごく小さな声だったけど……今、百七十年近く、って……うーん、あたし、酔ってるのかなあ……
「……では、約束は出来ませんが、いつかまた、と申し上げておきましょう。今日はとても楽しかった。突然の申し出に付き合ってくださって、どうも有難う」
 微笑みかけられた母さんは真っ赤になって、「こちらこそ有難うございましたっ、それじゃ失礼しますっ」と頭を下げ、身を翻して自動改札を駆け抜けた。──ああっ、ちょっとっ、切符取り忘れてるっっ。あたしも急いで同じ改札に駆け込み、母さんが取り忘れた切符を引き抜いてから、自分の切符を入れて改札を抜けた。
 振り返って、ぺこりっと頭を下げる。
 内藤某は、軽く笑って、手を挙げてくれた。
 素顔を晒したままで。
 それが、あたしには嬉しかった。駅の構内は煌々《こうこう》と明るくて、周りには沢山の人がいて……普段ならきっと、サングラスで目を隠してしまっているだろう場所。なのに、彼は、あたし達といる間だけでも、ずっと、素顔を晒していてくれた。それは、あたし達と、お座成りなんかじゃなく真剣に向き合ってくれた証
「──内藤さん、今日は有難うございましたア!」
 だからあたしは、思いっ切りおっきな声でお礼を言っておいて、先に走っていってしまった母さんの跡を追ったのだった。

 んもうっ、母さんったら、肝心なところで恥ずかしがり屋なんだからっ。
 どうせ積極的にあんなこと言うくらいなら、お礼言いながら抱き付くぐらいしちゃえばいいのにっ。ねえっ!



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