我ながら、度し難いと思う。

 他人の愛妾に“手を出す”など、正気の振舞ではない。
 なのに、そこまで、踏み込んでしまった。抑え切れぬ衝動に身を任せて。

 最初からその目的で近付いた、わけではない。
 けれども、何度か通う内に、昏い衝動が心をよぎるようになった。
 ……相手を憎んでいたわけでは、決して、なかった。
 だが、土方の情を受けている相手に、嫉妬のようなものは覚えていた。

 彼が慈しんでいる相手を、踏みにじりたかったのか。
 それとも、彼女の身を通して、彼と情を交わしたかったのか。

 胸の奥で、何かが燻っている。

 奇妙な、燻り。
 じわじわと締め付けられるような、鈍い痛み。

 後悔など、していない。
 ただ、時折、胸の奥が、鈍く痛むだけ……。

   ※※※

 私が局長の近藤達と共に出張先の広島から戻ったのは、慶応元年の年の瀬も押し迫った、十二月二十二日であった。
 戻ってきて最初に副長土方歳三と顔を合わせた時、私は、彼が既に私の“悪行”を知るに至っていることを悟った。
 私に目を当てず、ひとことも物言わず、会釈のひとつもよこそうとしないその態度の中に、極低温の焔《ほのお》が潜んで見えた。
(……今迄は)
 どんなに嫌っている相手でも、無視までするような男ではなかった。こちらが挨拶すれば会釈程度は返してくれていたし、言葉をかければ返事ぐらいはしてくれていた。
 なのに、どんなに私が含むような視線を投げても、思わせ振りな笑みをかけても、一切、何ひとつ、返ってこなくなった。

 胸の奥が、疼いた。
 あの日から時折覚えていた鈍い痛みが、きりきりと締め付けるような痛みに変わった。

 三日ち、四日経ち、五日経ちしても、土方は、私を無視し続けた。
 冷ややかな風だけが、まるで私がそこにいないかのような顔で歩く彼の横を吹いていた。
 無論、自分が何をしたかは、充分わかっている。
 彼から憎まれて当然のことをしたのだと、わかっている。
 けれども、憎しみの言葉すらなく無視されることが、これほどに痛いとは思わなかった。

 彼の視線が欲しい。
 どんなに冷たくてもいい、私に向けられる、あのまなざしが見たい。
 彼の声が聞きたい。
 どんな罵倒でも皮肉でもいい、私に向けられる、あの声音が聞きたい。

 日増しに、胸の奥の痛みが激しさを増す。
 後悔など、していない。
 そう言い聞かせる端から、胸の痛みが激しくなる。
 ……後悔しているのか、私は。

 いや、後悔してなどいない。
 彼女に対してひどいことをしたという自覚はあっても、それを悔いる心はない。恐ろしいほどに、ない。
 この胸の痛みはただ、土方から視線も言葉も与えてもらえなくなった、そのことに対しての痛みに過ぎぬ。

 日を追う毎に、他事が手につかなくなってきた。何をしていても、気が付くと彼のことばかりが心を占めていた。

 もう、こらえ切れない。
 何としても、彼の視線が欲しい。声が聞きたい。

 ……もはや、否定することは出来なかった。
 私は、一方的に狂おうとしている。
 土方歳三という男への想いに。

   ※※※

 ある朝、遂に、夢を見た。
 抗う彼をねじ伏せ、意地悪く責めなぶり、激しく貪り喰らう夢を。
 夢の中で、私は、一線を踏み越えた。あの日、彼の愛妾を相手に一線を踏み越えた時のように、抑え切れぬ衝動に身を任せて。

 男色の趣味も嗜好も、私には、なかった筈なのに。

 彼が別の男の名を叫びながら果てた時、私の胸を苛み続けた痛みは極限に達した。
 打ちのめされ、引き裂かれた。
 ──何故、私のものにならない!

 目が覚めた時、私は、心に決めていた。
 今宵、この手で、今見た夢を現実のものにしようと。
 そして、あの端整な唇から、他の誰の名でもない、私の名を叫ばせてやろうと。

   ※※※

 慶応元年も残りわずか半日となった夕暮れ時──。
 私は、昏い想いと企みとを胸に秘めて、土方の居室を訪った。
 土方は、私が姿を現わすと、丁度そこにいた沖田と井上に、席を外すよう頼んだ。大した用で来ていたのではなかったのだろう、彼らは特段文句を言うでもなく、笑顔で私に挨拶をして、部屋を出ていった。
 彼らが障子を閉ざしてしまうと、私は、恐ろしく無表情な顔で火鉢の傍らに座している土方の前に座った。
「嬉しいですね、人払いですか、土方さん」
 笑みを浮かべながらかけた声に、返事はなかった。
 だが、わずかに情動の窺える瞳が、私の面を冷たく斬った。
 私の心は、小さく震えた。
 やっと、土方が私を見てくれた。
 帰京以来まともに当てられたことのないその漆黒の瞳が、やっと、私を映してくれた。
「……御機嫌斜めの御様子ですね」
 小首をかしげながら、私は言葉を継いだ。
「君鶴殿と喧嘩でもなさったのですか?」
 邪気なげな顔で投げかけた問に、土方の目が一瞬、激烈な稲妻を放つ。
 ……やはり、知っているのだ。私が彼女にしたことを。
 だが、その唇は真一文字に引き結ばれ、動こうとする気配もない。ひとことも、発しようとしない。
「……無言の行でも始められたようだ」
 呟く身の内を、昏い衝動が、じわりと這う。
 私は息を凝らし、己の中に蠢くその衝動を見つめた。
 声が……声が聞きたい。
 あなたの、声が、聞きたい。
 私の“手”に崩れ去る、その時[#「その時」に傍点]の声が。
 こらえ切れずにその端整な唇を割る、その時[#「その時」に傍点]の声が……。
 ……数日前までの私なら、馬鹿なことを考えていると苦笑いして済ませただろう。
 しかし、今は……
 私は、懐から手拭を取り出した。
「相変わらずのつれない方だ、土方さんは」
 ゆっくりと開き、丁寧に延ばし広げてゆく。
「私とは口も利きたくない……そう言いたいわけですね」
 呟き終えるや否や躍りかかり、回り込みざま手拭をかませた。頭を振って逃れようとする相手を許さず、手拭の端同士を素早くひと結びする。後ろへ引き倒さんばかりにギリギリと仮借なく締め上げてやると、口の端《は》に食い込む痛みに耐えかねてか、土方はじきに抗うのをやめた。
 思い通りに事が運ぼうとしている快感に、含み笑いが洩れた。
「どうせ利かぬ口なら、こうして封じてしまったところで困りませんよね、土方さん」
 手拭の端をきっちりと結んでしまいながら、私は、半ばひっくり返りかけた不自然な姿勢のままで固まってしまっている相手の左の耳許に囁いた。
「広島から戻ってからというもの、会釈ひとつしてもらえぬほど徹底的に無視されて、さしも寛容な私も少々頭に来ているんですよ。だから、少し、折檻したくてね……」
 囁きを吹き込み、横合から抱きすくめる。
「ねえ土方さん……私が何をしたか、知っているんでしょう?」
 そうしながら、私は呟いた。殆ど、耳朶に吹きかける吐息に近い声で。
「知っているから、いよいよ私が憎くて冷たくするんでしょう? その物凄まじい目つきを見ればわかりますよ、あなたが私のしたことを既に知っているということはね。……くく、それを知った時のあなたの顔が見られなかったのが、残念至極……」
 抑え切れぬ想いに胸かせつつ、相手の目許に唇を寄せる。そっと触れ、軽く撫でるように滑らせ、またそっと触れ……そんな微細な接触を繰り返してやると、相手はぶるっと身震いし、思わずといった感じで目を閉ざした。──まるで、あの日の、あの女のように。
 胸の奥が、痛みとも悦びともつかぬ情動に激しく震えた。
「……思い出しますね……」
 喉で笑いながら、私は呟いた。
「抱きすくめて頬に唇を触れたら、君鶴殿も丁度そんな具合に身を震わせて目を閉ざしてしまった」
 カッとなったか目を見開く彼を、私は、畳の上に押し倒した。素早く馬乗りになり、押さえ付ける。だが、彼も、押さえ込まれては仕舞と承知しているのだろう、懸命に私を払いのけようとしてきた。
「──おとなしくなさい」
 抗う相手をあしらいながら、私は微笑んだ。
「おとなしくすれば、手荒な真似はしませんよ」
 そんな言葉で相手の抵抗を押さえ込めるなどとは、勿論露ほども思っていない。単に、私の方が優位に立っていることを相手に知らしめたいだけだ。
 そうこうしている内に、相手の力が急速に衰えてきた。
 私は、息を弾ませながら笑った。最初から、ある程度は抗わせてやるつもりだった。そうでなければ面白くないというのもあるが、それだけが理由ではなかった。……猿轡をかませたのは、伊達ではない。轡をきつ過ぎるほどきつくかませることで、舌を喉の方へ押し込んで、気道を半ば塞いであるのだ。呼吸に難がある身で、そう長い時間激しい抵抗を続けられる筈がない。
 楽しい。
 何と楽しいのだろう。
 こうも思い通りに、事が運ぼうとは。
(……もう、いいだろう)
 今迄は軽めにあしらっていた。相手から激しい抵抗を引き出す為に、払いのけられるかもしれないと思わせるようなあしらい方をしていた。だが、その策に嵌まり、息を切らして力をなくした相手に、もはや、私の手から逃れる術《すべ》はない。
 私は、力を失いながらもまだ私を払いのけようと伸びてきた両手首を捉え、容赦なくねじり上げた。このひとねじりで、彼の両手は暫く役立たずになった筈だ。彼が抑え切れずに洩らした短い苦痛の呻きが、耳の中で心地好く転がった。
「手こずらせてくれる……往生際の悪い方だ……でも、そうでなくてはね……張り合いがない……」
 満面に笑みを浮かべながら、私は、相手を組み敷き直した。
「君鶴殿もね、最初は抗った……」
 諦め悪く抗おうともがく相手を難なく押さえ込み、毒の滴る声で囁きかける。抵抗させてやる時間は終わりだ。今からは、無力さを思い知らせてやる時間だ。
「けれど、じきに、いい声で私の手に応えてくれるようになりましたよ……いけないと思えば思うほどに燃え上がるという奴でしょうね……仕舞にはもう、私にひしとしがみついて悶えながら、実に快げに善がり泣いていた……」
 眼下の相手の白面が、真紅に染まる。凄まじいまなざしが、視線で殺せるものなら殺したいと叫んでいる。
 だが、私は全く怯まなかった。
 何故なら、私は、知っていたから。
 どんなに今は憎しみと憤りに燃えていても、その端整な顔はやがて、私から与えられる悦びに歪み解け蕩け、堰き敢えぬ涙を流し始めることになるのだと……。
「あなたは、さて、どんな声で泣いてくれるんでしょうね? 唸ったり呻いたりするぐらいは出来ますよね……」
 身の裡をぞわりと動く昂りに、わずかながら、言葉の端が震えた。
 あなたの声が、聞きたい。
 その時[#「その時」に傍点]の声が。
「……無理矢理押し殺された善がり声というのも、風情があって楽しそうだ」
 眼下の男への否定出来ぬほど激しい欲情が、総身を駆け巡る。
「大丈夫ですよ……昔ね、酔った勢いで一度だけ、男と寝てみたことがある……だから扱い方は知っている」
 あれは我に返って随分と後悔した体験では確かにあったが、今日のこの時の為になったと思えば、悪くはない気がする──とさえ、今は思える。
「すぐにおとなしくしなかった分は、後で痛い目に遭わせなくてはね」
 相手の顔に初めて、怯えの色が浮かぶ。私の言葉がどういう行為を示唆しているか、悟ったのだろう。
 そして、それから逃れる術《すべ》が、ないことを。
 相手が示す反応に心躍らせながら、私は、微笑みかけた。
「でも……概ねは優しく扱ってさしあげますよ」
 凶悪なほどに、優しく。
「初めて……でしょう?」
 相手の目が、悲鳴に似た色を迸らせる。抑え切れぬ恐怖と、その底に潜む絶望とが、はっきりと伝わってくる。
 やっと、思い知ったか。
 今の己の置かれている立場を、そして無力さを。
 ならば、次は、その身にたっぷりと教えてやることにしよう。
 私の“手”に落ちる悦びを。
 捕えた獲物を屠るべき時間が来たことを、私は、確信した。
 何処から、責めようか。
 あなたの肌の敏感さは、よく知っている。あの日、あの時、あの壬生の共同墓地で、充分に確かめたから。
 そして、今朝、夢の中でも、存分に。
 ……もっとも、私は既に、決めていた。この男とは、必ずそこから始めると。
 唇を、寄せてゆく。殊更に、ゆっくりと。
 此処まで追い込んだ獲物相手に、焦るつもりはなかった。いや、むしろ、幾らでも回り道をして、じっくりと教え込んでやるつもりだった。この男が底なしの悦楽に溺れ、二度と私の“手”を忘れられなくなるまで、丹念に。
 相手の表情が真っ白になる。未知の体験への恐怖の余り、もう、逃れようと考えることすら出来ないのだ。
 首筋に当て、滑らせる唇に、狂ったように早鐘を打つ鼓動が伝わってくる。その、私ゆえに乱れ切っている脈拍が、今の相手がほぼ私の手中にあることを、物語る。
(──この男は、私のもの)
 以前に味わった、弾力があるくせに奇妙に柔らかだったその感触を思い返しながら、目指す左の耳朶へと唇を這い上らせてゆく。
(今日こそ──今日こそ、手に入れる)
 新選組を私のものにする為に、その要であるこの男を。
 ──いや、もう、そんな目的など、どうだっていい。
 今の私が欲しいのは、この男だけ。
 この男さえ──この男さえ手に入れることが適うなら、他には何もいらない。
 轡をかませてある口からかすかに洩れてくる恐慌の悲鳴同然の呻きに胸躍らせつつ、小刻みに震える耳朶にまさに触れなんとした刹那──

「歳、居るか?」

 ──無造作なほど唐突に、その声は飛び込んできた。
 私はぎょっとなって動きを止めた。近藤の声だった。気付けば、いつの間にか周囲には暮れ残りの明るさもなくなっていて、灯りのない室内は薄闇に沈んでいた。
「居ねえのか?」
 灯りがないので、在室かどうか訝っているのだろう。
 土方が身じろいで、もがき出しそうな気配を見せる。
 まさか、自分の陥っている苦境を知らせようというのか。
 冗談ではない。
 こんな場面を他人に──殊に近藤に見られるわけには行かない。
 急いで私は、相手の猿轡をほどいた。近藤に知られたくないのは、土方とて同じ筈だ。果たして、無言で促すと、彼はわずかにかすれた声で「居るよ」と口にし、ちょっと昼寝をしていたのだ、と弁解した。
「何か用なら、身仕舞してからあんたの部屋に行くよ」
「そうか、そんなら悪いがそうしてくれ」
 ……遠ざかる足音の主を、私は、どうしようもなく煮えくり返る怒りに苛まれながら、障子越しに睨み据えた。
 殺意に等しい憎しみさえ、覚えた。
 何故、私の邪魔をする。
 何故、こんなに折好く、土方に救いの手を差し伸べにやってくる。
 ……無論、由ない怒りだとは、自分でわかっていた。近藤は何も知らないのだから、私の邪魔など出来る筈がない。
 けれど、頭でそうとわかっていても、心は、別物だ……。
 目を閉ざし、ひとつ息をついて、私は、全ての激情をかろうじて抑え込んだ。
「……今日のところは、勘弁してあげましょう」
 立ち上がりながら、私は呟いた。あれほど激しく燃え立った欲情は、今の一件で、おかしなくらい削げ落ちてしまっていた。
「でも、いつか必ず、あなたを私のものにしてみせますよ。……必ずね」
「嫌なこった」
 半ばかすれた声が、即座に返ってくる。
「俺ァ、誰のものにもならねえ。殊に、てめェのものになんざ、誰がなるか」
 奇妙なことに、私は、その言葉に深い安堵を覚えた。
 何故か、泣き出したいほどの歓びさえ覚えた。
 そこに横たわっていたのは、いつもの、冷たくつれない土方だった。そのまなざしも、その声も言葉も。
「……やっと、口を利いてくれましたね」
 余りの嬉しさに、笑みと言葉がほろりとこぼれる。
「奥の手まで使った甲斐はあったようだ。……では、好いお年を」
 ゆったりとした一礼を残し、私は、土方の居室を後にした。

 慶応元年、十二月二十九日。
 私ばかりが深く相手に狂わされてゆく、それが、明らかな始まりの日となった。



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