慶応元年夏、江戸などで徴募した隊士を迎えて百人を超える大所帯となった新選組では、組織の見直しと法令の定めとが行われた。
 私には、新たに創設された参謀という役職が与えられた。主に対外的な面で局長の近藤に献策する補佐役という位置付けであり、隊内の切り回しに関する面で局長を補佐する副長と同列の扱いである──との説明であった。
 ……成程、土方は、私を隊の指揮系統から外しておこうと考えたのか。
 まだ案の段階で近藤と土方から内示を受けた時、私は内心そう思ったが、不快感は一切示さなかった。それどころか、内示案を褒めさえした。いや、実際、よく出来た案だと素直に思ったのだ。
「実に、見事な仕組ですよ。よく考えられた、無駄の少ない機能的で現実的な」
「それは認めますがね」
 季節は移って長月朔日《ながつきさくじつ》、祗園の某所。……私の前に座っているのは、上洛以前からの信頼の置ける同志である篠原さん唯ひとり。
「伊東さん、さっき打ち明けてくれたあんたの考えを実行するのには、どうなんです」
 篠原さんは、一見のんびりとした風情で、しかし中身は決して“のんびり”ではない相槌を打った。
「実際、参謀なんて、聞こえはいいが」
「実がないと? 確かにそうです」
 私は、閉じた扇でぽん、ぽんと軽く膝を叩きながら、にこりと笑った。
「篠原さんはよく見ている。確かに、私は幹部だが、直属の隊士はいない。隊務に煩わされない地位で有難いのですが、よく見ると、自分が新選組のこの機能的な命令系統から外されているのがわかります。かつての“総長”と大同小異ですよ」
 おまけのように、文学師範という肩書の役目まで付けられている。文字通りに取れば儒学を講義する役ではあるが、実質的には、儒学に止まらぬ学問一般を視野に入れているらしい。つまりは、参謀職と併せて、上洛以来の私が置かれている状態の追認とも言えた。……参謀職だけでは暇だろうから忙しくしてやれということなのか、それとも、武の方面の師範になり得る人材に比べると文の方面の師範となるべき人材が少ないから悪いが正式に兼任してほしいということなのか。
 まあ、幼い頃から学問に親しみ、十代にして既に実父の開いた私塾の支塾でとは言え漢籍を教え、江戸深川の伊東道場でも二十代前半から塾頭──彼の道場では剣に長じているだけでは務まらなかった役目──を務めていた私にとっては、別段重荷でも何でもない仕事であるから、構いはしないのだが。
 ちなみに、目の前の篠原さんは、柔術師範である。
「それで、いいんですか」
 念を押すような語調で尋ねる篠原さんに向け、私は再び穏やかに笑ってみせた。
「いいんですよ」
 参謀という職は、指揮系統の頂点に立つ局長に直接献策出来る立場である。また、文学師範という役目も、指揮系統の末端に位置する隊士達の精神に訴え掛けることを容易にする立場である。更に言えば、指揮系統そのものから外されているので、市中巡察や瑣末な雑務に煩わされることもない。これほど、頂点と末端に影響力を及ぼすことに専心出来る、お誂え向きで便利な立場があろうか。
「私は、些事に煩わされることなく動けるということを最大限に利用させてもらっているつもりですから」
「それなら、いいんですがね……」
「今にわかりますよ、篠原さん」
 私はゆっくりと呟いた。
 土方が中心となって作り上げた新たな仕組は、無駄が少なく、機能的である。隊士五人につき伍長がひとり、伍長ふたりにつき組長がひとり。副長が直属の部下に置くのは、その組長十人と、それ自体は小さな部署である監察方・勘定方などの人員のみ。しかし、その最低限の人数を動かす権限を掌握するだけで、全ての隊士とあらゆる情報とが副長に収斂されるようになっている。そして、隊内を取り仕切る長《ちょう》たる副長は常に局にひとりであり、同役に煩わされることなく判断や決断が出来る。まさに、局長以外のほぼ全ての隊士が、見事なまでに副長土方の指揮下に置かれているのである。
 ところが、私を参謀としてその指揮系統の外に置いてしまったことで、隊の全てが土方の手の中に収まる仕組には綻びが生じてしまっている。
 確かに私は、実働部隊を指揮する権限を与えられなかった。だが、権限がないということは、責任もないということなのである。隊を維持する為に嫌な顔も折々に見せねばならぬ土方と違って、言葉は悪いが、無責任に、いい顔だけ見せていられるのだ。
 そして土方は、並びとして同列である私の行動を牽制することは出来ても、あからさまに掣肘《せいちゅう》したり、ましてや副長としての権限で阻止したりすることは出来ない。無論私にしても土方の副長としての権限を妨げることは出来ないのだが、様々な局面で陰に陽に揺さぶりを掛けることで、肘を掣《ひ》く程度のことは出来ている。
「私を祭り上げて隊の実権から遠ざけたつもりでいるだろう男も、いずれは自分の犯した失敗に気付く……さて、その段になって、あの男、どういう顔をするのやら」
 知らず、低い笑いが喉から洩れた。土方のことを考え始めるとどうしても、何処かしら昏い悦びの波が押し寄せて、胸を浸すのだ。
 篠原さんが、つと、何かを疑うような表情を浮かべる。
「伊東さん、私はあんたを尊敬しとるし、信頼もしとるとですよ。……しかし、最近のあんたは、少うし、おかしいんじゃありませんか?」
 私は思わず笑いを引っ込めた。おかしい、と言われてしまうような振舞を篠原さんの前で見せたことはない筈だが、篠原さんは篠原さんなりに、私の内面の変化に気付いているのか……。
「私の思い過ごしかもしれませんがね、あんたはこっちへ来てからというもの、あの土方歳三の言行に妙に気を向けとるように見えるとですよ」
 ……そう見えていたのか。
 伊達に私よりも年は取っていない。人を見る目も、それなりの経験に裏打ちされている。
 篠原さんと私との間には、世間的に見れば無視出来ない年齢差がある。しかし、だからと言って私に接するに際して変に分別かったり偉そうにしたりというわけではないのが篠原さんだ。私を尊敬していると口にしても少しも卑屈でなく嫌みでなく、さりとて盲目的な崇拝でもなく、忠告すべきは忠告してくれる。
 だが、
「言っちゃ何だが、ああいう、人の情を母親の腹の中に置き忘れてきたような陰険な男には、あんまり近寄らない方がいい」
 ……これは、どうにも、素直には受け取れなかった。
「私はそうは思いませんよ」
 反射的に覚えた圧倒的な不快感をぐっと腹の底に圧殺しつつ、私は静かに言い返した。
「篠原さんには見えませんか。あの男は人一倍の情を、冷厳無残な鬼面の下に隠しています」
「たとえそうだとしても、表に出さぬでは、誰も救われないでしょうに」
 篠原さんは嘆息した。
「六月から今迄に、一体何人があの人面の鬼に処断されたか……瀬山・石川は切腹、佐野は斬罪、酒井も沖田君に斬られ、川島は富山君に首を刎ねられ……幾ら掟か何か知らないが、余りに厳し過ぎる」
「さあ……私の見方は少し違いますね」
 私は扇をぱらりと開くと、煽ぐともなく煽ぎながら小首をかしげてみせた。
「余りに厳し過ぎると篠原さんは言われたが、篠原さんがそう感じているということ自体が、あの男の狙いが隊内に浸透している証左ではないかと、私は思うんですよ」
「はあ……?」
「本当に情け知らずの酷吏なら、もっと処断に追い込んでいます。それこそ些細な非違を針小棒大に言い立て、片っ端から切腹させるくらいのことはやっているでしょう。けれど今篠原さんの言った五人は、逃れようのない明白な罪を犯した結果、処断された」
 瀬山と石川は町方の婦女に暴行した廉《かど》で“士道不覚悟”を問われ切腹。佐野は私の金策をしたことが発覚し、酒井は脱走の故に、そして川島は除隊後に新選組の名を騙って金策したが為に、それぞれ斬の憂き目を見た。……どれもこれも、些細な話ではない。京洛《けいらく》の治安を守るという勤めを果たす為には決してなあなあ[#「なあなあ」に傍点]で見逃してはならぬ、身内の不始末である。
「……多分、あの男の狙いは、一罰百戒。明らかな隊規違背者を断固として処分することによって、隊士達を引き締める。その目的あっての厳罰ではないか……」
 篠原さんは難しい顔で黙っている。私の言う理屈はわかるが、はいそうですかと承伏はし難い……そんな表情であった。
「……無論、それが唯一の正しいやり方だとは、流石に私とて思ってはいませんよ」
 半ば相手をなだめるようなつもりで、私は言葉を続けた。
「ただ、あの男の狙いを見極めることが私の目論見を実現していくには重要なことなのでね。鬼面にばかり目を奪われていては、その下のあの男の本当の姿が見えなくなってしまう。……あなたにだから言いますが、私はね、篠原さん、最終的にはあの男を味方に付けたいと思っているんです」
「──悪い冗談だ、そいつは」
 篠原さんは、いつも何処か眩しげにしている目を、珍しくも大きく剥いた。
「土方を味方になんて、天地が引っくり返ったって無理ですよ──! 第一、何だってあんな冷血漢を味方にしたいんです?」
「わかりませんか」
「わからないですな。正気の沙汰とは思えない」
 私は思わず苦笑した。
「……確かに正気ではないのかもしれないな」
「え?」
「いえ、ひとりごとです」
 口中でのごく小さな呟きを二度とは繰り返さず、パチリと扇を閉じる。
「私があの男を味方にしたい理由は、極端な話、彼さえ落としてしまえば私の目論見が達成されるからなんですよ、篠原さん」
「ええ?」
 訳がわからないという風情で、篠原さんは目をしばたかせる。
「そいつは一体……どういうことです?」
「あの男は、新選組という扇の要《かなめ》なんです。新選組の顔は局長の近藤、しかし実際に隊を取り仕切り、動かしているのは副長の土方。その証拠に御覧なさい、篠原さんも含めて、私以外の全ての隊士達は、上に辿ってゆくとひとり残らず一旦副長の許に行き着く。篠原さん達監察の集めてきた情報の類《たぐい》も、必ずまずは副長の許に届けられねばならない。つまり、極言するなら、局長でさえ、副長を通さない限り、隊士達を動かすことが出来ないし、隊士達の行状を知ることも出来ないわけですよ。……まあ、もっとも、局長は政治向きのことに熱中していて、まるでその気のない副長が隊の運営に心を砕く、という分業が自ずと成立はしているようですがね。あと、忘れてはならないのが、このふたりの結び付きです。殊に、見ているとどうやら、どちらかと言えば土方の方が、近藤に対してより強い影響力を持っているようだ。局中では土方が一歩引いて近藤を立てているが、これは、心に余裕を持って相手を眺められるからではないか……」
 だから言うんですよ、と私は微笑した。
「土方さえ落としてしまえば、新選組はそっくりそのまま手に入る、と」
「そいつは……おかしな理屈ですな」
 篠原さんは、しかめっ面で腕を組んだ。
「私にはどうも、肝心な視点が抜け落ちとるような気がしてならんとです。……あんたが近藤と土方との結び付きを只の古馴染み以上のものと理解しているなら尚のこと、どうしてそういう大甘な発想が出来るかが、私には理解出来んとですよ」
「……大甘とは、また厳しい。困難な道だとは承知していますよ。しかし、決して不可能事ではない。些少の時は必要ですがね。……今し方の話は、今すぐにという話ではありません。いずれそうするつもりだから、篠原さんにも心しておいていただければ……というだけのことです。……さて、そろそろ、本来この座に相応《ふさわ》しい花を招きましょうか」
 私が苦笑に紛らせて話を終わろうとすると、篠原さんは口をいよいよへの字に曲げた。
「お待ちなさい。私の話は終わっとらんとですよ。……はぐらかそうったって、そうは行きませんからな」
「これはしたり[#「したり」に傍点]
 内心ぎくりとしつつも、表面上はバツの悪そうな顔をしてみせるに止《とど》める。
「まだ続きがありましたか。失礼しました。伺いましょう」
「いいですか、伊東さん、新選組をあんたが手に入れるということは、言ってしまえば、近藤を排除して自分が頭《かしら》に立つという意味でしょう。一体どうして、土方が味方に付くなどと大甘の甘々な考えを持てるんです。あんたこそが近藤を排除した張本人になるというのに、土方があんたを許す筈がない。……本当に新選組をあんたのものにしたいなら、近藤をあんたの傀儡《かいらい》にし、土方を陥れて追放するか、或いはいっそ亡き者にするかの方が、まだしも簡単で、実現性の高い手立てだと思えますよ」
 ……過激な一面も持っている篠原さんらしい発言だ。
 私は、すぐには答を返さず、じっと考え込んでいる振りをした。こういう問われ方をした時に返す答は端《はな》から決まっているのだが、自分でも訝しいほど激烈に波立ってしまった気持ちを落ち着ける為に、しばしの時を必要としたのだ。
「……それでは、意味がないですよ」
「意味がない?」
「私が手に入れたいと願っているのは、新選組そのもの[#「新選組そのもの」に傍点]です。新選組という名で呼ばれる浪士集団であれば何でも良いというわけではない。要を失った扇が扇としての姿を留められなくなるのと同じで、土方を失った新選組は、新選組ではなくなる」
 新選組の仕組が上手く機能するのは、あくまでも、要の位置にいるのが土方であれば──の話だ。合議を行なって責任を分かち合ってくれる同役がいないということは、常に副長ひとりが的確な判断や決断を局長或いは直属の監察や組長達から求められるということでもある。新選組の副長の座は、無能者が座っていられる地位ではない。
 ……いや、そもそも新選組自体が、無能者が幹部の列に座ることを許さぬ組織であるのだが。
「あの男なしでは、私がいずれ手に入れたいと考えている新選組は成り立たない。新選組を支えているのは、ひとえに、あの男の才覚なのです」
 今度は、篠原さんが暫く黙りこくる番であった。
「……ひとつだけ、あんたに確かめておきたいことがありますが」
「何でしょう」
「あんたは……まさか、あの男を、男色者の目で見とるわけではありますまいな」
「何を馬鹿な」
 私は弾《はじ》かれたように失笑した。……もしかしたら、篠原さんの耳には、わざとらしい笑いと響いてしまったかもしれない。自分の耳にさえ、何処か空虚に響いたのだから。
「私にそういう好みがないことは、よく御存じでしょう」
「生憎《あいにく》、うっかり道を踏み外したことがあるということも、よく存じておりますがね」
「……嫌というほど後悔しましたよ。同じ間違いを繰り返すと思いますか」
 私は、げんなりした表情を浮かべてみせた。……何故なのだろう、日々我々と接していた門人達ですら殆どの者が気付くことのなかった私と白井君との関係の変化にいち早く気付いたのが、たまに訪ねてくるだけの篠原さんだったのだ。篠原さんに言わせれば、どんなに私がそ知らぬ顔をしていたところで、白井君の方を見ていれば簡単にわかってしまうのだそうだが。
「いや、私は何も、あんたがああいう失敗を何度も繰り返すようなお人だと思っとるわけではなかですよ」
「思われては心外ですよ」
 げんなりした表情を苦笑へと移しながら、私は、かすかな息をついた。
「まあ、あれも、全く役に立たない経験ではなかったと思っています。……使える道具が増えましたからね」
「道具?」
「ええ。……篠原さん。言っておきますが私は、やがて国事の為と思えば、土方を味方に付ける為に如何なる手立てでも使ってみせますよ。それこそ、その道[#「その道」に傍点]の手立てでも」
 口に上せてみた言葉に、篠原さんはぎょっとなったように顔をこわばらせた。
 私は、それを眺めながら、かなり人の悪い笑みを浮かべた。
「……と、申し上げたら、腰を抜かされることでしょうねぇ」
「伊東さん……年長者をからかうもんじゃない」
 篠原さんは、ほっとしたような嘆息を洩らした。
「全然冗談に聞こえんかったとですよ。幾ら道具でも……」
 言い淀んだ後で、小さくかぶりを振る。
「……いや、あんたを信じましょう。……ただね、伊東さん、どんな道具でも、使い方を誤れば、自分が怪我をするもんです。殊に、その道[#「その道」に傍点]のことは、軽い気持ちで手を出さない方がいい。古いと言われるかもしれんが、古来、その道[#「その道」に傍点]のことは命懸けのもんと相場が決まっとるとですよ。まして、あんたは、男色者ではない。その道の経験もないに等しいのに、迂闊に“使える道具”だなどと思わんことです」
「……どんな手立てでも使うという気持ちに嘘はありませんが、道具は選びますとも」
 私は微苦笑してみせた。
「譬《たと》えは悪いですが、男女の道でも、いきなり押し倒して無理矢理に想いを遂げるような乱暴な真似は、私の好みではない。……誰を相手に何事を成そうとするにも、まずは、じっくりと時をかけて、相手と言葉を交わさねば」
「しかし、言っちゃ何だが、土方が相手では、言葉を交わすところからして既に難しいでしょうに」
「確かに日々何かと忙しくしている男ですからね。私用での外出も殆どないようだし、なかなかゆっくり話をする機会を持てないのが悩みの種」
「それ以前の問題ですよ」
 篠原さんは渋い顔をした。
「そもそもあんたは、土方から訳もなく毛嫌いされとるでしょう。もっとも、隔意を持たれているのは我々、あんたに近いと見られている皆に言えることではありますが、それも結局は、あんたと近い者だから、という理由でしかないわけですからな」
 ……どんなに自身でわかっていることでも、他人の口から聞きたい言葉ではない。平静を装いながら、しかし私は内心では、篠原さんに己の目論見を打ち明けたことを徐々に後悔し始めていた。
 無論、諸手《もろて》を挙げて賛成してもらえるとまでは思っていなかった。けれども、篠原さんなら、理屈を説明すれば理解は示してくれるだろうと思っていた。
 見込み違いだったのだろうか。
 達成が難しい企てであることなど、殊更に言われずとも、自分で嫌になるほどわかり切っている。だが、それでも、土方を味方に付けられれば、計り知れぬ益がもたらされるのである。積極的に賛成しないまでも、せめて、大変だろうがしっかりおやりなさいと励ましてくれても良さそうなものではないか……
「まあ、あんたが現に色々と努力しとるらしいのを一方的に咎めるつもりはなかとです」
 抑えたつもりでも私の内心の不満が伝わってしまったのか、篠原さんは一寸《ちょっと》なだめるような口調になった。
「ただ、土方が相手では、どんなに努力しても賽《さい》の河原の石積みになりはすまいかと、それが気にかかる。くれぐれも、努力の方向を違《たが》えて道を失うような馬鹿な真似は避けてくださいよ。あんただって暇ではないんです、同じ努力なら有意義な方面での努力をする方がいい」
「無駄な努力だとは思っていませんが、お言葉は心の片隅に留めてはおきますよ」
 私の答え方は、余り素直とは言えなかった。篠原さんは微妙に不安げな表情で目を細めたが、それ以上忠告がましいことを言えば私が態度を硬化させるだけだと感じたのだろう、それ以上その件については口にせず、「では、無粋な話は此処までにして」と自ら話題を変えた。
「お待ちかねの花々を招くとしますかな。……花と言えば、此処ではなく北野の上七軒《かみしちけん》にですが、以前、なかなか声の佳《い》い芸妓がおったんですが」
「上七軒。最近あちらには出掛けていませんでしたね」
「私は時々……。得も言われぬ艶のある声で唄う妓《おんな》でしたが、此処ふた月ばかり姿を見ないので体でも壊したかと思うておりましたら、三月《みつき》近く前に請け出されておったとか。もうあの声が聴けなくなったかと、しみじみ、残念に思えましたよ」
 私は少し考え、それから口を開いた。
「……君鶴殿ですか」
「おんや。もしかして、伊東さんも君鶴が気に入っとりましたか」
 篠原さんが目を円くする。私は何となく扇を開いてゆるゆると煽ぎながら、苦笑いを浮かべた。
「いえ、お気に入りと言えるようなものでは……正直、唄も殆ど記憶にありません。ですが、座敷に呼ばれてきたのを一度だけ見たことは覚えていますし、第一、請け出したのは土方ですよ」
「ええっ?」
 篠原さんは頓狂な声をあげて目をしばたいた。驚いたことに、全く知らなかったらしい。……知っている私の方がおかしいのだろうか。否、どうかすると平の隊士達でさえ知っている話なのだから、私が知っていて変だということはない筈だ。
「何と……君鶴が土方にねえ……ううむ……」
「壬生に休息所を構えて、住まわせていますよ。他の幹部と違って、泊まることは滅多にないようですが」
「ううむ……いや、壬生に休息所を持っとることは知っとりましたが……ううむ、勿体ない話ですな……ううむ……」
「ほう。篠原さんがそこまで惜しがるとは意外ですね。余程お気に入りの妓だったのですか?」
「いやいや、何度か唄を聴いただけですがね」
 頻りに唸っていた篠原さんは、私の問い掛けに、困ったような照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「人のもの、まして知り人のものになったと聞くと、途端に何やら随分と悔しいような惜しいような気がしてしまうとですよ。我ながら浅ましいものですなぁ」
「ははは……いやいや、誰しも、そんなものでしょうよ」
 私は、扇を閉じながら軽く笑うと、しばしの憩いを得る為に、仲居を呼ぶ両手を打ち鳴らした。
 閉ざされた障子の向こう側は、そろそろ暮れ始めているようであった。いつしか、辺りが、仄暗くなっていた。



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