郷土資料室の利用に当たっては、住所氏名等を明記する利用申請書の提出が必要になる(区外の住人でも利用出来る。念の為)。また、貴重品以外の荷物の持ち込みは厳禁で、鍵付きロッカー(ボロかったけど)に預けなければならない。やけに厳しいなあと思ったが、入室してみて、その理由がわかった。……う、うーむ、鍵の掛かった書架に、貴重本がぎっしり……鞄
《かばん》の持ち込みが出来ないのは明らかに無断持ち帰りを防ぐ為で、個人情報を提出させるのは、多分、何かあった時の保険なんだな。
などと思っている間にも、一緒に入った司書のお姉さんは、目当ての本をさっと探し出す。流石である。……ふむ、鍵なしだけどガラス扉付きの書架の中にある本なのか。扉なし書架に置かれている本に比べれば、扱いが上というわけかしら。
有難く受け取った私、お礼を言いながら、ついうっかり、
「多分これに載ってると思うんですが……」
と呟いてしまった。するとお姉さん、すかさず、
「お探しの史跡は何ですか?」
うっ。その名を口にするのがちょいと恥ずかしい乙女心(爆)ゆえに、素直に答えられず。でもお姉さん、都内とはいえわざわざ遠方から来た人間が探している史跡に興味があるのか、「ええ、ちょっと……」と曖昧
《あいまい》に言葉を濁しながら本をめくる私の手許
《てもと》を注視なさる。……ううう、そんなに見ないでよう
[#三つ汗飛散マーク]
……ふう。あった。
と、私の手が止まったことに目敏く気付いたお姉さん、「あ、深川
|正米市場
《しょうまいしじょう》跡ですか?」……うー、それは左ページ。そこまで外されたら答えずばなるまいと、小声で「いえ、そちらじゃなくてこちらのページです」と右側のページを指し示す。その見出しは「新撰組参謀 伊東甲子太郎道場跡」……「撰」の字はまあ仕方ないとしても、きねたろう〜? おーい、「甲子」に「かし」と振り仮名を振っている史料もあるそうだし、聞き做
《な》しで「樫次郎」と誤記している史料だってあるんだから、「かしたろう」なんだってば
[#ふたつ汗たらりマーク]
……が、そんな記載は、些細なことであった。
私の目は、その傍
《かたわ》らの小さな文字に釘付けになった。
何と、そこには堂々と、「所在 佐賀一−三付近」と書かれていたのである。
い、一丁目三番地?
区の文化財係のサイトでは、一丁目十七番地と書かれているぞ?
一体どっちが正しいんだ!?
ええっ、と思わずすっ頓狂
《とんきょう》な声をあげた私に、お姉さんが驚く。どうしたのかと訊かれ、斯
《か》く斯く然々
《しかじか》で区の文化財係のサイトの記載と所在地が全く違うのだ、と説明すると、お姉さん、史跡が掲載されている他の本を探し始めてくれた。無論私も探したが、どうも捗々
《はかばか》しくない。これは時間がかかりそうだ、と思ったので、あんまり長い時間お付き合いしていただくのも何だと、お姉さんには暫
《しばら》く自分で色々見てみる旨
《むね》を告げた。
史跡として登録されると、その年に発行する小冊子に載せられ、以後毎年小冊子のリストに載り続けるらしいことは、お姉さんの探してくれた範囲でわかっていた。片っ端から手に取って遡
《さかのぼ》ってゆくが、過去から現在に至るまでずっと、佐賀一丁目三番地と書かれている。……が、こういう定例的に出す本の場合、前に使った原稿を使い回してゆくことも多い。だから、今以てこの種の冊子で一丁目三番地とされているからと言って、一丁目三番地が正しいとは断定出来ない。
しかし……改めて眺めると、この『江東区の文化財』の史跡解説、伊東道場跡のページに限ってなのかどうかは知れないが、結構いい加減な部分も散見される。伊東さんについて「初名甲子太郎」と書いているところからして既に誤り。伊東姓を継いでからも、上洛を決めるまでは「大蔵」だったのだ。ちょっと調べれば簡単にわかることなのだが。「江戸へ出て金子健四郎
《かねこ たけしろう》の門下となるが」……金子先生の門下に在
《あ》ったのは水戸でのことなんだが。うーん、ぶつぶつ。
図書館の有難いところは、ある範囲内での複製(コピー取り)が、著作権法上許されている点である。一冊丸ごとコピー、なんてのは勿論認められないが、一ページ程度なら問題なく許してもらえる。……そう。購入の価値なしと判断すれば、目当てのページだけコピーして帰ることも出来るのである(苦笑)。
という訳で(おい)、私は、取り敢えずそこのページだけを有難くコピーさせていただいた。いい加減な記載が……とは言っても、今迄
《いままで》知らなかった有益な情報が、そのページにはでんと載っかっていたからだ。
それは──嘉永
《かえい》五年(一八五二/余談ながら、伊東さんのお父さんが亡くなった年)に出された「本所深川絵図」の部分写真。無論、掲載されていたのは、伊東道場の位置が記されている箇所である。

これは非常に嬉しかった。今迄、何の根拠があって佐賀一丁目十七番地と断定出来るのか……と疑問に思っていたのだが、当時の地図にその名が見えるということであれば、その地図と今の地図とを重ね合わせれば、大体の位置は確かにわかるわけだ。
……しかし、史跡に登録した時にも、この絵図を元に、今のどの辺かということを確認したのではないか?
司書のお姉さんは、登録当時と今とで地番が違っているという話はない筈だとおっしゃっていた。
では、やはり一丁目三番地が正しいのだろうか……?
思いながら、資料漁りに戻る。とにかく史跡に関わりそうなものは引っ張り出して覗いてみる。……ん? 『江東区文化財地図』なるものを見付けた。江東区教育委員会発行、ということは、『江東区の文化財』と同じか……。
何げなく広げてみた私、目が点になった。
伊東甲子太郎道場跡の所在地が、佐賀一丁目十七番地付近、つまり、文化財係のサイトと同じになっていたのである。
前日の下調べの記憶によれば、この文化財地図は、『江東区の文化財 ─史跡─』の付録になっていた。ということは……本書籍と付録とで、記載が食い違っているということにならないか。
急いで発行年月日を見る。……平成元年四月一日、ということは、『江東区の文化財』の丸一年後に出された発行物だ。恐らく、付録としたのは、後になってからのことなのだろう。
ということは、わずか一年の間に、三番地を十七番地と書き換えるような出来事が起こったのか。
暫く粘って研究論文集などを漁ってみたが、「何故書き換えられたのか」がわかるような文献には出会えない。うーん。少し頭を冷やそう。
この文化財地図も部分コピーさせてもらおうと階下へ下り、コピー機の空くのをぼーっと待つ。
やっと順番が回ってきて、地図をぱらっと開いて伊東道場跡の位置を確認したその時。
はっと気が付いた。
今私が見ているのは、現代の地図だ。だが、登録の元になったのは、過去の地図だ。
確か、前に何処かで読んだ本によれば、現在の永代橋は、昔の木橋よりも下流に架けられている。もし、それを深く考えることなく、過去の地図と現代の地図を重ね合わせてしまったら……
……番地が狂ってしまうかもしれない。
コピーを終えて、郷土資料室へ戻り、本所深川絵図が印刷してあるものを探す。……あった。『江東区の文化財』では部分拡大写真だったので永代橋の位置はわからないが、これなら、伊東道場と永代橋との位置関係がわかる。……むむっ。古地図では、永代橋を渡ってほぼ直進した位置に、伊東道場がある。現在の永代橋はこれよりも下流、福島橋(これは古地図にも載っている)の延長線上に架けられているのだから……
現在の永代橋の袂
《たもと》に近い佐賀一丁目三番地の方が、どうやら、間違い臭
《くさ》い。
それからも暫く「何故記載を改めたのか」という経緯
《けいい》がわかる文献を探し続けたものの、結局、私には見付けることが出来なかった。情況証拠のみなので断定は避けるが、どうやら、昭和から平成へと移り変わる一年の間に、誰かがこの地図の読み違いに気付いて訂正したものらしい……でも担当部署が微妙に違うか何かで、既に出した本や冊子の記載を改めるところまでは徹底していないらしい……ということにして、深川図書館での時間を終えることにしたい。

ふと我に返って腕時計を見ると……げげっ、もう一時間半近く滞在しているではないか。
ううう、伊東先生ってば、また私をお振り回しに……(泣笑)
思わぬ所で思わぬ時間を取られた私、お世話になった司書のお姉さんに推論による暫定
《ざんてい》の結論と親身になって探してくれたお礼を言い(そしたら「いえ、こちらこそ勉強になりました」と逆にお礼を言われた(苦笑))、急いで深川図書館を後にした。
次の目的地は、白河にある深川江戸資料館。ようやく正規のモデルコースに戻るわけだ。
……え。どうして、道場跡からも離れたそんな場所が、わざわざ“伊東甲子太郎好きの為の”お馬鹿散策のモデルコースに入っているのか?
いやいや、此処をこそ外してはならないというのが、私の個人的な見解である。何故なら、この深川江戸資料館、天保
《てんぽう》年間末期の深川佐賀町の一画を実物大で
[#「実物大で」に傍点]再現している展示室を持っているのである。ふっふっふ。深川佐賀町ですぜ、深川佐賀町。しかも、天保の改革の頃
《ころ》の……ということは、あと十年ほどで伊東さんが……いや、鈴木大蔵青年がこの界隈
《かいわい》で青春を過ごすことになる、そんな時代の深川佐賀町。つまり、この資料館は、鈴木大蔵青年が日常歩いていたかもしれない場所の雰囲気を心ゆくまで味わえる場所なのである。伊東甲子太郎好きにとって、こんな有難い施設が他にあろうか(笑)。

清澄通りへ戻り、再びてくてくと歩き続けると、やがて、辻行灯
《つじあんどん》が見えてくる。この辻行灯が建っているのが、目的地へ通じる深川資料館通りだ。門前仲町から歩いてきたのであれば行灯前を横切ってから右へ曲がると良いし、清澄白河駅方面から来たのであれば行灯手前で左に曲がれば良い。程なく、松平定信(……困ったことに、『風雲児たち』を読んで以降、みなもと太郎先生版のあの顔
[#「あの顔」に傍点]しか浮かんでこない
[#ふたつ汗たらりマーク])の葬
《ほうむ》られている霊巖寺
《れいがんじ》が見えてくる筈だ。その隣の幼稚園前を過ぎればすぐに、目指す深川江戸資料館に到着である。
実は私、自称リピーター。初めて訪れた時に、展示室の随所に見られる芸の細かさがすっかり気に入ってしまい、以来、季節が移るとふらふら足を向けるようになった。特に何をするでもない。ただ、うろうろして、写真を撮って、あちこちでぼーっとするのが好きなのだ。

此処では、単なる建物の実物大再現ではなく、生活用具類が配置され、情景が再現されていて、見る者はその中へほぼ自由に入ってゆくことが出来る(……ほぼ、と書いたのは、どの建物も二階には上がれないから)。およそ二十分を一昼夜として、明るさも、聞こえてくる音や声も変わってゆく。建物の中へ入り、展示品を手に取って眺めることも、写真を撮ることも出来る。四季折々で展示物が入れ替えられ(聞こえてくる音や物売りの声も替わるし、庭の植木も植え替えられる!)、また、節句の時などにも、展示物が替わる。日にちと時間を選べば、新内
《しんない》流し(ふたりひと組で三味線
《しゃみせん》を弾
《ひ》き合わせながら町を歩き、客の求めに応じて新内節
《しんないぶし》を唄った芸人。新内節というのは浄瑠璃
《じょうるり》の一流派らしい)や江戸小唄の実演にも出会える。
さて、それではこれから、初めて訪れようとしている方の為に、「これだけは忘れずにチェック」という事柄を中心に書いてみよう。無論、どんな風に楽しんでもらっても良いのだけれど、私のように頻繁
《ひんぱん》に通える方ならいさ知らず、遠方からお越しの方の場合、一度見損なったり買い損なったりしたら、「また次に行った時に」とはなかなか行かないだろうから。