随分と長い時が経ったように思えた。
 ミディアム・カルチエ・サーガ少年は、見事な青毛馬の背に在る若い女性武人を振り仰ぎ、見つめたままでいた。
 身じろぎもしなかった。
 言葉で表現することの出来ない奇妙な“感じ”が、その身の裡に湧き上がっていた。
 白い前鍔と羽根飾りの付いた淡い紅《くれない》の帽子を被ったその女性武人の方も、左右で青に緑と色の異なっている瞳でやや暫くミディアムを見下ろしていたが、程なく後方を顧み、同じく馬上に在った別の若い男性武人に声を掛けた。
「ルスフォン一等士官、点呼を済ませろ」
 後ろの武人は短く返事をすると馬を下《お》り、傭兵達に整列を命じた。
 ミディアムは、まだ、女性武人をじっと見上げていた。
 女性武人の方も、また再び、馬上から彼をじっと見下ろしてきた。
 感情の交流の不思議に欠落した対峙であった。
「ミディアム、お前もこっちに来い」
 ベーダ・ロブ・アルカナの声で、この奇妙な対峙は終わった。ミディアムは我に返ったようにベーダの方を見ると、まずヴァナ・シャクンタ・ラーズに借りた長剣《リラン》を返しに走り、それから、手招かれるままにベーダの左隣へと走った。
 点呼が終わると、例の女性武人は、ひらりと馬から下りた。
「ベーダ傭兵隊長、前へ!」
 女性としては低めの、落ち着いた声であった。
 声に応じて、ベーダが一歩、前に進み出る。
「何でしょうか、デフィラ王士《おうし》
「傭兵の志願者を此処へ」
 デフィラ王士と呼ばれた女性は、そう言いながら帽子──それが、王から“王士”という称号を与えられた者のみが被ることを許されている物であることを、後《のち》にミディアムは知った──の庇を軽く上げた。
「はい──ミディアム」
 ベーダに促され、ミディアムはその彼の側《そば》に寄った。
「……子供か?」
 デフィラの隣に立っていた、先刻傭兵達の点呼を取った若い武官が、驚いたように呟く。
 ミディアムは黙って、デフィラを見上げた。
「名前は」
 デフィラは、何の感情も窺えない声で、問を発した。
 ミディアムは黙っていた。
「──おい、ミディアム」
 ベーダが小声で注意するも、ミディアムの無言は続く。
「ミディアム──」
「傭兵隊長。口出しは無用だ」
 答えぬミディアムをつつきかけたベーダに、デフィラの冷徹な声が飛んだ。ベーダが一礼して沈黙すると、彼女は再びミディアムを見下ろし、静かな口調で同じ質問を繰り返した。
「名前は」
「……ミディアム」
「総名《そうな》を名乗れ」
 デフィラの声は、淡々としていながら容赦がない。
「……ミディアム・カルチエ・サーガ」
「出身地は」
「……」
 またもミディアムは、平然とデフィラを見上げて黙った。……顔立ちや体つきからすると、相手の年の頃は、まだ十代の終わりぐらいだろうか? 緑がかった青い服《ドージョ》に包まれた体はすらりと引き締まり、純白の肩掛け布《コープ》や亜麻色の短い断髪とも相って、その全体の雰囲気は人目にはやや厳しくも映る。妖艶さとは全く縁遠い、中性的な美しさの持ち主と言えようか。何よりも、静かな光を湛えるその両の瞳の色の違いが、見る者を不思議な心持ちに誘《いざな》い込んで已まない。
「出身地は何処だ」
 デフィラは一向に苛立ちの色も見せず、問を反復した。
「……クデンのヴェルナーサ」
 ミディアムはやっと答を返す。
「年は」
 デフィラは無表情に質問を続けた。
 ミディアムはちょっと考え、そしてきっぱりと言った。
「十二歳」
 このひとことが周囲に呼んだ反響は甚大であった。ベーダは顔色を変え、ヴァナは目を円くし、他の傭兵達はどよめいた。デフィラの隣に立っていた若い武官などは、驚きや呆れを通り越して怒りを覚えたらしい。
「おい、こらっ! 十五歳未満の子供は傭兵にはなれないのだぞ! 悪ふざけにも程というものがある!!」
 彼はそう怒鳴ってミディアムを睨み付けたが、ミディアムには悪びれた風もなかった。
「ルスフォン一等士官、静かにしていろ」
 デフィラの、ぴしりとした声が飛ぶ。
「構うことはない。マーナは、それだけの腕を持つ者であれば、赤子にであろうと金を出す」
「し、しかし規則では受験資格について──」
「規則には総監権限で特例許可が出せる旨の定めもある。私が受験を許可する」
 デフィラは、そっけないほどの声であっさりそう言うと、ミディアムに目を戻した。
「武器は何を使う。リランか」
「……バラン」
 ミディアムは相手に劣らぬ素気ない声で返した。前述の通り、バランとは矛槍のことである。
 暫時、沈黙の対峙が続いた。
「……明日、十二の刻から入隊試験を行う。体を調えておけ」
 やがて、デフィラの方が沈黙を破って静かに言い放ち、馬上に戻った。ごく軽く馬腹を蹴る。美しい青毛馬は、ぶる、と短く鼻を鳴らすと、悠然とした足取りで兵舎の敷地を出ていった。ルスフォンと呼ばれていた若い武官も、その後を追って騎乗し去った。
 彼女達が行ってしまうと、ベーダ・アルカナは即座にミディアム・サーガを少し離れた場所まで引っ張っていった。
「ミディアム──何故あんな態度に出た?」
「あんなって?」
 ミディアムはケロリとしている。
「デフィラに取った態度と、年の件だ」
「……わからない」
「なに?」
「自分でも、よくわからないんだ。何となく、そうしたくなっただけ」
 ミディアムは、クスッと笑みを洩らした。
「何となくと言われても……あの分では、かなり酷な試験を課されかねんぞ。覚悟しておいた方がいいだろう」
「端《はな》っからそんなこと、覚悟してるよ」
 真剣な顔で注意するベーダの言葉がわかっているのかいないのか、ミディアムは笑いながらそんな風に言い、そして、
「ねえ、それより、さっきの女の人だけど」
 と、さっさと話題を変えてしまった。
「おかしな目《め》してたね。左右の色が違ってたよ。左が青くって、右が緑色してた。左と右で色の違う目をしてる人がいるって、お話では聞いたことあるけど、初めて見たなあ」
 明日の試験を気にしていないような少年の態度に、ベーダは内心で戸惑っていた。不安を打ち消す為に虚勢を張っている、というわけではなさそうだ。余程に胆が据わっているのだろうか、それとも単に能天気なだけなのだろうか。
「ねえ、ベーダさん、あの女の人、どういう人なの?」
「さん付けはいい。呼び捨てで構わん」
 ベーダはまずそう言っておいてから、答えた。
「デフィラ・ターニャ・セドリック王士。将軍府の武官で、階級は一等上士官。傭兵隊の総監だ」
「王士……一等……そうかん、って、偉い人?」
「傭兵隊の総監は、正規隊から付けられる目付役の中で一番頭立つ人間だ。今日は、傭兵隊への入隊希望者がいると昨日夕方の点呼で副総監に伝えておいたから姿を見せたが、普段は姿を見せることはない」
「ふうん……?」
 よく理解出来ないらしいミディアムに、ベーダは、可能な限り丁寧に説明してくれた。王士とは、王から与えられる一代限りの称号で、他国では見習期間を経てその称号を得ることも頻繁であるが、マーナでは専ら、特に多大な功績のあった武人に王が授けるという、伝統的な──二百年以上昔に滅びたログリアムナス統一王朝が栄えていた時代と同じ──“王士”身分の称号であること。また、一等上士官というのは、将軍府で上から数え下ろして五番目の階級、現在のマーナに於いては、大体五千から一万までの兵卒を指揮出来る階級であること。
「じゃあ、沢山の手柄を立ててる偉い人なんだね。まだ若く見えるけど」
「彼女は実際若いぞ、ミディアム。二十歳《はたち》を超えたか超えないかの辺りだ」
「へええ……」
「とにかく、今は人のことより自分のことを考えろ。傭兵隊の採用試験は甘くない。いいな」
 ベーダはきつく念を押した後で、ミディアムを解放した。
 厩の方へと軽やかな足取りで駆け出してゆくその後ろ姿には、何の屈託も見出せなかった。



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