煤け気味の白壁に嵌め込まれている、古びた木製の重々しい扉。
 その扉の前に、夕刻の色合を帯び始めた陽射しを横顔に浴びながら、黒ずくめの長身男性が佇んでいた。
 丈の長いマントの下に覗く質素なローブと、右手に携えている魔道媒体らしき長杖《スタッフ》とで、魔道士であることはひと目でわかる。
 漆の黒髪は、項《うなじ》を半ば隠す程度にしか伸ばされておらず、切れ長の目の奥に潜む黒い瞳は、何処かしら鋭い。そして、比較的彫りの浅い顔立ちと、淡クリーム色の肌……つまりは、所謂“旧大陸東方系”と呼ばれる顔貌《がんぼう》である。ぱっと見た感じでは二十代半ばであろう……と思えるのに、何故か、それなりに年旧《としふ》りた男なのではないか、という印象が残るのが不思議だ。
 彼が、黒魔道──破壊系や消滅系など、世間一般には“負”の効果をもたらすとされている技を得意としていることは、頑固なまでに黒ひと色のローブとマントを身に纏っていることで、容易に知れる。だが、その首回りと肩を覆っている濃い黒緑色のケープが、彼が単なる黒魔道士ではないことを物語っていた。
 黒魔道師──黒魔道を最も得手とする魔道師。
 黒魔道士は、魔法──魔道士たち自身は概ね“魔道”と称しているが──に詳しくない人々からは“闇や魔の力を使う”と恐れられ、屡々《しばしば》偏見の目で見られてもいる存在である。しかし、これが黒魔道師となると、やや話が変わってくる。他者に系統てて魔法を教えることを対外的に許される“魔道師”となる為の資格試験は、広く各国で活動を認められている魔道師ギルドに所属している魔道士でなければ受けることすら出来ないし、他の魔道師たちから「魔道の師たるに相応《ふさわ》しい」と認められない限り、その証であるケープを受け取ることも出来ないからである。
 黒魔道士の全てが、邪悪な輩《やから》というわけではない──それを世間の人々に思い出させるのが、黒魔道師という存在であった。
 とは、言え。
 魔道師のケープは、級が上がれば上がるほど、黒さを増してゆく。彼が纏っているケープは、既に、殆ど黒に近い緑色。夜目や遠目では魔道師とわかってもらえず、黒魔道士扱いされることも珍しくはない。
「……正直、会うのは鬱陶しいんだがな……」
 黒魔道師は、低い声で呟きながら、手にしていた長杖《スタッフ》を自分の肩に凭せ掛けた。杖の頭は、真銀《ミスリル》製らしき輝きを秘めた、翼持つ大きな三日月に飾られている。
「経験上、わざわざ白魔道士でございと自ら名乗ってるような連中は、碌《ろく》な奴らじゃないからな……」
 魔道士がその得手とする技の系統によって色分けされていた大昔ならいさ[#「いさ」に傍点]知らず、今の時代、魔道学院でも私塾でも、様々な“色”の魔道を万遍なく教えている。現代でも根強く言われ続けるのは“黒”ぐらいなもので、光や生命に関わる魔道を得手とする者を殊更に“白”魔道士と呼ぶことも殆どない。
「……まあ……お願いしたいことがある、と一応は低姿勢の“招待状”だったし、話だけでも聞く耳は持つとしようか……」
 用心しておけ、と囁く声が、黒魔道師の脳裡に届く。
「わかってるさ。……全く以て本意じゃないが、万一の時は貴様に任せる」
 首から下げた奇妙な色合の 護符《アミュレット》──真銀《ミスリル》製の鎖《チェーン》の先で枠に嵌め込まれている宝石の中に、目の錯覚か、様々な色が蠢《うごめ》いている──に左手の指を触れた黒魔道師は、傍から見れば独りごちたようにしか見えないだろう呟きを返しておいて、右手を軽く握り、扉に打ち付けた。
 トントン、トン、トントトン、トン、トン。
 事前に指定されていた通りのリズムで叩くと、ぎ、ぎっ、と音立てながら、扉の片側が手前に動いた。
「失礼する──タルミナの魔道師ギルドから来た者だが」
 浮いた隙間から建物の中へ声を掛けると、まるで幽鬼のような人影が近付いてきた。……いや、光量の不足した室内で白いローブに青白い顔だから、そう見えたのか。痩せ気味の体に白ローブを纏った、妙に老けた雰囲気の漂う魔道士であった。まだ若そうなのに、灰色っぽい髪のせいなのか、それとも、当人に若者らしい覇気が大きく欠けているせいなのか……黒魔道師は心かに、こいつのことは“幽鬼”と呼ぼう、と決めた。
「……お客人よ、非礼ながら問う。光の妖精姫《ようせいき》エルシア様が、かつて、折々の勇者たちにお力を貸して二度に亙り封印させた、邪悪にして残忍な単眼なる魔の一族の長《おさ》の真《まこと》の名は?」
 その“幽鬼”から受けた唐突な問に、黒魔道師は苦みの強い笑みを浮かべた。確かに、貰った“招待状”には、本人であるか否かを確かめる為に二、三の質問をさせていただく、とは書かれていたが……。
「バドマ・リアグ・ランガズム」
「では、光の妖精姫エルシア様と人の世に仇なす、闇の魔王子の真《まこと》の名は?」
「……俺にその名を言わせるのか。随分と悪趣味な確認の仕方だな」
 細い目を更に鋭く細め、唇を皮肉っぽく歪める黒魔道師に、だが、“幽鬼”は表情ひとつ変えることなく、同じ問を繰り返した。
「闇の魔王子の真《まこと》の名は?」
「……ジェナット。真《まこと》の名は、人間世界に住む生き物の口では紡ぐことが出来ない音で構成されているが故に、知られていない。お前たちが崇め奉るエルシア同様にな」
「──確かにタルミナからお越しの方と認めました。お入りください」
 深々と一礼した“幽鬼”が、ぎしぎしと軋む扉を外へと押し開く。黒魔道師は、肩に凭せ掛けていた長杖《スタッフ》を握り直すと丁寧に答礼を返し、開かれた扉を潜《くぐ》り抜けた。



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