一九九九年九月二十四日土曜日、例の函館無泊半日旅行から帰った三日後、私は、栃木県宇都宮市へと出掛けた。
 拙作『まなざし』で、これから土方さんが向かう土地である。
 かの江戸城無血開城の日、供の隊士わずか六名と共に江戸を離れ、下総鴻の台へ集結中の旧幕軍に合流した土方さんは、翌日、先鋒軍の参謀として鴻の台出立。その進軍の途上で堅塁宇都宮城を一旦は攻め落としたものの、後日の攻防戦で足の指(足の甲、足首、という説もある)に傷を負って戦線離脱、今市宿、田島陣屋を経て、会津若松城下へ向かうことになる。
 この辺りの物語はいずれ拙作で書くとして──
 とにかく宇都宮は、間違いなく、かつて土方歳三──但し、当時はまだ内藤隼人と名乗り続けていたようだ──が駆け抜けた土地なのである。
 
 宇都宮には、新幹線が停まる。だが、行ける範囲なら在来線で動くのが好きな性格なので、JR東北本線を利用した。
 宇都宮市在住の風樹裕さんが、餃子の像(JR宇都宮駅の外にある)の付近までお車で迎えに来てくださった。
有難くも、一夜の宿を提供してくださるばかりか、“宇都宮城址周辺お馬鹿散策”にお付き合いくださり、更に翌二十五日には、今市方面へお車を走らせてくださる予定になっているのだ。
 風樹さんは、とても素敵なオヤジ漫画を描かれる方だ(……なんて、こんな紹介の仕方で良いのか!?)。長年(私などよりずっと長いこと)「夜間飛行」というサークル名で活動しておいでである。
 風樹さんと私とが知り合ったきっかけは、私が、とある同人誌イベントで風樹さんの三国志本(その時にはその御本は店頭には置かれていなかったのだが、別のイベントのサークルカットで「三国志オヤジ本、出してます」と以前に書かれてらしたのをずっと覚えていた)を読みたいと、無躾にも自分のサークル会報を名刺代わりに手渡し、通販をお願いしたことである。が、彼女が拙作『まなざし』を大変気に入ってくださったこともお付き合いの深まった理由のひとつであろうから、土方さんが結び合わせてくださった御縁と言えなくもない。
 縁は異なもの、乙なもの……。
 
 お昼御飯を食べてから、私達は早速、昔に宇都宮城のあったらしい辺りへと向かった。城があった場所には現在、市役所の庁舎がそびえ、御本丸公園が広がっている。そこを起点として、往時の地図を頼りに、土方さんが城へ攻め寄せた時の道筋と、負傷場所かと推測される近辺とをうろうろしてみた。
 ……見事なくらい、何も残っていない。街路脇に時折、史跡を案内する看板がひっそりと立てられているくらいである。
 しかし、がっかりすることはない。目を閉じればいい。目を閉じ、きっと彼は抜き身の愛刀を片手に、この橋を渡って、この道を進んで……と想像すればいい。そうすれば、そこはもう幕末古戦場だ。
 それでもやはり、小さな竹薮を発見すれば、「あれ、城内の竹林の名残!?」と色めき立ってしまう、お馬鹿者……[#ふたつ汗たらりマーク] 目で見える何かが残っていれば、何もないより想像し易いのである。
 ……え? 何で竹薮如きで大騒ぎしたのかって?
 いやァ、実は、土方さんが城の南にあった竹林辺りで負傷したのでは……という説があるもんで(笑)。
 
 その夜は、西川田にある風樹さん宅で一泊。西川田といえば、宇都宮城の攻略後、新政府軍の増援部隊が入った壬生城の攻撃に向かった土方さんが布陣したであろう土地である。……はあぁ〜、私の生まれ故郷は新選組とは何の縁《ゆかり》もない土地なんで、“歴史の現場”に住んでいる方々がちょっと羨ましい気がしないでもない。
 広島県という大括りで見れば、局長の近藤さんや伊東参謀殿も加わっていた長州訊問使が滞在した広島の国泰寺が縁《ゆかり》の場所と言えるが……考えるまでもなく、一九四五年の原爆投下により、当時の建物は失われている。何とも言えぬ気分である。
 それはさて置き──
 翌朝、風樹さんのお車で、日光方面へ出発。休日は滅茶苦茶に車が混むというので、かなり早い時間に出る。おかげで、渋滞に遭うことなく、日光杉並木辺りまで走ることが出来た。
 樹齢何百年という見事な杉が道の両側に並ぶ間を通る頃には、私のお馬鹿に火が点いて、こんな発言も飛び出す。
「植物って、人間の顔、覚えるそうですよ〜。土方さんのお写真(を杉並木の大木に)見せて、『あ、あの、此処、こういう人、通りませんでしたか? どんな様子でしたか!?』って訊いてみたい〜っ!!」
 ……流石に、車を停めて実行したりはしなかったが……[#ふたつ汗たらりマーク]
 宇都宮城の攻防戦の最中《さなか》に傷付いた土方さんは、戦いの終わりを見ることなく、やはり負傷した会津藩の秋月登之助(先鋒軍の指揮官)と一緒に、この日光街道を今市へ搬送され、その後、会津へと向かう。当時は無論、徒歩か馬での移動だった筈。足指の傷はその後三か月以上療養を要したほどの重傷だったから、歩くはおろか馬に乗るのもつらかったろう。もしかしたら、途中から島田さん(古参隊士の島田)辺りに背負われていたのかも……などと、此処まで来ると、既に妄想モード。
 一般的な観光に来たのならばこのまま日光へ向かうのが普通だが、そこはお馬鹿丸出し旅行である。土方さんの辿った道を──とはいえ、当時のままの道では無論ないが──偲ぶべく、今市市から会津西街道(国道121号線)へ方向転換して走っていただくことにした。
 道路は割に整備されていた。が、それでもなかなか大変な道である。決して広くはない道、すぐ横に迫る断崖、崖下には流れの激しそうな鬼怒川……延々と走りつつ、風樹さんと、往時の困苦に思いを馳せる。車でこれだけ大変なのだから、往時はもっともっと大変な移動だった筈だ。土方さん達がこの辺りを通った慶応四年四月下旬は、太陽暦に直せば五月中旬。気候が厳しくない時季だったから良かったが、仮に冬季だったりしたら雪中難行軍、目も当てられぬ行路になっていたのでは……。
 ちなみに、土方さんの負傷は旧暦四月二十三日、その日の内に今市宿へ搬送され、翌日昼過ぎに出立、田島陣屋到着は四月二十六日、私達が車で何時間かで抜けた道を、土方さん達は二十四、二十五、二十六と三日もかけて辿ったのだ。二十四日と二十五日は何処に泊まったのだろう……もしかすると、傷に悪い風が入っていて、道中、容体が悪化していたかもしれない……と、またまた妄想モード突入である。
 ……実は、もっと色々考えているのだが、これ以上は拙作のネタばらしになりかねないので、やめとこ(笑)。
 
 結局私達は、福島県田島町を抜けた所で、Uターンした。このまま会津若松まで──というのは、向こうに泊まるならともかく、流石に無茶だと判断したから。翌日は出勤せねばならず、宇都宮在住の風樹さんはまだしも、東京に戻らねばならない私には無理な相談である。
 という訳で私達は、来た道を宇都宮へ戻り、ついでだから(?)、と壬生まで回って安塚・西川田と走って(──あ、その向きなら旧幕軍敗走の道だなー[#ひとつ汗たらりマーク])、夕刻、風樹さん宅に無事帰着。
 次回こそは是非とも会津若松まで走りたいねー、冬以外に(笑)、とふたりで盛り上がった帰路であった。
 
 取材、と呼ぶにはおこがましい訪問だったが、宇都宮から田島まで、土方さんが歩いた“かもしれない”場所に行けたことは、実に有意義だった。
 季節も時間も違うし、空間も空気も往時のものとは異なるにせよ、かつて彼が確かに存在したその“場”を時空を越えて共有したような感覚──。
 それが何より、嬉しかったから。
 
 私のお馬鹿に付き合って、馴れない歩き回りを共にしてくださり、更にお車を長距離長時間走らせてくださった風樹さん、本当に有難うございました……。
 今度は、会津若松市の白虎隊記念館にある土方さんの胸像に会いに行きましょうねー(笑)。



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